池田慶政
池田 慶政(いけだ よしまさ、文政6年7月5日(1823年8月10日) - 明治26年(1893年)3月4日)は、備前国岡山藩の第8代藩主。岡山藩池田家宗家10代。
豊前国中津藩主奥平昌高の十男。正室は第7代藩主池田斉敏の養女(備中国鴨方藩主池田政善の娘)宇多子。子に生駒親忠(長男、生駒親承養子)、池田政時(四男、備中生坂藩池田政礼養子)、萬寿子(池田茂政正室)、娘(池田政保正室)、娘(柳原義光室)。官位は従四位下、内蔵頭、左近衛権少将。幼名を七五郎。初名は奥平 昌朝(おくだいら まさとも)、池田氏に入ってからは初め諱を道政(みちまさ)とし、のち将軍徳川家慶より偏諱を授かり慶政に改名した。
生涯
文政6年(1823年)、中津藩江戸藩邸で誕生した。天保13年(1842年)、岡山藩主池田斉敏の養嗣子となった。斉敏は、慶政の実父の奥平昌高と同じく薩摩藩島津家の出身で、血縁上は斉敏が慶政の従甥にあたるが、慶政よりは年長者である。その1ヵ月後に斉敏が急死したため、斉敏の養女(支藩鴨方藩主池田政善の娘)宇多子と結婚した上で家督を相続した。嘉永6年(1853年)、ペリー来航で幕府に対策を諮問されたとき、「鎖国の祖法をあくまで厳守すべきだ」と主張した。その一方で、幕命に従って藩士を房総半島などに派遣し、海防に当たらせている。
また、塩や砂糖の専売強化や質素倹約令などによる財政政策、洋式軍制の導入などを行なったが、あまりに厳しすぎる改革を行なった上、改革で部落差別などが起こったため、安政3年(1856年)に藩内で渋染一揆が発生し、加えて強い締め付けの影響で同年中に銀札(藩札)が札潰れ(発行停止)となり、改革は失敗に終わった。このため、勘定方や銀札方に属していた藩士にしわ寄せが来たと言われる。
文久3年(1863年)、病気を理由に家督を水戸藩主徳川斉昭の九男であり養嗣子としていた茂政に譲って隠居した。これは、尊王派であった藩士江見陽之進の進言に従ってのことである。晩年は岡山に隠棲し、明治26年(1893年)に71歳で死去した。神号は大名廣足慶政命。墓地は岡山県備前市和意谷池田家墓所。