水戸泉政人

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水戸泉 眞幸(みといずみ まさゆき、1962年9月2日 - )は、茨城県水戸市出身で高砂部屋所属の元大相撲力士。最高位は東関脇。本名は小泉 政人(こいずみ まさと)。身長194cm、体重192kg(最高200kg、1996年1月場所)、現在は年寄錦戸、得意手は突っ張り、左四つ、寄り、上手投げ。愛称は「水戸ちゃん」、「イズミちゃん」など、趣味は水墨画。

来歴

幼少の頃に父を亡くし弟の昭二(元十両13・梅の里)とともに母1人の手で育てられた。茨城県水戸市立飯富中学時代には母の勧めで柔道に打ち込み初段になる腕前の持ち主だった。1977年の暮に力士のサイン会に行った。本人は貴ノ花のサイン会だと思っていたそうだったが実は高見山富士櫻のサイン会だった。この時髙見山に「大きねーお相撲さんにならないかい」と勧誘される。数日後には高砂親方からも勧誘され、入手困難だった29cmの靴をもらって入門を決めた。水戸泉の四股名は出身地の水戸、本名小泉、そして「枯れることなき泉のごとく出世を」という願いを込めて髙砂が命名した。

部屋の同期生に長岡(のち大関・4代朝潮幕下付出)がおり、彼から手ごろな稽古相手と目をつけられていた。二度の学生横綱を獲得した朝潮との稽古は、中学卒業間もない少年にはつらいものだったが、これが後々の財産にもなった。朝潮とのエピソードは数多く残り、洗濯して干していた朝潮のパンツを神社に置き忘れて叱られた逸話などが伝わっている。1979年9月ごろに大相撲での挫折に耐えかね相撲に見切りをつけようとした朝潮に対し、「今日稽古はどうしたんですか?」とさりげなく声を掛けて立ち直らせたとも伝わっている。

新十両の場所の8日目から付人の奄美富士の「勝ち星に恵まれないときはせめて塩だけでも景気よくまいたらどうですか」という進言により、大量の塩を撒くようになった。初めの頃は1回目から大きく撒いていたが、後に制限時間いっぱいの時にのみ大きく撒くようになった。1回にとる塩の量は何と600gにもなったという。イギリス巡業で「ソルトシェイカー」と紹介され、日本でも「水戸泉といえば豪快な塩まき」として定着した。塩を撒いた後に顔、まわしを強く叩いて気合を入れる仕草も特徴である。同様に大量の塩を撒く力士には朝乃若がおり、対戦した際には豪快に撒き上げる水戸泉と叩きつける朝乃若の両者の塩撒きに観客が沸いた。また、両者はどちらも黄色系の回しを締めていた時期がありその興味でも沸いた。なおその一方で、これは制限時間まで立つ気がない仕切りを繰り返していることでもあって、(当時すでに時間いっぱいまで立とうとしない力士が大半だったが、水戸泉の場合はそれがあまりに露骨だという意味で)一部の好角家からも批判されることも多かった。貴闘力浪ノ花ら時間前でも度々立つ力士との対戦で興をそぐことも多かった。

1984年9月場所新入幕、しかし1985年5月場所前に交通事故を起こして負傷し、2場所連続負け越してに十両に陥落。この事故がきっかけで十両以上の力士の自動車運転が禁止され、現在に至る(ただし免許の更新は禁止されていない)。

1986年3月場所再入幕、12勝3敗で敢闘賞、5月場所は負け越したが7月は10勝5敗、9月場所は関脇になった。しかしこの場所大乃国との対戦で左膝そく側副靭帯を断裂する重傷を負い、3場所連続休場で十両に落ちた。1988年3月場所再入幕。9月場所には小結で10勝5敗。当然大きな飛躍が期待されたがまたしても大乃国との対戦で左足首に負傷。十両には落ちなかったがこれら2度の負傷には最後まで苦しむことになった。その後も平幕上位から関脇での活躍が続くが1990年後半は低迷。

その後1991年3月場所から7場所連続で勝ち越し。うち6場所が8勝7敗で、さらにそのうち4場所が7勝7敗で千秋楽に勝ち越しをかけるという復調というには厳しい星取りだったが、ともかくも三役復帰を果たす。1992年3月場所には、千秋楽2敗で優勝を争っていた小結栃乃和歌を倒して同部屋の大関小錦の3回目の優勝をアシストした。

つづく1992年5月場所は10日目まで7勝3敗と好調だったが、腰痛の悪化の影響でその後5連敗して7勝8敗と8場所ぶりに負け越した。

1986年9月場所での負傷は、医師からも「相撲はもう諦めるしかない」と言われたほどで、はじめてギプスをはずされて自分の青ざめた膝を見た時には、絶望的な思いになったという。一時期は引退も考えたが、療養に訪れたリハビリ施設で自分より若くして重度の障害を負った人たちの前向きな姿に励まされたのと、やはり「親孝行したい」という思いとで土俵に上がり続けた。

史上24人目の平幕優勝者

続く1992年7月場所、西前頭筆頭に下がった水戸泉は、幕内昇進後初日から自身初の7連勝の快進撃で白星をどんどん積み重ねていく。中日で小結・貴花田(当時、のち貴乃花)に初黒星、10日目に大関・霧島に敗れ2敗はしたものの、それ以降も優勝争いの単独首位を走っていた。終盤戦、13日目の関脇・琴錦戦では立合いの頭突き一発で突き落とし、14日目には前頭12枚目の貴ノ浪にも勝って12勝2敗とした。その後10勝3敗と1差で追っていた小結の武蔵丸、大関の小錦と霧島の3力士全員が負けて、その瞬間水戸泉初めての平幕優勝が決まった。水戸泉は支度部屋で、14日目で優勝が決まる可能性があったため待機はしていたが、まさかその3敗陣の3人が総崩れとは自身全く想像もしなかったため、3敗勢最後の1人である霧島が負けた瞬間には思わず「ウソーっ!?」と驚いた後、弟の梅の里と二人して抱き合って涙ぐんだ。奇しくも当時の高砂親方である富士錦が現役時代、1964年に平幕優勝した時と同じ尾張名古屋の土俵だった。千秋楽も勝って13勝2敗の成績を収めた。なお平幕優勝者は、1909年に優勝制度が確立して以降水戸泉が史上24人目であるが、前年の1991年7月場所に琴富士、同年9月場所に琴錦[1]、同1992年1月場所には貴花田と、わずか1年の間に4人もの平幕優勝者が出るという非常に珍しい出来事となった。

優勝パレードでは当時大関だった小錦が優勝旗の旗手を務めた。大関力士が下位の力士の優勝で旗手をつとめることは珍しく、小錦は一部から「天下の大関が、平幕力士の旗手をするとは何事か」と批判を浴びたという。しかし高砂部屋入門時から小錦にとって水戸泉は共に下積み生活を送った間柄でよき相談相手で兄貴分でもあり、また入門時から長く稽古相手をしていた仲でもあった。小錦は「僕の3回の優勝の他、先場所(1992年5月場所)ではの旗手までさせてしまった。水戸関は僕の恩人だから、誰がなんと言おうと僕が旗を持つ」と小錦が「恩返し」の意味で自分から願い出たことだった、という。小錦の人情味とともに水戸泉の人柄を物語る逸話といえよう。[2]

優勝後~現役引退

翌1992年9月場所は西張出関脇に昇進、ここでも8勝7敗と勝ち越して7月場所の優勝がフロックではなかったことを印象付けた。1992年11月場所は成績次第では大関取りだったが、またしても左足の負傷で1勝12敗2休に終わり平幕に下がる。1993年より、「政人では政治家みたいで力士としてしっくりこない」と、四股名を水戸泉眞幸と改名する。しかし膝の故障が多発してそれ以降は三役に復帰できなかった。1999年5月場所で十両に陥落し、その後幕内に戻ることはなかった。その後もしばらく現役を続け、蔵前国技館で幕内を務めた力士の最後の生き残りとして38歳まで現役を続けたが、2000年9月場所を最後に引退、年寄・錦戸を襲名した。幕内在位79場所で休場が99回は、横綱・大関を除けば当時過去最多の休場数[3]であった(横綱大関を含めた最高は貴乃花の201)ため、「怪我のデパート」などと言われた。

引退後

協会内では長く審判委員を務めている。一時は高砂部屋の後継者に指名されたが、婚約破棄問題で辞退した[4]2002年に高砂部屋から分家独立して錦戸部屋を創設した。部屋の玄関の横には本人の優勝額が掲げられている。2014年4月には協会役員以外の親方で構成する年寄会の会長に選出された。会長就任に当たり、形式的になっていた総会の在り方を見直す意向を示し「連絡網をしっかりして、何かあった時にすぐ集まれるようにしたい。相撲協会のために皆さんの意見を取り入れながら、いい年寄会にしていきたい」と表明した[5]

エピソード

得意の左四つ右上手の体勢になった際の強さは圧倒的なもので、パワフルな吊り気味の寄りから「走る起重機」の異名をとった。右上手投げの威力も絶大であり、横綱貴乃花を投げ飛ばしたこともある。このため水戸泉と対戦する力士らは総じて右上手を警戒しており、その攻防が取り口の中で最大の見せ場といえる。ただし水戸泉も右四つが不得手というわけではなく、懐の深さを活かした引き、相手の差手を極めるなどの対抗策をしばしば見せている。

日本人離れした恵まれた体格とパワーを持ち合わせ、新弟子時代から将来を期待されていた。しかし腰が高く膝がつっかえ棒のようになる体勢で相撲を取ることが多く、大乃国などの巨漢の右四つ力士と対戦して膝に大きな負担をかけることが常態化していた。その潜在能力の高さは北の富士も「膝の故障がなければ当然大関」と公言しているほどであり、度重なる怪我で大関取りが阻まれたことが悔やまれる。

「幼い頃から苦労をかけた母に少しでも親孝行がしたい」と言って力士になり、その後も常々語っていた。実際幕内優勝を果たす前、実の母親から水戸泉に対して「いつも優勝パレードでは旗持ちばかりして。たまにはあなたが優勝して、誰かに優勝旗を持たせるようにしなさいよ!」と奮起を促したことがあったという。しかし、その水戸泉がその後正真正銘の幕内優勝を成し遂げたことで、立派に親孝行を果たせたといえよう。

同じ高砂一門に九重部屋の千代の富士北勝海、また東関部屋ら横綱陣や、さらに同部屋には大関の小錦がいたため、優勝パレードの旗手役の常連でもあった。実際初優勝力士を出した部屋では、優勝パレードの次第がわからなかったら水戸泉に聞きにいく、とまで言われた。なお、水戸泉自身の平幕優勝時のパレードでは、小錦が旗手を務めてくれたにもかかわらず、「いつものように自分が優勝旗を思わず持ちそうになってしまった」と苦笑いしながら語っている。

忘れられない取組として、千代の富士にはじめて勝った1989年7月場所中日の一番と、物言いにつぐ物言いで3回取り直しとなった1988年5月場所初日の霧島戦をあげている。

自分の付け人でやめようとしているものがいると、屋台に呑みにつれだして説得。「俺も昔は弱かったんだよ」と語っているうち、自分が泣き出してしまうことが多かったことから、知らず知らずのうちに「泣きの水戸泉」のあだ名がつけられていたという。入門当時、有形無形の差別に悩まされていた小錦も、この水戸泉の涙にほだされた一人だった。後に小錦は「入門当時、水戸関だけは差別なく優しく僕に接してくれた」と発言しており、水戸泉の思いやりのある人柄を賞賛している。

断髪式の後はオールバックにする力士が多く見られる中、水戸泉はすぐに坊主頭にした。本人の弁ではその頃脱毛症に悩まされており、脱毛した部分が目立たないよう頭を丸めたという。現在は症状が改善されたためか再び髪を伸ばしている。

絵画をたしなんでおり、引退相撲のポスターには自画像(塩を撒く姿)が使われた。

プロ野球では自他ともにみとめる大の読売ジャイアンツファンで、自分が幕内優勝を争っていた1992年7月場所でも、「優勝の可能性? 100パーセントだ。もちろん、巨人のだよ」と報道陣を煙に巻いていた。ちなみに、同年の巨人はヤクルトスワローズに2ゲーム差の2位に終わった。

ゲームファンでもあり、『ドラゴンクエスト』に熱中するあまり、当時付き人だった闘牙にまでレベル上げを頼んだという逸話が残っている。

審判委員を務めていた2007年9月場所11日目、豪栄道-豪風戦の取組前に、突然大量のチラシを持った女性客が土俵に上がろうとするハプニングが発生、西土俵下で控えていた高見盛(現・振分)らと共に、その女性を引き摺り下ろした[6]

主な成績

  • 通算成績:807勝766敗162休 勝率.513
  • 幕内成績:530勝556敗99休 勝率.487
  • 現役在位:136場所
  • 幕内在位:79場所
  • 三役在位:11場所(関脇4場所、小結7場所)
  • 三賞:7回
    • 殊勲賞:1回 (1988年9月場所)
    • 敢闘賞:6回 (1985年1月場所、1986年3月場所、1986年7月場所、1988年5月場所、1989年11月場所、1992年7月場所)
  • 各段優勝
    • 幕内最高優勝:1回(1992年7月場所)
    • 十両優勝:1回(1986年1月場所)
    • 幕下優勝:1回(1984年3月場所)
  • 金星:なし

幕内成績

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脚注

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改名歴

  1. 小泉 政人(こいずみ まさと)1978年3月場所 - 1981年5月場所
  2. 水戸泉 政人(みといずみ まさと)1981年7月場所 - 1992年12月場所
  3. 水戸泉 眞幸(みといずみ まさゆき)1993年1月場所 - 2000年9月場所

年寄変遷

  1. 錦戸 眞幸(にしきど まさゆき)2000年9月 - 2000年11月
  2. 錦戸 政人(にしきど まさと)2000年11月 - 2002年9月
  3. 錦戸 将斗(にしきど まさと)2002年9月 - 2012年3月
  4. 錦戸 眞幸(にしきど まさゆき)2012年3月 -

関連項目

外部リンク

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テンプレート:錦戸部屋
  1. その後琴錦は1998年11月場所でも大相撲史上初の2回目の平幕優勝を達成
  2. それから20年後の2012年5月場所、モンゴル出身の旭天鵬が平幕優勝を果たした際の優勝パレードでは、同モンゴルの後輩にあたる横綱白鵬が自ら旗手を務めていた。
  3. 2009年3月場所千秋楽を以て幕内100休目を記録した若の里が更新した。2013年11月場所終了現在、若の里は幕内124休。
  4. 相手の女性は伊藤史生の前妻であり、伊藤と離婚した後は結婚詐欺まがいの挙動で一時期ワイドショーをにぎわせた。また、錦戸と婚約破棄した後に追風海と結婚(後に離婚)し、追風海はこれが問題となって師匠に破門される形で協会を去った(詳細は伊藤史生の項を参照されたい)。
  5. テンプレート:Cite news
  6. 過去には1991年11月場所12日目、現役中の旭道山が泥酔状態で土俵に上がった男性客を、抱えながら土俵外へ下ろさせる事件があった