武田信吉
武田 信吉(たけだ のぶよし) / 松平 信吉(まつだいら のぶよし)は、江戸時代初期の大名。徳川家康の五男。妻は木下勝俊の娘。幼名は福松丸[1]、武田万千代丸。正しくは松平信吉であるが、同名の松平信吉がいるため、区別するため武田信吉と呼ばれる。
出自
天正11年(1583年)9月3日、徳川家康の五男として浜松で生まれる。幼名は福松丸。母は甲斐武田氏家臣・秋山虎泰の娘・於都摩(下山殿・妙真院)。穴山信嘉(信邦、信君の弟)の妻であったとの説もある。一説には家康が側室に武田の血族を求めていたため、表向きは武田信玄の末娘として、信君の養女となり、家康に輿入れしたともいう。
生涯
天正10年(1582年)の甲州征伐の後、甲斐武田氏の断絶を惜しんだ家康は当初、穴山信君(梅雪)・見性院夫妻の嫡男・穴山勝千代(武田信治)に武田氏名跡を継承させるが、勝千代が16歳で早世してしまう。武田氏所縁の於都摩が出産した福松丸を万千代丸と名付け、見性院が後見人となり、武田氏の名跡を継承させて穴山氏の領知である河内領のほか、江尻領・駿河山西・河東須津を支配させ、元服して武田七郎信義と名乗らせた。
小田原征伐後、家康の関東移封に従って、天正18年(1590年)下総国小金城3万石に封じられ、松平姓に復し、松平信吉と改名する。豊臣秀吉の正室・高台院の甥である木下勝俊の娘を娶ったため、家康から秀吉への配慮もあり、信吉に領地を増やした。
翌天正19年(1591年)、母が死去したため、見性院が信吉の養母となった。文禄2年(1593年)に下総国佐倉城10万石を与えられる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、江戸城西ノ丸にあって留守居役を務めた。
慶長7年(1602年)、先の合戦で西軍に属した疑いをもたれた佐竹氏に替わり、その領地であった常陸国水戸25万石に封ぜられ、旧穴山家臣を中心とする武田遺臣を付けられて武田氏を再興した。
慶長8年(1603年)9月11日、生来病弱であったらしく、わずか21歳で死去した。死因は湿瘡(痒みなどが激しく長く続くと死にいたる病)。子女もいなかったので、これにより武田氏は再び断絶した。なお、信吉に女子があるとの説があるが、もう一人の松平(藤井)信吉との混同の可能性が高い。
水戸藩は異母弟の頼将(のちの頼宣)が入り、頼将が駿府に移封の後は、同じく異母弟の頼房が入部し、水戸徳川家の祖となる。信吉の家臣の多くは水戸家に仕えることになる。墓所は茨城県那珂市瓜連にある常福寺。法名は浄巌院殿英誉善香崇厳。後に甥にあたる徳川光圀により、瑞龍山に葬られた。