横井英樹
テンプレート:Infobox 人物 横井 英樹(よこい ひでき、1913年(大正2年)7月1日 - 1998年(平成10年)11月30日)は、日本の実業家。1953年(昭和28年)の老舗百貨店、白木屋の株買占めや東洋郵船設立による海運業への進出で脚光を浴びた。
来歴・人物
愛知県中島郡平和町(現・稲沢市)の貧しい農家に二男・千一として生まれた。父親はアルコ-ル依存症で、母親に暴力を振るい、村の嫌われ者だった。高等小学校卒業後、15歳の時に上京、英樹に改名。東京日本橋の繊維問屋に丁稚奉公し、2年弱で独立し、17歳で「横井商店」を設立。その後召集され、憲兵軍曹に昇進。
白木屋乗っ取り事件
第二次世界大戦終結後、GHQ出入りの商人となり、進駐軍への衣料品の販売や横田基地、立川基地の家族住宅の設営で一財産を築いた。この時の取引先の一つに老舗百貨店、白木屋の関連企業である白木金属工業があり、何時まで経っても決済できないので同社の内情を調べると、親会社の白木屋が経営的に不安定だったことが判明[1]。これを動機として同社の乗っ取りを決意、1952年から1955年までにかけて日活の堀久作と手を結び白木屋の資本金2億円、額面50円として発行済株式総数400万株のうち100万株を買い占めた。堀の持ち株を含めると過半数となり、経営権を握れる寸前まで行った。ところが堀が所有した株を突如売却[2]。堀の所有した持ち株は山一證券を経て三信建物の林彦三郎に渡ってしまう。
その一方で白木屋の鏡山忠男社長は、総会屋の大物である久保祐三郎を参謀格にし、横井の買い占めに対抗する。久保は、横井の株式が繊維関係の株式会社の名義であったことに着目。白木屋の株を買うことは独占禁止法違反というウルトラCで、横井側の株式を議決権行使停止の仮処分で塩漬けにしてしまう。しかし、横井の執念はこれで抑えることはできず、既に買い占めた持ち株を抱えながら彼は当時の価格として4億以上を持ち出しあくまで買い続けた。また、久保に対抗できる大物として総会屋の田島将光を招き入れて経営陣に相対した[3]田島はその豪腕を発揮して、新田組・住吉一家・安藤組・銀座警察・殉国青年隊らヤクザ者をかき集めて最初の株主総会を流会させた後、再開された総会を会社側と横井側の同時開催という挙に出る。裁判で結局は無効となったが揺さぶりの効果があった。最終的には五島慶太宅への日参により東急を出馬させ、林の持ち株をも含めて五島が結局白木屋を乗っ取ることになった[4]。その後、白木屋は東急百貨店日本橋店となるが、横井没後の1999年に経営効率化のため閉鎖された。
白木屋乗っ取り騒動の一件で横井は五島という後ろ盾を得、その後も五島の企業買収にエージェントとして関わることが多かった。同じ五島慶太を師に仰ぎ、その五島から強羅ホテルを買った小佐野賢治がインテリに対する劣等感をぬぐえずにいたことに比べると、能天気でお気楽で執着心の強い横井の方が世間の注目を集めた。「ホテル経営は紳士の仕事」という名言とはそぐわぬ両雄ではあるが富士屋ホテルの支配権争奪をめぐり火花を散らし、結局小佐野に軍配があがった。意趣返しの横井は株券を譲渡する際に、万札を一枚一枚、小佐野の目の前で数えてたっぷりじらしてから売りつけて、感情を滅多に出さない小佐野にして不愉快な面持ちだったという。
1959年には東洋精糖の株買占めに乗り出す。買占め側にも秋山正太郎社長を始めとする経営陣側にも総会屋やヤクザ・右翼が大勢絡む格好となり、さながらオールスター総出演の様相を見せていた(株主総会でも平気な顔で座っていたらしく、面の皮の厚さを見せつけた)。ところが後一歩で経営権を取得できるところまでいったところで五島が死去、東急を継いだ五島の長男・昇は所有していた株式を経営陣側に譲渡するなどの調停案(岸信介の絡みで永田雅一がまとめた)で合意し、東洋精糖の乗っ取りは結局横井が一人孤立してしまう格好になってしまう。このため、五島邸へ直接出向いて抗議している。
五島の後ろ盾を失ったことで、長男・昇から横井は出入りを終生断られた。なお、横井は株を買い占めては経営陣に引き取らせたり(グリーンメーラー)、場合によっては経営権を手に入れている[5]。1970年には京都にあるネジのトップメーカー、山科精工所(現・ヤマシナ)を乗っ取り、自らが会長に、長男の邦彦を取締役に据えるなど、役員を肉親で固めた[6]。
その傍ら1957年に東洋郵船を創業、グループの総帥として大陸からの引き揚げ船だった興安丸を購入してクルーズ事業に乗り出した。また、ボウリング場やショッピングセンターの経営にも乗り出し、乗っ取り屋という「虚業」とは別の「実業」にも進出していった。
ホテル・ニュージャパン火災事件
ホテルニュージャパンも買収した一社であったが、1982年2月8日にホテルニュージャパン火災が発生、全焼した。彼は行きすぎた合理化を画策し、徹底的なまでに建設費用を節減するため、スプリンクラー設備等の消火設備を整備せず、内装も耐火素材にしていなかった。こうした数々の違法運営により1987年、東京地裁で業務上過失致死傷罪で禁錮3年の実刑判決を受け、1993年に最高裁で確定した。1994年から八王子医療刑務所で服役したが、1996年に仮釈放となり、1997年には刑期を終えている。なお、ホテル火災があった1982年、中村鋭一衆議院議員は国会にて横井が10年間税金の申告をしていないことを取り上げ、「横井ファミリー全体で一千億円を超えるという財産形成をしている」と発言している。
一方、横井は焼けたホテルを放置し、敷地を担保に巨額の融資を引き出した。最大の債権者だった千代田生命がバブル崩壊後の1995年に自己競落し、火災から14年後の1996年に解体した。その後千代田生命が破綻したため、プルデンシャル生命が買収した。
その他のエピソード
1991年には、秘密裡にニューヨークのエンパイアステートビルを買収。愛人の娘、中原キイ子にプレゼントすると横井が言った言わないで裁判になる[7]。ただし、同ビルは所有権と賃借権が分離しており、ほとんど利益が出ないまま撤退。
横井は1950年に蜂須賀元侯爵から3000万円を借りていたが、その内2000万円を払っていなかった。蜂須賀元侯爵の死後、妻の智恵子からの依頼で東洋郵船を訪れた安藤組組長安藤昇の取り立ても拒否した横井は、1958年6月11日に安藤組赤坂支部・千葉一弘(後の住吉会住吉一家石井会相談役)に拳銃で銃撃された(横井英樹襲撃事件)。
ミスコン好きで有名であり、コンテストには欠かさず出席し、しばしば参加者を愛人にした。晩年には叶姉妹とも交流があったともいわれ、パーティーの写真が週刊誌に載ったこともある。また、ニュージャパン火災以降、犠牲になった台湾人観光客の遺族を生涯にわたって毎年慰霊のために日本に招待し続けたとも伝えられている。田園調布の駅前の一等地に豪邸を構えていた。生涯、資産に執着したが、最後の砦である自宅を死去する一ヶ月ほど前には手放し、その後は弟夫婦と暮らしていた[8]。1998年11月30日、虚血性心疾患のため85歳で死去。荼毘に付された横井の遺骨からは銃弾が一発発見されたといわれる。
蝶ネクタイ姿で知られた。本人の弁では「時は金なり、結ぶ手間がもったいない」ことが愛用の理由だった。また、スリに狙われないため、ズボンは尻ポケットをなくした前ポケットのものを特注していた。
経歴や交友関係、言動などから傲慢な印象を持たれがちではあったが、素顔は奉公人から叩き上げて身を起こした人間らしく腰が低く、服役中も他の囚人に対しても丁重に接していたと見沢知廉が記している[9]。
家族
- 妻・路子
- 長男・邦彦 - 1943年生まれ。慶應大学卒。東洋不動産元社長、山科精工所元社長。1969年に女優の星由里子とホテルニュージャパンで結婚、スピード離婚し話題になる。2008年自殺。
- 長女・智津子 - 1944年生まれ。
- 次男・裕彦 - 1945年生まれ。トーヨーボール、ホテルニュージャパン、東洋郵船などの社長を務めた。2000年に、東洋郵船所有の船原ホテルの金の浴槽が盗まれたと届け出て話題になった。英樹の死後、目黒区の繊維取引会社であり、ダイエー碑文谷店の家主でもあった横井産業の社長に就任。2004年にパチンコ業のビッグウェーブとの賃貸契約書不正の疑いで家宅捜査。
- 庶子・中原キイ子 - 1945年生まれ。フランス系アメリカ人の夫ジャンポール・ルノワールとともに、エンパイア・ステート・ビルのほか、フランスやイギリスの古城を買い漁った際、英樹を手伝ったが、それらの所有を巡って英樹と親族から訴えられ、世間を賑わせた[10]。現在ハワイ在住[11]。
- 孫・ZEEBRA - ラッパーでキングギドラのメンバー。英樹の長女の子供。戸籍上は英樹の養子。
- 孫・SPHERE - ラッパー。英樹の長女と建築家の坂倉竹之助との子供。
脚注
参考文献
- 『愚連隊伝説』洋泉社 1999年 ISBN 4-89691-408-2
- 山平重樹『一徹ヤクザ伝・高橋岩太郎』幻冬舎<アウトロー文庫>、2004年、ISBN 4-344-40596-X
- 見沢知廉 囚人狂時代 新潮文庫 1998年3月 ISBN 4-10147-321-8
- ミッシェル・パーチェル『エンパイア』文藝春秋、2002年