柱谷哲二

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テンプレート:存命人物の出典明記 テンプレート:サッカー選手 柱谷 哲二(はしらたに てつじ、1964年7月15日 - )は、京都市出身の元サッカー選手、サッカー指導者・解説者。Jリーグ選手協会初代会長。現役時代のポジションはディフェンダー、守備的ミッドフィールダー。元サッカー選手、サッカー指導者の柱谷幸一は実兄である。

来歴

選手として

日産自動車サッカー部ヴェルディ川崎日本代表等でセンターバック、守備的MFを務め長年活躍した。出場時の多くはキャプテンとしての出場であり、チームを激しく鼓舞するその姿から「闘将」と呼ばれた。

V川崎の黄金期ならびにオフトジャパン時代にはラモス瑠偉とともに指揮官に呼ばれ、先発メンバーについての相談も受けるなどした。

1998年のシーズン終了後、高年俸だったことと、チームの若返りを図る意図からV川崎から「0円提示」。現役続行の意思を表明していたが、他チームからオファーがかからずそのまま現役を引退した。

引退後

その後NHKなどで解説者を務めていた。

2002年岡田武史の後任としてコンサドーレ札幌監督に就任。J1リーグ戦と Jリーグヤマザキナビスコカップを含めた公式戦13試合でわずか2勝と低迷し、2002 FIFAワールドカップ開催中の6月に解任された。柱谷の札幌就任が濃厚となった時点では、Jリーグの監督を務めるために必要なS級ライセンスを有していなかった(前年に講習を受けてはいた)。なお、札幌は16チーム中最下位でJ2へ降格した。

2001年から2002年まで国士舘大学サッカー部のコーチに就任したが、天皇杯国見高校に敗れた。

2003年浦和レッドダイヤモンズのコーチに就任し、主にサテライトを中心に指導。

2005年にJ2・東京Vのコーチに就任。2006年から監督であるラモス瑠偉をサポートし2年がかりでのJ1復帰を果たした。

2008年からラモスの監督退任にともない東京Vの監督に就任。札幌時代以来、6年ぶりとなるJ1チームの指揮を執ることになった。テンプレート:要出典範囲。最終節の敗戦を受けて、18チーム中17位と降格が決定。シーズン終了後に監督を退任した。

2009年Jリーグ選手OB会初代会長に就任した。

2011年シーズンより、水戸ホーリーホック監督に就任。

エピソード

テンプレート:内容過剰

  • テンプレート:要出典範囲
    • 横浜FMへのライバル心が強く、試合後の会見で「1993年Jリーグ開幕節で負けたときのことを今でも覚えている。その時の悔しさが少しでも晴れたのかと」とコメントしている[1]
  • ラモス瑠偉と同じく闘志をむきだしにしてプレイする選手で、その姿勢は監督になっても変わらず、東京Vの監督時代、2008年のシーズン中は、テレビ中継中でも、柱谷の声がハッキリと聞こえるほどの、大声での指示(時には怒声)を出していた。テンプレート:要出典範囲。高木琢也コーチ(当時)に抑えられるシーンもあった。
    • 東京ダービーでは集音マイクが柱谷の「何でファールないかねぇ!!?ちょっと待って!ファールじゃなかったの?今!」という怒号を拾っている。
    • 2012年4月8日の千葉戦ではレフェリーの判定に対して納得がいかず、ペットボトルを叩きつけたことによって退席処分、1試合のベンチ入り禁止処分を受けている[2]
  • 札幌時代は試合時ジャージで指揮していたが、東京V時代はスーツで指揮していた。
  • 気性の激しい性格からか、選手との確執もあった。テンプレート:要出典範囲

所属クラブ

個人成績

テンプレート:サッカー選手国内成績表 top !colspan="4"|日本!!colspan="2"|リーグ戦!!colspan="2"|JSL杯/ナビスコ杯!!colspan="2"|天皇杯!!colspan="2"|期間通算 |- |1987-88||rowspan="5"|日産||||rowspan="5"|JSL1部||12||0|||||||||||| |- |1988-89||||22||0|||||||||||| |- |1989-90||4||21||2||4||0|||||||| |- |1990-91||rowspan="2"|5||20||0||4||0|||||||| |- |1991-92||22||0||3||0|||||||| |- |1992||rowspan="7"|V川崎||rowspan=5|-||rowspan="7"|J||colspan="2"|-||11||0||5||0||16||0 |- |1993|||31||3||1||0||2||0||34||3 |- |1994|||40||2||3||0||2||0||45||2 |- |1995|||46||5||colspan="2"|-||2||0||48||5 |- |1996|||22||2||10||0||0||0||32||2 |- |1997||rowspan="2"|5||16||0||3||0||2||0||21||0 |- |1998||28||1||2||0||3||0||33||1 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算始183||13||30||0||16||0||229||13 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行97||2|||||||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算終186||0|||||||||||| |} その他の公式戦

個人タイトル

代表歴

試合数

  • 国際Aマッチ 72試合 6得点[3][4]

テンプレート:サッカー代表個人成績 |- |1988||5||1 |- |1989||10||0 |- |1990||6||1 |- |1991||2||1 |- |1992||11||0 |- |1993||14||2 |- |1994||9||1 |- |1995||15||0 |- !通算 |72||6 |}

得点数

# 月日 開催地 対戦相手 スコア 試合概要
1 1988年 1月27日 アラブ首長国連邦ドバイ テンプレート:UAEf 1-1 国際親善試合
2 1990年 9月26日 中華人民共和国北京 テンプレート:BGDf 3-0 1990年アジア競技大会
3 1991年 6月2日 日本、山形 テンプレート:THAf 1-0 キリンカップサッカー
4 1993年 4月15日 日本、東京 テンプレート:LKAf 5-0 1994 FIFAワールドカップ・アジア予選
5 4月18日 テンプレート:UAEf 2-0
6 1994年 10月5日 日本、尾道 テンプレート:MMRf 5-0 1994年アジア競技大会

指導歴

監督成績

年度 所属 クラブ リーグ戦 カップ戦
順位 勝点 試合 ナビスコ杯 天皇杯
2002 J1 札幌 - 3 7 1 0 6 予選リーグ敗退 -
2008 東京V 17位 37 34 10 7 17 予選リーグ敗退 4回戦敗退
2011 J2 水戸 17位 42 38 11 9 18 - ベスト16
2012 13位 56 42 15 11 16 - 3回戦敗退
2013 15位 55 42 14 13 15 - 3回戦敗退
2014 -
J1通算 - - 41 11 7 23
J2通算 - - 122 40 33 49
  • 2002年は途中解任。

出典

  1. テンプレート:Cite web
  2. [水戸]柱谷監督「レフェリーに問題がある」 - サッカー専門新聞エル・ゴラッソweb版 BLOGOLA、2012年4月18日。(2012年4月22日時点のアーカイブ
  3. 3.00 3.01 3.02 3.03 3.04 3.05 3.06 3.07 3.08 3.09 3.10 3.11 3.12 テンプレート:Cite pressrelease
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外部リンク

テンプレート:Jリーグ監督 テンプレート:水戸ホーリーホックのメンバー テンプレート:Navboxes テンプレート:Navboxes テンプレート:Navboxes テンプレート:日本プロサッカー選手会会長テンプレート:Footybio-stub