木村庄之助 (27代)
27代木村庄之助(にじゅうななだい きむらしょうのすけ、1925年12月3日 - )は、大相撲の立行司の一人で、木村庄之助としての在位期間は1977年11月~1990年11月。立浪部屋所属。
経歴・人物
ヒゲの19代式守伊之助(当時は8代木村庄三郎)にスカウトされ、そのまま弟子入り。弟弟子に10代式守与太夫(元三役格)、31代木村庄之助がいた。1936年1月場所、「木村宗吉」の名で初土俵。幕下格時代1947年11月に4代木村玉治郎を襲名。1950年9月に十両格。1956年5月に幕内格。1966年11月に三役格昇格。
1971年暮れに起きた行司のストライキ事件の後、当時の武藏川理事長によって導入された行司の抜擢制度によって、1974年1月に先輩の三役格行司(3代木村正直、2代式守伊三郎)をごぼう抜きし、48歳の若さで立行司に昇格、23代式守伊之助襲名。 1976年11月場所後26代庄之助が停年となったが、23代伊之助の昇格は見送られる。5場所の間1人立行司を務めた後の1977年11月に51歳の若さで27代庄之助に昇格した。伊之助在位は23場所。1990年11月場所後停年。最後の取組は横綱北勝海(現八角)-同旭富士(現伊勢ヶ濱)。庄之助の在位79場所と立行司在位102場所は行司停年制実施以降では最長で、庄之助として通算1185番を裁いた。停年退職後はダテ企画に所属していた。
独特の掛け声「腰を下ろして、待ったなし!」、「はっけよいなかっと! なかっとなかったかっと!」(「ハッキョーイダガット! ダガットダガダガット!」とも聞こえる)が特徴で、土俵裁きも明確そのものであった。
37代木村庄之助(5代木村玉治郎→10代木村庄三郎→39代式守伊之助)、40代式守伊之助(11代式守錦太夫)、6代木村玉治郎 、木村寿之介が弟子にあたり、6代玉治郎はその独特の掛け声や所作を継承している。
その他
- 入門直後の土俵で取組中に小便がしたくなり取組を中断して土俵を降りて小便して土俵に戻った。取組後兄弟子から「土俵を離れるとは何事だ!」と、怒鳴られ殴られたため行司を辞めようとした。その直後に横綱玉錦に呼ばれ「機転が利くな、しっかりやれ」と励まされ五円札を渡されて思いとどまった。「あの時玉錦が声をかけてくれなかったら今の自分はいない」と後に自伝に書いている。
- 1939年1月場所4日目に溜まり小使い(立行司の軍配や草履を持つ下位の行司。現在では廃止)として行司溜まりにいた。この日は横綱双葉山が前頭3枚目安藝ノ海に敗れる大番狂わせが起きた。つまり、70連勝ならずの歴史的大一番を土俵下で(間近で)見たことになる。
- 48歳での23代伊之助昇進、及び51歳での27代庄之助昇進は現在でも史上最年少の記録である。彼の庄之助昇格の際、史上最年少で横綱に昇進していた北の湖にたとえられ、「行司界の北の湖」と当時のマスコミは表現した。また北の湖の最初の奉納土俵入り(1974年1月場所前)を務めた行司も当時、23代伊之助に昇進したばかりの庄之助であった。
- その北の湖は、彼が立行司昇格後最も多く裁いた横綱でもあった。ちなみに北の湖の最後の一番(1985年1月場所2日目 対前頭筆頭多賀竜(現鏡山))も彼が裁いている。
- 最終場所の千秋楽で勝ち名乗りを受けた力士は同じ一門の横綱旭富士だったが、旭富士は取組後支度部屋を訪れて庄之助を労った後、庄之助から受けた懸賞金をそのまま庄之助に差出し、感激した庄之助は手刀を切って懸賞金を受け取った。当の庄之助は「一度はやってみたかった。」と大変嬉しかったという。
- 立浪部屋所属であった27代庄之助の付け人として、元大関若羽黒と元横綱双羽黒がいた。若羽黒は十両格行司時代、双羽黒は庄之助昇進後に付け人を務めていたという。しかし、2人とも現役時代のトラブルが原因で廃業という形で角界を去ったという共通点を残す結果となった。
- 千秋楽結びの触れでは、「この相撲一番にて、千秋楽〜」と言っていたが、次の28代以降の庄之助全員が「この相撲一番にて、千秋楽にござりまする〜」と言っている。
履歴
- 1936年1月 初土俵・木村宗吉
- 1937年5月 序ノ口格に昇格
- 1939年5月 序二段格に昇格
- 1941年5月 三段目格に昇格
- 1947年6月 幕下格に昇格
- 1947年11月 4代木村玉治郎襲名
- 1950年9月 十両格に昇格
- 1956年5月 幕内格に昇格
- 1966年11月 三役格に昇格
- 1974年1月 立行司に昇格。23代式守伊之助襲名
- 1977年11月 27代木村庄之助襲名
- 1990年12月2日 停年退職
著書
- ハッケヨイ残った (東京新聞出版局、1994年)
関連項目
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