子守康範

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子守 康範(こもり やすのり、1961年5月9日 - )は、毎日放送出身のフリーアナウンサーラジオパーソナリティ。現在は、映像制作会社アンテリジャンの代表取締役社長でもある。

来歴・人物

大阪府大阪市城東区出身。大阪市内の関目団地で幼少時代を過ごした後に、神戸市の兵庫県立長田高等学校に入学。同校を卒業後に、慶應義塾大学商学部へ進学した。ちなみに祖父は、通信販売会社・フェリシモの創業者[1]

アナウンサーになりたいと思ったきっかけは、小学生の時に『おはようパーソナリティ中村鋭一です』(ABCラジオ)を聴いた時から[2]。中学生の頃によく聴いていたラジオ番組は『MBSヤングタウン』(MBSラジオ)で、火曜日の「ものまね選手権」コーナーに出ようと電話をかけていたこともあったという[2]。大学生時代はNHKやレコード会社などでアルバイト[2]。その傍ら、アナウンサー志望が高じて、大学への在学中には『600こちら情報部』(NHK総合テレビ)にリポーターとして出演していた。

アナウンサーとしての第一志望は、毎日放送ではなく朝日放送だった。『おはようパーソナリティ』をやりたかったのがその理由だったという[2]

毎日放送アナウンサー時代

大学卒業後の1985年に、アナウンサーとして毎日放送に入社した。同期入社組に、現在も同局のスポーツアナウンサーである森本栄浩がいる。入社当時は、身長が197cmであったことから、「日本一背の高いアナウンサー」と呼ばれた[3]

入社当初は、森本とともにスポーツ中継の実況・リポーターを担当。その後は、『あどりぶランド』などのテレビ番組や、『MBSヤングタウン』『MBSサタデーコネクション ノッTEL土曜子守です』などのラジオ番組にも出演した。

1990年には、湾岸戦争の取材で中東へ滞在[4]1994年8月末には、同年9月から『MBSナウ』(MBSテレビで日曜日以外の夕方に放送されていたローカルワイドニュース)の月~金曜日メインキャスターに就任することを前提に[5]、毎日放送の開局40周年および関西国際空港の開港記念特別番組に向けて東南アジア諸国を取材していた。しかし、同年8月26日にその取材で滞在していたカンボジアから『それゆけ!金曜板東英二』(当時MBSラジオで放送されていた生ワイド番組)へ中継リポートを入れた際に、「現地で飛行中の旅客機を操縦させてもらった」と取れるコメントを述べた。子守は旅客機の操縦に関する免許を一切持たないことから、実際には操縦室の操縦席に座っただけであったが、放送直後に一部の新聞・雑誌が「無免許で旅客機を操縦したのではないか」と指摘。この指摘を重く見た毎日放送では、操縦室への入室や前述のリポートを「聴取者の誤解を招く軽率な行為であった」として、子守に6か月間の番組出演停止処分を課した[6]。この処分によって、『MBSナウ』メインキャスターへの就任内定も、就任の直前に取り消されている(MBSナウ#エピソードで詳述)。

しかし、1995年1月17日阪神・淡路大震災が発生。毎日放送では、「震災報道に携わるアナウンサーの人手が足りない」との理由で、子守への出演停止処分期間を3ヶ月に短縮した。これを機に、『がんばれ!被災者の皆さん』(MBSラジオの被災地復興支援番組)のキャスターとして番組に復帰。1996年4月から1998年3月までは、やしきたかじん冠番組でもあった生ワイド番組『たかじん生JIN JIN』(MBSラジオ)において、「(前述の飛行機操縦疑惑以来)落ち込んでいる子守を励ましたい」というたかじんの希望から2代目のアシスタントを務めた。

「アンテリジャン」の起業・フリーアナウンサーへの転身

1998年に、事業家の立場で子守に早期の独立・起業を勧めてきた祖父が逝去。親族としてその足跡に関する映像を制作したことを機に、1999年12月25日付で毎日放送を退社した。退社に至ったのは、あくまでも起業を決意したことによる。

毎日放送への退社翌日には、生前に祖父が作った会社の名前を継ぐ形で、自分史・企業紹介などの映像を制作する会社として「アンテリジャン」を設立。同時に社長へ就任したことで、メディアへの露出を控えるようになった。ただし、やしきたかじんの冠番組であった『たかじんONE MAN』(MBSテレビの深夜番組)には、フリーアナウンサーとして月1回のペースで出演していた。

社長業とラジオパーソナリティ業の両立へ

2008年3月31日にMBSラジオで平日の帯ワイド番組『子守康範 朝からてんコモリ!』(以下『朝からてんコモリ!』と略記)の放送を開始したことを機に、パーソナリティーとして9年振りにマイクロホンサイドに復帰。これを機に、経営者の顔を持ちつつ、同局のテレビ・ラジオ番組へ出演する機会を再び増やしている。現在では、アナウンススクールを開講するなど、後進の指導にも当たる。

その一方で、『朝からてんコモリ!』で3時間の生放送を終えた後に、映像プロデューサー・経営者として東奔西走する日も多い。また、同番組を中座・休演してまで国内外へ皆既日食金環食の鑑賞に出るなど、行動派の一面も披露している[7]

2013年5月3日には、『朝からてんコモリ!』での特別企画(後述)をきっかけに、歌手としてCDシングル「あなたにありがとう」を発表[8]2014年には、『たかじん生JIN JIN』『たかじんONE MAN』で共演したやしきたかじんが1月3日に64歳で逝去したことを受けて、同月8日水曜日)にMBSラジオで『朝からてんコモリ!』に続いてたかじん追悼特別番組(19:00 - 20:50に緊急生放送)の進行役を務めた。

エピソード

出演番組・CM

  • MBSラジオでは、子守が毎日放送を退社してからも、同局のアナウンサー時代に収録した「スポーツニッポン」や「酒のたんだ(大阪全域に店舗展開している酒類ディスカウントストア)」などのスポットCMを現在に至るまで放送している。
  • 毎日放送への入社直前から世間を騒がせていたグリコ・森永事件について、自分の顔が(大阪府警の捜査本部が作成・公表した)犯人の似顔絵に非常によく似ていることを、出演番組で自ら話題に出していた。
  • 毎日放送への入社2年目に当たる1986年には、『痛快なりゆき番組 風雲!たけし城』(TBS制作でMBSテレビでも放送)に一般参加者として出演した。結果は「悪魔の館」で池に落ちて敗退したが、当番組でリポーターを務めていた生島ヒロシ(当時TBSアナウンサー)[9]から敗退直後にインタビューも受けている[10]
  • 毎日放送を退社する際には、番組の共演などで親交が深かった河島英五(2001年4月に48歳で急逝)が、子守のために「あなたにありがとう」という楽曲を制作。2011年5月14日放送の『朝からてんコモリ!』では、子守と遺族の意向によって、テレビ・ラジオを通じて同曲の音源が初めて披露された。2013年5月3日からは、英五の遺児・河島アナムの補詞と子守の歌唱による「あなたにありがとう」を、CDシングルとして発売している。
  • 2009年6月3日には、毎日放送東京支社ラジオスタジオで『朝からてんコモリ!』の生放送を終えた後に、『森田一義アワー 笑っていいとも!』(フジテレビ制作・関西地方では関西テレビで放送)のオープニング企画「アラ2は誰だ!?」に一般参加者として生出演[11]。他局でありながら、関西ローカル放送の『朝からてんコモリ!』を全国に紹介していた。

趣味・活動

  • 『朝からてんコモリ!』などの出演番組で、「新しもの好き」「理系崩れ」「日食ハンター」と自称している。また、最新の製品・技術にいち早く興味を持つ一方で、飽きるのも速い。
  • 読書家で博学。特に鉄道や航空機などの乗り物や、デジタル機器への造詣が深い。MBSラジオの番組では、「西日本一の鉄道アナウンサー」として知られる後輩で同僚の馬野雅行との間で、鉄道ファンならではの深いトークをしばしば展開している。2012年2月24日金曜日)には、『朝からてんコモリ!』の生放送終了後に、プロ野球取材中の馬野に代わって『MBSたびぐみ とっておき旅ラジオ』(当時のナイターオフ番組で、金曜日のパーソナリティを馬野が担当)のパーソナリティを務めた。
  • 稲盛和夫を「経営の師」と仰いでいる。「アンテリジャン」の社長として「盛和塾」(稲盛が主宰する若手経営者向けの経営塾)にも参加。2011年の「盛和塾世界大会」では司会を務めた[12]
  • Appleユーザーで、Apple製品をこよなく愛している。iPad発売後は、スタジオ内に持ち込むコンピュータをLet'snoteから、iPadに変更した[13]
  • メディアで折に触れて実施する世論調査について、結果よりも質問の内容(選択肢の設定など)を重視する立場を取っている。『子守康範 朝からてんコモリ!』でも、世論調査に関する話題を扱う場合には、引用元のメディアを問わず質問の内容に厳しい注文を付けることが多い。
  • 少年時代には、少年野球チームで4番打者・投手・主将を務めていた。2014年7月2日水曜日)には、その経験を踏まえて、オリックスバファローズ東北楽天ゴールデンイーグルス戦(京セラドーム大阪)の始球式に登場。『子守康範 朝からてんコモリ!』のPRを兼ねていたため、背番号の部分に「TENKOMORI 1179」という文字を入れたバファローズのホームゲーム用レプリカユニフォームを着用したうえで、ワンバウンド投球を披露した[14]

現在の出演番組

いずれも古巣・毎日放送の番組

テレビ
  • ちちんぷいぷい
    • 不定期で企画取材・リポートを担当。2008年10月から2011年3月までは、月に1回のペースで、レギュラーコーナー『がんばれ!ヒヨコちゃん』に出演していた。
ラジオ

過去の出演番組

テレビ

ほか

ラジオ

DVD

  • よみがえる総天然色の列車たち第2章(1)(ビコム株式会社、ナレーター)

TVコマーシャル

  • 「綾鷹」(コカコーラ社、関西地域限定)

脚注

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外部リンク

  • あきない総合研究所 「自分史ビデオ」株式会社アンテリジャン・子守康範社長
  • 2.0 2.1 2.2 2.3 ラジオライフ三才ブックス)2014年5月号「子守康範 DJ interview」より。
  • 月刊ラジオパラダイス1988年4月号特集『ラジオ界おもしろ大百科事典 これがラジオのNo.1』44ページより。
  • そのときの経験などから「世界中どこに行っても、挨拶とビールの注文はできる」とよく口にする。
  • ただし、前任のメインキャスター・平松邦夫(当時は毎日放送アナウンサー、後の大阪市長)が休暇を取った期間に、メインキャスター代理として出演したことがある。
  • 放送直後には「毎日放送へ抗議の電話が多数寄せられた」とも報じられたが、当時読売テレビの解説委員であった辛坊治郎が本人に聞いたところ「3本しか掛かってこなかった」と言ったことを明かしている(『たかじんのそこまで言って委員会』2008年2月10日放送分より。ただし子守の名前は伏せて放送)
  • 2012年6月6日の金星の太陽面通過では、「目先の仕事よりも百何年先まで起こらない天体ショーを見なくてどうする」という(一般に社長が出す注意とは逆の)叱責とともに、アンテリジャンの社員全員に日食観測用の双眼鏡を配布(『朝からてんコモリ!』での発言より)。また、同番組の放送中に、国内外からの生中継で皆既日食や金環食の瞬間を何度も実況している。
  • 株式会社アンテリジャン「あなたにありがとう」
  • 生島は当番組のレギュラーではなかったが、収録当日にレギュラーリポーターの柳沢慎吾が病気休養したため急遽代理出演した。
  • インタビューを受けた際、「毎日放送『ヤングタウン』子守康範アナウンサー(25歳)」というテロップ付きで紹介された。なお、子守が参加した回には漫画家青山剛昌も参加。子守と同じく「悪魔の館」で敗退している。
  • 『子守康範 朝からてんコモリ!』「てんコモリブログ」2009.6. 3【水】笑っていいとも!を参照。ただし、『朝からてんコモリ!』では、放送の数日前から『笑っていいとも!』への出演を予告。出演当日には、通常は毎日放送の本社(大阪市北区茶屋町)から放送されている『朝からてんコモリ!』を、毎日放送東京支社からの生放送に切り替えていた。
  • 『子守康範 朝からてんコモリ!』「てんコモリブログ」2011.7. 6【水】リーダーの仕事
  • iPad発売直後の『朝からてんコモリ!』で、いち早く購入した自前のiPadをアシスタントに繰り返し自慢したところ、あるアシスタントから放送中に「iPad、iPadって、うるさい!」という苦情を受けた。
  • 『子守康範 朝からてんコモリ!』「てんコモリ!ブログ」2014年7月2日・3日付記事
  • ただし子守は、番組のタイトルに「がんばれ」という言葉を入れていることへの違和感から、放送では自身の意思でタイトルコールをあえて控えていたという(阪神・淡路大震災の発生から19年目に当たる2014年1月17日放送分の『子守康範 朝からてんコモリ! 5時ですよ~』での述懐より)。