おはようパーソナリティ中村鋭一です

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:基礎情報 ラジオ番組 おはようパーソナリティ中村鋭一です(おはようパーソナリティ なかむらえいいちです)は、1971年4月-1977年3月に放送された朝日放送ラジオの早朝ワイド番組。放送時間はAM7:15〜AM9:30。

当時、朝日放送アナウンサーでスポーツ中継一筋だった中村鋭一がこの情報番組の司会に挑戦。日本で初めて司会者が「パーソナリティ」を名乗ったラジオ番組と言われる(ただしこれには異説もある。詳しくはラジオパーソナリティの項を参照)。関西での聴取率はトップを誇り、カーラジオの占拠率が6割を越えたこともあったという[1]

エピソード

阪神タイガースの熱烈応援

阪神タイガースが試合で勝利した翌日の放送では、中村が球団歌の『阪神タイガースの歌(六甲おろし)』を熱唱したことでリスナーから大変な人気を集めた。さらには、勝った試合のハイライトシーンを放送したり、対読売ジャイアンツ(巨人)戦に勝つと軍歌の『凱旋』を歌うなど、だんだんと派手になった。1972年にはテイチクレコードから、中村歌唱による『阪神タイガースの歌』のレコードが発売された(制作には朝日ミュージックサービス(AMC)が関わっている)。また、「鋭ちゃんといっしょに阪神を応援しよう」という企画を立て、リスナー3000人を招待してファンに小旗やメガホンを配り、甲子園に出かけて観戦することもおこなった。中村は後のインタビューで「(応援に)集団でメガホンを使うのはあそこからやと思います」と述べている[2]

公約の元祖

また、中村は「優勝しなかったら○○する」と公約した元祖でもある(後にテリー伊藤らも、この手の公言を行うようになった)。1974年に同番組宛てに届いた「阪神が優勝しなかったら頭を丸めろ」というリスナーからの声に、中村は「よっしゃ、頭でも丸めてやるわ!」と公言。この年阪神は優勝せず(Bクラスの4位だった)、中村は同年10月公約通り頭を丸めた。その模様は番組内で生放送され、阪神球団関係者や手紙を出したリスナー、同志社大グリークラブなどが参加した。しかし実は、そのリスナーからの声には「巨人が優勝したら」という注釈がついており、そしてこの年、巨人は中日ドラゴンズによってV10を阻まれ達成できなかった。本来なら中村本人は言い訳をして回避することも可能だったが、本人は「禊(みそぎ)だから」として公約を守った。

ブレイクした出演者

1974年頃、「お天気おじさん」で親しまれた福井敏雄を発掘[3]したり、1976年には喜納昌吉を出演させて「ハイサイおじさん」を関西エリアでヒットさせたりなど、話題に富む番組であった。キダ・タローも友人としてしばしば番組に出演し注目されるようになった。

他局への影響

この番組の人気を見たMBSラジオは、対抗して早朝の生ワイド化に踏み切り、阪本時彦アナウンサーを起用した『おはようリスナー阪本時彦です』をスタートさせた。中村に対抗して東京出身で巨人ファンという阪本の個性を押しだそうとしたが、「後発の弱みもあって、健闘も及ばなかった」[4]。そこでMBSラジオがそれに代わる番組として1974年4月にスタートさせたのが、今日に続く『ありがとう浜村淳です』である。

番組の終了

1977年3月、中村は4ヵ月後に控えた参院選大阪地方区出馬に伴い、同局を退社(結果落選、のちの1980年に同選挙区で出馬し初当選)。それに伴い番組も降板した。

中村の降板後は番組担当者を道上洋三に交代し、この番組の放送枠は現在放送中の『おはようパーソナリティ道上洋三です』へと引き継がれた。

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

テンプレート:前後番組
  1. 井上章一『阪神タイガースの正体』(太田出版、2001年)、P325
  2. 『阪神タイガースの正体』P328。学生野球では慶應義塾大学が1906年にメガホンを応援に使用しており、社会人野球でも1937年に撮影された写真にメガホンを使用している例がある(永井良和・橋爪紳也『南海ホークスがあったころ』(紀伊國屋書店、2003年)P107,P111)。プロ野球観戦にメガホンを持参することについては『南海ホークスがあったころ』に「一九八〇年代前半になって定着した行動である」(P228)との記述があるが、中村の発言が正しいかどうかは裏付けとなる資料がなく不明である。
  3. 中村によると、『おはようパーソナリティ』開始前の朝日新聞記者出向時代に気象台・天気予報担当となり、気象台の担当者だった福井と知り合ったという(『おはようパーソナリティ道上洋三です』2010年11月11日に中村がゲスト出演して証言)。
  4. 『阪神タイガースの正体』P325~326。「 」の箇所は『毎日放送の四〇年』(1991年)からの引用。