大東流合気柔術
テンプレート:独自研究 テンプレート:出典の明記 テンプレート:参照方法 テンプレート:ページ番号 大東流合気柔術(だいとうりゅうあいきじゅうじゅつ)は日本武術の一派、中興の祖とされる武田惣角により広められた。陸奥会津藩の殿中武術を参考に編纂された武術とされている。
目次
歴史
八幡太郎義家(源義家)の弟である新羅三郎義光(源義光)を流祖とし、甲斐武田氏に伝えられ、甲斐武田氏の御滅亡後は会津藩主・保科氏(会津松平氏)や甲斐武田氏の末裔を称する会津坂下の武田氏に引き継がれ、その後、御式内として会津藩の上級武士にのみ極秘裏に教授されたとされている。
明治30年(1897年)、霊山神社にて宮司の保科頼母(西郷頼母)は、会津武田氏の武術家武田惣角に御式内(おしきうち)の技法を伝承し、また広く世に広めるよう諭したという。武田惣角は大東流中興の祖とも呼ばれ、全国を放浪して大東流の技法を多数の人々に教授した。武田惣角が教授した人々については英名録、謝礼録という記録がある。
しかし近年の武術史研究において、武田惣角が主張していた『大東流の伝承史』を疑問視・否定する意見が多く、
- 武田惣角が広める以前の大東流史については物的証拠が乏しく、疑問視する見解が支配的で、現在の伝承研究により、武田惣角が自ら修行してきた古流剣術(小野派一刀流と直心影流、特に竹刀稽古を中心に学んだと伝えられている。ただし惣角の弟子や実際に接した人間の証言から、直心影流ではなく鏡新明智流であるという説[1])や槍術・柔術の技法を加えて体系付けられた、「比較的新しい武術」説が有力である。
- 武田惣角の高弟である佐川幸義はあれほど膨大な体系がそんな長い間伝わるはずがない、保科頼母の写真を見ると合気を使えたとは思えない、という点から大東流は惣角が作ったのであろうと言っている。実際、保科頼母の養子である柔道家の西郷四郎は、大東流を修行した形跡は見られず、頼母から伝わった、会津伝承武術であるという説は疑わしいと考えられている。
以上の点から、惣角が学んだ武術に様々な流派の武術家と交流や試合などで他流の秘伝を習得し、参考にした上で新たに自流を作り、武田家の伝統武術という触れ込みを後付けした可能性が高いとする説が有力である。
体系
大東流合気柔術の技術体系は会派によって異なるが、武田惣角が発行した免状(目録)に従うと次のようになる。但し下記の6種の伝書伝授巻が全て実在するのかは不明である。大東流が武道界に現れた明治32年から昭和初期までは秘伝目録118箇条と秘伝奥義之事36箇条の2巻のみを授ける事が殆どであり、それ以外の伝授巻の存在は不明である。上記の2巻以外の伝授巻が明治32年当時から存在したのか?武田惣角が時代を経るごとに新たに作成して行ったのか?は考証が待たれる。また解釈総伝之事477箇条のように伝授巻自体の存在の確認が不明な物もある。
- 大東流柔術秘伝目録118ヶ條裏表
- 合気之術53ヶ條裏表
- 秘伝奥儀之事36ヶ條裏表
- 秘伝御信用之手84ヶ條上中下
- 解釈総伝之事477ヶ條
- 皆伝之事88ヶ條
このほかに合気二刀流をはじめとする合気武器術(剣術・槍術・棒術・手裏剣術等)がある。※但し会派によっては、最初から伝えられていなかったり、伝えられていても失伝しているものや、一部の技法に特出した形態を伝授している場合も見られる。
また武田惣角から教授代理免許を許された各師範が独自に新たな技術体系や伝授巻(巻物)を制作している場合もある。
伝承
主な伝承者
大東流合気柔術の伝承は武田惣角から日本各地に広まっている。
- 武田時宗 1916~1993。元名、宗三郎。武田惣角の三男。北海道警察にて刑事として勤務し退官後は山田水産に勤務する。同社を定年退職後、大東流合気武道宗家を称し北海道網走市にて大東館道場を開設し大東流合気武道を教授する。弘前藩伝の小野派一刀流を導入し、武田惣角の剣技を再現しようとした。また、種々の技に名前を付け新たに五箇条に再分類を行い体系的に分類した。弟子に佐野松雄(北見市)、加藤茂光(網走市)、近藤勝之(東京都)、武田宗光(会津坂下町)らがいる。
- 久琢磨 1895~1980。鈴木商店勤務後、大阪朝日新聞社に再就職する。大阪朝日新聞社勤務時にほか数名と共に右翼対策として、植芝盛平および後に武田惣角より大東流合気柔術を学ぶ。武田惣角からは門下唯一の免許皆伝を授けられる。また、植芝盛平と武田惣角から伝えられた技法を写真で記録した。大阪府内に関西合気道倶楽部を組織し、朝日新聞大阪本社、竹中工務店、大阪ガス等で大東流を教授する。また、宗家・武田時宗の要請により大東館道場の本部長にも就任した。後に久琢磨の門人達は琢磨会を組織して現在に至る。弟子に森恕、大神謙吉、宇佐見清道らがいる。
- 佐川幸義 1902~1998。第34代大東流合気柔術宗家。大東流においては初めて宗家を称し後に宗家を武田時宗に譲位後は大東流合気武術宗範を称する(一時期、「天空佐川流」や「佐川派大東流」、「正伝大東流」とも称した)。東京都小平市において佐川道場を開設し大東流を教授する。武田惣角に合気剣術も教わり独自の工夫を加えた。それとは別に甲源一刀流剣術、荒木流柔術、大島流槍術も修行しており、甲源一刀流を合気の理合で再編した独自の剣技・合気甲源一刀流剣術も編み出した。(門人には大東流合気剣術と合気甲源一刀流剣術の両方を教授した)また、合気拳法も考案した。佐川幸義の没後、門人達は佐川伝大東流合気武術を組織して現在に至る。
- 堀川幸道 1894~1980。本名、幸太郎。教師として北海道各地で勤務しながら大東流合気柔術を教授する。後に北海道北見市にて幸道会を組織する。弟子に息子の堀川剛道(室蘭)の他、幸道会総本部長を継いだ井上祐助、新保建雄、六方会の岡本正剛、愛知県滝口雄二、光道の錦戸武夫、牧羊館の米澤克己らがいる。また、1938年に旧制第一高等学校現東京大学の撃剣部員に大東流を短期間指導した中に石田和外(後の一刀正伝無刀流・宝蔵院流高田派宗家)がいた。公立学校の教員を本業としていた関係から非常に達筆で文盲の惣角の代りに免状や巻物の代筆をしていた。1974年9月 石田和外(元最高裁判長官)の提唱により、町村金五(元自治大臣)ら8名の連名で大東流合気柔術永世名人位が贈られた。武田惣角からは主に合気の技を、父(堀川泰宗:武田惣角の北海道における大東流普及の最初期の人物)からは大東流合気柔術全般を伝授される。なお、堀川幸道最初期の弟子3羽烏(内地で有名な岡本正剛の兄弟子達)は、堀川剛(剛道(現室蘭))・西川道徳(中湧)・吉田隆(現札幌)がいる。
- 吉田幸太郎 1883~1966。植芝盛平を武田惣角に紹介した。武田惣角から代理教授を許されている。弟子に極真空手創始者の大山倍達、ハプキド創始者の崔龍述 (吉田朝男)、在米空手家のリチャード・キムや地曳秀峰、近藤勝之らがいる。晩年は半身不随のため茨城県日立市に移住し少数の弟子に教授を行った。
- 植芝盛平 和歌山県田辺出身。合気道を創始する。大東流の巻物を発行授与した弟子に望月稔、富木謙治、塩田剛三らがいる。大阪朝日新聞社の道場において久琢磨らに大東流を旭流柔術として教授をした。合気剣術も一部学んだが、戦後、鹿島新当流をもとに新たに「合気剣」を編み出した。
- 細野恒次郎 東京都江戸川区小岩に振栄館道場を開き大東流を教授する。弟子に地曳秀峰(八光流柔術・中国武術家)、近藤勝之らがいる。
- 松田敏美 1895年ごろ~不明。本名、豊作。北海道旭川市にて松武館道場を開設して大東流合気柔術を教授する。弟子には群馬県大間々町に練心館道場を開き大東流合気柔術を教授した前田武、北海道帯広市の元信館道場にて教授する宝田元信、他に八光流柔術開祖の奥山龍峰 (後に武田にも師事) や、導引術で有名な道家合気術(道家動功術) の早島正雄などがいる。
- 山本角義 本名、留吉。大東流合気柔術総主を称する。戦後、北海道苫小牧市にて柔進館道場を開設し大東流合気柔術を教授し、苫小牧警察署で逮捕術の教官も務める。また独自に居合を研究し無限神刀流居合術を創始する。武田惣角の印可した最後の教授代理で唯一、死の直前の惣角から合気の口伝を授かったとされる。現在、須藤一刀斎が総主を継承している。
以下の記載者は武田惣角の孫弟子以降の伝承者
- 近藤勝之 1945年~現役。武田時宗の門人。はじめ細野恒次郎に次いで吉田幸太郎と兄弟子の地曳秀峰(八光流皆伝師範)に、後稀に北海道へ足を運んだり、武田時宗を東京へ招いたりして、大東流の柔術のみ学ぶ。1988年に宗家代理、免許皆伝(合気技は別、武田時宗の病床時)。現在、大東流合気柔術本部長・総務長。但し現在における大東流合気柔術の流派全体の本部長、総務長と言う意味合いではなく、旧大東館系の眞武館道場系大東流会派内の本部長、総務長である。
- 武田宗光 1955年ごろ~現役。武田時宗の門人。武田惣角の玄孫(武田惣角の長男武田宗清の曾孫)。武田氏父祖伝来の地福島県河沼郡会津坂下町で農業を営みつつ、各地で大東流合気柔術の指導に当たっている。初めに会津坂下町の武田家に伝承された武術を祖父から学び、後に武田時宗の教えを受けた。武田惣角の四男も武田宗光であるが、別人。1977年に武田時宗の大東館の支部として福島県での活動を開始したが、大東館瓦解後、会津坂下を本部として独自の活動を開始し、福島県や新潟県、東京都など8カ所に支部を開いている。門下生からは宗家と呼ばれる。
- 森恕 1931年~現役。久琢磨の門人。1962年から久琢磨に大東流を学ぶ。1965年に教授代理。1975年の琢磨会の結成時、総務長に就任、現在に至る。弁護士の業務の傍ら、大東流を指導している。
- 大神謙吉 1939年~現役。久琢磨の門人。1961年から久琢磨に大東流を学ぶ。1968年に兵庫県西宮市に道場・大武館を開く。創設期の琢磨会にも参加していたが後に脱退。大東流以外にも空手道も修行し、空手・拳法に対応できる技法を工夫している。
- 岡本正剛 1925年~現役。堀川幸道の門人。大東流合気柔術六方会宗師を称する。師の堀川幸道没後、東京において六方会を主催する。岡本正剛はそれまで神秘のベールに包まれ実態のよく知られていなかった大東流合気柔術の書籍やビデオを早い段階から積極的に発表し、堀川幸道系の大東流の技術を広く公開した。そのため一部の保守的な大東流師範からは反発を受けた。
- 鶴山晃瑞 はじめ合気道や武田流合気之術(中村派)を学び、後に武田時宗、堀川幸道、山本角義、久琢磨などの各師範を訪ね、もしくは招聘して大東流を学ぶ。『図解コーチ合気道』『図解コーチ護身杖道』などの初期の大東流を紹介した書籍を発表する。大東流の総合的な研究家兼師範であったが後に久琢磨から大東流の免許皆伝を受けたと称し日本伝合気柔術の流派名を名乗る。大東流合気柔術を柔術、合気柔術、合気之術の3系統の技法と系統に分類する方法を提唱する。
- 佐藤金兵衛 1925年~1999年。柔術家、中国武術家。八光流柔術や合気道、柳生心眼流など様々な柔術を習っていたが、後に武田惣角晩年の教授代理・山本角義と面識を得て、山本角義を東京の自宅に招聘して大東流を学ぶ。後に諸流を合わせ大和道を創始。
- 吉丸慶雪 1931年~現役。柔術家、中国武術家。佐川幸義の元で修行。堀辺正史と換骨拳を立ち上げた後に破門、その後に佐藤金兵衛・山本派に入門。合気練体会主宰。
- 滝口雄二 1945年~現役。合気柔術家、空手家。始め早島正雄に、後堀川幸道の北見市時代の門人、愛知県在住。
継承と正統
現在、武田惣角の大東流合気柔術を継承する会派(団体)や大東流系の武術教室は全国に多数ある。柔道における講道館、合気道における合気会のような広く認められる中心的な組織はない。一方で、武田惣角や武田時宗から教授代理、免許皆伝等の免許を受けたとして正当性を主張する会派も少なくない。さらに武田時宗から免許皆伝と宗家代理を受けたと称する近藤勝之が「大東流」「大東流合気武道」「大東流合気柔術」の3語を商標登録した件につき、「大東流」の独占に繋がるとして否定的な意見、無関係な団体が勝手に大東流を名乗ったり大東流を商業利用することを防止するのに役立つとした肯定的な意見などが入り乱れている。(この件については武田時宗の遺族が商標登録の願い出を取り下げたにもかかわらず、近藤勝之が独自に商標登録を行ったために批判的な意見も多い)
武田惣角は生前に英名録(門人帳及び教授記録)と謝礼録などの詳細な資料を残しているが、資料上の記録で武田惣角から大東流の免許皆伝を授けられた事の確認が取れているのは大阪朝日新聞社の道場にて教授を受けた久琢磨と利根館正雄の2名だけである。 また幸道会(堀川幸道の創始した会派)の二代目本部長である井上祐助と堀川幸道の夫人堀川ちゑこらの証言によると、武田惣角の子息の武田時宗は大東流の免許皆伝の巻物を所有しておらず武田惣角門人の堀川幸道の筆写した物を借り受けて複写している。(武田惣角は筆の立つ幾人かの門人に巻物の筆写作成を依頼していた)
- こうした混乱の原因としては、以下のような要因が考えられる。
- 武田惣角の時代には流派としての中央集権的な組織がなかったため、武田惣角は流派全体を率いる後継者を指名することをしなかったこと。
- 武田惣角が多数の教授代理免許を出しそれぞれの教授代理が各々独自に会派や道場を開き指導活動を行ったこと。
- 武田惣角は特定の定まったカリキュラムに沿って大東流を教授しなかったこと。(厳密なカリキュラムはなくとも、ある程度の骨格はあったとの説もある)
- 弟子は武田惣角の演武を見たり、武田惣角に技を掛けてもらって、技を盗れる者は自分で技を学び取る…という古典的な教授法だったために、弟子によって習得した技や解釈、得意な技術に違いが生じたこと。
- 武田惣角没後、網走市において大東流の指導を行った子息の武田時宗が大東流合気柔術と大東流合気武道の呼称を使い分けたこと。
- 武田惣角が特定のカリキュラムに沿って大東流を教授しなかったこと、相手やその時々で教授法や技の名前が異なったことについては、以下のような説がある。
- 大東流非古流説…大東流は武田惣角が実質的創始者であり、武田惣角の存命中の大東流は大まかな体系は存在したものの未だ発展過程にあった。したがって系統だった明確な教授段階もなく、武田惣角の年齢とともに教授法や技術内容も変遷していった。つまり、武田惣角が教えていた技は流派として先代から継承した技というよりも、その時々で武田惣角が創意工夫、思いつきで教えていた技である可能性が高い。
- 大東流古流説…現在のような多人数の弟子の一括指導と異なり、1人1人の弟子への個別指導(個人教授が前提と言うわけではなく複数名へのグループレッスンの場合も多々あった)であったため、それぞれの弟子の体格や体力、性格によって教える技や解釈に違いが出てくるのは当然。また、同じ技であっても内弟子と外弟子によって教え方(特に技の核心となる心の置き方や技の意味)が違うというのは他の古流流派や中国武術の門派でもよく見られることであり、武田惣角もそのように弟子の立場や弟子への信頼度によって技の教え方を変えた。(武田時宗門人の近藤勝之の発言によると武田時宗も同様に同じ技でも内弟子と外弟子で教授法を変えたという)
現在は大東流非古流説に賛同する意見が多く、大東流は、武田惣角が学んだいくつかの伝統武術の流派の技術をベースに武田惣角が創造した流派であり、古流ではないという説が有力になっている。他の古流の伝統流派からも、大東流は古流の中でも特異な武術流派、あるいは非古流と見られることが多い。
何が正統か、という問題に関しては議論しても結論のでない状況にあり、積極的に正統性を主張する会派もあれば、そうした議論は不毛であるとして加わらずに距離を置いている会派もある。
大東流合気柔術と大東流合気武道
武田惣角が教授した流派名は大東流合気柔術であり大東流合気武道の名称は武田惣角の三男、武田時宗が使用し始めた呼称である。大東流合気柔術と大東流合気武道の関係は柔術に対する柔道、武術に対する武道のように術から人格教育を目指した道として、より高い段階である事を主張したものと思われる。大東流合気武道の他に大東流合気武術、大東流合気道、大東流三大技法日本伝合気柔術などの名乗りが存在しており各々の伝承者が流儀名に願いもしくは独自性の主張を込めた呼称であると思われる。武田惣角の伝えた大東流合気柔術には段位制度は存在せず各段階の伝授巻(巻物)の伝授が行われた。それに対して戦後の各派大東流においては段位制度を採用する所が増え、並行して伝授巻(巻物)の発行を行っている会派や道場もある。
なお大東流合気柔術には元来、宗家制度は存在せず武田惣角も生前は本部長もしくは総務長としか名乗っていない。戦後に武田時宗が大東流合気武道の宗家を名乗ったのが宗家の呼称の始まりである。また佐川幸義は大東流合気武術宗範を、山本角義は大東流合気柔術総主を独自に名乗っている。
なお、大東流合気柔術は徒手体術のみで剣術や棒術などを統合したのが大東流合気武道であるという解説も多いが、これは「柔術」と「武道」という語感の違いか、佐川幸義が名乗った大東流合気武術との混同と思われる誤解である。
主な会派
大東流合気柔術の伝承は武田惣角から日本各地に広まっている。
旧大東館系
北海道網走市に武田惣角の三男・武田時宗が開設した大東流合気武道・大東館道場に連なる系統。
- 旧大東館
- 眞武館
- 旧誠心会系 中川記念道場(網走市)至誠館(北見市)
- 技道会
- 川越武田家系
- 会津武田家系
- 独立系
関西合気道倶楽部系
関西地区に免許皆伝師範・久琢磨が開設した関西合気道倶楽部に連なる系統。
佐川伝大東流合気武術系
東京都小平市に大東流合気武術総本部・佐川道場を開設した教授代理・佐川幸義に連なる系統。
- 大東流合気武術佐川道場(本部道場)
- 大東流合気武術相模原支部(高橋賢師範)
幸道会系
北海道北見市に教授代理・堀川幸道が開設した大東流合気柔術・幸道会に連なる系統。
- 幸道会
- 六方会
- 研鑽塾
- 剛道会
- 北見合気武道会
- 大東流合気柔術光道
- 愛知・滝口道場
- 小川道場
- 牧羊館
- 無傳塾
- 居合心剣流柔術・心技清榮館
- 北見工業大学 合気道部
- 六方会
松武館系
北海道旭川市に教授代理・松田敏美が開設した松武館道場に連なる系統。
柔進館系
北海道苫小牧市に教授代理・山本角義が開設した柔進館道場に連なる系統。後に宣布会柔進館と改称されるが本来の正式呼称は柔進館である。
- 旧柔進館
- 宣布会柔進館
- 神刀柔進会
- 神刀道進会
- 玄武館世界忍法武芸連盟・国際柔術連盟総本部
- 日本兵法大和道本部
- 合気錬体会
大東流から派生した武術
武田惣角は大東流の技法を身分や出身で差別する事無く様々な弟子に伝授した(これは当時としては画期的なことだった)ので、高弟によって様々な会派が開かれたり、大東流の術理を生かした流派が派生している。代表的なものでは合気道・八光流柔術(はっこうりゅうじゅうじゅつ)・無限神刀流居合・居合心剣流柔術・韓国のハプキドーがあるが、その他の柔術や空手道等で技法に少なからず影響を受けた流派があり、現代武術に与えた影響は計り知れない。
柔道家の西郷四郎(姿三四郎のモデル)が、武田惣角の師とされる西郷頼母の養子であったことから、西郷の「山嵐」は大東流の技を応用したとも云われる事もあるが、最新の武術史研究においてその説は否定されている。
その他
西郷頼母・西郷四郎から継承したとする西郷派大東流合気武術、会津藩を介さずに甲斐武田氏から継承したとする武田大東流など、武田惣角伝に由来しないとされる大東流会派もある。また西郷頼母や甲斐武田氏とは無関係で大東流や合気を称する団体、武田惣角やその門下生の直接指導を受けずに書籍や伝聞研究だけで武田惣角伝大東流を称する団体も少なくない。
西郷四郎伝大東流、あるいは西郷派大東流に関しては、西郷四郎が西郷頼母の養子である事は事実だが、西郷頼母が大東流武術を修めた上で、西郷頼母を通じて養子の西郷四郎に大東流の技法が伝授されたと云う伝承史自体が疑わしく、(先述の通り大東流が明治以降に確立された武術であるのが定説とされている。また西郷自身が天神真楊流・井上道場の門下であった事実が証明されている)何らかの形で武田惣角や高弟から大東流の教授を受けた、あるいは大東流の技法を真似した(参考にした)人物が新たに新興武術を確立し、武田惣角の伝承史に対抗する上で西郷四郎伝大東流・武田大東流などと名乗った可能性が高い。