佐藤ゆかり
テンプレート:混同 テンプレート:政治家 佐藤 ゆかり(さとう ゆかり、1961年8月19日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の参議院議員(1期)。
経済産業大臣政務官、衆議院議員(1期)、自民党副幹事長などを歴任。
目次
来歴
- 2005年8月、郵政解散を受けた第44回総選挙で、自由民主党の候補者公募に応じ[1]、郵政関連法案に反対した野田聖子元郵政大臣への「刺客」として岐阜1区に落下傘候補として出馬、初当選[2][3]。“刺客VS造反”という対立軸や、野田聖子との女性対決(俗に“マドンナ対決”と呼ばれる)、又はネガティブキャンペーン的な週刊誌報道(不倫スキャンダル等[1])などで多くのマスコミに取り上げられた。小選挙区では野田聖子に敗れたが女性枠候補として比例東海ブロックで1位登載されていたため比例復活で当選を果たした[4]。
- その後、野田聖子と岐阜1区の自民党公認を獲得する争い(岐阜1区騒動)が勃発。岐阜市議会の自民党会派を二つに分けての争いがマスコミに注目されたが、選挙区調整の結果、引退する小杉隆元文部大臣の後任として2008年2月、東京5区に国替えした[5]。(→岐阜1区騒動に解説)
- 第45回衆議院議員総選挙(2009年8月30日投票)では衆議院東京5区で立候補したが、自民党への強い逆風のため、民主党の手塚仁雄に敗れ、さらに比例東京ブロックでも惜敗率が及ばず、落選[6][7]。
- 2010年7月、第22回参議院議員通常選挙に比例代表で自由民主党公認候補として出馬し、初当選。衆議院議員時代は無派閥で通していたが、参議院議員転身後には高村派(番町政策研究所)に所属[8]。
政治活動と不倫報道など
第44回衆議院選挙で当選
2005年8月24日、佐藤が細江茂光岐阜市長のもとに立候補のあいさつに訪れた際、市長から握手を拒否される。この模様が全国放送されたため、市長に苦情が殺到した[9][10]。
2005年9月の総選挙後、公職選挙法違反である有権者宅への戸別訪問を行う映像が『真相報道バンキシャ!』(日本テレビ)で報道され、これを市民団体に告発された(総務省の見解では複数の有権者宅へ戸別訪問した場合、公職選挙法違反の適用を受けるため)。同団体に別件で告発された杉村太蔵らと共に週刊誌に“お騒がせ議員”として叩かれ[11]、佐藤も自身のサイトに戸別訪問をしない旨の注意書きを書いた。
2005年10月23日、レッズランドを視察した際に記者からの「Jリーグでどこか特定のチームを応援していますか?」という質問に対し、「私は日本リーグを応援しています。」と答え一部サポーターの話題となる。
2005年11月6日、早稲田大学での与野党の討論会で「(子供を産む女性も)自助努力で頑張っていくことが大事」と発言したことが報道され、子育てや女性の立場を理解しているのかと、物議をかもした。[12][13][2]
2005年11月7日、正式な役職ではないが、自民党幹事長補佐に任命された[14]。
2006年12月、野田聖子が復党すると、『私が(選挙区・岐阜1区の)支部長』とテレビを通じ次期選挙での小選挙区公認候補を譲る意思のないことを強く主張した。国会閉会日の12月19日に議場で野田が佐藤に近づき握手を行った[15]。この対立は、2008年2月、佐藤が東京5区に選挙区を転出するまで続いた。(→岐阜1区騒動に解説)
2006年12月、経済産業委員会の採決を無断欠席したことで、党国対委員会によって、同様に経産委員会を無断欠席した片山さつき議員と共に「所属常任委員会を変更」「国会開会中海外渡航を1年間禁止」「2007年3月まで国対委員会へ出席停止」という処分が下された[16][17]。また、佐藤は11月10日の財務金融委員会(関税暫定措置法採決)も無断欠席しており[17]、その委員からも外された。両議員とも決算行政監視委員会に変更されたが、後に復帰した。
2007年7月、議員在籍年数に比して議員秘書の辞職者が多い[18]が、佐藤は「私の事務所よりも多数の秘書が辞めた議員もいる」とコメントした[19]。
2007年9月8日、佐藤が代表を務める自民党岐阜県第1選挙区支部が、平成17年の政治資金収支報告書に自民党本部からの交付金300万円を記載せず、昨年9月に県選管に訂正を届け出ていたことが分かり、佐藤の事務所は「選挙運動費用収支報告書には記載しており、それで十分だと思っていた」とコメントした[20]。
2008年2月、自民党本部(古賀誠選対委員長)は岐阜1区の公認問題を終結させるために候補者調整を行い[21][22][23]する小杉隆元文部大臣の後任として、佐藤を衆院東京5区に“国替え”させた(→岐阜1区騒動に解説)。一部の報道に『里帰り』『5区で育った』等の表記がある[24]が、佐藤は東京6区の世田谷区代沢に生家がある。
2008年4月、小池百合子、猪口邦子、佐藤ゆかりで政策提言ユニット「TPL」(Tokyo Projects of/by/for Ladies)を結成[25][26]。同年9月、総裁選で小池百合子候補の推薦人となり[27][28]、同陣営の経済・金融政策担当の総裁選マニフェスト立案を行った。
2009年6月、総選挙を前に麻生内閣の支持率が低迷したため、佐藤は『マニフェストを通じた総裁選を事前に行って改革路線を堅持する党のリーダーを決めよう』と、両院議員総会の開催を呼びかける署名活動をし、“麻生おろし”に一役買った[29]。 佐藤は同7月に夕刊フジ[30]やラジオ番組[31]などで「麻生降ろしではない」と弁明するも、中川や武部が麻生批判を繰り返したこともあり[32]、直後に行われた2009年東京都議会議員選挙に悪影響を与え、自民党は歴史的惨敗を喫した[33]。この選挙結果に自民党都議団は『“麻生降ろし”議員は応援しない』と強く抗議[34]。佐藤は都議団へ弁明し[35][36][37]、再度、複数のマスコミのインタビューに『私は親麻生。反麻生ではない』と報道させ、マスコミが反麻生派だとレッテルを貼ったと責任転嫁した[38][39][40]。
第45回衆議院選挙で落選
2009年8月30日に行われた第45回衆議院議員総選挙には自民党公認のほか公明党の推薦を受けて東京5区から出馬した[41]が、自民党への大逆風のため民主党の手塚仁雄に敗れ、比例復活ならず落選した[7][42][43][44][45][46]。
不倫報道とバッシング
「不倫メール500通」報道
“小泉マドンナ刺客作戦”の正体見たり 佐藤ゆかり「不倫メール」500通「個人情報」を有権者に隠す本当の理由--(週刊文春2005年9月8号PR)</blockquote> 記事は佐藤の過去の男性関係が赤裸々に書かれ、メディアによって仮名となっているお相手探しが行われたりした。これに対し佐藤は週刊文春の記事を悪評の流布(いわゆる“紙爆弾”)として対処。選挙中は報道を一切無視し、記者に質問されても沈黙を守った[47]。
しかし選挙後は一変し、週刊誌による不倫疑惑報道をネガティブキャンペーンとみなし“選挙妨害”と主張した[48][49]。選挙直後の討論会ではメディア規制に賛成する立場に立ったため、メディア規制反対の立場の櫻井よしこにたしなめられたりしたが[50]、2006年8月7日販売の婦人公論8月22日号[51][52][53]などで「不倫メール」報道を“謀略”との主張を展開した。また事務所を通じウィキペディアにも抗議をした。佐藤のメディアへの反撃は“個人のブログへの規制”にまで言及している[54]。
なお週刊文春の「不倫メール500通」報道は他のいくつかのメディアでも取り上げられた[55][56][57][58][59][60]。
「不倫デート」報道
[カメラは見た!]懲りない「佐藤ゆかり」 今度は〈48歳〉議員と「不倫デート」 元祖「不倫メールの女」と「花街育ちの代議士」(週刊新潮2006年6月22日号PR)
同僚の江崎洋一郎衆院議員と神楽坂のフレンチレストランで会食していた模様を週刊新潮にスクープされ、“不倫デート”と報じられた。 記事中の江崎のボディータッチについて、佐藤は「散発的な不規則行為」「不倫ではなくセクハラ」とし、乃木坂のフランス料理店の支払い明細のコピーを示したりして、不倫疑惑を全面否定。テレビ[61]や自身のHP[62]で反論した[63]。江崎も事実を認め謝罪した[64][65]。 また佐藤は会食の場所などの情報が週刊誌に漏れたのは事務所にスパイがいると考え、全ての関係者に守秘義務の誓約書を書かせたり、または秘書を入れ替えたりしたとされる[66][67][68]。
バッシング報道
週刊誌やタブロイドからのバッシング報道は不倫疑惑だけに留まらず、公職選挙法違反の告発[11]、出資詐欺への関与[69]、秘書の金銭トラブル[70][71][72][73]、政治資金収支報告書の未記載[20]、または委員会採決欠席[74][16]、議場での居眠り[75][76]、審議中の写真撮影[77]、さらには相次ぐ“ドタキャン”[78][79][80]、車の事故[81]、出身地偽装[82]、果ては“化粧の濃さ”[83][84]、または“男性への媚び”[85]、“目力”(めぢから)[86][87]など多岐に渡った。
このため佐藤は“メディア嫌い”[88]であり、メディア(特に週刊新潮)に対して抗議を続けたり[62][89][90][91][92][93][94][52]、議員宿舎の玄関で佐藤を取材しようと待っていた写真週刊誌記者を威嚇したり[95]、岐阜での会合ではテレビカメラの前を通過する際にレンズを手で押さえつけた[96]こともある。
岐阜1区騒動
あらまし
2005年8月、郵政解散を受けた第44回総選挙で、郵政関連法案に反対した野田聖子元郵政大臣への「刺客」として岐阜1区に女性エコノミスト佐藤ゆかりが自民党より公認される。[97]。 選挙戦の序盤から候補者の一挙手一投足が過熱に報道され、また佐藤の過去の不倫疑惑が週刊誌から報道されるというネガティブキャンペーンが行われたこともあり、全国に注目された[98][99]。自民党岐阜県連及び岐阜市の自民党市議らは野田・佐藤の二派に分裂・対立し、激しい争いを繰り広げた。
総選挙の結果、野田は選挙区で5選を果たし、佐藤も比例で復活当選したため、“二虎”が並び立つこととなった。
総選挙後、自民党執行部(武部勤幹事長)などが求めた離党勧告に従い野田ら“郵政造反組”は自民党を離党。更に野田を支持・支援した岐阜県連の幹部(県議)らも離党勧告に従い離党した。[100] その後、佐藤は野田支持派の多い自民岐阜市連の役員になろうとしたり[101][102]、岐阜市政に影響力を発揮しようとしたことで、野田派との感情的な対立がエスカレート、[103]、岐阜市内で与謝野馨担当大臣(当時)などが“融和”を、河野太郎などが“非融和”を訴えるなど中央政界を巻き込んだ政治的な対立となった[104]。ただし、佐藤の岐阜市内の支持派は野田聖子の支持派に比べ(市議会議員の人数でも、支援者の人数でも)少数派で、選挙区奪取には劣勢であった。
自民党執行部が安倍体制に代わると、保守層の再結集のために2006年12月4日に野田聖子を始めとする保守系無所属議員が自民党に復党した。
それに先立ち佐藤は野田らの復党反対の署名を集めるが、その署名を自民党本部に提出する際、国会の委員会採決を無断で休んだことにより、野田聖子の復党と同じ日(2006年12月4日)に党から処分を受けた[74]。
野田の復党後も佐藤は党内融和を行わず[105]、12月11日に「岐阜1区の支部長は私」、「100%従わないと握手しない」等の発言を記者会見で行い、また野田聖子が党員による予備選挙での公認候補決定をと同月10日に提案したがこれも拒否し、一歩も引かなかった[106][107]。自民党岐阜県連会長の金子一義衆院議員は、佐藤の「野田議員が100%協力してくれれば握手をする」との発言に『それは僭越。『100%私の言うことを聞け』なんて政治家の発言ではない」と批判した[108]。
2007年4月、統一地方選(岐阜県議選、岐阜市議選)が行われたが、自民党の中で佐藤派と野田派に分裂した選挙戦となった[109][110]。また野田派県議へのこの県議選での公認を佐藤は「反党行為があった」として拒否し、公認を数ヶ月遅らせるなど確執が表面化した[111][112]。
2007年7月、佐藤事務所がインターネット掲示板に野田聖子の悪口を書いたと元秘書により週刊誌に告発された[19][113]。
2007年8月10日、野田聖子事務所への放火事件が起き、同時に佐藤を中傷するビラも路上にまかれる事件が発生した。犯人は不明とされる[114][115][116]。
2007年10月8日、放火された野田の事務所が再開されたが[117]、その前日の7日に、佐藤の後援会「キラリ岐阜ゆかり会」の設立総会が行われた[118][119]
佐藤は野田の復党後も次回(第45回)総選挙でも引き続き岐阜1区支部長として公認するよう党本部に求めていたが、福田政権となって地元から選挙区調整を行うよう申し入れがあり、古賀誠自民党選対委員長らによる調整の結果[120][121][122]、2008年1月、自民党は独自の世論調査で“頭一つの差”で優勢な野田聖子を同選挙区の公認候補とする方針を決定した[123]。また、佐藤は東京5区への転出がうわさされ始めた[124][125]。これに対して佐藤の後援会役員及び秘書らが街頭で岐阜残留を求める署名を行い対抗し、2万以上の署名が集まった[126][127]。(東京5区への転出説は以前にもあった[128][129])。
協議の結果、衆院東京都第5区への転出が決まり[130][131]、同2月8日、党本部内の記者会見[132][133]で野田・佐藤両者が握手を行い[134]、円満解決を演出した[5][135][136][137][138]。
騒動その後
選挙区の公認争いは決着したが、両者の対立の“しこり”はその後も続き[139][140]、佐藤が“国替え”した後の“立命館高校誘致(市岐阜商廃止)問題”を契機に岐阜市の自民会派は分裂した[141][142][143]。また2009年衆院選では自民党への大逆風の中、佐藤の元支持者らが自民党から離党し[144]、さらに佐藤派だった笠原多見子県議会議員が自民党を離反して県議を辞職し民主党に鞍替えして衆院比例区候補となった[145][146]りして保守層が分裂、野田聖子は選挙区で落選(比例復活)の苦杯をなめた。 一方、東京5区に“国替え”した佐藤も自民党への大逆風と後援会組織の構築が間に合わなかったこと(同選挙区で議席をもっていた自民党・小杉隆の協力もなかった)により落選した[7]。
第22回参議院選挙で当選
2010年7月11日に行われた第22回参議院議員通常選挙には自民党公認で衆院東京5区支部長から鞍替えして比例代表から出馬。比例順位2位で初当選。
日本アムウェイへの関与問題
2008年10月、マルチ商法業者が問題視される中で、日本アムウェイと関りがあるとして、自民党の野田聖子、吉田六左ェ門、猪口邦子などと共に名前があがった[3]。佐藤は日本アムウェイが主催する集会に参加したとされる。
政策
『国会みずから改革宣言』というスローガンを掲げている[147]。
旧姓続称を認める制度改正
(2005年当時の)野党主導の選択的夫婦別姓案に反対している[148][149]が、結婚後も旧姓続称のみを認める(すなわち旧姓続称は認めても氏の存続は認めない)制度改正を主張している。[150]。
経済政策維新
『経済政策維新』とは2005年の総選挙でHPに公表した経済政策中心の政策提言[151]のこと(この『経済政策維新』は佐藤がかつて経済産業省の委員会において外資系証券会社のエコノミストとして発言した趣旨[152]でもある)。総選挙向けの政策提言としては、「規制緩和なくして、増税なし」、「サラリーマンと企業の新たな共存方法」等が書かれ、『一般家計向けの「株式投資優遇税制」の再設計が急務』とし、株式から配当を得る家計を推奨した。
この『経済政策維新』で注目された部分は以下である。ビジネスモデル上、企業の利益最大化の答えが固定費削減である限り、人件費は今後も抑制傾向が続く…(中略)…家計にとり、合理的選択とは、企業活動に貢献する一方で、収益を上げそうな企業の株主にもなり、収益が上った企業から非給与所得という形で株主還元を受けること
小国資本主義・日本
『小国資本主義・日本』とは佐藤の処女本『日本経済は大転換できる!』の核となる政策提言。相対的に小国化する日本に向いた国家経済モデルとして、政策的な主力を内需振興策から転換し、新興諸国向けの輸出主導型経済と、それを支えるための積極的な新興経済への対外投資(金融資産の運用効率の向上による資本ストックの維持)を両輪とした「資本化国家」の提唱である。
保守主義思想
佐藤は「保守の理念」として「相互扶助と自立の精神で互いに助け合い努力する、日本社会の繁栄の礎ともいえる思想。この保守理念のもと、政治は万民均等機会の提供に腐心し、そこから先一人ひとりの自由と尊厳ある営みにはできるだけ干渉せず、しかし機会に恵まれず助けを必要とする人たちには温かい支援を行う」としている[37]。
その他
“ゆかりタワー”
JR岐阜駅前の“岐阜シティ・タワー43”のこと。2005年ごろ、佐藤が自民岐阜1区支部長だった頃に中央から補助金(“刺客手当”)を得て建てたとされる駅ビル。岐阜では一部に『(佐藤ゆかりが建てたから)ゆかりタワー』と宣伝されたが、実は駅ビルは佐藤が岐阜に刺客として来る前から既に着工されており、佐藤は中央の補助金カットを取り戻しただけである。[153][154][155]
なお佐藤がPRに作らせたお土産菓子“ゆかりたんの岐阜改革物語”(鮎パイ)[156][157]には当時まだ完成していない駅ビルが描かれた。
ふるさと税
ふるさと税構想とは2006年5月頃に佐藤がHPで公表した政策提言[158]。佐藤の考えた「ふるさと税」とは“納税番号制度”を用いて納税者の地方税の一部が納税者の“ふるさと”に移譲されるというもの(佐藤は証券業界のエコノミスト出身の議員らしく納税番号制度(納税者番号制度)の導入に積極的な立場)。同年7月1日の“新生銀行リテール5周年感謝セミナー”での講演でも「ふるさと税」について発言し、その内容が7月30日付けの日本経済新聞内の銀行の広告として大きく広告された。この「ふるさと税」は、後の2006年自民党総裁選で谷垣禎一財務大臣(当時)が取り上げたり、河野太郎議員も言及した[159]。 但し、ふるさと税構想は、佐藤の選挙区岐阜1区の野党系元候補者の過去の公約と類似点があり、『政策のパクリではないか』と日刊ゲンダイに指摘され[160]、佐藤は『エコノミスト時代の発案』としている。また与党内でも最初の提言者が誰かの様々な主張がある。
支援団体
佐藤家は代々日蓮宗の檀家だといい、衆院議員時代に日蓮宗の国会議員組織「法華一乗会」のメンバー入りした[161][162][163]。
2010年参院選では宗門から推薦された[164][165][4][166][167][168][169]。同宗教団体の元宗務総長を後援会長、全国11教区の教区長を副会長とする体制を敷き、身延山久遠寺をバックにした大型ポスターやチラシを宗門寺院に送りつけるなど、選挙を「宗門運動」に位置付けた[167]。
議員以前の活動
1998年から2005年まで、外資系証券会社のエコノミストとして活動していた。2005年総選挙に立候補した時点の肩書は、外資系証券会社クレディ・スイス・ファースト・ボストン証券(CSFB)におけるチーフ・エコノミスト兼経済調査部長(同社での在籍は2004年9月から1年間)[170]。
- 2004年にアメリカの投資情報誌「インスティテューショナル・インベスター」誌上の投票で日本経済レポート担当のエコノミストとして第2位となった[171](1位はロバート・フェルドマン))ほか、週刊エコノミストのランキングにも入った。日本経済の動向調査とレポートの仕事[172]をしながら、新聞や経済誌などに寄稿又はインタビューをうけたり[173][174][5]、経済についての講演や対談[175]、また経済番組などにTV出演[171]をした[176]。
- 金融業界でエコノミストたちがほぼ右へならえの弱気予想でいる時に、佐藤一人バブル崩壊の恐れを指摘した。日本経済のターニングポイント(転換点)を独自の予想で何度か的中させてマーケットの話題になったため、経済誌では「逆張りの佐藤」と呼ばれたこともあった[177]。
- 投資銀行(インベストメントバンク)のエコノミストとして日本経済の構造分析や政策提言を行う一方、活躍は証券会社内に留まらず、財務省や経済産業省の委員会の委員、自民党の民間アドバイザーを務め、また地域経済を活性化させる提言を講演(例:2005年7月31日、埼玉県蕨市でのレッズランドについて講演[178])をした。
- 2004年度に早稲田大学大学院公共経営研究科の兼任講師を務め、獨協大学でも教鞭をとっている[170]。またニューヨーク大学では、博士課程在籍中に教鞭をとった。
- 2005年4月、日本経済新聞紙上で小泉首相の郵政改革を「350兆円の郵貯・簡保資金を低い金利で民間に回す道筋が不透明。国債消化を優先し、金融の効率化が期待できない」として、50点(落第点)を付けた[179]。
人物
- 2005年の総選挙出馬に際し選挙区が岐阜1区(岐阜市)に決まったことに対して、当初「2月に観光でライトアップの時期の白川郷に行き、岐阜にはまた何度でも来たいと思っていたら、まさか選挙活動に来るなんて、という気持ちです」と急造の落下傘候補のため選挙区と無関係の地名を出した[180][6]が、党本部から注意され新幹線でJR岐阜駅に到着するとホームで「岐阜に嫁ぐ気持ちでやってきました」と言い直した[181][182]。
- 女性誌で、“私なら家政婦を3交代で雇って子育てをする”と語ったことがある[183]。また、母親が多忙で家政婦任せのため、“おふくろの味を覚えてない”とも語っている[184]。
- 世田谷っ子。世田谷で生まれ、代沢小学校を卒業。佐藤栄作元総理とは近所づきあいだった[185]。
- 学生時代は“地球人になる”をモットーに国連の職員を目指していた[186]。
- 中学校時代は陸上部に所属[187]、上智大学時代は少林寺拳法部に所属。
- 大学生になると、タイのインドシナ難民キャンプにボランティア活動を行い、アメリカ留学中は地域小学校の総合学習で、アメリカ人の子供たちに日本の凧(たこ)を教えた。
- 留学時代、政治ジャーナリストの末延吉正のテレビ朝日の番組取材(1988-1989年米大統領選ブッシュ陣営への同行取材)を手伝った[188]
家族・親族
- 実家
- 父親は慶應義塾大学に在学中学徒動員で海軍に入り、実戦で戦ったが終戦後復員して日本精工に就職した[189]。父の母方が三井家の番頭をしていた関係で父方の親戚の多くは戦後三井系列の会社に勤め、父もその一人だったが、養子縁組による母との結婚後は母の仕事を手伝うため脱サラを決意し、会社経営をしていた[189]。
- 家族(両親兄)がいずれも故人であり、相続で都内など複数に住宅・宅地・山林を所有[193][194][195]。株への投資は相続した二銘柄のみ(本人は資産運用に興味無しとコメント)。平塚に賃貸物件(アパート)を所有[196][197][198][199]。
- 自家
- 現在独身、結婚・離婚歴あり、子供なし[53]。離婚した元夫はテレビ朝日の報道マン。2005年総選挙出馬の際の記者会見では家族構成や婚姻の有無を聞かれたが個人情報として明らかにしないことも。その後、女性雑誌のインタビューで複数回、結婚願望や子育てについて答えた[200][201][53]。
- 親戚
略歴
- 1961年 - 東京都世田谷区生まれ
- 1980年 - 不二聖心女子学院高等学校卒業。
- 1980年 - 上智大学外国語学部フランス語学科入学。
- 1986年 - コロンビア大学 School of General Studies 卒業(上智大学からの編入) 。
- 1988年 - コロンビア大学大学院国際関係学修士課程修了。
- 1998年 - ニューヨーク大学大学院経済学博士課程修了。Ph.D取得(金融経済学専攻)
- 1998年 - 日興ソロモン・スミス・バーニー証券(現日興シティグループ証券)入社。
- 2002年 - JPモルガン証券入社。
- 2004年 - クレディ・スイス・ファースト・ボストン証券(現クレディ・スイス証券)入社。
- 2005年 - 第44回衆院選に自民党から立候補。選挙区・岐阜1区で落選。比例東海ブロックで復活当選。
- 2005年 - 11月、党幹事長補佐に就任。
- 2006年 - 10月、党副幹事長(~2007年8月)。
- 2009年 - 第45回衆院選で東京5区から落選。
- 2010年 - 第20回参院選比例代表で初当選。
所属団体・議員連盟
- 神道政治連盟国会議員懇談会
- 日本会議国会議員懇談会
- 速やかな政策実現を求める有志議員の会
- 「TPL(トーキョー・プロジェクツ・オブ・バイ・フォー・レディースの略) (小池百合子、猪口邦子の3人の共同設立)[25][26]
- プロジェクト・日本復活(山本一太などをヘッドに設立)[203][204]
- 自民党動物愛護管理推進議員連盟[205]
- マニフェスト勉強会(発起人代表)[7][8]
- 金融経済研究会(発起人・事務局)
- 日本列島意識改革リレーの会(発起人代表)
- 改革フォーラム「新しい風」
- 家族の絆特命委員会 (委員長代理)
- 法華一乗会(日蓮宗の檀信徒国会議員の組織)[206][207]
著作
単著
- 2008年7月 『日本経済は大転換できる!』PHP研究所、ISBN 9784569700144
- 2010年11月 『強い円、強い日本経済』東京書籍、ISBN 9784487804979
共著
脚注
関連項目
外部リンク
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