京浜工業地帯
京浜工業地帯(けいひんこうぎょうちたい)は、大田区、川崎市、横浜市を中心に、東京都、神奈川県、埼玉県に広がる工業地帯である。かつては名前の通り、東京から横浜までの東京湾西岸、京浜運河に広がる埋め立て工業地帯であったが、次第に範囲が東海道沿いの藤沢市・茅ヶ崎市・平塚市や、内陸の八王子市・相模原市・さいたま市(旧大宮市)にまで拡大していった。四大工業地帯のひとつで、太平洋ベルトの中核であり、日本有数の工業地帯である。
また、東京湾沿岸に千葉県へ伸び、京葉工業地域を形成、さいたまから東北道沿いに北関東工業地域を形成した。
概要
中京工業地帯・阪神工業地帯・北九州工業地帯と比較した場合、事業所数・従業員数・付加価値額で見た規模は1位であった。しかし、1999年、製造品出荷額の規模は中京工業地帯に次いで2位となった。2006年には製造品出荷額で30兆5099億円となり阪神工業地帯(31兆1028億円)に逆転され3位に転落した。現在の製造品出荷額は30兆8394億円である。(工業統計2007年)
- 東京都・神奈川県
- 事業所数(従業員4人以上の事業所)は2万9504ヶ所、従業者数80万6973人、製造品出荷額は約30兆8394億円、付加価値額は約10兆6320億円。
- 東京23区・川崎市・横浜市
- 事業所数(従業員4人以上の事業所)は約2万2千ヶ所、従業者数40万8856人、製造品出荷額は約13兆2272億円、付加価値額は約4兆8858億円。
(いずれも工業統計表、2004年 2006年 2007年発表)
巨大な消費市場と原料・製品の輸出入に便利な港湾(東京港・川崎港・横浜港)を有する。鉄鋼・機械・化学などの重化学工業、食品・繊維などの軽工業ともに発達しているが、重化学工業の割合が多く、印刷・出版や雑貨工業の発達が特徴的である。(日本最大の印刷工場が東京にある)また、中小規模の工場が多いことも特徴である。
京浜工業地帯は、阪神工業地帯より遅れて工業地帯となった。しかし、沿岸部のみならず、内陸にまで工業地帯を広げ、機械工業などの都市型工業を立地させ、発展してきた。
臨海部(横浜市、川崎市、大田区など)では鉄鋼業や化学工業、内陸部(八王子市、立川市など)では機械工業が発達している。
最近では工場・倉庫の跡地、埋め立てて使われていない土地などを利用して、お台場・お台場海浜公園、みなとみらい・赤レンガパークなど、観光施設に整備されている地域もある。
また大田区羽田旭町の大田区創業支援施設、大田区南六郷の大田区新産業創造支援施設、大田区蒲田の大田区産学連携施設、横浜市金沢区にある横浜金沢ハイテクセンター、横浜新技術創造館、SOHO横浜インキュベーションセンター、かわさき新産業創造センター、かながわサイエンスパーク等の、イノベーションによる新産業創出や、起業を期待されているインキュベート施設や、横須賀リサーチパークやかわさきマイコンシティ等の、ハイテク企業を集積した産業クラスターもある。
歴史
明治30年代から40年代にかけて日本の工業は、繊維・製紙・食品などの軽工業から、鉄鋼・造船・機械などの重工業が中心に取って代わり始める。重工業は軽工業とは違い、広大な敷地や多量の資源が必要となり、それを受け入れ、送り出すための港も必要になる。
埋め立て
東京は、明治期に越中島地先、芝田町(現:芝、田町)地先、芝車町(高輪)など、東京臨海部の埋め立てが始まっていった。 芝浦などの隅田川河口部や、荒川河口部なども次次と埋め立てられていき、運河が掘られていった。
横浜・川崎は、明治期、横浜の鶴見区に、京浜工業地帯の生みの親と言われる浅野総一郎らが「鶴見埋立組合」(後の東亜建設工業)を設立し事業を開始した。 大正から昭和初期にかけて、今の神奈川区千若町・新浦島町・守屋町、鶴見区生麦・末広町・安善町、川崎市川崎区白石町・浅野町など、横浜・川崎地区に人工島を造成され、同時に運河が掘られた(これらを隔てていた運河は後に埋め立てられ、現在では陸続き)その後も土地の不足により、神奈川区出田町・恵比須町・宝町、鶴見区大黒町・末広町が埋め立てられる。埋め立てを行っている間にも様々な企業が集積し、工業地帯として発展を続けていった。
東京から横浜へ
大正期には第一次世界大戦の軍需で発展し、戦勝国である日本は好景気になった。この頃から、東京に集中していた工場群が横浜・川崎にも多く進出し始めてきた。その後関東大震災を契機に、東京から工場が横浜・川崎へ移転し、京浜工業地帯は完全に横浜まで広がった。 震災前、三港周辺の工場群は独立していた。そのため横浜の実業家原三渓などは、鶴見に火力発電所を作るために投資し、横浜と川崎を工業地帯化させ、次第に今のような工業地帯となっていった。
満州事変が起こると、軍需産業がさらに成長した。特に造船・自動車産業は政府に支援され、1933年には横浜市神奈川区宝町で日産自動車が創立した。現在みなとみらいとなっているところは、かつて三菱重工業横浜造船所(現・三菱重工業横浜製作所)があった。
戦災と復興
太平洋戦争が起こると、当工業地帯は東京大空襲・横浜大空襲によって壊滅的な打撃を受けた。さらに終戦後、米軍により接収が行われ、工業活動が停滞した。現在でも横浜市部には多くの米軍施設が残り、代表的な例では神奈川区の瑞穂埠頭があり、横浜ノースドックとして接収されたままとなっている。
朝鮮戦争が起こると、停滞していた工業活動も再び動き始め、高度経済成長の時代に突入。鉄鋼・非鉄金属・エネルギーが伸び始め、それに合わせて東京港修築計画等による港湾設備・道路などの産業基盤が整備され、一大工業地帯へと発展した。 この頃、土地が足らなくなり、東京都は大田区地先に京浜島・昭和島・城南島の造成を行い、川崎市は扇島・東扇島の造成を行い、横浜市は大黒埠頭・本牧埠頭の造成、根岸湾岸の埋め立てを行った。
郊外への拡散
1960年頃から、工業地帯に工場・人口が集中するのに合わせて、土地の高騰、工業用水の不足、道路の渋滞などの様様な問題が現れ始めた。特に、工場から出る排水・排煙によって起こった公害が社会問題となった。そこで、工業施設の過度の集積、工場の建て替え・拡張を規制し、公害防止関係法が制定された。これにより、多くの工場が中心部を離れ、埋立地や郊外へ移転した。
京浜港の役割
外国貿易コンテナ取扱量は、三港で日本の約四割を占める。
主な事業所
- 東京
- 川崎
- 横浜
主な研究所
- 東京
- 川崎
- 横浜
主な工業都市
- 東京 - 精密機械や出版・印刷など
- 横浜市・横須賀市 - 造船・自動車
- 日野市 - 自動車
- 藤沢市・茅ヶ崎市 - 自動車
- 相模原市 - 自動車部品
- 八王子市 - 綿織物
- 川崎市 - 鉄鋼(JFEスチール)・石油化学(新日本石油・東燃化学)・うま味調味料(味の素)
関連項目
浅野総一郎(京浜工業地帯の埋めたて作業の第一人者。)