中村伸郎

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中村 伸郎(なかむら のぶお、1908年9月14日 - 1991年7月5日)は、日本俳優北海道小樽市出身。長女は女優井出みな子、次女も女優の中村まり子

来歴・人物

生家は岐阜県士族で、小寺芳次郎の七男。二男は小寺健吉(画家)、三男は小寺廉吉桃山学院大学教授等)、四男は小寺融吉(日本舞踊研究家)、五男は小寺駿吉千葉大学教授等)。幼少期、年の離れた姉・としと中村税小松製作所初代社長)夫妻の養子となり、東京に転居する。東京開成中学校(現・開成高等学校)卒業。開成中学校の同窓生で川尻東次などと1926年に人形劇を公演し、これが後の人形劇団プークのもととなる。青年期には画家を志すが断念し、舞台俳優となる。築地座を経て、1937年杉村春子らと共に劇団文学座を創立。以来、同座の中核的存在として活躍した。1957年には文学座理事に就任、運営面でも同座の中心人物であった。

1963年戯曲『喜びの琴』の上演中止を巡り、三島由紀夫南美江らと共に文学座を脱退。当時、文学座の最高幹部だった中村の退団は、文学座に大きな衝撃をもたらした。翌1964年劇団NLT創立に参加。1967年紀伊國屋演劇賞受賞。1968年には三島らとNLTを脱退し、劇団浪曼劇場を結成するが、その後三島の自決により劇団は解散。福田恆存が理事長を務める現代演劇協会の附属劇団・「劇団雲」へ入団するも、1975年に今度は現代演劇協会が内部分裂を起こしてしまった。その後、芥川比呂志らと退団して演劇集団 円を結成し、芥川亡き後は同劇団の代表を死去まで務めた。

舞台では文学座の中心俳優として岸田國士久保田万太郎、三島由紀夫など座付きの劇作家の戯曲を中心に翻訳劇に至るまで幅広く活躍した。特に三島の戯曲の美しさに心酔し、このことが文学座での安定した地位を捨てて三島と最後まで行動を共にするきっかけとなった。三島の自決と浪漫劇場解散後は新たな方向を模索し不条理劇などの前衛劇にも挑戦、1972年より11年間にわたって、ウジェーヌ・イヨネスコ作の『授業』を毎週金曜日夜に渋谷の小劇場ジァン・ジァンで欠かさず上演し、伝説となった。また、1970年代中頃からは別役実作品の常連となり、演劇集団 円公演や木山事務所プロデュース公演などには亡くなるまでほとんど全て出演し、別役作品の顔というべき存在であった。1973年文化庁芸術祭賞大賞受賞。1976年紫綬褒章受章。1987年文化庁芸術祭賞受賞。1991年東海大学医学部付属東京病院で死去。享年82。

舞台のみならず、映画・テレビにおいても数多くの作品に主に脇役として出演。その風貌から、学者、弁護士などの知的な役柄を得意としたが、飄々としたコミカルな役どころも数多い。特に小津安二郎監督作品の常連で、『彼岸花』『秋日和』『秋刀魚の味』では北竜二と共に主人公の友人役で出演した。そのほか黒澤明監督作品にも多く出演した。テレビドラマ『白い巨塔』の東教授は当たり役で、『タンポポ』(1985年)ではそのイメージを逆手にとった「老紳士」役を軽妙に演じた。

エッセイストとしても知られ、著書『おれのことなら放つといて』は第34回日本エッセイストクラブ賞を受賞した。

出演作品

舞台

他多数

映画

太字はキネマ旬報ベストテンにランクインした作品
◎印は小津安二郎監督作品。★印は黒澤明監督作品。

テレビドラマ

ラジオドラマ

著書

  • 『おれのことなら放つといて』(随筆・俳句集 第34回日本エッセイストクラブ賞)早川書房、1986年。早川書房〈ハヤカワ文庫 NF161〉、1989年。
  • 『永くもがなの酒びたり』(随筆・俳句集 遺作)早川書房、1991年。

外部リンク