ルマン

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ルマン(Le Mans)

  1. フランスル・マン市。
    1. 同市で毎年開催されるル・マン24時間レースの略称
      1. 日本のレーシングチーム。以下で述べる。ル・マン24時間から。
    2. 同市サッカークラブ・ル・マンUCの通称。に本拠を置く
  2. 韓国・大宇自動車(現・韓国GM)が製造していた乗用車、デーヴルマン。→オペル・カデット
  3. ダンロップのタイヤブランド。現在ではスタンダードコンフォートタイプに位置付けられている。

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テンプレート:レーシングチーム

株式会社ルマンテンプレート:Lang-en-short)は、東京都渋谷区に本社を置く自動車部品メーカー。1967年設立。当初の社名はルマン商会。主にレース用のチューニングパーツの開発・販売や、海外のレーシングカーの輸入販売等を手がける。またガレージルマンとしてレーシングカーコンストラクター業務も行ったことがある。

レース参戦時はチームルマンを名乗る(2000年にレース部門を株式会社チームルマンとして子会社化)。チーム名の由来はル・マン24時間レースから。

チームルマン

1969年にルマン商会のレース部門として設立。1970年代より日本のトップチームのひとつとして多様なカテゴリーで活動している。

フォーミュラレースでは、1976年以降に全日本F2000全日本F2全日本F3000フォーミュラ・ニッポンと続く国内トップカテゴリーに継続して参戦している。特に2002年以前はレイナードの国内総代理店を務めており、全日本F3000やフォーミュラ・ニッポンにおいてレイナードの事実上のワークスとして強さを誇った。1991年にはF1デビュー前のミハエル・シューマッハが全日本F3000にスポット参戦し、1996年には弟のラルフ・シューマッハがフォーミュラ・ニッポンの初代チャンピオンになっている。

グループCでは自社マシンを開発。また、日産系チームとしてル・マン24時間レースなどにも参戦した経験がある(その際、チーム名が「チームルマン」だったため、海外のエントランスに名前をすぐ覚えてもらえたという)。

2000年代以降はトヨタとの関係が深く、SUPER GTではレクサス・SC430を走らせている。

2012年野田英樹が設立した「NODAレーシングアカデミー高等学院」と協力関係にあり、チーム代表の土沼広芳など数人のエンジニアが同学院の講師を務めている[1]

レース参戦実績

全日本F2000選手権・全日本F2選手権

全日本F2000選手権には松本恵二を擁して1976年より参戦。松本は1978年に全日本F2選手権のチャンピオンを獲得し、1987年までチームに在籍した。また、海外からジャック・ラフィーケケ・ロズベルグパトリック・タンベイリカルド・パトレーゼらF1ドライバーがスポット参戦し、パトレーゼは1977年のJAFグランプリで優勝した。

1980年代にもステファン・ヨハンソンテオ・ファビクリスチャン・ダナーなどのF1予備軍の外国人ドライバーが参戦した。

全日本F3000選手権

エマニュエル・ピロジョニー・ハーバート服部尚貴らが在籍。ロス・チーバーはレイナード勢のエースとしてチャンピオン争いを展開した。1991年の第6戦菅生には当時メルセデス・ジュニアチームにしていたミハエル・シューマッハがスポット参戦し、チーバーに次ぐ2位を獲得した。

フォーミュラ・ニッポン

ロックバンドX JAPANがスポンサーとなり話題を呼ぶ。初年度の1996年は、ラルフ・シューマッハと服部尚貴がチームメイト同士でタイトルを争い、ラルフが初代チャンピオンを獲得。1998年はX JAPANメンバーであるhideのレーベル「LEMONed(レモネード)」がスポンサーとなり、本山哲がシリーズチャンピオンを獲得した。

2003年には、当時シアトル・マリナーズに在籍していた佐々木主浩をオーナーとする「TEAM 22」のメンテナンス(実質的なチーム運営)を担当。脇阪寿一をドライバーに起用し2勝を挙げた。

2008年は本山哲が10年ぶりに復帰して古豪復権を目指すも結果は出なかった。

長らくフォーラムエンジニアリングがメインスポンサーを務めていたが、2008年からキグナス石油日本サン石油がメインスポンサーとなり、2011年から2年間は、加入した大嶋和也が別のオイルメーカーとスポンサー契約を結んでいたため、この2社をスポンサーとする側は「Team KYGNUS SUNOCO」として分離独立することになった(大嶋を放出した2013年からは再び一つのチームに戻っている)。

開催年 ドライバー チームランキング
1996年 #24 服部尚貴
#25 ラルフ・シューマッハ
1位
1997年 #1 ノルベルト・フォンタナ
#2 エスティバン・トゥエロ→ミハエル・クルム立川祐路
3位
1998年 #7 ノルベルト・フォンタナ
#8 本山哲
2位
1999年 #1 本山哲
#2 山西康司
1位
2000年 #7 野田英樹
#8 五十嵐勇大
5位
2001年 #7 アレックス・ユーン→山西康司
#8 五十嵐勇大
9位
2002年 #7 影山正美ドミニク・シュワガー
#8 土屋武士
5位
2003年 #7 金石年弘
#8 土屋武士
4位
2004年 #7 脇坂寿一
#8 土屋武士
#25 片岡龍也
4位
2005年 #7 片岡龍也
#8 土屋武士
5位
2006年 #7 片岡龍也
#8 高木虎之介
6位
2007年 #7 片岡龍也
#8 高木虎之介
8位
2008年 #7 本山哲
#8 石浦宏明
7位
2009年 #7 国本京佑
#8 石浦宏明
5位
2010年 #7 ケイ・コッツォリーノ
#8 石浦宏明
5位

富士GC

富士グランチャンピオンレース(富士GC)では1983年に松本恵二がチャンピオンを獲得。1988年と1989年にはジェフ・リースが2年連続チャンピオンとなった(富士GCは1989年で終了)。

全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権

全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権には、株式会社ユーピー(パナスポーツブランド)をスポンサーとして、1984年に自製のLM04Cで参戦を開始した。1985年シーズン途中にLM05Cに車両を変更し、WEC-JAPANでは2位入賞を果たした。1986年シーズンには日産からV6のVG30エンジンが供給されるが、LMシャシーではパワーを受け止めることができず、マーチ製の86Gにマシンを変更した。LMシャシーにはトヨタエンジンが供給され、日産、トヨタエンジンでの2カーエントリーとなる。2台体制は翌87年も続き、WEC-JAPANでは和田孝夫に手によりポールポジションを獲得した。日産のCカーによる参戦は1991年まで続いた。1993年の鈴鹿1000kmではニスモとジョイントで日産・R92CPで優勝を果たした。

参戦歴

開催年 ドライバー マシン
1984年 高橋健二/中子修/鈴木利男 LM・04C/日産
1985年 松本恵二/中子修/森本晃生 LM・04C/日産
LM・05C/日産
1986年 松本恵二/鈴木亜久里 マーチ・86G/日産
森本晃生/F・コンラッド LM・06/トヨタ
1987年 和田孝夫/A・オロフソン マーチ・86G/日産
中子修/M・S・サラ/佐藤浩二 LM・07/トヨタ
1988年 和田孝夫/A・オロフソン マーチ・86G/日産
マーチ・88G/日産
鈴木利男/森本晃生 マーチ・86G/日産
1989年 和田孝夫/森本晃生 マーチ・88G/日産
1990年 和田孝夫/中子修 日産・R89C
1991年 和田孝夫/岡田秀樹/影山正彦 日産・R89C
日産・R90CP

ル・マン24時間レース

ル・マン24時間レースには、1987年にマーチ・86G/日産で初出場した。翌1988年には2カー体制で参戦した。以降日産のサテライトチームとして1990年まで参戦を続けるが、一度も完走を果たすことができなかった。

参戦歴

開催年 ドライバー マシン
1987年 A・オロフソン/A・フェルテ/P・ゴナン マーチ・86G/日産 R
1988年 D・オンガイス/M・トローレ/鈴木利男 マーチ・86G/日産 R
A・オロフソン/L・レオーニ/森本晃生 マーチ・88G/日産 R
1989年 和田孝夫/A・オロフソン/森本晃生 マーチ・88G/日産 R
1990年 和田孝夫/A・オロフソン/M・S・サラ 日産・R89C R

全日本GT選手権・SUPER GT

ファイル:2002 Esso Ultraflo Tom's Supra 01.JPG
エッソウルトラフロースープラ(2002年)

1999年より土沼広芳を監督に、野田英樹ワイン・ガードナーとをドライバーに起用し、スープラで参戦。当初はエッソタイガースープラを名乗り、虎をイメージさせたカラーリングをしていた。

2000年は前年同様の体制ながら、マシン名をエッソウルトロンタイガースープラに変更。

2001年童夢から脇阪寿一が移籍し、その年よりマシン名がエッソウルトラフロースープラになった。この年は脇阪と野田英樹がドライブ。

2002年は野田に代わって飯田章がドライブし、シリーズチャンピオンに輝く。

2003年は2勝を挙げるなど活躍するが、最終戦では惜しくも日産勢に敗れた。

2006年は脇阪にかわって片岡龍也がドライブすることになった。また、ベースマシンがSC430、スポンサーがエクソンモービルのままだが、マシン名がMobil 1 SCとなった。

2007年は飯田がGT300クラスのRACING PROJECT BANDOHへ移籍し、代わってビヨン・ビルドハイムが加入、スポンサーもフォーラムエンジニアリングへ変更され、マシン名はForum Eng. SC430に変更された。

2008年は2007年GT500チャンピオンの伊藤大輔がARTAより移籍し、ビヨン・ビルドハイムと共に参戦。スポンサーがENEOSに変更され、マシン名もENEOS SC430になりオレンジと赤のカラーリングになった。

活躍

トヨタのワークスチームの中でもエース的存在で、チーム、ドライバーとも人気の高いチームである。2002年には、脇阪寿一、飯田章組がチャンピオンを獲得した。だが、翌年の2003年は、チャンピオン争いで優位に立っていたものの最終戦で失速し、3ポイント差でザナヴィニスモGT-Rに敗れ、2004年も最終戦までチャンピオン争いを展開するが、シーズン未勝利に終わる。

2005年には前半戦は新型のスープラの熟成に苦しみ不調、後半戦でなんとか調子を取り戻したものの、最終戦までチャンピオンの権利は得ていない。2006年からエースドライバーだった脇阪寿一がトムスに移籍。エースドライバーを失ったチームは徐々に低迷。第3戦・富士ではリストリクターの救済により2位を得たもののその他は予選・決勝を通じてチームは低迷した。2007年も3位表彰台を2回獲得するもトヨタワークスとしては下位でシーズンを終えている。2008年には伊藤大輔を据え復活に注目されている。

過去の参戦歴

名称 開催年 ドライバー チームランキング
全日本GT選手権 1999年 野田英樹/ワイン・ガードナー 12位
2000年 野田英樹/ワイン・ガードナー 9位
2001年 脇阪寿一/野田英樹 7位
2002年 脇阪寿一/飯田章 チャンピオン
2003年 脇阪寿一/飯田章 2位
2004年 脇阪寿一/飯田章 3位
SUPER GT 2005年 脇阪寿一/飯田章 6位
2006年 飯田章/片岡龍也 12位
2007年 片岡龍也/ビヨン・ビルドハイム 9位
2008年 伊藤大輔/ビヨン・ビルドハイム 8位
2009年 伊藤大輔/ビヨン・ビルドハイム 11位
2010年 伊藤大輔/ビヨン・ビルドハイム 4位

関連項目

脚注

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外部リンク

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  1. 講師紹介 - NODAレーシングアカデミー高等学院