ワイン・ガードナー
ワイン・ミシェル・ガードナー(Wayne Michael Gardner , 1959年10月11日 - )は、オーストラリア、ニューサウスウェールズ州ウロンゴン出身の元オートバイ・ロードレーサー。ロードレース世界選手権500ccクラスの1987年チャンピオン。エディ・ローソン、ウェイン・レイニー、ケビン・シュワンツとともに「四強」と称される。
パワー・スライドを駆使した豪快なライディングとロスマンズ・ブルーのマシンカラーから「ブルー・サンダー」の異名を取った。また、鈴鹿8時間耐久ロードレースで歴代2位の4勝を挙げ、「8耐男」とも呼ばれた。
目次
経歴
デビュー前
17歳のときに、中古のTZを購入するために父親が経営する会社で働いて購入資金を稼ぐ[1]。
デビュー期
1980年、オーストラリア国内レースで走っていた際、日本のモリワキの代表である森脇護に才能を見いだされる。1981年にモリワキからイギリス国内のTT-F1に参戦するとともに、3月にはAMAのデイトナスーパーバイククラスに出場しZ1R-IIで4位に入賞する。6月には全日本選手権の鈴鹿200kmレース(NR500が優勝した500ccクラスとは別クラス)で優勝した。この年の鈴鹿8時間耐久オートバイレース(鈴鹿8耐)でモリワキ・モンスターに乗り驚異的な予選タイムを記録し、決勝でも60周回目に首位に立つがその周回のスプーンカーブで転倒しリタイヤとなる。その後、日本やイギリスなどのレースで活躍し、実力をアピールしていく。
1983年、第8戦オランダGPでロードレース世界選手権(WGP)にデビューするが、このレースで衝撃的なアクシデントに遭遇してしまう。前年度チャンピオンのフランコ・ウンチーニがコース中央で転倒。マシンから投げ出されたウンチーニはとっさにコース外に逃れようとしたが、同じ方向に回避したガードナー車の前輪がウンチーニのヘルメットを直撃。ウンチーニはヘルメットが脱げた状態で地面に叩き付けられ、意識不明で病院に搬送された。同時にガードナーも転倒し世界GPデビュー戦で負傷リタイアという結果になってしまった。
ガードナーとウンチーニの接触は偶然(レーシングアクシデント)であり、ガードナーに非は無いと見る意見が多かったが、「フランコが死んだら私はレースを辞める」と泣きながら関係者に語るほど動揺したという。また事故直後にウンチーニを病院へ見舞った際、事情を把握していなかったウンチーニのチームの監督ロベルト・ガリーナに、「おまえの責任だ」と非難されたのもショックだったと語っている。幸いウンチーニは回復して後にレースに復帰。ウンチーニ本人は事故の原因と経緯を理解しており、ガードナーを咎めることはなかった。
1984年は市販のホンダ・RS500を駆り、プライベーターとしてスポット参戦。ワークスのホンダ・NSR500やヤマハ・YZR500に比べ戦闘力が劣るマシンながら、たびたび並み居る強豪を押しのけポイント圏内に食い込み、3位表彰台も獲得。シーズンランキング7位を獲得し関係者の大きな注目を集める。
ホンダのエースへ
1985年、前年の実績を評価されたガードナーはUKホンダに起用され、3気筒のNS500に乗りセミワークスライダーとして本格参戦。優勝争いには届かないものの、フランスGPでは4気筒のNSR500に乗るフレディ・スペンサーと互角にバトルを展開するなど健闘し、ランキング4位を得る。
この年の鈴鹿8耐では優勝大本命のケニー・ロバーツ、平忠彦組が先行する中、ガードナーは終盤の2時間近くをライダー交代をせず猛追。ロバーツ・平組のリタイアで劇的な初勝利を達成する。連続走行のためチェッカー後はマシンから降りられないほど消耗していたという。以後、ガードナーは鈴鹿8耐においてホンダのエースとして活躍することになる。
1986年はワークスのロスマンズ・ホンダチームに加入し、前年度チャンピオンのスペンサーと共にNSR500で参戦。開幕戦スペインGPでさっそく初勝利を挙げるが、これはトップ独走中のスペンサーが突如右手首の怪我でリタイアしたためであった。結局、スペンサーはこの故障で欠場を重ね、ガードナーは突然「代役エース」に昇格して、孤軍奮闘でワークスホンダの威信を背負って立つことになる。NSR500はフレディー・スペシャルとも呼ばれる扱い難いマシンだったが、これをねじ伏せヤマハのエースエディ・ローソンと激しいチャンピオン争いを展開。計3勝でランキング2位を獲得し、着実に王座への足がかりを固めた。
チャンピオンから引退へ
1986年のシーズンオフ、名エンジニアジェレミー・バージェスらとマシン開発の主導権をとる。体制充実して臨んだ1987年は、不調のローソンに代わり台頭したラッキーストライク・ヤマハのランディ・マモラと激しいポイント争いを展開。終始安定した強さでシーズン7勝を挙げ、第14戦ブラジルGPでオーストラリア人初のWGP500ccクラスチャンピオンに輝いた。
ゼッケン1番をつけて臨んだ1988年はマシン開発が遅れ、4勝を挙げるがローソンにタイトル奪還を許す。また、ケビン・シュワンツ、ウェイン・レイニーら新世代の台頭にも直面した。シーズン後には宿敵ローソンがホンダへ電撃移籍を表明し、同メーカー内で真価を問われることとなる。
1989年は初開催の地元オーストラリアGPを制したものの、次戦アメリカGPで右足骨折の重傷を負い、早々とタイトル争いから脱落する。以降、毎年のように怪我で満足に戦えない状態が続き、ホンダのエースの座も同郷の後輩マイケル・ドゥーハンに譲ることになる。1990年においてはアーブ・カネモトとジョイント。スペイン、オーストラリアと2勝するものの序盤での怪我が響きランキング5位。1991年は鈴鹿8耐で5年ぶりに優勝したが、WGPでは未勝利に終わった。
1992年、開幕戦日本GPでまたも右足を骨折。欠場後、鈴鹿8耐で最後の4勝目を記録すると、第11戦イギリスGPのレース前にシーズン後の引退を宣言。そのレースで1990年オーストラリアGP以来の勝利を飾り、引退への花道とした。
四輪レース転向
WGP引退後は四輪レースに転向。母国でワイン・ガードナー・レーシングチームを結成し、V8スーパーカーなどに参戦する。1998年にはル・マン24時間レースにも挑戦。また、1996年より日本の全日本GT選手権にもトヨタ・スープラで参戦し、1999年、2001年にそれぞれ1勝を挙げた。2002年シーズンをもって現役レース活動を終える。
引退後
現役引退後は2人の息子をライダーとして育てるべく、地元・オーストラリアで「チームガードナーレーシング」を結成し、自らはオーナー兼監督を務めている。2012年からは古巣のモリワキと共にMoto3用マシンの開発を行うこととなり、また息子たちのステップアップもあり、チームの拠点をスペイン・バルセロナに移すことになった[2]。
主な成績
2輪レース
オーストラリア、英国時代
- 1979年 - オーストラリア選手権350ccクラス 3位[3]
- 1980年 - カストロール6時間耐久レース 優勝[3]
- 1981年 - スワンシリーズ チャンピオン[3]
- 1982年 - カストロール6時間耐久レース 優勝[3]
- 1983年 - 英国TT F-1クラス チャンピオン[3]
- 1984年 - 英国TT F-1クラス チャンピオン、スワンシリーズ チャンピオン[3]
ロードレース世界選手権
- 凡例
- ボールド体のレースはポールポジション、イタリック体のレースはファステストラップを記録。
鈴鹿8時間耐久ロードレース
年 | 車番 | ペアライダー | チーム | マシン | 予選順位 | 決勝順位 | 周回数 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1981 | 14 | ジョン・ペース | モリワキ・レーシング | モリワキ・モンスター | 1 | Ret | 60 |
1984 | 6 | レイモン・ロッシュ | ホンダ・RS750R | 1 | Ret | 114 | |
1985 | 3 | 徳野政樹 | チームHRC | ホンダ・RVF750 | 2 | 1 | 195 |
1986 | 4 | ドミニク・サロン | チームHRC | ホンダ・RVF750 | 1 | 1 | 197 |
1987 | 1 | ドミニク・サロン | ロスマンズ・ホンダRT | ホンダ・RVF750 | 1 | Ret | 141 |
1988 | 99 | ニール・マッケンジー | チームHRC | ホンダ・RVF750 | 2 | Ret | 96 |
1989 | 11 | ミック・ドゥーハン | チームHRC | ホンダ・RVF750 | 1 | Ret | 76 |
1990 | 11 | ミック・ドゥーハン | OKI ホンダRT | ホンダ・RVF750 | 1 | Ret | 104 |
1991 | 11 | ミック・ドゥーハン | OKI ホンダRT | ホンダ・RVF750 | 1 | 1 | 192 |
1992 | 11 | ダリル・ビーティー | OKI ホンダRT | ホンダ・RVF750 | 5 | 1 | 208 |
4輪レース
- 1999年 全日本GT選手権第5戦富士スピードウェイ 優勝(野田英樹)
- 2001年 全日本GT選手権第3戦スポーツランドSUGO 優勝(山路慎一)
JGTC
年 | 所属チーム | 使用車両 | クラス | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1996 | トヨタ チーム サード | トヨタ・スープラ | GT500 | SUZ |
FUJ 3 |
SEN 4 |
MIN 9 |
SUG |
MIN 8 |
10位 | 27 | ||
1997 | POWER CRAFT | トヨタ・スープラ | GT500 | SUZ |
FUJ |
SEN 7 |
FUJ 15 |
MIN |
SUG 6 |
20位 | 10 | ||
1998 | TEAM POWER CRAFT | トヨタ・スープラ | GT500 | SUZ 8 |
FUJ C |
SEN 10 |
FUJ 12 |
MOT |
MIN Ret |
SUG 7 |
17位 | 8 | |
1999 | エッソウルトロン トヨタ チーム ル・マン | トヨタ・スープラ | GT500 | SUZ |
FUJ 8 |
SUG 16 |
MIN 5 |
FUJ 1 |
TAI 9 |
MOT 13 |
12位 | 33 | |
2000 | エッソウルトロン トヨタ チーム ル・マン | トヨタ・スープラ | GT500 | MOT 8 |
FUJ 4 |
SUG 7 |
FUJ 15 |
TAI 7 |
MIN 5 |
SUZ 6 |
9位 | 35 | |
2001 | TOYOTA TEAM TOM'S | トヨタ・スープラ | GT500 | TAI 5 |
FUJ 9 |
SUG 1 |
FUJ 10 |
MOT 8 |
SUZ 4 |
MIN 9 |
6位 | 46 | |
2002 | TOYOTA TEAM TOM'S | トヨタ・スープラ | GT500 | TAI 8 |
FUJ 14 |
SUG 10 |
SEP 2 |
FUJ 5 |
MOT 6 |
MIN 3 |
SUZ 9 |
7位 | 52 |
人物
趣味は、レーシングカート、サイクリング、モーターサイクル、旅行、ジョギング、子供たちと遊ぶこと[4]。
ワインは子供時代に学校から怠け者と見なされていた。母親は説教をするのだが、それが無駄なことであることはわかっていた。学校からこのような評価をされていたワインであるが、学校へ行くことは楽しみであった。友だちと遊ぶことが大好きだったからである。このような子供時代を送ったため、ワインは勉強をしなかった。大人になってから、もっと勉強しておけばよかった、と語っている[3]。
勉強嫌いなワインは学校(日本の高等学校に相当)を辞めて仕事を探したが職を得ることができず、仕方なくまた学校に戻る。学校に通いながら仕事を探し、仕事が見つかると学校へは行かなくなった[5]。
ワインがレーシングライダーになる上で、父親の援助は大きなものであった[5]。父親はワインのことを猫可愛いがりしていた[3]。母親はワインがレーシングライダーになることを快く思っていなかったので、夫婦喧嘩の原因はワインのことであった。そんな母親も、ワインが地元のレースの125ccクラスで6戦全勝すると、ワインが上げた実績を認めることになった[6]。
雑誌でフレディ・スペンサーやケニー・ロバーツの活躍を知ったワインは、自分ならもっとうまくやってのける、と思っていた。ワインは勝つことに貪欲であった。ワインは勝つことにもっとも必要なことは集中力だという。ほかには、勝とうする意欲、レースを楽しむこと[7]。
ワインは多くのトップライダーと同様に勝つことに楽しみを見い出している。ワインが優勝したときの家族やチームのメンバーの笑顔を見ることが大好きである[5]。
ワインは個人競技的なロードレースのライダーになることを選んだのであるが、チームプレーを好み、サッカーやホッケーなどのチーム競技が好きである。プロのチーム競技においては選手一人一人の責任は重いのだが、ワインはプロのGPライダー一人が負う責任はより重いと考えている。極論すれば、サッカー選手の場合はチームの優勝だけを考えてプレーすればよいのだが、GPライダーの場合は最低でもチームとバイクメーカー、スポンサーのことを考えなければならない[8]。
ワインはロスマンズ・ホンダ・チームと契約するまでは競争力のあるGPマシンを得ることができなかったため、攻撃的な走りをせざるを得なかった。ただし、フレディがチームメイトだった頃のNSR500は「フレディ専用設計」という面があったため、ガードナーにとっては乗りづらく、それを補うためにやはり攻撃的な走りをせざるを得なかった[9]。
ワインは、オフシーズン中はレースのことはなるべく考えないようにしている。それでもレースのことがふと頭に浮かんだときには、無理にそれを抑えつけることはせず、レースについて思い巡らすことにしている[10]。
ワインは人生もレースも楽しんでいる[11]。
参考文献
- Wayne Garder Online > The Man > At A Glance、閲覧日 2009年8月31日(月)
出版物
- 片山敬済『片山敬済[疾走する戦士たち]- トーク・アバウト・GPライダー』〈別冊ベストバイク 15〉ベストバイク社・講談社、1986年12月15日 第1刷発行、ISBN 978-4061073852
- 泉優二、竹島将『片山敬済の戦い - オランダGPの16ラップ』CBS・ソニー出版、1984年4月21日 発行、ISBN 978-4789701358
脚注
関連項目
外部リンク
- waynegardner.com - 公式HP
- [1] - 1988 NSR500 (NVOG)
- ↑ 『片山敬済の戦い - オランダGPの16ラップ』(p91)より。
- ↑ ガードナーとモリワキが再びタッグを組み、moto3マシン開発へ - Webオートバイ・2011年11月26日
- ↑ 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 3.5 3.6 3.7 『片山敬済[疾走する戦士たち]』(p34)より。
- ↑ Wayne Garder Online > The Man > At A Glance、閲覧日 2009年8月31日(月)、より。
- ↑ 5.0 5.1 5.2 『片山敬済[疾走する戦士たち]』(p37)より。
- ↑ 『片山敬済[疾走する戦士たち]』(p38)より。
- ↑ 『片山敬済[疾走する戦士たち]』(p39)より。
- ↑ 『片山敬済[疾走する戦士たち]』(p36)より。
- ↑ 『片山敬済[疾走する戦士たち]』(p42)より。
- ↑ 『片山敬済[疾走する戦士たち]』(p40)より。
- ↑ 『片山敬済[疾走する戦士たち]』(p43)より。