ハインツ・グデーリアン
テンプレート:Infobox 軍人 ハインツ・ヴィルヘルム・グデーリアン(Heinz Wilhelm Guderian, 1888年6月17日 - 1954年5月14日)は、第二次世界大戦中のドイツ第三帝国の軍人。第二次世界大戦の緒戦の大勝利を飾った電撃作戦の生みの親(発案と部隊育成)であり、またそれを実践(実戦部隊の指揮)した野戦軍指揮官。戦後、西側諸国からは偉大な戦術家として高い評価を受けた。最終階級は上級大将。かつてはグーデリアンとも表記された。
第二次世界大戦まで
プロイセン王国の陸軍士官フリードリッヒ・グデーリアンの息子としてヴァイクセル河畔のクルム (現在のポーランド領ヘウムノ) に生まれる。
カールスルーエ陸軍幼年学校からベルリンの陸軍士官学校へ進学。1907年陸軍少尉任官、ゴスラー第10猟兵大隊に配属。第一次世界大戦ではコプレンツ第3電信大隊に勤務し、無線技術に通じるようになる。大戦後、ヴェルサイユ条約により参謀本部、軍学校、航空機、潜水艦、戦車の保有を禁じられ、兵力も10万人に制限されたヴァイマル共和国の陸軍に選び残された。兵務局に設けられた鉄道輸送、電信技術、自動車輸送を管轄する交通兵監部(独:Inspektion der Verkehrstruppen)に勤務する。先見の明ある上官オスヴァルト・ルッツ (Oswald Lutz) の下で彼はジョン・フレデリック・チャールズ・フラー 、リデル・ハートや当時無名だったド・ゴールの著作の影響を受けて、自動車部隊や戦車部隊を用いた革新的な戦術を開発すべく、「ベニヤ板のハリボテ戦車」で戦術研究をしている。
独ソ秘密軍事協力に基づき、連合国の監視の目が届かないソ連奥地でのドイツ軍士官の戦車戦術の教育・訓練にも関与した。自動車の将来性を理解し、ナチス党に国家社会主義自動車軍団(NSKK)を設け、自動車運転者、修理技術者を多く養成していたアドルフ・ヒトラーは、グデーリアンの戦車部隊の集中運用に注目し、歩兵直協に凝り固まった保守的な陸軍上層部を抑えてグデーリアンを後援した。グデーリアンは1935年の再軍備宣言の下実施された3個装甲師団(Panzer Division)新設に伴い、第2装甲師団長に任命された。
1937年、著書 Achtung Panzer!(戦車に注目せよ!) を出版した。彼の構想は戦車を主力兵器としつつも、戦車を歩兵の代わりにしようというのではなく、戦車にトラック・オートバイ・装甲兵員輸送車により機動力を高めた歩兵(後にいう装甲擲弾兵)および従来の砲兵よりも機動性の高い爆撃機による火力支援等を組み合わせ、敵の強点ではなく弱点に対する電撃的な集中力と突破力の発揮を目指したものであった。1938年のオーストリア併合では、グデーリアンは第2装甲師団と自動車化されたLSSAH連隊を率いて短時間のうちにウィーンに進駐、自身の理論の有用性を実証した。第2装甲師団はドイツ南部のヴュルツブルクから670キロ、LSSAH連隊はベルリンから1000キロを48時間で走破して、ウィーンに入城した(ただしこのときはエンジントラブルなどが多発し、後の運用の教訓になった)。
ポーランド戦からフランス戦
第16装甲軍団長(2個装甲師団+1個自動車化歩兵師団)となったグデーリアンは、チェコのズデーテン地方進駐を速やかに成功させた。その後、装甲部隊・自動車化部隊の編成・訓練・戦技・技術研究の最高責任者である快速部隊総監(Inspekteur der Schnelltruppen)に就任。
次いで1939年9月のポーランド戦役においては、1個装甲師団・2個自動車化歩兵師団を擁する第19装甲軍団長として空軍の急降下爆撃機とともに、ドイツ本土と東プロイセン州を切り離していたポーランド領のダンツィヒ回廊を守るポーランド軍を短期間で寸断・壊滅させ、回廊を横断しブレスト・リトフスクまで進撃した。その功によりヒトラー総統から騎士鉄十字章を授与される。
1940年のフランス戦においては当初シュリーフェンプランが計画されていたが、機密漏洩事件の為、マンシュタインプランに変更となり、グデーリアンの指揮する第19装甲軍団(3個装甲師団基幹)はドイツ軍の“槍の穂先”として、アルデンヌ高地を走破した後にアミアンからダンケルクまで快進撃を行った。あまりの快進撃振りに、上層部から度々停止命令がでたほどである。ダンケルクの戦いにおいては攻撃を禁止され、渡海脱出する連合軍のいわゆる“ダンケルクの奇跡”を目の前に見ながら何もできないという屈辱を味わっている。次いで南下してアルプスまで進撃し、フランス軍を壊滅させる重要な役目を果たした。
彼の編み出した戦車部隊の集中運用と航空支援に基づく電撃戦は、第二次世界大戦開戦後、ポーランド侵攻、フランス侵攻、ユーゴスラビア侵攻、独ソ戦緒戦においてドイツに大勝利をもたらした。なお、グデーリアンは、1940年12月から1941年4月にかけて訪独した山下奉文中将率いる陸軍軍事視察団に電撃戦に関する講義を行っている。
バルバロッサ作戦以降
1941年6月22日に開始されたバルバロッサ作戦においては、中央軍集団(フェードア・フォン・ボック元帥)に属する第2装甲集団(後に補給組織が追加され、第2装甲軍に昇格)を指揮し、同僚のヘルマン・ホト上級大将率いる第3装甲集団と共に主力として進撃。主に軍集団南翼を担当し、ホートの部隊と共同でミンスク包囲戦、スモレンスク包囲戦において大戦果を挙げる。その快進撃ぶりに“韋駄天ハインツ(schneller Heinz)”, または“疾風ハインツ(Heinz Brausewind)”との異名を与えられる。
次いで、戦略としては反対の意見を持っていたものの、プリピャチ沼沢地東方を北方から南下して、南方軍集団と共同でキエフの大包囲戦を成功させた。このキエフ会戦は「野戦軍の撃滅」と「重要拠点(モスクワ)の奪取」という相反した目標において野戦軍の撃滅を優先させた策で、グデーリアン自身は後にモスクワへ直進すべきであったと述べているが、それでは南方軍集団の後の進撃が困難であったことや、補給組織がスモレンスク以東への進撃に対して未整備であったことから、実際にはヒトラーの選択した野戦軍の撃滅優先が正解であったという意見も多い。
その後モスクワ進撃を再開し、10月にはブリヤンスク・ヴィヤジマにおける二重包囲戦でまたもや大戦果を挙げ、11月には第3装甲集団のヘルマン・ホト上級大将、第4装甲集団のエーリヒ・ヘプナー上級大将と共にモスクワ攻略を開始した。グデーリアンは小モスクワと呼ばれ、モスクワの南の門ともいわれる要塞化されたトゥーラを迂回して、南からモスクワを伺った。しかし兵力・補給・準備などの全てが不足しており、特にトゥーラを迂回したことによる弊害(後に攻撃を行うが失敗)、突出による南翼の開放部の存在(担当の第2軍は歩兵中心のため追いつけなかった)、北の2つの装甲集団と南西から進撃したグデーリアンの第2装甲集団との間を埋める、第4軍のギュンター・フォン・クルーゲ元帥とそりがあわずに攻撃が連動できなかったことなどがあり、さらにソビエト軍が極東シベリアから対日戦用に配備していた多数の部隊を引き抜いて輸送し、十分な予備兵力を確保していたことなどもあり、攻撃は困難となった。12月にグデーリアンは「作戦を中止して後方に下がり、越冬すべき」とヒトラーに直接具申したが、解任された。
1943年3月1日、グデーリアンは装甲兵総監に任命された。この役職は部隊指揮権を有しないが、装甲車両の生産および装甲兵の訓練について監督・調整するものであり、装甲部隊の再建に奔走。しかし、ある程度まで再建されたドイツ装甲部隊も、ツィタデレ作戦の失敗により消耗し尽くし、ドイツは敗北への道を歩んでいく。
1944年7月20日、ヒトラー暗殺未遂事件が発生する。ヒトラーとの連日の交渉に疲れて神経衰弱になったクルト・ツァイツラー上級大将の後任として7月21日、陸軍参謀総長に任じられる。グデーリアンは「名誉法廷」の一員となり、暗殺計画加担者の不名誉除隊を決めた。これにより加担者たちは、軍法会議ではなくローラント・フライスラー長官の人民法廷で裁かれて処刑された。参謀総長就任後の7月25日には、参謀本部将校を前にヒトラーとナチズムに対して忠誠を誓うよう訓示している。
グデーリアンはヒトラーの作戦への容喙を阻止しつつドイツ防衛の重責を担った。彼が参謀総長であった9ヶ月間は、連合国軍にも、ドイツ軍にも最大の損害を出した時期であるテンプレート:Sfn。1945年に入ると国境に迫ったソ連軍に対する防衛戦略を巡ってヒトラーとの対立は頂点に達し、3月28日にヒトラーから6週間の休養をとるように命じられ、事実上解任された。これが彼の最後の軍歴となった。
戦後
グデーリアンは1945年5月10日にアメリカ軍に降伏し、捕虜となった。ニュルンベルク裁判が始まるとソビエト連邦とポーランドは戦争犯罪人としてグデーリアンを起訴しようとしたが、結局起訴されずに済んだ。裁判では軍事作戦(特にポーランド侵攻)について証言を残した。
1948年6月17日に釈放された後は、アメリカ陸軍機甲学校で講義を行ったり、回想録を執筆して余生を送った。
妻マルガレーテとの間に2男をもうけた。長男ハインツ・ギュンター・グデーリアン(de:Heinz Günther Guderian)は1935年国防軍少尉に任官して以降戦車将校として転戦し2回負傷する。参謀中佐として戦争終結を迎え、戦後はドイツ連邦軍に入隊、装甲旅団長などを経て父と同じ装甲兵総監に就任。1974年陸軍少将で退役した。
人物
典型的なプロイセンの武人といった印象が強く、ユンカーではないが高潔な人柄で尊敬されている。一方で同僚や上司などにも直言することから、受けが悪かったのも事実である。マンシュタインのように無能から程遠い人物とすらソリが合わない事が多々あった。(ドイツ装甲軍団 : グデーリアン将軍の戦車電撃戦:サンケイ出版 より)。
熱狂的なナチス支持派ではなかったようであるが、ヒトラー個人には自身の意見(装甲部隊の創設とマンシュタイン・プラン)を受け入れられたことから、良い感情をもっていた。大戦後半の、取り巻きの影響などで前線視察などを行わなくなったヒトラーについては批判しているが、回想録ではヒトラー個人には大きな批判はしていない。1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件を起こした反ヒトラー派の将校に対しても回顧録で批判的な見方を示している。ただし、現役時のグデーリアンは、ヒトラーに対して何度も直言している。
逆に装甲師団創設期の参謀総長であるルードヴィヒ・ベックに対しては慎重すぎるとあまり好意的ではない。ベックは戦車の対戦車攻撃力の重視や機械化歩兵師団の創設などの面ではグデーリアンと意見を同じくしていたが、部下の参謀たちの保守的な意見をグデーリアンに伝えなければならない場面も多かったため、必要以上に反発を受けてしまった面もある。
前線を指揮車輌で走り回った最初の指揮官であった。彼の装甲部隊理論は当時突出したものではなく、リデル・ハートなど複数の軍事評論家や軍人なども研究していた。グデーリアンの偉大なところは、そうした理論がドイツを含む全ての国で保守的な軍人から猛反対されていたのに対し、それを実践させてしまったところにある。また、通信畑にいたことから無線通信の重要性に気づいており、無線機を全車輌に装備させた。
一方で休職中の1942年には、グデーリアン家の先祖の所領があった、ポーランド領であったポーゼン州の土地の購入に関してヒトラーから打診を受けた。当初グデーリアンが希望していた土地は得られなかったものの、別の農場が用意され、グデーリアンは自らその農場を選択した。1944年2月にはこの農場の代金と開業費用を含めた124万ライヒスマルクにのぼる総統からの下賜金を受けているテンプレート:Sfn。この話を聞いたマンシュタインは、グデーリアンにそこに住んでいたポーランド人の地主について聞いたが、グデーリアンはそこにはもうポーランド人はもういなかった、どこに行ったかわからないと答えたという話を回想録に残しているテンプレート:Sfn。この農場取得について、グデーリアンはその回想録では触れていないテンプレート:Sfn。
著作
- (戦車部隊運用の理論書): Achtung Panzer!,1937年
- (上記著作の英訳): Achtung-Panzer!, the Development of Armoured Forces, their Tactics and Operational Potential, Arms and Armour, 1995, ISBN 1-85409-282-0
- (回顧録): Erinnerungen eines Soldaten, Motorbuch Verlag, 1994, ISBN 3-87943-693-2
- (回顧録の英訳): Panzer Leader, the true story of one of Hitler's most brilliant generals, Arrow Books, 1990, ISBN 0-09-963040-0
- (回顧録の和訳):『電撃戦-グデーリアン回想録』本郷健訳、フジ出版社、1974年、ISBN 4-89226-029-0
- (回顧録の復刻版):『電撃戦-グデーリアン回想録』本郷健訳、中央公論新社、1999年、ISBN 4-12-002882-8
脚注
参考文献
文献
- グデーリアン「機動兵団に関する戦史的研究」(『欧州戦争研究資料 第五輯』)参謀本部(訳)、1929年。
- グデーリアン「快速隊の今昔」(『最近に於けるドイツ兵学の瞥見』)陸軍大学校研究部(訳)、陸軍大学将校集会所、1941年。
- グデーリアン「近代戦に於けるモーターと馬」(『同上』)
- グデーリアン『戦車部隊及その他兵種との協同 1938年改訂第2版』陸軍機甲本部(訳)、1942年。
- 加登川幸太郎『帝国陸軍機甲部隊』白金書房、1974年。
- ゲハルト・ボルト『ヒトラー最期の十日間』松谷健二訳、TBS出版会、1974年。
- ケネス・マクセイ『ドイツ装甲師団とグデーリアン』加登川幸太郎訳、圭文社、1977年。
- ジョン・キーガン『ドイツ装甲軍団 グデーリアン将軍の戦車電撃戦』加登川幸太郎訳、株式会社サンケイ出版、1980年。
- レン・デイトン『電撃戦』喜多迅鷹訳、早川書房、1998年。ISBN 4-15-203390-8
- カール=ハインツ・フリーザー『電撃戦という幻(全二巻)』大木毅・安藤公一訳、中央公論社、2003年。ISBN 4-12-003364-3
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