ドン・ブラッシンゲーム

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テンプレート:Infobox baseball player ドン・リー・ブラッシンゲームDon Lee Blasingame, 1932年3月16日 - 2005年4月13日)は、アメリカ合衆国ミシシッピ州出身のプロ野球選手・コーチ・監督ブレイザー(Blazer)の愛称としても知られる。

義理の父ウォーカー・クーパーメジャーリーグで活躍した野球選手。夫人はミス・カリフォルニア[1]

来歴・人物

アメリカ球界時代

アメリカでは、メジャーリーグにおいてセントルイス・カージナルスなどで12シーズン活躍。テンプレート:ByMLBオールスターゲームに出場し、テンプレート:Byにはワールドシリーズにも出場し、セカンドの守備の名手として活躍した[1]

広岡・野村の野球理論への影響

テンプレート:Byにカージナルスは日本を訪れ、南海ホークス大毎オリオンズの混成チームと大阪球場において試合を行ったが、広瀬叔功を走者において、打者榎本喜八のセンターへ抜けようかという当たりを逆シングルで好捕し、6-4-3のダブルプレーを記録。この頃全盛期の広瀬も自分がなぜアウトになったか分からず二塁ベース上で呆然としていたとされ、この時のプレーもあって後に南海に入団されたともされる[2]シンシナティ・レッズ時代の1963年に故障で戦列を離れた際、彼に代わって正二塁手の座を手にした新人選手が、のちにメジャー歴代通算最多安打記録保持者となるピート・ローズだった。

日本を訪れたこの際、オブザーバーとしてブレイザーのプレーと練習を観察していたのが読売ジャイアンツの遊撃手だった広岡達朗だった。広岡はブレイザーの練習をみて、「ブレイザーが単純な捕球練習を一所懸命にやっているのをみて、最初は下手だからこんな練習やっているんだな、と馬鹿にしていた。けれどだんだんそうじゃないことがわかってきた。ブレイザーの練習をみているうち、自分があれだけ丁寧にボールに向きあっていないんじゃないかと思い始めた。ブレイザーの練習を真似して、ボールへの構えから何から、すべての基本的動作を丁寧に徹底してやってみた。そしたら急激に自分の守備力が向上しはじめた。自分が遊撃手としてやっていけたのはブレイザーのおかげ」とし、自身の野球理論に最も大きな影響を与えた存在としている。

テンプレート:By、南海ホークスに入団し3シーズンプレー。本名の「ブラッシンゲーム」ではスコアボードに書ききれないため、愛称の「ブレイザー」が日本での呼称となった。体が小さくメジャーリーガーとしては非力だったため、メジャーで生き残るには頭脳プレーや小技、待球戦法を使った。もともとメジャーでも守備の名手として知られており、併殺時の素早い足の運びや正確な送球など、質の高いプレーで格の違いを示した[3]。打撃でも献身的な動きを遂行[3]。勝負強いバッティングと堅守でチームに貢献した[1]。1967年、1968年と2年連続でベストナインを受賞する。

ブレイザーが南海に来た時、野村克也はしょっちゅう食事に連れ出し、どうしてその体でメジャーで生き残れたのかを聞いたところ、ある日ブレイザーから「君が打者の時にヒットエンドランのサインが出たらどう対処する?」と聞かれ、野村は「フライと空振りはダメ。どうにか打球を転がす」と答えた。ブレイザーは「それだけか? まだあるぞ! 走者がいるということは必ずセカンドかショートが二塁ベースカバーに入るのだから、セカンドが入れば一二塁間、ショートが入ったら三遊間方向に打球を転がすんだ」とさらりと答え野村を感服させた。バントの正確さにも定評があった[1]。セーフティーでは三塁線のラインぎりぎりに転がすことが多く[1]、切れそうで切れないゴロは芸術的だった[1]。捕球、スローイングと基本的な技術の確実性が高かった。派手さはないが、捕ってからの送球までの流れが速く、ミスも少ない[1]。南海の投手陣は「困ったらドンの方向に」が合言葉だった[1]。以上のことから野村は、「自分のID野球の源流はブレーザーにある」と常々語っている。

監督・コーチ時代

テンプレート:Byから野村が選手兼任で監督に就任。野村の要請でヘッドコーチに就任する[4]テンプレート:Byパシフィック・リーグ優勝に貢献。テンプレート:Byオフ、野村の解任に伴い南海を退団。野村は著書の中で、ブレイザーは私に考える野球を教えてくれた恩人と著書で記している[5]。野村によると、ブレイザーは最初のミーティングでそれまで南海の選手が見たことも聞いたこともなかった野球理論や知識を伝授し、シンキングベースボールの奥深さを教えた[5]。緻密な野球を組み立て、日本球界に革命をもたらした[1]

テンプレート:By、コーチ時代から親交のあった古葉竹識(1970年から1973年まで選手・コーチとして同僚だった)が監督を務めていた広島東洋カープの守備兼ヘッドコーチを務めた。古葉は「ブレイザーの野球を見て本当に勉強になった」と語っている[1]

テンプレート:By阪神タイガースの監督に就任。アメリカから野球を頭脳プレーで展開する「考える野球(シンキング・ベースボール)」の仕組を取り入れた采配が期待された。就任1年目の同年は最終的に4位に終わったが、前年のテンプレート:Byの最下位に比べれば持ち直し、夏のロード明けまで首位争いに加わり、前年より20勝勝ち星を増やした。前年オフにブレイザーが敢行した西武ライオンズとの大型トレード(阪神の田淵幸一古沢憲司と西武[6]真弓明信若菜嘉晴らを交換した)、小林繁の獲得などで前年に比べて戦力がアップされたこともあったがブレイザーの手腕によるものも大きかった。当時遊撃手の真弓に「つま先は常にホーム方向へ」と指示し、遊撃の守備位置や動きで投手の球種を悟らせない「考える守備」を提唱した。

テンプレート:Byは当時新人の岡田彰布の起用法を巡ってフロントと軋轢が生じた。ブレイザーは、新人はまず二軍で養成すべしと考えていたので、岡田を起用したがらなかった。岡田はブレイザーとの初対面で通訳兼任コーチの市原稔を介して「いくら力のあるルーキーでも、メジャーリーグでは最初からいきなり試合起用することはない」と告げられ、「そんなの関係ないやろう」という反骨心が芽生えたと後に著書に記している[7]。岡田自身は起用がないことについて表立ってコメントすることはなかったが、大物新人スラッガーをいち早く一軍で活躍させたい球団社長の小津正次郎を中心とするフロント、ファンやマスコミが許さなかったためと言われる。ブレイザーがヤクルトスワローズから獲得したデーブ・ヒルトンを成績・特に打撃が不振にもかかわらず守備面を評価して起用し続けたこともそうした声に拍車をかけることになった。結局、ファンから自宅にカミソリ入りの手紙を送りつけられ、夫人が「こんな野蛮な国はイヤ」と帰国を懇請したこと、また球団フロントがヒルトンを退団(これについてはブレイザーも了承していたが[8])させた後、ブルース・ボウクレアを獲得したことを「フロントの現場への介入」と見たこともあって、シーズン途中の5月14日で退任。ブレイザーの退任後はヘッド兼打撃コーチの中西太が後任の監督となったが、5位に終わっている。

阪神退団後は複数球団から誘いがあり、テンプレート:Byに古巣・南海の監督に就任した[1]。一年目は5位、二年目は最下位と低迷し心臓病に痛風が重なり辞任。

  • 全力プレーを推奨し、手を抜いた選手には徹底的に批判した。当時は当たり前とされていなかった事だが、プレーをビデオで撮り、それを基に個別で注意するという、そういうやり方に慣れていなかった選手には堪えたといわれる。
  • 徹底的にケガ人や調子の悪い選手を使わない主義で、当時調子を落としケガをしていた掛布雅之の起用を巡って「どうして掛布を使わない?」とのマスコミの問いに「今の状態では使えない」と返し、マスコミが「ファンは掛布を観に球場へ足を運んでいる」と切り返すと「いいや違う。ファンは掛布の凡打を観に来ているのではない。ファンは掛布の素晴らしいヒットやホームランを観に来ているのだ」と返した。
  • かなりの年数を日本で過ごしていたこともあり、日本語は相当レベルで理解していたが、選手や記者会見では必ず通訳を通して意思の疎通を図った。マスコミが「あの場面ではバントが…」と日本語で言ったところ、「キミに作戦の指揮を執る権利はない。ボスは私だ!」と英語でまくし立てた。そのマスコミ側の近藤唯之はこの点についてはブレイザーを人間音痴であるとまで酷評した。こうした批判に懲りたのか、テンプレート:Byに南海の監督になってからは「極力通訳なしで意思疎通を図るように」との球団命令に従っている。

晩年

帰国後はセントルイス・カージナルス及びフィラデルフィア・フィリーズの傘下マイナーリーグでコーチを務めた[9]。息子のケントは日本球界の情報に詳しく、しばしば父に情報を伝えていたが、岡田の監督就任については伝えなかったという(出典:読売新聞『追悼抄』)。

2005年4月13日、アリゾナ州で死去。満73歳没。

ケントはコロラド・ロッキーズの環太平洋スカウトを経て、テンプレート:By5月22日から福岡ソフトバンクホークスの駐米スカウトに就任した[10]

詳細情報

年度別打撃成績

テンプレート:By2 STL 5 23 16 4 6 1 0 0 7 0 1 1 1 0 6 1 0 0 0 .375 .545 .438 .983
テンプレート:By2 150 665 587 94 153 22 7 0 189 27 8 8 2 1 72 0 3 52 3 .261 .344 .322 .666
テンプレート:By2 154 728 650 108 176 25 7 8 239 58 21 9 5 1 71 4 1 49 4 .271 .343 .368 .711
テンプレート:By2 143 608 547 71 150 19 10 2 195 36 20 5 2 1 57 2 1 47 14 .274 .343 .356 .700
テンプレート:By2 150 691 615 90 178 26 7 1 221 24 15 15 7 0 67 2 2 42 3 .289 .361 .359 .720
テンプレート:By2 SF 136 583 523 72 123 12 8 2 157 31 14 2 7 2 49 1 2 53 4 .235 .302 .300 .602
テンプレート:By2 3 3 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 2 0 0 1 0 .000 .667 .000 .667
CIN 123 502 450 59 100 18 4 1 129 21 4 3 9 2 39 0 2 38 7 .222 .286 .287 .573
'61計 126 505 451 60 100 18 4 1 129 21 4 3 9 2 41 0 2 39 7 .222 .288 .286 .574
テンプレート:By2 141 570 494 77 139 9 7 2 168 35 4 3 9 2 63 2 2 44 4 .281 .364 .340 .704
テンプレート:By2 18 38 31 4 5 2 0 0 7 0 0 1 0 0 7 0 0 5 0 .161 .316 .226 .542
WHS3 69 278 254 29 65 10 2 2 85 12 3 2 0 0 24 1 0 18 1 .256 .320 .335 .655
'63計 87 316 285 33 70 12 2 2 92 12 3 3 0 0 31 1 0 23 1 .246 .320 .323 .642
テンプレート:By2 143 556 506 56 135 17 2 1 159 34 8 5 9 1 40 1 0 44 1 .267 .320 .314 .634
テンプレート:By2 129 450 403 47 90 8 8 1 117 18 5 4 7 3 35 1 2 45 2 .223 .287 .290 .577
テンプレート:By2 68 222 200 18 43 9 0 1 55 11 2 1 4 0 18 0 0 21 0 .215 .280 .275 .555
KCA 12 21 19 1 3 0 0 0 3 1 0 1 0 0 2 0 0 3 0 .158 .238 .158 .396
'66計 80 243 219 19 46 9 0 1 58 12 2 2 4 0 20 0 0 24 0 .210 .276 .265 .541
テンプレート:By2 南海 128 527 478 61 128 18 6 5 173 28 5 9 6 3 38 2 2 38 4 .268 .322 .362 .684
テンプレート:By2 134 565 513 64 141 13 7 4 180 39 3 5 13 2 37 2 0 31 6 .275 .322 .351 .672
テンプレート:By2 104 409 365 46 102 10 1 6 132 19 5 2 14 1 27 0 2 35 5 .279 .332 .362 .693
MLB:12年 1444 5938 5296 731 1366 178 62 21 1731 308 105 60 62 13 552 15 15 462 43 .258 .329 .327 .656
NPB:3年 366 1501 1356 171 371 41 14 15 485 86 13 16 33 6 102 4 4 104 15 .274 .325 .358 .683
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別監督成績

年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
テンプレート:By 阪神 4位 130 61 60 9 .504 8.0 172 .268 4.15 47歳
テンプレート:By 5位 26 13 12 1 .520 -- -- -- -- 48歳
テンプレート:By 南海 5位 130 53 65 12 .449 5位・6位 128 .273 4.37 49歳
テンプレート:By 6位 130 53 71 6 .427 5位・6位 90 .255 4.05 50歳
通算:4年 416 180 208 28 .464 Bクラス4回
  • 順位はシーズン最終順位
※1 1979年から1996年までは130試合制
※2 1973年から1982年までパ・リーグは前後期制
※3 1980年、5月15日に監督を辞任

表彰

NPB

記録

MLB
NPB

背番号

  • 3 (1955年 - 1958年)
  • 11 (1959年)
  • 10 (1960年 - 1961年途中)
  • 19 (1961年途中 - 1963年途中)
  • 12 (1963年途中 - 同年終了)
  • 1 (1964年 - 1966年途中、1967年 - 1969年)
  • 8 (1966年途中 - 同年終了)
  • 50 (1970年 - 1977年)
  • 78 (1978年)
  • 80 (1979年 - 1980年)
  • 70 (1981年 - 1982年)

関連情報

著書

  • ブレイザーのシンキング・ベースボール―野球を激しく、考えてやろう - 藤江清志との共著、講談社、1979年

脚注

テンプレート:Reflist

関連項目

外部リンク

テンプレート:MLBstats

テンプレート:Navboxes

テンプレート:パシフィック・リーグ ベストナイン (二塁手)
  1. 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 『週刊プロ野球データファイル』2012年65号、ベースボール・マガジン社、P23-P24
  2. 南海ホークス刊『南海ホークス四十年史』294ページ
  3. 3.0 3.1 野球小僧remix プロ野球[外国人選手]大事典、白夜書房、2011年、P24
  4. [完全保存版] 草創期から支え続けた147人の監督列伝 日本プロ野球昭和の名将、ベースボール・マガジン社、2012年、P46
  5. 5.0 5.1 野村克也著、弱者の兵法―野村流必勝の人材育成論・組織論、アスペクト文庫、2011年、P144-P145
  6. 実際にプレーしたのは前身のクラウンライター時代までだが、西武売却後にトレード交渉が行われた。
  7. 『頑固力』(角川SSC新書、2008年)P89。ただし、同書では後年ブレイザーの知人を介して「憎くて使わなかったのではなく、期待されて入団してきたルーキーだから余分な力みを生まない楽なところから使ってやりたかった。だから時期がずれた」というコメントを伝えられ、「今となればこのメッセージはある程度、理解できるようになった。ブレイザーもかなり悩んだのだろうし、考えたのだろう。自分も監督になり、そのことはよくわかった」とも記している。
  8. 出典:ベースボールマガジン(ベースボール・マガジン社)
  9. 野球小僧remix プロ野球[外国人選手]大事典、白夜書房、2011年、P127
  10. 駐米スカウト契約のお知らせ - 2010年5月22日