チャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォード

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:Infobox Musician テンプレート:Portal クラシック音楽 サー・チャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォードSir Charles Villiers Stanford, 1852年9月30日 - 1924年3月29日)はアイルランド人の作曲家、教師、指揮者である。ダブリンの裕福で音楽的教養の高い一家に生まれたスタンフォードは、ライプツィヒベルリンで音楽教育を受ける以前はケンブリッジ大学で学んでいた。そのため、彼は国際的に著名な演奏家を招きケンブリッジ大学音楽部との共演を実現させることで、同楽団の地位を引き上げる立役者となった。

スタンフォードはまだ学部生だった時期に、トリニティ・カレッジのオルガン奏者に任命されている。1882年、29歳で王立音楽大学創設メンバーの一員として教授に就任した彼は、その後生涯にわたって同大学の作曲科で教鞭をとった。1887年からはケンブリッジ大学の音楽科教授も兼任した。教育者として、スタンフォードはモダニズムに懐疑的な姿勢を示しており、彼の講義は主にブラームスの音楽が好例となるような古典的な原理に基づいて行われた。スタンフォード門下からは、彼自身をも凌ぐほどの名声を得た、ホルストヴォーン・ウィリアムズなどといった作曲家が輩出した。また彼はバッハ合唱団[注 1]リーズ音楽祭[注 2]の指揮者であった。

スタンフォードは7つの交響曲を含むかなりの数の楽曲を作曲しているが、最も記憶されているのは聖公会伝統の様式による、教会での演奏用に書かれた合唱曲だろう。彼はオペラも精力的に作曲したが、完成させた9つのオペラは一般的なレパートリーとはなり得ていない。批評家の中にはパリーマッケンジーなどとともに、スタンフォードを英国音楽の復活の立役者であると見る者もいる。しかしながら、彼の音楽は19世紀の最後の20年においてこそ大きな成功を収めたものの、その後20世紀に入るとエルガー並びに彼自身の門弟たちの活躍の陰に隠れてしまうことになるのである。

生涯

幼少期

スタンフォードはダブリンの生まれで、ジョン・ジェームズ・スタンフォード(John James Stanford)の二番目の妻であるメアリ(Mary(旧姓ヘンHenn))との間に生まれた唯一の息子である[1]。父のジョンはダブリンでは名の通った弁護士、大法官府裁判所の証人尋問官、そしてミース州の官吏であった[2] 。彼の妻はアイルランドの大法官高等裁判所長であったウィリアム・ヘン(William Henn)の三女である[3]。夫妻はともにアマチュアの音楽家であった。夫のジョンはチェリストであるとともに、1847年メンデルスゾーンの「エリヤ」のアイルランド初演時のタイトル・ロールを務めるほどのバス歌手でもあった[4]テンプレート:Refn。妻のメアリはアマチュアのピアニストで、ダブリンで行われるコンサートでは協奏曲ソリストを務めるほどであった[4]

スタンフォードは少年期、ダブリンの私立学校で特筆すべきところのない一般的な教育を受けたが、学校を経営していたヘンリー・ティルニー・バセット(Henry Tilney Bassett)は他の学問を差し置いて西洋古典学に没頭していた人物であった[5]。スタンフォードの両親は彼の早熟さに目をつけ、ヴァイオリンピアノオルガン作曲というように次々教師を雇い、彼の音楽的才能を伸ばそうとした。それら教師のうち三人はイグナーツ・モシェレス門下であり、エリザベス・ミーケ(Elizabeth Meeke)もその一人だった。スタンフォードは後にこう回想している。「私が12歳になる前、彼女は私に初見で演奏することを教えた。(中略)彼女は毎日レッスンの最後に、私にショパンマズルカを一曲弾かせたが、間違ってもそこで止まることを決して許さなかった。(中略)52曲のマズルカを全て終えたとき、私は大抵どんなレベルの曲でもかなり指を楽な状態にして取り組めるようになっていた[6]。」少年スタンフォードの最初期の作品の一つである行進曲変ニ長調は、3年後にダブリン王立劇場[注 3]でのパントマイムの中で演奏された[7]。9歳の時、彼は客を招待してのピアノリサイタルを行い、ベートーヴェンヘンデル、メンデルスゾーン、モシェレス、モーツァルトバッハの作品を演奏した[4]。彼の歌曲の一つはダブリン大学の合唱部に採りあげられ、好評を博した[8]

1860年代には、ダブリンに国際的な有名人が時折訪れた。そのため、スタンフォードはヨーゼフ・ヨアヒムアンリ・ヴュータンアデリーナ・パッティといった著名な音楽家の演奏を耳にすることができた[9]ロンドンからは毎年イタリアオペラの会社が興業に訪れており、ジュリア・グリジやジョヴァンニ・マリオ[注 4]、後年はテレーズ・ティーチェンス[注 5]によって率いられたこの団体は、スタンフォードに一生涯残るオペラの妙味を味わわせたのであったテンプレート:Refn。10歳の夏、彼は両親に連れられてロンドンへ赴き、そこでメイフェアに住む母の叔父の元に滞在した[10]。彼はそこで、作曲家であり教師でもあったアーサー・オリアリー(Arthur O’Leary)の作曲の講義を受けると同時に[11]王立音楽アカデミーのピアノ科教授であったエルンスト・パウアー[注 6]にピアノを習った[12]。彼がダブリンへ戻ると間もなく名付け親はアイルランドを去ってしまい、彼はヘンリエッタ・フリン(Henrietta Flynn)のレッスンを受けることになる[12]。この人物もライプツィヒ音楽院でのモシェレスの教え子であった。その後、聖パトリック大聖堂オルガニストであったロバート・スチュアート(Robert Stewart)、また三人目となるモシェレス門弟のミシェル・クオーリィ(Michael Quarry)からも教えを受ける[13]。二年後、二度目となるロンドン滞在中に作曲家のアーサー・サリヴァンと、音楽管理者で作家であるジョージ・グローヴに出会い、彼らは後々スタンフォードの人生において重要な人物となるのである[4]

父のジョンは自らと同じく息子に法律の専門家になってもらいたいと願っていたが、スタンフォードの音楽で生きていきたいという希望を受け入れた[14]。ただし、音楽留学したいのであれば、その前に一般的な大学教育を修了すること、という条件を付けた[14]。スタンフォードはケンブリッジ大学のトリニティ・ホール[注 7]で西洋古典学の奨学金を得ようとしたが、うまくいかなかった[15]。しかし、ケンブリッジ大学のクイーンズ・カレッジ[注 8]でオルガンの奨学金を得ることができ、さらに後になって西洋古典学でも奨学金を得られた。ケンブリッジへ向かうことになるまでに、彼は宗教的なもの、非宗教的なものの両方の形式の合唱曲と、管弦楽作品(チェロと管弦楽のためのロンドと演奏会用序曲)を含むかなりの数の楽曲を書いていた[1]

ケンブリッジ時代

スタンフォードは大学時代に、ラテン語ギリシア語の勉強を疎かにしてまで音楽に熱中した[16]。彼は宗教的、世俗的な声楽曲を作曲したほか、ピアノ協奏曲ロングフェローの演劇「スペインの学生」への付随音楽を書いた[1]1870年の秋には、彼はケンブリッジ大学音楽部(CUMS)との共演でピアノ独奏者を務め、まもなく指揮者助手と委員会メンバーとなった[17]。音楽部の技量は1843年の創設以降衰えていっていた[18]。合唱団は男声少年合唱のみで構成されており、女声がいないことで音楽部の演奏曲目は著しく制約を受けていた[4]。スタンフォードは女声を入れるよう委員を説得したが失敗に終わったため、ミュージカル・タイムズ誌が「無血革命」と呼んだ、ある試みを企てる[4]1872年の2月、彼はアマチュア・ヴォーカル・ギルドという混声合唱団を立ち上げ、その団の演奏がCUMS合唱団の演奏を瞬く間に影に追いやったのである[19]。CUMSの委員はすぐに考えを改め、両団を合併させるとともに、女性に音楽部の賛助委員としての資格を与えることを認めた[20]

合併後の合唱団の指揮者は、トリニティ・カレッジのオルガニストでもあったラーキン・ホプキンス(Larkin Hopkins)であった。彼は病に倒れ、1873年に指揮者の職をスタンフォードに譲り渡した[21]。スタンフォードはまた、トリニティのオルガニストとしてもホプキンスの代役となり、1873年の4月にクイーンズからトリニティへと移った[22]。同年夏に、彼は初のヨーロッパ大陸への旅行に出かけた。ボンで行われていたシューマン記念祭に行った彼は、その地でヨアヒムブラームスに出会っている[23]。当時、音楽愛好家達は古典派陣営と、リストワーグナーに代表される現代派陣営に二分されており、シューマンやブラームスの音楽に対する愛着を募らせていた彼は古典派とみなされていた[23]。しかしスタンフォード自身はどちらの陣営に属するかということで、流儀を強制されることはなかった。それは彼がニュルンベルクのマイスタージンガーを高く賞賛していたことからも伺える。もっとも、ワーグナー作品の中には熱狂できないものもあったようではあるが[24]。ボンを離れた後、彼はスイスを経てパリマイアベーアの「預言者[注 9]」を鑑賞して帰国した[23]

ホプキンスの病は致命的なものとなり、彼の死後トリニティの重役たちはスタンフォードを後継のオルガニストとして招聘した[1]。彼は、毎年しばらくの間はドイツで音楽を学ぶために自由な時間を持てるようにする、という条件付きでこれを承諾することにした。委員会は1874年2月21日にこれを議決した。

チャールズ・ヴィラーズ・スタンフォード(大学の学部生)は今後二年間に渡り、オルガニストに任命され、100ポンドの給料、および在職中の寝所とCommonsが与えられる。オルガニストは上記二年間の間、ドイツに音楽教育を受ける目的での休暇を1学期分取ることを許可されており、彼の不在中の代行者の選定は大学が行うものとする[25]

スタンフォードは任命の二日後、西洋古典学の学位試験を受けた。順位は66人中65番目で、第三種学位を授与された[16]

ライプツィヒ時代

ケンブリッジ大学音楽科教授を退き王立音楽アカデミー監督になっていたウィリアム・スタンデール・ベネットの推挙により、スタンフォードは1874年の夏期、ライプツィヒに移り、ライプツィヒ音楽院の作曲科、ピアノ科教授であったカール・ライネッケのレッスンを受けた[26]。作曲家のトマス・ダンヒルが述べたところによると、1874年というのは「ライプツィヒの覇権の終焉であった。メンデルスゾーンの偉大なる伝統が失われつつあったのだ[27]。」にもかかわらず、スタンフォードは学びの地に別の場所を選ぶことを真面目に考えようとはしなかった。ダブリンもロンドンも、ライプツィヒに並ぶような音楽教育の場とはなり得なかったからだ。英国で最も名高い音楽学校である王立音楽アカデミーはその頃、旧態依然で極めて保守色の強い状態だった[28]

スタンフォードはライプツィヒで、ベネットが自分を推薦した相手が王立アカデミーの教授陣に負けず劣らず革新性のないドイツ人の衒学者であったことを知り、うろたえた[28]。スタンフォードはライネッケについてこう言ったのだった。「私がこれまでに知っている無味乾燥な音楽家の中でも、彼は最も干からびている。彼が現代の作曲科に関して好意的な言葉を発するのを聞いたことがない。・・・ワーグナーは気が進まないと言えば・・・ブラームスに対しては鼻で笑っており、何に対しても熱意というものを持ち合わせていないんだ[29]。」これについてスタンフォードの伝記を記したパウル・ロッドメル(Paul Rodmell)は、ライネッケの「超」がつくほどの保守主義は予想外に生徒にいい影響を与えたのではないかと考える。「なぜなら、スタンフォードはそのおかげで伝統をなぞるスタイルと袂を分かつことになったのだろうから[30]」。ライプツィヒでの期間、スタンフォードは聖ニコラス教会[注 10]のオルガニストであったロベルト・パッパーリツ(Robert Papperitz)(1826-1903)にピアノを習ったが、これは彼にとってより有意義なものであった[29]

1874年にスタンフォードが作曲した中に、ロングフェローの「黄金伝説 The Golden Legend」という詩を基にしたものがある。彼は詩全体に対して曲をつけようとしたが、ロングフェローの「たくさんの無関係な登場人物たち」に負け、これを諦めた[31]テンプレート:Refn。スタンフォードはいっぱしの作曲家となって作品番号の割り当てを行った時、これや他の初期作品を無視した。彼の公式目録に掲載されている最初の作品は、1875年の「ピアノのための組曲」と「ピアノのためのトッカータ」である[32]

スタンフォードは1875年に、二度目のライプツィヒ滞在をしてライネッケのもとで過ごしたが、これは一回目同様に非生産的なものであった。その後彼はヨアヒムより、次の年はベルリンに来てフリードリヒ・キールのに付いて学んではどうかと勧められる。キールに関して、スタンフォードは「同情的で腕の立つ達人だとすぐにわかった。・・・私は3か月の間に、3年間で他の誰から学んだことよりも多くのことだった[33]。」と述べている。

作曲家として頭角を現す

ドイツで研鑽をつむ合間にケンブリッジに戻ったスタンフォードは、CMUSでの指揮者の仕事を再開する。音楽部は彼の代理のイートン・ファニング[注 11]の下で良い状態になってきており[34]、演奏困難な新たな音楽にも取り組めるようになってきていた[35]1876年にブラームスの「ドイツ・レクイエム」の英国初演を行った[35]1877年にブラームスの「交響曲第1番」の英国初演を行った際には、CMUSは国中の注目の的となったのである[11]

同じ頃、スタンフォードは作曲家としても名前が知られ始めていた。彼は多作家であったが、後年この年代の作品を引っ込めてしまう。その中にはヴァイオリン協奏曲も含まれており、ロッドメルによればそれは「平凡な主題要素」のために上出来とは言えなかったのだという[36]1875年に、スタンフォードはアレクサンドラ・パレスで開かれた英国の作曲家による交響曲の大会で2等賞を獲得するが、初演まではその後2年を待たねばならなかった[37] テンプレート:Refn。同じ年に、彼はCUMSの演奏で行われた自作のオラトリオ「復活 The Resurrection」の初演を指揮した[11]。スタンフォードはアルフレッド・テニスンの依頼を受けて戯曲「メアリ女王 Queen Mary」への付随音楽を作曲し、それは1876年の4月にロンドンのライセウム劇場[注 12]で演奏された[11]

スタンフォードは1878年に父の反対を押し切り、ジェーン・アンナ・マリア・ウェットン(Jane Anna Maria Wetton)と結婚した。彼女はジェニーとして知られており、彼とは彼女がライプツィヒで勉強をしている時に知り合った[38]。二人は1883年に娘のジェラルディン・メアリー(Geraldine Mary)を、1885年に息子のガイ・デズモンド(Guy Desmond)を授かっている[39]

1878年1879年にはスタンフォードは、友人のウィリアム・バークレイ・スクワイヤー(William Barclay Squire)の台本による初のオペラ「神秘の預言者 The Veiled Prophet」に取り組んでいた。これはトマス・ムーア[注 13]の詩に基づく作品で、純潔の尼僧と神秘の預言者が登場し、話は毒を盛り突き刺す場面で最高潮になる[40]。スタンフォードはオペラ興行主のカール・ローザにこのオペラの公演を打診したが、断られてドイツでの公演を考えた方がいいと言われてしまう。「もし海外公演が成功したら、ここでの公演も成功する可能性が高まる。」というのである。ローザはさらにサリヴァンの喜劇が大人気となっていることに言及し、こう付け加えた。「もし作品が Pinafore(訳注:サリヴァンの喜劇)の形式だったら、事情は変わってくるのだが[41]。」スタンフォード自身もサリヴァンの Cox and Box(訳注:サリヴァンの喜劇)を大いに楽しんではいたが[42]、「神秘の預言者」は劇的要素とロマンスに溢れた真剣な内容にするつもりでいた[43]。スタンフォードはドイツに滞在している間に多くの有用なコネを築いており、彼の友人であるエルンスト・フランク(Ernst Frank)がこの作品を1881年ハノーバーの王立歌劇場(Königliches Schauspiel)で取り上げてくれた[44]。ミュージカル・タイムズ誌への論評として、スタンフォードの友人のJ.A.フラー・メイトランドテンプレート:Refnestはこう記した。「スタンフォード氏の楽器法は・・・多かれ少なかれシューマンのそれに依っている。一方、彼の劇的要素の扱いは巨匠らの中ではマイアベーアのものに類似している[40]テンプレート:Refn。」他の論評はまちまちであり[45]、結局彼のオペラがイングランド初演を迎えるのは1893年のことであった[46]。にもかからず、スタンフォードは彼の生涯を通じて、オペラでの成功を追求し続けた[47]。一生オペラに対して情熱を燃やし続けた彼と、一度はオペラを作曲しようとしたものの、あとにそれを放棄してしまった同時代のパリーとでは、違いが際立っている[48]

1880年代までには、スタンフォードは英国音楽界を代表する人物になりつつあった。彼の主なライバルと目されるのは、サリヴァン、フレデリック・コーウェン、パリー、アレグザンダー・マッケンジーアーサー・トーマスのみであった[47]。サリヴァンは大規模な楽劇ではなく喜劇を作っていたため、意識の高い音楽家のサークルからは当時疑問視されていた[47]。コーウェンは作曲家というより指揮者であると見なされていた、また、他の三人は有望視されてはいたが、まだスタンフォードほどに目立った活躍はしていなかった[47]。スタンフォードはパリーに対して特に知名度が上がるよう協力しており、ケンブリッジ公演のアリストパネスの「」への付随音楽や交響曲(交響曲第2番「ケンブリッジ」)を委嘱するなどした[48]。スタンフォードはケンブリッジにおいて、ヨアヒム、ハンス・リヒターアルフレッド・ピアッティエドワード・ダンロイターなどの客演を取り付け、自分自身とともにCUMSの名声の向上に貢献し続けた。音楽部はコーウェン、パリー、マッケンジー、ゴーリング・トーマスや他の作曲家の作品を初演し、さらに注目を浴びるようになっていった[1]。スタンフォードはまた、トリニティでのオルガニストとしての技量で人びとに印象を与え、音楽的水準を引き上げ、さらに彼の伝記作家であるジェーミー・ディブル(Jermy Dibble)が「特に注目に値する教会音楽」と呼んだ礼拝音楽変ロ長調(1879年)、讃美歌「主は私の羊飼い The Lord is my shepherd」(1886年)、モテット「神に従う人の魂はJustorum animae」(1888年)などを作曲した[1]

1880年代前半、スタンフォードは2つのオペラ、「サヴォナローラ Savonarola」と「カンタベリーの清教徒たち The Canterbury Pilgrims」で作家のギルバート・ア・ベケット[注 14]と協力関係にあった。前者は1884年4月のハンブルク初演において好意的な評を受けたものの、同年7月のロイヤル・オペラ・ハウスでの公演では散々に酷評された[47]。パリーは私的にこう述べている。「そのオペラは全然練られておらず、公演向けとしてはひどい出来の構成だった。音楽は清涼でよく作られていたものの、印象が薄く劇的な情感に乏しかった[47]。」最も辛辣な公開批評を加えたのはザ・シアター誌(The Theatre)で[47]、その評によると「『サヴォナローラ』の台本は陳腐かつ大袈裟で、劇性という観点からは弱かった。しかし、劇に付された音楽はそれにも増してやかましくうんざりするようなものだった。そのような『サヴォナローラ』を鑑賞したが、私には(スタンフォードの)方向性はこのようなものだとしか思えず、それならば早く劇場を辞して大聖堂での仕事に専念してくれた方が、彼の名声のためでもあるのにと思わずにはいられなかった[49]。」「カンタベリーの清教徒たち」は「サヴォナローラ」のロイヤル・オペラ・ハウス公演の3か月前、1884年4月にロンドンで初演を迎えた[47]。これは「サヴォナローラ」よりは好評を受けたものの、公演評はスタンフォードがマイスタージンガーから受けている影響を指摘し、愛の音楽に情感が不足していることに不満を述べている[50]。ジョージ・グローヴはパリーに宛てた書簡で、批評家に同意しつつ「チャールズの音楽に唯一欠けているものは感情だ。愛情は聴いていて微塵たりとも感じられなかった。(中略)それにもっと音色が豊かであった方がいい。メロディーは決して悪いものではないのだから[47]。」と述べている。1896年にある批評家が記したところによると、そのオペラの「台本は故アルフレッド・セリアー[注 15]になら、よく合ったことだろう。彼なら、それを使って軽いイギリスオペラを作っただろうからだ。しかしスタンフォード氏はあの台本で、拡大された理論を開示する道を選んだ。我々はそれが彼の持ち前であると了解しているが、その音楽を聴いた我々には、彼がマイスタージンガーを下敷きとしたのだろうという印象が残ってしまった。この組み合わせは、幸福な効果をもたらさなかった[51]。」

教授として

1883年、短期間で失敗に終わった国立音楽訓練学校(National Training School for Music; NTSM)に代わるものとして王立音楽大学が設立された[52]。NTSMもより長く続いた王立音楽アカデミーもプロのオーケストラ団員に適するような訓練を施すことができなかったためテンプレート:Refn、設立者で総監督であったジョージ・グローヴはそれが可能な新たな機関を設置することを決めた[52]。彼のこの決定に味方したのは、主にヴァイオリニストのヘンリー・ホームズ[注 16]とスタンフォードである。大学設立に関する論考中で、デイヴィッド・ライト(David Write)はスタンフォードがグローヴの目標に力添えをしたのは、主に二つの理由からであったと指摘している。第一に、学生が自分で作曲した作品を音にする経験を得るために、有能な大学オーケストラの存在が不可欠であるという彼自身の信条があった。第二に、ドイツとイングランドのオーケストラの演奏水準に、顕著な差がみられたことである[52]。彼はグローヴによる、作曲の教授と大学オーケストラの指揮者(これはホームズも同様だった)への招聘に応じた[52]。彼はその後、教授職にとどまり続けた。彼の多くの教え子の中で特に有名なのはサミュエル・コールリッジ=テイラーグスターヴ・ホルストレイフ・ヴォーン・ウィリアムズジョン・アイアランドフランク・ブリッジアーサー・ブリスなどである[11]テンプレート:Refn

スタンフォードは、決して甘い教師ではなかった。彼はマンツーマンの個別指導体制を敷いて、学生には多くの課題を与えた。ハーバート・ハウエルズはこう述懐する。「誰でもいいからスタンフォードの生徒を角に追いつめ、先生に見つけられてしまった自分の罪の中で最も忌み嫌っているものを白状させるんだ。'秩序を欠いていること'、'下品さ'などと答えるだろう。こういった学生たちが教授室に入って、出てきたときにはひどく傷ついていたものだ。スタンフォードは疑わしい作品や技量に対して妥協を見せることを、頑として許さなかったのだ[53]。」もう一人の生徒であるエドガー・ベイントンはこう語っている。 テンプレート:Quote

スタンフォードは、作曲家として高い名声を得た自分の生徒の多くが、自分が説いた古典的でブラームス風の道から逃げ出してしまったことを残念がっていた。彼はそこにライネッケの保守主義に反発した自分の姿を重ねたのだ[53]。作曲家のジョージ・ダイソンはこう記している。「ある意味で、彼が戦ってきた反抗(者)こそが、彼の方法論の最も明らかな成果である。そして反逆者の幾人かがそれ以来成し遂げたことを考えたならば、果たして生徒に色々なやり方で革命を起こさせる以上に教師としてうまいやり方があるだろうか、と思わずにはいられないのである[53]。」スタンフォードの生徒の中には、ホルストやヴォーン・ウィリアムズのようにその作品が英国の一般的なレパートリーになった者もおり、これはスタンフォードにはついに成し遂げられなかったことだ[54]。スタンフォードの死後長らく、スタンフォードの最大の名声は教師としてのものであるとさえ考えられていた[54]。彼のRCMでの功績には、毎年少なくとも1つはオペラ作品を制作する、オペラクラスの新設もある。1885年から1915年の間に32作品が生まれ、スタンフォードはそれらすべてを指揮したのである[55]

1887年10月に死亡したジョージ・マクファーレンの後任として、スタンフォードはケンブリッジ大学の音楽科教授に任命された[56]。この時まで、ケンブリッジ大学は学部に所属していない者にも、大学が課す音楽の試験を受けて合格するだけで音楽の学位を授けていた。スタンフォードはこの慣習を廃止することを決定し、6年後には大学の重役を説得してこれを認めさせた。大学で3年間学ぶことが、音楽学士(Bachelor of Music)の試験を受験するために必須となった[1]テンプレート:Refn

指揮者、作曲家として

19世紀の終盤頃には、スタンフォードの学術的な業務は作曲や演奏の妨げにならない程度になっていた。彼は1885年、初代指揮者であるオットー・ゴルトシュミットの跡を継いで、ロンドンのバッハ合唱団[注 1]の常任指揮者になった[57]。彼は1902年までそのポストを務めている。1888年1月にはハンス・フォン・ビューローがスタンフォードの「交響曲第3番 アイリッシュ」のドイツ初演をハンブルクで指揮し、強い印象を受けたビューローは直後にベルリンの公演でも同曲をプログラムに組み込んだ[58]。この曲はリヒターがウィーンで演奏しており、その後マーラーニューヨークで指揮している[59]テンプレート:Refn。スタンフォードはケンブリッジの王立歌劇場のためにアイスキュロスの「オレステイア」中の「慈しみの女神たち」への付随音楽(1885年)、ソポクレスの「オイディプス王」への付随音楽(1887年)を作曲した。タイムズ紙は前者に関してこう評している。「スタンフォード氏の音楽は劇に重要な役割を果たし、またそれ自体も美しいものだった。さらに、音楽の質は現代の作曲家の中において非常に稀なものだった。その形式である[60]。」両作品においてスタンフォードはワーグナー流のライトモティーフを多用しており、タイムズ紙は「オイディプス王」のワグネリアン的性格を指摘している[61]

1890年代に「ザ・ワールド」の批評家であるバーナード・ショーは「バセットホルン」と例えて、スタンフォードに対する入り混じった感情を表現した。ショーの考えでは、スタンフォードの最良の作品は抑制されないアイルランド風のものである[62][63]。ショーはスタンフォードの厳粛なビクトリア朝の合唱音楽には軽蔑的な立場をとっていた。1891年7月のショーのコラムはスタンフォードの勇壮な曲を作る才能への賛辞に満ちており、リチャード・ドイリー・カート[注 17]サヴォイ・オペラのサリヴァンの後継としてスタンフォードを雇うべきだ、とまで述べた[64]。ところが同年10月には、彼はスタンフォードのオラトリオ「エデン Eden」を非難し、パリーやマッケンジーらと一括りにした上で彼らが内輪で褒め合う団体を組織し[65]、「偽クラシック」を作っていると述べている。 テンプレート:Quote フラー・メイトランド[注 18]にとっては、ショウに風刺された三人組はイングランド音楽のルネッサンス[注 19]の牽引役であった(もっとも、スタンフォードもマッケンジーもイングランドの生まれではなかったが)[66]。この見方は、いくつかの学術サークルの中では何年にもわたって残り続けた[65]

スタンフォードは1893年にオペラの作曲を再開し、「神秘の預言者」の大規模な改定、短縮版を世に送り出した。この版の英国初演は7月にロイヤル・オペラ・ハウスで行われた[67]。当時のタイムズ紙の主席音楽評論員は友人のフラー・メイトランドであり、新聞の演奏会評はこのオペラを賛美する内容であった。フラー・メイトランドによれば、「神秘の預言者」はルッジェーロ・レオンカヴァッロの「道化師」、ビゼーの「テンプレート:仮リンク」、マスカーニの「テンプレート:仮リンク」など[注 20]が並ぶ、そのシーズンのオペラの中でも最も斬新であったという[46]。スタンフォードの次のオペラは、ジョージ・H・ジェソップ(George H. Jessop)の台本による喜劇「探偵オブライエン Shamus O’Brien」(1896年)であった。指揮をしたのは若いヘンリー・ウッドで、彼は興行主のオーガスタス・ハリスが独裁的な作曲者をなだめて公演の邪魔をしないようにしたことを思い返している[68]。スタンフォードはウッドに指揮の稽古をつけようとしたが、ウッドは感銘を受けることはなかった[68]。このオペラは成功し、82回の連続公演を行ったテンプレート:Refn。 この作品のドイツ語訳は1907年ヴロツワフで演奏されている[69]トーマス・ビーチャムはこのオペラを「色彩豊かで、活気ある作品」と考えており、1910年に女王陛下劇場[注 21]で催されたオペラ・コミックシーズンで再演した[70]

1894年の終わり、グローヴは王立音楽大学を退官した。後継にはパリーが選ばれ、スタンフォードは友人の昇進を心から祝ったのだが[71]、間もなく二人の関係は悪化してしまう。スタンフォードは頭に血が上りやすく、喧嘩早いことで知られていた。グローヴは王立音楽大学での教員会議の様子について記している。「そこではいくぶん精神が・・・彼自身は常にスタンフォードとして仕事を続けていた。そういう彼は時に意地悪く、喧嘩腰に、反駁ばかりする人物に、誰のせいでもなく自らなっていた!彼は誰より抜きんでて賢く有能な、知識経験が豊富で力強い人材であり、そこに疑いの余地はなかったのだが、それを役立てようと思うとしばしば法外な料金を取られることになってしまうのだった[72]。」パリーはスタンフォードの好戦的なやり口に苦しむようになっていき、神経質なスタンフォードに深く気を揉んでいた[62]。彼らの間のいさかいは、スタンフォードが旧友かつ目下であったパリーの権威を認めるのに難色を示したことから起こることもあったが、他にも1895年にパリーがスタンフォードの管弦楽法の講座への充当金を減額した際には、スタンフォードをひどく憤慨させる結果となった[52]

1898年、年老いて調子の思わしくなかったサリヴァンは、1880年から続けてきたリーズ音楽祭[注 2]の指揮者を退任した[73]。彼はスタンフォードが前年にリーズ・フィルハーモニック協会[注 22]の指揮者になった狙いは、音楽祭の後継者となることだと信じていた[74]。スタンフォードは後に、彼がサリヴァンと一部共謀していたということはないと否定したタイムズ紙に感謝している[75]。当時サリヴァンは他人の作品に対してはいい加減な指揮者だと考えられており[76]、一方スタンフォードの指揮者としての仕事ぶりにはそのような批判はなかったため[77]、彼はサリヴァンの後任としてポストに就いたテンプレート:Refn。スタンフォードは1910年までこの職を務めた。音楽祭のために作曲した彼の作品には「海の歌 Songs of the Sea」(1904年)、「スターバト・マーテル Stabat Mater」(1907年)、「海軍歌 Songs of the Fleet」(1910年)がある[11]。スタンフォードの在任期間中にリーズ音楽祭のために作品を提供した作曲家はパリー、マッケンジーやスタンフォードの教え子の7人であるテンプレート:Refn。スタンフォード時代で、最も知られた作品はおそらく1910年に初演されたヴォーン・ウィリアムズの「海の交響曲(交響曲第1番) A Sea Symphony」だろう[78]

20世紀

ファイル:Stanford Charles Villiers.jpg
スタンフォードの風刺画
スパイ[注 23]
バニティ・フェア』誌[注 24]掲載 1905年

1901年に、スタンフォードは再びオペラの仕事に戻り、ジュリアン・スタージス[注 25]の台本による「空騒ぎ Much Ado About Nothing」を発表した。これはシェイクスピアの原作に非常に忠実なものだった[79]ガーディアン紙はこう評している。「アッリーゴ・ボーイトジュゼッペ・ヴェルディによるファルスタッフにすら、原作の喜劇がしっかりと残していた特徴的な魅力、爛熟した時に刺激の強い個性はなかったのだ[80]。」

オペラが好評を得たにもかかわらず、スタンフォードの輝きは衰えていった。20世紀初頭の10年の間に、彼の音楽は若き作曲家エドワード・エルガーの陰に隠れていった[81]。音楽学者のロバート・アンダーソンの言葉を借りるなら、スタンフォードは「19世紀の終わりの数十年をヨーロッパで名声を得る時代にできたが、エルガーによって押し出されたのだ[62]。」エルガーが1890年代に認められようともがいていた時、スタンフォードはその若き仲間を支援してきた。彼はエルガーの作品を指揮し、ケンブリッジ大学の博士号を取らせ、ロンドンの会員制クラブである「アテナ神殿クラブ (the Athenaeum)」への入会を勧めた[62]。しかしながら、リヒャルト・シュトラウス(スタンフォードは彼をひどく嫌っていた)がイギリスで初めての先進的な作曲家であると賞賛するなど、エルガーが内外で成功するようになると、その陰に隠れ消え去ってしまったのである[82]1904年にエルガーがバーミンガム大学の音楽科教授に任命されると、スタンフォードは彼に宛てて、その受け入れが「実に不愉快である」と手紙を送っているテンプレート:Refn。エルガーは狂詩曲の作曲家たち[注 26]について述べた就任講演で復讐を行った。これはスタンフォードを貶す内容だったと広く受け止められている[83]。スタンフォードはその後、著書の「音楽の歴史 A History of Music」の中でさらにやり返している。そこではエルガーについて「宗教と一般的な高等教育を受けていないことで同世代の仲間から切り離されたのだが、幸運にもこの世界に入って地ならしの済んだ耕作地を見つけた。」と記した[84]

脇へ追いやられて辛苦を味わいつつも、スタンフォードは作曲を続けた[11]。世紀の変わり目から1914年第一次世界大戦勃発までの間の彼の新作には「ヴァイオリン協奏曲」(1901年)、「クラリネット協奏曲」(1902年)、「交響曲第6番」(1906年)、「第7番」(1911年)と「ピアノ協奏曲第2番」(1911年)などがある[1]1916年には最後から2番目となるオペラ「批評家 The Critic」を書いている。これはリチャード・ブリンズリー・シェリダンの同名の喜劇への作曲であり、ルウィス・ケーンズ・ジェームズ(Lewis Cairns James)による台本は原作の文言をほとんどそのまま残していた[85]。この作品はロンドンのシャフテスベリー劇場[注 27]における初演で好評を博し、後年ビーチャムに取り上げられマンチェスターとロンドンで上演された[86]

最晩年

第一次世界大戦はスタンフォードに深刻な影響をもたらした。彼は空襲の恐怖におびえ、ロンドンからウィンザーへと移らなければならなくなった[53]。彼の教え子の多くは戦争に召集され、アーサー・ブリスは負傷、アイヴァー・ガーニーは毒ガスを吸って後遺症が残り、ジョージ・バターワースは戦死した[87]。1885年からスタンフォードが監督、指揮を行ってきたRCMの年次オペラ創作も取りやめになった[53]。大学の学生数が減ったことでスタンフォードに対する需要も低下し、彼の収入は減少した[88]1916年の終わりに重大な不一致が生じた後、彼とパリーの関係は敵意を向け合うまでに至った[48]。しかしながら2年後にパリーが死去した際、スタンフォードはそれまでのことは水に流し、パリーをセント・ポール大聖堂に埋葬するよう働きかけてまわった[48]

戦後、スタンフォードは王立音楽大学管弦楽団の指揮活動の多くをエイドリアン・ボールトに引き継いだが、大学で教鞭はとりつづけた[89]。彼は時おり公開講座も開いていた。その中の一つである1921年1月の「作曲の最近傾向を論ず Some Recent Tendencies in Composition」では、彼は自分の後の世代の音楽に敵意をむき出しにした[90]。彼が最後に公に姿を見せたのは1921年3月5日に、自らの新作カンタータ「修道院の門にて At the Abbey Gate」の演奏で王立合唱協会を指揮した時である[11]。演奏会評は丁寧ではあったが、熱を帯びたものではなかった。タイムズ紙はこう書いている。「この曲が内に秘めた感情を十分に有しているのか、我々には感じ取ることはできなかった[91]。」オブザーバー紙の評はこうである。「力強いというより上滑りだったと感じられたとしても、非常に魅力的であった[92]。」

1922年9月スタンフォードは6つの「アイルランド狂詩曲 Irish Rhapsody」を完成させ、これが彼の最後の作品となった[93]。2週間後には彼の70歳を祝う会が開かれたが、その頃から彼の健康状態は衰えていった[93]1924年3月17日、彼は脳卒中に倒れ、3月29日に妻と子を残しロンドンの自宅で息を引き取った。彼の遺体は4月2日にゴールダーズ・グリーン火葬場[注 28]で火葬され、遺灰は翌日ウェストミンスター寺院に埋葬された[94]。ボールトの指揮する王立音楽大学管弦楽団がスタンフォードの作品を演奏し、1893年にテニスンの「ベケット Becket」のために書いた葬送行進曲が最後を飾った[95]。墓は寺院の北側通路に位置し、近くにはヘンリー・パーセルジョン・ブロウウィリアム・スタンデール・ベネットの墓がある[96]。タイムズ紙はこう評した。「スタンフォードの音楽とそれまでの偉大な先人たちの音楽を結んで考えると、彼がいかに作曲家として偉人たちの系譜に属しているかわかる[97]。」

戦時中に作曲された、スタンフォードの最後のオペラ「旅の道連れ The Travelling Companion」は1925年リヴァプールのデイヴィッド・ルイス劇場(David Lewis Theatre)で、編成を縮小したアマチュアオーケストラによって初演された[98]。完全版での上演は1928年ブリストルで、1935年にロンドンのサドラーズウェルズ劇場で行われた[99]

名誉

スタンフォードは多くの名誉に与っている。オックスフォード大学(1883年)、ケンブリッジ大学(1888年)、ダラム大学(1894年)、リーズ大学(1904年)、ダブリン大学のトリニティ・カレッジ[注 29](1921年)から送られた名誉博士号も含まれる[11]。彼は1902年にナイトに叙せられ、1904年にはベルリンの芸術アカデミー[注 30]の会員に選ばれている[11]

スタンフォードを記念し、ホーランド・パーク[注 31]、ホーントン通り(Hornton Street)56の彼の自宅にはブルー・プラークが掲げられている[100]

作品

テンプレート:Quote box

スタンフォードは7つの交響曲、約40の合唱曲、9つのオペラ、11の協奏曲、28の室内楽曲、歌曲、ピアノ曲、付随音楽そしてオルガン曲を含めて約200の作品を作曲した[101]。彼は初期の作品の大半を出版しなかった。彼が自分の作品目録に加えることにしたうち、最も早くに書かれたものは1875年の作である[102]

スタンフォードの生涯を通じて、彼の卓越した作曲技術はほとんど疑念の余地のないものであった。作曲家のベイントンは彼についてこう語っている。「スタンフォードの音楽に関しては多様な意見があるだろうが、そういったものはいずれにせよ、技法に関して彼は完璧だということで落ち着くのではないか、と私は思っている。彼が手を付けたものは何でも'成功'した[53]。」スタンフォードが永眠した日、彼の教え子であったホルストは、同じく教え子であったハウエルズに向かってこう言った。「我々が技術的に混乱した時、それが誰であっても救い出すことのできる人が逝ってしまったのだな[103]。」

スタンフォードの死後、教会で演奏されるものを除いて彼の音楽は急速に忘れられていった。「スターバト・マーテル Stabat Mater」と「レクイエム Requiem」は合唱のレパートリーとして地位を保っており、トーマス・ビーチャムは後者を擁護した[104]。彼の2つの海に関する歌曲集と歌曲「青い鳥 The Blue Bird」は依然として時おり演奏の機会に恵まれていたものの、オペラに関しては最も人気のあった「探偵オブライエン Shamus O'Brien」ですら、使われている「アイルランド舞台言葉」が古臭いものと見なされるようになった[104]。しかしながら、ディブル(Dibble)は2002年のスタンフォードに関する考察において、生の演奏でなくてもCDとして手に入る機会の増しているその音楽が、いまだ驚くべき力強さを備えていると記している。よく聞かれる、スタンフォードは「ブラームスに水を足したようなものだ」という批判は、交響曲や協奏曲、また室内楽曲や歌曲の多くがCD録音として手に入り、再評価されるようになれば間違いだったとわかる、とディブルは考えている[105]。2002年、ロッドメル(Rodmell)はスタンフォードに関する論考に、16ページにわたるディスコグラフィを付している[106]

バーナード・ショー以後に書かれたスタンフォードの音楽に対する批判で最も多いのは、彼の音楽には情熱が足りないというものである[107]。ショーは「ケルト人のスタンフォード」を称賛し、ケルト的情感を抑制した「スタンフォード教授」を忌み嫌った[107]。スタンフォードの教会音楽に関して、ニコラス・テンパーレイ(Nicholas Temperley)はこう気付いた。「芸術体験としてすっかり満足できるのだが、おそらく心に深く染み入る宗教的衝動が不足しているのではないか[108]。」オペラや他の音楽でも、音楽が愛やロマンスを伝えるべきところでそれが出来ていないとグローヴパリーをはじめ後の評論家たちは指摘している[109]。スタンフォードが本気で争ったパリーや彼の競争的な性向により、スタンフォードはサリヴァンと張り合うことになった。しかし、彼はそれを本当ならば才能が発揮できたはずの喜劇ではなく[110]、オラトリオで行おうとした。ロッドメルはそうしたオラトリオを「たまたま権力や深遠さといった価値観に合致しただけ」の大言壮語だと呼んでいる[111]

管弦楽曲

評論家のリチャード・ホワイトハウス(Richard Whitehouse)はスタンフォードの7つの交響曲が、彼の音楽の強靭さと限界を体現したものだと記している。すなわち「作曲様式の厳格さと熟達の度において比肩しうるのは、同時代の年長者であるパリーだけである。一方、様式的にはメンデルスゾーンシューマンブラームスの範疇に甘んじているように思われる。」ホワイトハウスがさらに言うには、スタンフォードの交響曲の構築はありきたりながらも、「しばしば楽章構成や工夫した管弦楽法に巧みに挑戦しているため、探索する価値のある楽曲となっている[112]。」
ファイル:"Physical Energy" sculpture, Kensington Gardens - geograph.org.uk - 898537.jpg
ワッツの「肉体の力 Physical Energy
スタンフォードの「交響曲第6番」に霊感を与えた作品の一つ

スタンフォードの最初の2つの交響曲(1876年1879年の作)は出版されることなく、彼の作品目録からも除外された。「アイリッシュ」として知られる「交響曲第3番ヘ短調」は1887年に初演された。テンプレート:Refnこの作品はスタンフォードの生前、彼の交響曲の中でも最も高い人気を誇った作品であった[112]。スタンフォードの作品に関する考察の中で、ジョン・ポーテ(John Porte)はこう述べている。「彼の故郷の精神と音色に満ちており(中略)陽気さと悲しげな美しさが対照的に表現されるのである[113]。」他の多くの作品同様、この作品でもスタンフォードは紛うことのないアイルランド民謡を取り入れている。パリーやマッケンジーと同様、またサリヴァンやエルガーとは異なり、スタンフォードは民謡を好み、敬意を抱いていた[114]。彼は通常標題音楽を避けていたが、ワッツを「悼んで」作曲された「交響曲第6番」では、それがワッツの彫刻絵画に触発されたものであると認めている[115]

6つある「アイルランド狂詩曲 Irish Rhapsodies」は第1番が1901年で第6番が死の前年に書かれており、スタンフォードの管弦楽曲の中でも全てが20世紀になってからのものである。このうち2曲は管弦楽とともに独奏楽器を前面に出した内容となっている。第3番がチェロで第6番がヴァイオリンである[116]。ディブルの見方によれば、ピアノ協奏曲第1番(1894年)やヴァイオリン協奏曲(1899年)のように、彼の協奏的作品の中には管弦楽法や抒情性といった点において、スタンフォードの音楽を語る際によく引き合いに出されるブラームスのみならず、メンデルスゾーンの伝統にも則ったものがある[1]

室内楽曲

スタンフォードの室内楽曲は一般的なレパートリーとはなり得ていないが、ショーですら称賛したとディブルが記しているように、よく出来ている[1]。ディブルはその中から、「クラリネットとピアノのための3つの間奏曲 Op.13」(1879年[注 32])、「九重奏のためのセレナードヘ長調 Op.95」(1905年)、「クラリネットソナタ Op.129」(1912年)を選び出し、感動的な悲しみを湛えているとしている[1]。ポーテは弦楽五重奏曲第1番について、朗々と響き渡る温かい心情がまさにクラシカルな歌に乗って書かれた作品であり、その性格と構成はスタンフォードらしいものだと書き記している。ポーテはピアノ三重奏曲第2番など、他の室内楽曲についても同様に述べている。「これはスタンフォードに典型的な曲である。よく鳴るように書かれており、外見は古典的ながらも、表情豊かで幾分詩的な新鮮さを感じさせる多くの経過句がある。これといって特筆すべき特徴もないものの、この作品は有用かつ興味をそそられるものとなっている[117]。」

教会音楽

スタンフォードの死後、一般に彼の音楽は何年も無視されることになったが、教会音楽はそうではなかった。スタンフォードの音楽について詳細に取り扱った、数少ない書籍のうちの一つである「英国の音楽 Music in Britain」において[118]、ニコラス・テンパーレイは彼おかげで礼拝音楽は「芸術的発明として、聖歌と同等の価値を認める地位」を回復したと記している[119]。ヴォーン・ウィリアムズは「スターバト・マーテル」を、「不朽の美」を備えるスタンフォードの作品の一つだと位置付けている[53]。テンパーレイの考えでは、礼拝音楽のイ長調(1880年)、ヘ長調(1889年)、ハ長調(1909年)は最も重要で、当時より聖堂で演奏される曲目に残り続けている[108]。演奏会用の作品がそうであるように、スタンフォードの音楽はメロディーに支配されている。低声の動きは副次的であっても常に重要で、メロディーと低声の間にあるものはすべて「埋め合わせ」である、とロッドメルは見なしている[120]

オペラ

1981年に行われたスタンフォードのオペラに関する調査の中で、批評家のナイジェル・バートン(Nigel Burton)が記したのは、「探偵オブライエン Shamus O'Brien」にはいい曲がなく、しかも唯一心に残る旋律はスタンフォードの自作ではないイギリス民謡の「西の栄光 The Glory of the West」であるということだ[121]。バートンは彼自身「哀れな男の『ナクソス島のアリアドネ』」と表現しているように、「批評家」よりさらに否定的な人物であった[121]1921年のポーテの記述はこうである。そのオペラの音楽は「性格と外観が顕著に鮮烈かつメロディアスで、完全に独特のものである。声楽と器楽にはいすれも神懸り的な筆致が冴えわたっている[122]。」バートンは「空騒ぎ Much Ado About Nothing」については、スタンフォードのオペラでも最良の音楽があてられているとして褒め称えている。バートンはスタンフォード最後のオペラ「旅の道連れ The Travelling Companion」を彼のオペラ作品の最高峰にあげているものの、その力強さの源泉は大半がヘンリー・ニューボルト[注 33]ハンス・アンデルセンによって仕立てられた素晴らしい台本のおかげだとしている[121]。ポーテはその音楽が厳粛で浪漫的、そして面白いほど印象的だと記した[123]

主要作品一覧

テンプレート:Main2

交響曲

管弦楽曲

  • アイルランド狂詩曲第1番ニ短調 op.78
  • アイルランド狂詩曲第2番ヘ短調 op.84
  • アイルランド狂詩曲第3番 op.137
  • アイルランド狂詩曲第4番イ短調 op.141『ネイ湖の漁師と彼が見たもの』
  • アイルランド狂詩曲第5番ト短調 op.147
  • アイルランド狂詩曲第6番 op.191

協奏曲・協奏的作品

室内楽・器楽曲

  • 4つのアイルランドの踊り op.89
  • セレナード ヘ長調 op.95
  • クラリネット・ソナタ op.129

声楽曲

  • 3つのラテン語のモテット op.38
  • レクイエム op.63
  • 海の歌op.91
  • スターバト・マーテル op.96
  • 海軍の歌op.117
  • 8つのパートソング op.119(op.119-3は「青い鳥(The Blue Bird)」)
  • レンスターの歌op.140

録音

テンプレート:Side box スタンフォードの音楽は演奏会で取り上げられることこそ少ないものの、非常に多くの録音がなされている。交響曲の全集録音はシャンドスナクソスの2つのレーベルで、それぞれヴァーノン・ハンドリーデーヴィッド・ロイド=ジョーンズによって行われた。「アイルランド狂詩曲」、「クラリネット協奏曲」、「ピアノ協奏曲第2番」、「ヴァイオリン協奏曲第2番」などの他の管弦楽曲もCDへの録音が行われている[106]

スタンフォードの教会音楽はよくCDで出されている。ロッドメルの2002年のディスコグラフィーには、礼拝音楽変ニ長調だけで14種類が掲載されている。またイ長調、ヘ長調、ハ長調の礼拝音楽、「3つのモテット Op.38」や「主は私の羊飼い The Lord is my Shepherd」にも多数の録音がある[106]。世俗歌曲にはジャネット・ベイカー(Janet Baker)や他の歌手による「慈悲無き美女 La Belle Dame Sans Merci[注 34]」、キャスリーン・フェリアなどによる「アイルランド牧歌 An Irish Idyll」、トーマス・アレン(Thomas Allen)などが録音した「海の歌 Songs of the Sea」がある[106]。室内楽曲で複数の録音があるものは「クラリネットとピアノのための3つの間奏曲」と「クラリネットソナタ」である[106]。ロッドメルのディスコグラフィーには、オペラは1曲も掲載されていない[106]

著書

  • 喜多村進編『作曲の最近傾向を論ず』(門馬直衛訳/南葵文庫音楽部/1923年)
  • 作曲法(門馬直衛訳/岡田日栄堂/1925年)

外部リンク

テンプレート:Sister

脚注

注釈
  1. 1.0 1.1 訳注:ロンドンを本拠地とする合唱団。ロンドンや各地で演奏を行っており、歌い手には3年ごとにオーディションが課される。(Bach Choir
  2. 2.0 2.1 訳注:リーズの市民ホール(en)の完成を祝って1858年に始まった音楽祭。1874年からは3年ごとに開催され、1985年まで続いた。(Leeds triennial music festival
  3. 訳注:違法な上演を行っていないという王室からの特許を得ていた劇場を「王立劇場」と称し、ダブリンには4か所の王立劇場がある。そのいずれであるかは原文からは明らかでない。(Theatre Royal, Dublin
  4. 訳注:1810年生まれ、イタリアテノール歌手。当時は熱狂的な人気を集めたスター歌手であった。妻はジュリア・グリジ。(Giovanni Matteo Mario
  5. 訳注:いずれもオペラ歌手。
  6. 訳注:オーストリアのピアニストでモーツァルトの実子であるフランツ・クサーヴァー・モーツァルトにピアノを、ジーモン・ゼヒターに作曲を師事した。(Ernst Pauer
  7. 訳注:ケンブリッジ大学を構成するカレッジの一つ。1350年創立で、ケンブリッジ大学で5番目に古いカレッジ。(Trinity Hall
  8. 訳注:ケンブリッジ大学を構成するカレッジの一つ。1448年創立。(Queens' College
  9. 訳注:1849年初演、5幕形式のオペラ。脚本はウジェーヌ・スクリーブLe prophète
  10. 訳注:1165年創建。ライプツィヒで最も有名な教会。(Nikolaikirche
  11. 訳注:イギリスの作曲家、教師。サリヴァン等に学んだ。(Eaton Faning
  12. 訳注:ロンドン、ウェストミンスター市のウェスト・エンドの劇場。現在の建物は1834年開場。(The Lyceum Theatre
  13. 訳注:アイルランドの詩人。The Minstrel Boyなどで知られる。(Thomas Moore
  14. 訳注:英国の作家。(Gilbert à Beckett
  15. 訳注:イギリスの作曲家、指揮者。サリヴァンの作品を上演するなどし、作曲家としては喜劇「ドロシー (Dorothy)」で最も成功を収めた。(Alfred Cellier)(1844 - 1891)
  16. 訳注:イギリスのヴァイオリニスト、作曲家、音楽教師。(Henry Holmes
  17. 訳注:サヴォイ・オペラの興行主。英国喜劇の普及のためサリヴァンらを率いた。(Richard D'Oyly Carte
  18. 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「Fuller」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません
  19. 訳注:19世紀後半から20世紀初頭にかけて、主に王立音楽大学で学んだ音楽家たちがヨーロッパ音楽からの影響から解き放たれ、自国の語法をもって大陸の音楽に引けを取らない作品を生み出した時期を指す。(English Musical Renaissance
  20. 訳注:作曲年を考慮すると、すべてロンドン初演だったと思われる。「道化師」(1892年初演)、「ジャミレ」(1892年ダブリン、マンチェスター初演)、「ランツァウ家の人々」(1892年初演)
  21. 訳注:ウェストミンスター市、ウェスト・エンドの劇場。1705年開場。(Her Majesty's Theatre
  22. 訳注:リーズ市民ホールを本拠地に活動する合唱団。欧州各地での公演実績を持つ。(Leeds Philharmonic Society
  23. 訳注:英国の肖像画家、風刺画家であるレズリー・ウォードのペンネーム。(Leslie Ward
  24. 訳注:英国の週刊誌。1868年から1914年刊行。)
  25. 訳注:アメリカで生まれ、英国で過ごした小説家、詩人、台本作家。(Julian Sturgis
  26. 訳注:スタンフォードが「アイルランド『狂詩曲』」を作曲していることに注意。1904年の時点で少なくとも1曲は発表していた。(「作品」の節参照)
  27. 訳注: カムデン・ロンドン特別区にあるウェスト・エンドの劇場。(Shaftesbury Theatre
  28. 訳注:ロンドンで最初にできた火葬場。1902年運用開始。(Golders Green Crematorium
  29. 訳注:既出のケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジとは異なることに注意。
  30. 訳注:1696年設立。ベルリン芸術大学の運営などを通じてドイツの芸術の発展に貢献している。(Royal Academy of Arts
  31. 訳注:ロンドン中心西部、ケンジントン&チェルシー王立区に位置する公園。(Holland Park
  32. 訳注:英語版作品一覧では1880年となっているが、どちらが正しいか判断できる記述は原文にはない。
  33. 訳注:イギリスの詩人。Vitaï Lampadaが代表作。(Henry Newbolt
  34. 訳注:ジョン・キーツによる詩。乙女に姿を変えた獣が騎士を誘惑する。(La Belle Dame sans Merci
出典
  1. 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 Dibble, Jeremy. "Stanford, Sir Charles Villiers", Grove Music Online, Oxford Music Online, accessed 11 December 2011 テンプレート:Subscription
  2. "Stanford, Sir Charles Villiers", Who Was Who, A & C Black, 1920–2008; online edition, Oxford University Press, December 2007, accessed 11 December 2011 テンプレート:Subscription
  3. Rodmell, p. 9
  4. 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 4.5 "Charles Villiers Stanford", The Musical Times and Singing Class Circular, Vol. 39, No. 670 (December 1898), pp. 785–793 テンプレート:Subscription
  5. Willeby, p. 264
  6. Stanford (1914), p. 58
  7. Rodmell, p. 28
  8. "University of Dublin Choral Society", Freeman's Journal and Daily Commercial Advertiser, 16 February 1867, p. 3
  9. Stanford (1914), pp. 61–62
  10. Stanford (1914), p. 70
  11. 11.0 11.1 11.2 11.3 11.4 11.5 11.6 11.7 11.8 11.9 Firman, Rosemary. "Stanford, Sir Charles Villiers (1852–1924)", Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, 2004, accessed 11 December 2011 テンプレート:Subscription
  12. 12.0 12.1 Dibble, p. 25
  13. Stanford (1914), p. 75
  14. 14.0 14.1 Stanford (1914), p. 103
  15. Stanford (1914), p. 105
  16. 16.0 16.1 Rodmell, p. 39
  17. Porte, p. 9
  18. Dibble, p. 48
  19. Dibble, pp. 48–49
  20. Stanford (1914), p. 115
  21. Rodmell, p. 37
  22. Rodmell, p. 38
  23. 23.0 23.1 23.2 Dibble, p. 51
  24. Rodmell, p. 49
  25. Dibble, p. 56
  26. Dibble, p. 38
  27. Dunhill, Thomas. "Charles Villiers Stanford – Some Aspects of His Work and Influence", Proceedings of the Musical Association, 53rd Session. (1926–1927), pp. 41–65 テンプレート:Subscription
  28. 28.0 28.1 Rodmell, p. 44
  29. 29.0 29.1 Stanford (1914), p. 157
  30. Rodmell, p. 45
  31. Dibble, p. 66
  32. Porte, pp. 15–16
  33. Stanford (1914), pp. 164 and 172
  34. Dibble, p. 68
  35. 35.0 35.1 Stanford (1914), p. 166
  36. Rodmell, p. 51
  37. Dibble, p. 78
  38. Rodmell, p. 63
  39. Rodmell, pp. 90 and 114
  40. 40.0 40.1 Fuller Maitland, J A. "Mr. Stanford's Opera, 'The Veiled Prophet of Khorassan'", The Musical Times and Singing Class Circular, Vol. 22, No. 457 (March 1881), pp. 113–116 テンプレート:Subscription
  41. Rodmell, p. 67
  42. Stanford (1914), p. 108
  43. Porte, p. 138; and Rodmell, p. 79
  44. Dibble, p. 111
  45. Dibble, p. 112
  46. 46.0 46.1 "The Opera", The Times, 27 July 1893, p. 11
  47. 47.0 47.1 47.2 47.3 47.4 47.5 47.6 47.7 47.8 Rodmell, Paul. "A Tale of Two Operas: Stanford's 'Savonarola' and 'The Canterbury Pilgrims' from Gestation to Production", Music & Letters, Vol. 78, No. 1 (February 1997), pp. 77–91 テンプレート:Subscription
  48. 48.0 48.1 48.2 48.3 Dibble, Jeremy. "Parry, Sir (Charles) Hubert Hastings, baronet (1848–1918)", Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, 2004, accessed 18 December 2011 テンプレート:Subscription
  49. "Savonarola", The Theatre, 1 August 1884, p. 79
  50. The Era, 3 May 1884, p. 10; and The Morning Post, 1 May 1884, p. 3
  51. Willeby, pp. 293–294
  52. 52.0 52.1 52.2 52.3 52.4 Wright, David. "The South Kensington Music Schools and the Development of the British Conservatoire in the Late Nineteenth Century", Journal of the Royal Musical Association, Vol. 130, No. 2 (2005), pp. 236–282 テンプレート:Subscription
  53. 53.0 53.1 53.2 53.3 53.4 53.5 53.6 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「pupils」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません
  54. 54.0 54.1 O'Connell, Kevin. "Stanford and the Gods of Modern Music", The Musical Times, Vol. 146, No. 1890 (Spring 2005), pp. 33–44 テンプレート:Subscription
  55. Rodmell, p. 306
  56. Rodmell, p. 134
  57. Rodmell, p. 114
  58. Walker, p. 386
  59. Dibble, Jeremy. "Symphony No. 3 in F minor, Op. 28, 'Irish' (1887)", American Symphony Orchestra, accessed 30 December 2011
  60. "Aeschylus at Cambridge", The Times, 2 December 1885, p. 6
  61. "Oedipus at Cambridge", The Times, 23 November 1887, p. 6
  62. 62.0 62.1 62.2 62.3 Anderson, Robert. "Surveying Stanford", The Musical Times, Vol. 144, No. 1882 (Spring, 2003), pp. 48–50 テンプレート:Subscription
  63. Shaw, p. 389
  64. Shaw, pp. 389–390
  65. 65.0 65.1 Eatock, p. 90
  66. Schaarwächter, p. 53
  67. "Music", The Observer, 30 July 1893, p. 6
  68. 68.0 68.1 Wood, p. 86
  69. "'Shamus O'Brien' in Germany", The Times, 16 April 1907, p. 8
  70. Beecham, p. 95
  71. Rodmell, p. 181
  72. Rodmell, p. 169
  73. Young, p. 217
  74. Ainger, p. 372
  75. Stanford, C. V. "The Leeds Festival Conductorship", Letters to the Editor, The Times, 26 September 1904, p. 6
  76. Jacobs (1986), p. 406
  77. Shaw, pp. 373 and 513; and Rodmell, p. 266
  78. Rodmell, pp. 265–266
  79. "Royal Opera", The Times, 31 May 1901, p. 4
  80. "Much Ado About Nothing", The Manchester Guardian, 31 May 1901, p. 5
  81. Gillespie, Elgy. "Charles Villiers Stanford (1852–1924): Brilliant Dublin Boyhood, Cantankerous London Old Age", History Ireland, Vol. 12, No. 3 (Autumn 2004), pp. 24–27
  82. Reed, p. 61
  83. Moore, pp. 449 and 459
  84. Quoted in Moore, p. 700
  85. "Sir C. Stanford's New Opera", The Times, 8 January 1916, p. 9; and Rodmell, p. 292
  86. "Opera in Manchester – Sir Thomas Beecham's Enterprise", The Times, 3 June 1916, p. 11; and "Comedy and Criticism",The Times, 23 June 1916, p. 11
  87. Rodmell, p. 298
  88. Rodmell, p. 297
  89. Kennedy, p. 68
  90. Stanford, Charles Villiers. "On Some Recent Tendencies in Composition", Proceedings of the Musical Association, 47th Sess. (1920–1921), pp. 39–53 テンプレート:Subscription
  91. "At the Abbey Gate", The Times, 7 March 1921, p. 8
  92. Anderson, W R. "Yesterday's Music", The Observer, 6 March 1921, p. 15
  93. 93.0 93.1 Rodmell, p. 328
  94. Rodmell, p. 333
  95. "The Late Sir Charles Stanford", The Times, 3 April 1924, p. 17
  96. "Sir Charles Villiers Stanford", Westminster Abbey, accessed 8 January 2012
  97. "Sir Charles Stanford", The Times, 4 April 1924, p. 15
  98. Bonavia, F. "Stanford's Last Opera: 'The Travelling Companion'", The Musical Times, Vol. 66, No. 988 (June 1925), pp. 523–524 テンプレート:Subscription
  99. McN, W. "The Travelling Companion", The Musical Times, Vol. 76, No. 1107 (May 1935), pp. 456–457 テンプレート:Subscription
  100. テンプレート:Cite web
  101. Porte, p. 13
  102. Porte, pp. 14–15
  103. Howells, Herbert. "Charles Villiers Stanford (1852–1924). An Address at His Centenary", Proceedings of the Royal Musical Association, 79th Sess. (1952–1953), pp. 19–31 テンプレート:Subscription
  104. 104.0 104.1 Dibble, p. 461
  105. Dibble, p. 464
  106. 106.0 106.1 106.2 106.3 106.4 106.5 Rodmell, Appendix Two, unnumbered pages
  107. 107.0 107.1 Rodmell, p. 415
  108. 108.0 108.1 Temperley, p. 205
  109. Rodmell, p. 416
  110. Rodmell, p. 413
  111. Rodmell, p. 417
  112. 112.0 112.1 Whitehouse, Richard (2008). Notes to Naxos CD 8.570355テンプレート:Cite book
  113. Porte, pp. 32–33
  114. Stradling and Hughes, p. 140
  115. "Concerts", The Times, 19 January 1906, p. 8
  116. Foreman, Lewis (1987). Notes to Chandos CD CHAN 8545テンプレート:Cite book
  117. Porte, p. 69
  118. Rodmell, p. 414
  119. Temperley, p. 204
  120. Rodmell, p. 374
  121. 121.0 121.1 121.2 Burton, p. 349
  122. Porte, p. 107
  123. Porte, p. 111

参考文献

参照

テンプレート:Normdaten テンプレート:Good article