インディペンデンス (CVL-22)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
USS Independence(CVL-22)
艦歴
起工 1941年5月1日
進水 1942年8月22日
就役 1943年1月14日
退役 1946年8月28日
その後 核実験の後、1951年に標的艦として沈められる。
性能諸元
排水量 11,000トン
全長 190 m
艦幅 21.8 m
全幅 33.3 m
吃水 7.4 m
最大速 31ノット
乗員 士官、兵員1,569名
兵装 40ミリ機関砲26基
搭載機 30機:急降下爆撃機9機、雷撃機9機、戦闘機12機(竣工時)
27機:F6F - 5N 14機、F6F 5機、TBF アヴェンジャー8機(1944年8月)[1]

インディペンデンス (USS Independence, CV/CVL-22) は、アメリカ海軍航空母艦インディペンデンス級航空母艦のネームシップ。その名を持つ艦としては4隻目。

艦歴

インディペンデンスは、その前身の軽巡洋艦アムステルダム (USS Amsterdam, CL-59) として起工された。1942年8月22日にはニュージャージー州カムデンニューヨーク造船所CV-22 としてローリー・ワーナー夫人によって進水され、1943年1月14日に初代艦長G・R・フェアラム・ジュニア大佐の指揮下就役する。

初陣

巡洋艦から設計変更された最初の艦として、インディペンデンスは慣熟訓練カリブ海で行う。その後太平洋艦隊に加わるためパナマ運河を通過し、1943年7月3日にサンフランシスコに到着。7月14日に真珠湾に向けて出航し、到着後はエセックス (USS Essex, CV-9) 、ヨークタウン (USS Yorktown, CV-10) と第15任務部隊(チャールズ・A・パウナル少将)を編成して、南鳥島攻撃のための二週間に及ぶ訓練演習を共に行った。その間の7月15日付で、インディペンデンス級航空母艦は艦種が軽空母(CVL)に変更され、インディペンデンスのテンプレート:仮リンクCVL-22に変更された。

第15任務部隊による南鳥島攻撃は9月1日に行われ、島の施設の70パーセント以上が破壊された。続く作戦は10月5、7日のウェーク島攻撃であり、艦載機による攻撃と重巡洋艦艦砲射撃でウェーク島の日本軍施設は大打撃を蒙った。一連の作戦は、アメリカ海軍での機動部隊運用に関する新戦術の試験運用として行われたが[2]、パウナル少将の臆病の極みを見せた指揮ぶりが問題視された[3]。それでも、第15任務部隊は反撃らしい反撃を受けることなく真珠湾に帰投した。

ラバウルおよびギルバートへの攻撃

インディペンデンスは10月21日、エスピリトゥサント島に向けて真珠湾を出撃した。この頃、ブーゲンビル島の戦いが始まりつつあり、第3艦隊ウィリアム・ハルゼー大将)は機動部隊でブーゲンビル島への上陸を援護していた。折りしも、ラバウルに向かう栗田健男中将率いる日本艦隊の動向をキャッチしており、ハルゼー大将は栗田艦隊への攻撃を命じた。11月5日にサラトガ (USS Saratoga, CV-3) およびプリンストン (USS Princeton, CVL-23) の第38任務部隊フレデリック・C・シャーマン少将)を使って最初のラバウル空襲を行い、ラバウルに進出したばかりの栗田艦隊は大被害を受け、呆気なくトラック諸島へ逃げ帰った。ハルゼー大将は上陸支援のためダメ押しの攻撃を命じ、第38任務部隊に加えてガルヴァニック作戦が迫っていた第5艦隊からも部隊を借りることとした[4]

インディペンデンスは、エセックス (USS Essex, CV-9) およびバンカー・ヒル (USS Bunker Hill, CV-17) とともに、その借りてきた部隊である第50.3任務部隊(アルフレッド・E・モントゴメリー少将)に属しており、第50.3任務部隊は11月5日にエスピリトゥサント島に到着した後、整備と補給の後11月8日に出撃した[5]。11月11日、両任務部隊はラバウルを挟み撃ちする形で空襲を行い、ラバウル港内にいた第二水雷戦隊に打撃を与えた。日本軍は反撃のため航空機を繰り出してきたが(第三次ブーゲンビル島沖航空戦)、インディペンデンスの砲手は6機の日本軍機を撃墜した。第50.3任務部隊はこの後エスピリトゥサント島に帰投して燃料を補給し、第5艦隊に復帰の上ギルバート諸島に向かった。

11月18日と20日、インディペンデンスの艦載機は上陸に先駆けてタラワを攻撃。20日の日本軍による反撃でインディペンデンスは6機の日本機を撃墜したが、5本の雷撃を受けそのうち1本が右舷に命中した(第一次ギルバート諸島沖航空戦)。船体を破損したインディペンデンスは、重巡洋艦ペンサコーラ (USS Pensacola, CA-24) などの護衛を受け、11月23日にフナフティ島に向かい修理を受けた。ギルバート諸島攻略戦は太平洋における日本本土進攻の第一歩であったが、インディペンデンスは1944年1月2日に本格修理のためサンフランシスコに帰投した。この間、マーシャル諸島、トラック、サイパン島などから日本軍の兵力がほぼ一掃された。インディペンデンスは修理でカタパルトが増設され、修理完了後7月3日に真珠湾に戻った。

夜間機空母

この頃、夜間戦闘機バージョンのF6F ヘルキャットである F6F - 5N が登場し、夜間戦闘機だけで構成された飛行隊も開設された。しかし、これら夜間飛行隊は定数も少なく、また昼間の戦闘に駆り出されることも多かったので、有効的な活用が難しく邪魔者扱いされることもあった[6]。そこで、「1隻の空母の搭載機を全て夜間戦闘機だけにしてはどうか」という構想が出された。構想は採用され、搭載機のほとんどを夜間戦闘機にする専用空母として白羽の矢が立ったのが、修理を終えたばかりのインディペンデンスだった[1]

ハワイ水域に到着すると、インディペンデンスは新編成の第41夜間軽空母飛行群を乗せ、夜間発着訓練を開始する。先導的訓練をエニウェトク環礁で8月24日から29日まで継続し、第38任務部隊マーク・ミッチャー中将)に編入されたインディペンデンスは、パラオ攻略戦参加のため8月29日に出撃し、次いでフィリピン攻略のための作戦活動を行う。インディペンデンスの夜間飛行群は構想どおり、夜間偵察および夜間戦闘警戒飛行を中心に行ったが、肝心の夜間の出番は少なく、しかも夜間戦闘用のレーダーも敵手に渡るのを防ぐために撤去されたため、飛行群のパイロットからは不満が出た[7]

フィリピン戦線

9月に第38任務部隊はフィリピン侵攻に向けて連日の攻撃を行った。インディペンデンス搭載の第41夜間軽空母飛行群は、9月12日の夜にサマール島上空で一〇〇式司令部偵察機を撃墜して、初めての夜間戦闘の戦果を挙げた[8]。この期間に日本軍の本格的な反撃はなかったため、インディペンデンスは夜間の作戦活動から昼間作戦活動も行うようになり、ルソン島の日本軍拠点を攻撃した。第38任務部隊は10月初旬にウルシー泊地で補給を受けた後、10月6日に沖縄攻撃に向けて出撃した。第38任務部隊は沖縄、台湾、フィリピンに対して攻撃を行った。日本軍の航空反撃はインディペンデンスの艦載機による昼間攻撃および夜間偵察、攻撃によって撃退された。特に、夜間での戦果は夜間戦闘機に対する評価を高める結果となった[9]

空母部隊は10月23日にフィリピンから東に向けて出航した。後にロバート・カーニー提督が「壮大な規模の何かが進行中だった」と回想したように、アメリカ軍の攻勢は明白な物であった。テンプレート:仮リンク少将指揮下の第38.2任務群に属するインディペンデンスの飛行群は10月24日のシブヤン海海戦栗田健男率いる中央艦隊に対して攻撃を開始する。インディペンデンスの艦載機を含む航空部隊は戦艦武蔵を撃沈し、巡洋艦を航行不能にして、栗田艦隊を西方に追い払った。

その夜、ハルゼー大将は当面の撃破目標を、北に発見した小沢治三郎中将率いる機動部隊とし、戦艦や巡洋艦、駆逐艦で構成された特別編成の第34任務部隊(ウィリス・A・リー中将)および3個任務群を機動部隊撃滅に急行させて、サンベルナルジノ海峡をがら空きにした。この時、インディペンデンスの夜間探索機は再び東航する栗田艦隊を発見し、さらにここ数日間点灯していなかったサンベルナルジノ海峡の灯台が煌々と点灯されているのを発見[10]。報告を受けたボーガン少将はハルゼー大将に報告しようとしたが、ハルゼー大将の幕僚もこの報告を受信しており、幕僚はボーガン少将に「もう知っている」と返事した[10]。第38任務部隊は25日朝から小沢艦隊に対する攻撃を繰り返し、小沢艦隊の空母4隻を全て撃沈した。しかし、その間隙を突いた栗田艦隊がサンベルナルジノ海峡を突破してサマール島近海でクリフトン・スプレイグ少将率いる護衛空母と駆逐艦、護衛駆逐艦からなる第77.4.3任務群(通称「タフィ3」)を攻撃。レイテ湾方面の敵勢力は第7艦隊トーマス・C・キンケイド中将)指揮下の砲撃部隊で対処できると考えていたハルゼー大将だったが、キンケイド中将の泣き言に加え太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将からの「第34任務部隊はどこにいるか、世界が訝っている」の電文を受けショックを受け[11]、空母部隊のうち1個任務群と第34任務部隊のうちの戦艦と軽巡洋艦、駆逐艦を南下させ、大急ぎで栗田艦隊攻撃を行った。レイテ沖海戦でアメリカ艦隊は多大な戦果を挙げ、激戦の終了は同時に日本海軍の終焉も意味していた。インディペンデンスは航空偵察と、フィリピン攻撃を行う第38任務部隊への夜間航空援護を継続した。これらの作戦活動でインディペンデンスは空母部隊の前進に大きく寄与した。

インディペンデンスはウルシー泊地に帰投し、11月9日から14日までの間、遅れた休暇と補給を取る。しかしながらすぐにフィリピン沖での夜間攻撃と防衛作戦任務に就く。作戦活動は1944年12月30日まで継続し、この間コブラ台風に遭遇。艦自体に大した被害はなかったものの、何名かの乗組員が激浪にさらわれて行方不明となった[12]。その後ウルシー泊地で休養の後、この当時は夜間戦闘機専用空母となっていたエンタープライズ (USS Enterprise, CV-6) [13]と夜間戦闘機空母部隊を組んで出撃した。1945年1月3日から9日までルソン島リンガエン湾上陸を支援し、カムラン湾に潜むとみられた航空戦艦伊勢日向を始末するため、ハルゼー大将は艦隊を南シナ海に向ける。インディペンデンスとエンタープライズの夜間偵察機も伊勢と日向の捜索に参加した[14]。しかし、伊勢と日向はリンガ泊地に移動した後で、第38任務部隊は台湾インドシナ中国本土の日本軍基地を攻撃し、軽巡洋艦香椎率いるヒ86船団を全滅させた。フィリピンの戦いをめぐるこれらの支援作戦は、この方面での空母の夜間活動の終了を示すこととなった。南シナ海での作戦を終えたインディペンデンスは1945年1月30日に修理のため真珠湾へ向かった。

沖縄戦・日本本土攻撃

1945年3月13日、修理を終えたインディペンデンスはウルシー環礁に戻り、翌日には沖縄に向けて出撃する。3月30日、31日には侵攻前の空爆を行い、沖縄戦第一日目の4月1日の攻撃では補給施設と航空機を破壊した。日本軍の絶望的な抵抗に対し、インディペンデンスの艦載機部隊は多数の敵機を撃墜した。インディペンデンスは6月10日まで沖縄水域に留まり、その後レイテ島に帰投した。

1945年7月1日、インディペンデンスはアーサー・W・ラドフォード少将指揮下の第38.4任務群に加わり、日本本土に対する最終攻撃のため出撃した。第38任務部隊は8月まで日本各地を攻撃し、インディペンデンスの艦載機は空中哨戒を行う一方、谷田部[15]浦河[16]室蘭[17]などを攻撃し、7月24日と28日の呉軍港空襲では軽巡洋艦大淀重巡洋艦利根、戦艦榛名に損害を与えたと判定された[18]

8月15日の日本降伏後は、艦載機による捕虜収容所の捜索飛行を継続し、上陸部隊への航空支援を行った。インディペンデンスは9月22日に東京湾を出港し、サイパン島グアム経由で10月31日にサンフランシスコに到着した。

戦後

ファイル:USS Independence (CVL-22) burning.jpg
クロスロード作戦で炎上するインディペンデンス

インディペンデンスはマジック・カーペット作戦に参加し、1945年11月15日から復員兵輸送に従事する。1946年1月28日にサンフランシスコに到着、その後ビキニ環礁での原爆実験、クロスロード作戦の目標艦に指定された。7月1日の爆発実験エイブル (ABLE) では爆心地から1.5マイルの地点に係留され、艦には爆風で生じた皺が生じ、漏水も発生したが沈没しなかった。7月25日の爆発実験ベーカー (BAKER) にも供用された後、インディペンデンスはクェゼリン環礁に係留され、1946年8月28日に退役した。その後、放射能に汚染されたインディペンデンスの船体は真珠湾、サンフランシスコに曳航され調査された。船体は1951年1月29日にカリフォルニアの沖合で兵器実験に供用され沈没した。この際、インディペンデンスは放射性廃棄物を乗せたまま沈没し、テンプレート:仮リンク近海の漁業に影響が出たという抗議があった。

インディペンデンスは第二次世界大戦での戦功により8つの従軍星章を受章した。

脚注

テンプレート:Reflist

参考文献

  • 防衛研究所戦史室編 『戦史叢書62 中部太平洋方面海軍作戦(2)昭和十七年六月以降朝雲新聞社、1970年
  • 木俣滋郎『日本空母戦史』図書出版社、1977年
  • C・レイモンド・カルフォーン/妹尾作太男・大西道永(訳)『神風、米艦隊撃滅』朝日ソノラマ、1985年、ISBN 4-257-17055-7
  • 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
  • 駒宮真七郎『戦時輸送船団史』出版協同社、1987年、ISBN 4-87970-047-9
  • 石井勉(編著)『アメリカ海軍機動部隊 英和対訳対日戦闘報告/1945』成山堂書店、1988年、ISBN 4-425-30121-8
  • E・B・ポッター/秋山信雄(訳)『BULL HALSEY/キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史』光人社、1991年、ISBN 4-7698-0576-4
  • 渡辺洋二「夜のヘルキャット」『大空の攻防戦』朝日ソノラマ、1992年、ISBN 4-257-17248-7
  • C・W・ニミッツ、E・B・ポッター/実松譲、冨永謙吾共訳『ニミッツの太平洋海戦史』恒文社、1992年、ISBN 4-7704-0757-2
  • 谷光太郎『米軍提督と太平洋戦争』学習研究社、2000年、ISBN 978-4054009820

外部リンク

テンプレート:DANFS

テンプレート:Navbox
  1. 1.0 1.1 渡辺, 201ページ
  2. 谷光, 471ページ
  3. 谷光, 471、472、473ページ
  4. 木俣『日本水雷戦史』390ページ
  5. 木俣『日本空母戦史』555ページ
  6. 渡辺, 200ページ
  7. 渡辺, 202ページ
  8. 渡辺, 203ページ
  9. 渡辺, 205ページ
  10. 10.0 10.1 ポッター, 478ページ
  11. ポッター, 487、488ページ
  12. カルフォーン, 77、78ページ
  13. 渡辺, 209ページ
  14. 木俣『日本空母戦史』807ページ
  15. 石井, 72、477ページ
  16. 石井, 79、93、477ページ
  17. 石井, 82、83、84、477ページ
  18. 石井, 97、98ページ