ビキニ環礁
ビキニ環礁(ビキニかんしょう、Bikini Atoll)は、マーシャル諸島共和国に属する環礁。23の島嶼からなり、礁湖の面積は594.1平方キロメートル。
1946年から1958年にかけて、太平洋核実験場の一つとしてアメリカ合衆国が23回の核実験を行った[1]。
2010年、第34回世界遺産委員会において、ユネスコの世界遺産リスト(文化遺産)に登録された[2]。マーシャル諸島共和国初の世界遺産となった。
核実験
1946年アメリカ合衆国は当時信託統治領であったビキニ環礁を核実験場に選んだ。1948年に実験場が隣のエニウェトク環礁に変更された後、1954年には再度ビキニ環礁にも戻り核実験は1958年7月まで続けられた。この12年間に23回の核実験が実施された[3]。
クロスロード作戦
テンプレート:Main ビキニ環礁で行なわれた最初の核実験は、1946年7月1日と7月25日のクロスロード作戦である。これは1945年のニューメキシコ、広島、長崎に続く史上4番目と5番目の核爆発であった。
大小71隻の艦艇を標的とする原子爆弾の実験であり、主要標的艦はアメリカ海軍の戦艦「ネバダ」、「アーカンソー」、「ニューヨーク」、「ペンシルベニア」、空母「サラトガ」などのほか、第二次世界大戦で接収した日本海軍の戦艦「長門」、ドイツ海軍の重巡洋艦「プリンツ・オイゲン」なども標的となった。
キャッスル作戦(ブラボー実験)
テンプレート:Main 1954年3月1日のキャッスル作戦ブラボー実験では、広島型原子爆弾約1,000個分の爆発力(15Mt)の水素爆弾が炸裂し、海底に直径約2キロメートル、深さ73メートルのクレーターが形成された。
このとき、日本のマグロ漁船・第五福竜丸をはじめ約1,000隻以上の漁船が死の灰を浴びて被曝した[4]。また、ビキニ環礁から約240km離れたロンゲラップ環礁にも死の灰が降り積もり、島民64人が被曝して避難することになった。この3月1日は、ビキニ・デーとして原水爆禁止運動の記念日となり、継続的な活動が行われている。
放射能調査
米国は1958年から残留放射能の調査を開始し、1968年8月には居住は安全であるとの結論が出され、島民の帰島が許可された。実験に先立ち離島した167人の内139人が帰島したが、1975年に島民は安全性に疑問を持ち、アメリカ政府に対して訴訟を起こした。
その後1975、76、78年に調査が行われ、1978年9月には再避難することとなった。2度目の避難の後、1980、82年にも調査が実施された。これらの米国による調査の後、1986年に独立したマーシャル諸島共和国政府は第三者による調査を実施した。その報告書は1995年2月に提出されたが、共和国政府は報告書を承認しなかった。
1994年には共和国政府は国際原子力機関(IAEA)に放射能調査を依頼し、1997年5月にIAEAによる調査が開始された。1998年にIAEAは報告書「Radiological Conditions at Bikini Atoll: Prospects for Resettlement」 を発表し、その中で本環礁に定住しそこで得られる食料を摂ると年間15mSvに達すると推定され「永住には適さない」と結論づけた[3]。
現況
島民は、強制的にロンゲリック環礁へ、更にキリ島へと移住させられた。現在にいたるまで、原島民は島に戻れない。
放射能レベル自体は、短期間の滞在では問題ないレベルまで下がっており、現在では美しい沿海、上記艦船はダイビングスポットになっている。リゾートホテルもある。
2008年4月、オーストラリア研究会議(ARC)は、ビキニ環礁のサンゴ礁の現状について発表した。その発表によると、ビキニ環礁面積の80%のサンゴ礁が回復しているが、28種のサンゴが原水爆実験で絶滅した。
世界遺産
登録基準
この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。テンプレート:世界遺産基準/coreテンプレート:世界遺産基準/core
脚注
- ↑ 太平洋核実験場全体では1946年から1963年の間に105回、同じマーシャル諸島ではエニウェトク環礁と合わせて69回の核実験が行われた。
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 3.0 3.1 国際原子力機関(IAEA) Conditions at Bikini Atoll 閲覧 2014-3-3
- ↑ 森住卓「ビキニ水爆実験-被曝者はいま」