八王子千人同心

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八王子千人同心(はちおうじせんにんどうしん)は、江戸幕府の職制のひとつで、武蔵国多摩郡八王子(現八王子市)に配置された郷士身分の幕臣集団のことである。その任務は甲州口(武蔵・甲斐国境)の警備治安維持であった。 寛政12年集団で北海道胆振勇払などに移住し、苫小牧市の基礎を作った。

沿革

徳川家康江戸入府に伴い、1600年慶長5年)に発足した。当初は代官頭大久保長安が統括した。 発足当時の状況について、徳川幕府の正史『徳川実紀』にはこう書かれている。 「(家康公は)江戸で長柄の槍を持つ中間を武州八王子で新規に五百人ばかり採用され、甲州の下級武士を首領とした。その理由は、八王子は武蔵と甲斐の境界なので、有事の際には小仏峠方面を守備させようとお考えになったからである。 同心どもは常々甲斐国の郡内へ往復して、絹や綿の類を始めとして甲斐の産物の行商を行い、江戸で売り歩くことを平常時の仕事にするようになされたのだ。」(現代語訳)

すなわち、千人同心は、甲斐武田家の滅亡後に徳川氏によって庇護された武田遺臣を中心に、近在の地侍豪農などで組織された。甲州街道の宿場である八王子を拠点としたのは、武田家遺臣を中心に甲斐方面からの侵攻に備えたためである。甲斐が天領に編入され、太平が続いて国境警備としての役割が薄れると、1652年からは交代で家康を祀る日光東照宮を警備する日光勤番が主な仕事となった。江戸幕府では槍奉行配下の軍隊を持った。江戸中期以降は文武に励むものが多く、荻原重秀のような優秀な経済官僚や、昌平坂学問所で新編武蔵風土記稿の執筆に携わった人々、天然理心流の剣士などを輩出した。天然理心流は家元の近藤家が千人同心だったこともあり、組織内にある程度習うものもいた。

千人同心の配置された多摩郡はとかく徳川の庇護を受けていたので、武州多摩一帯は同心だけでなく農民層にまで徳川恩顧の精神が強かったとされる。この事から、千人同心の中から後の新選組に参加するものが複数名現れるに至ったとも考えられている。

組織

十組・各百人で編成され、各組には千人同心組頭が置かれ、旗本身分の八王子千人頭によって統率され、槍奉行の支配を受けた。千人頭は200~500石取りの旗本として遇され、組頭は御家人として遇され、禄高は10俵1人扶持~30俵1人扶持である。

千人同心は警備を主任務とする軍事組織であり、同心たちは徳川将軍家直参の武士として禄を受け取ったが、その一方で平時は農耕に従事し、年貢も納める半士半農といった立場であった。この事から、無為徒食の普通の武士に比べて生業を持っているということで、太宰春台等の儒者からは武士の理想像として賞賛の対象となった。

八王子の甲州街道陣馬街道の分岐点に広大な敷地が与えられた。現在の八王子市千人町に、千人頭の屋敷と千人同心の組屋敷があったといわれる。

最近の研究による武士身分の見直し

千人同心が武士身分であったかについては疑問も多い。従来は千人同心だったもの達の主張に従い武士(御家人)だったというのが通説であったが、近年に入り現存する史料などの研究が進むと、武士身分としての実態が伴っていなかったことが判明してきている。

例えば、千人同心は苗字を公称することがゆるされておらず、帯刀についても公務中のみと制限されていた、そして同心の家族であっても帯刀はゆるされず、引退した同心経験者であっても同心職を退いたならば帯刀は出来なかった。さらに同心職の譲渡にあたっても養子縁組を擬制することなく同心職のみが継承された。

また江戸時代中期頃より株売買による千人同心職の譲渡が盛んになり、八王子に集住していた同心達にかわり、関東近在の農村に散在する富農層が千人同心職を兼帯するようになる。 千人同心たちは居住する村落では人別帳に他の農民同様に百姓として記載されており、幕府代官所をはじめとする地方領主達は、かれらを武士とは認めていなかった。このため千人同心たちはたびたび御家人身分の確認をもとめて幕府に願い出るが、幕府は毎回これを却下している。テンプレート:要出典

今日では武家奉公人相当だったのではないかと考えられている。

千人頭

  • 荻原家(荻原重秀の実家)
  • 上窪田家
  • 上窪田別家
  • 下窪田家
  • 志村家
  • 原家
  • 中村家
  • 河野家
  • 山本家
  • 石坂家

著名な千人同心

関連項目

参考文献

  • 吉岡孝 『八王子千人同心』 同成社 ISBN 4-88621-261-1