三宅一生
三宅 一生(みやけ いっせい、ISSEY MIYAKE、1938年4月22日 - )は、日本出身のファッションデザイナー。
経歴
広島県広島市東区に出生[1]。1945年、7歳の時に広島市への原子爆弾投下により被爆。同じく被爆した母、春笑を放射能障害のため3年経たないうちに亡くした。「破壊されてしまうものではなく、創造的で、美しさや喜びをもたらすもの」を考え続けた末、衣服デザインを志向するようになった[2]。
幼少期から優れた美的センスを発揮、一貫して美術部に所属。焼け野原から復興する広島の街、とりわけ通っていた広島県立広島国泰寺高等学校の近くにあった丹下健三設計の広島平和記念公園やイサム・ノグチ設計の平和大橋のデザインに感銘を受ける。
高校卒業後、上京し多摩美術大学図案科に入学。在学中から装苑賞の第10回(1961年)、第11回(1962年)と2年連続で現在の佳作にあたる賞を受賞、頭角を現した。第1回コレクションは1963年に発表した「布と石の詩」[3]。しかしファッションを独立したデザイン分野と認知しない当時の環境に苛立ちパリに渡り、パリ洋裁組合学校「サンディカ」で学ぶ。1966年にギ・ラロッシュのアシスタントとなり、その後ジバンシィでデシナトゥール(完成した服を絵にする仕事)になる。パリモードがオートクチュールからプレタポルテに移行する時代、実用的な衣服をデザインすることで、人の在り方を表現するプレタポルテの若手デザイナーたちは大きなショックを受けた。
日本に帰国後の1970年、「三宅デザイン事務所」を設立[3]。翌年2月にはニューヨーク市内のデパートに「イッセイ・ミヤケ」のコーナーを開設した。
1973年、「イッセイ・ミヤケ秋冬コレクション」でパリ・コレクションに初参加。衣服の原点である「一枚の布」で身体を包み、“西洋”でも“東洋”でもない衣服の本質と機能を問う“世界服”を創造。布と身体のコラボレーションというべきスタイルの確立は、1978年発表の「Issey Miyake East Meets West」で集大成された。コンパクトに収納できて着る人の体型を選ばず、皺を気にせず気持ちよく身体にフィットする1993年に発表された代表作「プリーツ・プリーズ」はこれらの延長線上にある。
1993年、フランスレジオン・ドヌール勲章、イギリスロイヤル・カレッジ・オブ・アート名誉博士号授与。1998年、文化功労者に顕彰、1999年には米週刊誌『TIME』アジア版において、「今世紀最も影響力のあったアジアの20人」に選出され、2005年、第17回高松宮殿下記念世界文化賞(彫刻部門)、2006年第22回京都賞(思想芸術部門)など数々の賞を受賞。
2004年、財団法人三宅一生デザイン文化財団を設立、2011年2月1日に、公益財団法人となった。
2007年3月、東京六本木に誕生した複合施設「東京ミッドタウン」内に併設されたデザイン拠点「21_21 DESIGN SIGHT」(トゥーワン・トゥーワン・デザインサイト)をオープンさせた。
2008年度より朝日賞選考委員も務めている。
2010年11月 、文化勲章を皇居にて鈴木章、安藤忠雄や蜷川幸雄らと並び、受勲した。
ISSEY MIYAKE
「ISSEY MIYAKE」(イッセイ・ミヤケ)は三宅の作り出したブランドである。メンズ・レディス共に手がけており、1992年には香水「ロードゥ イッセイ」(L'EAU D'ISSEY) も発売。デザイナーに深澤直人、山中俊治、吉岡徳仁、ハッリ・コスキネン、ロス・ラブグローブ、イブ・ベアールを起用し、セイコーインスツルとコラボレーションした時計・ISSEY MIYAKE WATCHも展開している。
1993年「プリーツ・プリーズ」スタート。1998年「A-POC」発表。2000年にはHaaT、2001年にはme ISSEY MIYAKE、2010年にはBAO BAO ISSEY MIYAKE(バッグ)と132 5. ISSEY MIYAKE、2013年6月には陰翳 IN‐EI ISSEY MIYAKE(照明器具)、同年11月にはHOMME PLISSÉ ISSEY MIYAKEがそれぞれスタートした。
メンズは1993年より、レディースは1999年より、滝沢直己がクリエイティブ・ディレクターを務めた。2007年春夏コレクションをもって滝沢は退任し、2007年の秋冬コレクションから2011年の秋冬コレクションまで、メンズ・レディースともに藤原大がクリエイティブディレクターを担当した。2012年春夏シーズンからは、レディースは宮前義之が、メンズはデザインチームがそれぞれデザインを担当する[4]。2014年春夏シーズンから、メンズは高橋悠介がデザインを担当している[5]。
かつてはイッセイスポーツ[6]、イッセイコレクション[7]、ISSEY MIYAKE WHITE LABEL、ISSEY MIYAKE PERMANENTE[3]といったブランドがあった。その他に三宅が関連するブランドとしては、2006年の秋冬シーズンまで展開していたim productがあった。
イッセイ・ミヤケグループ傘下にはZUCCa・TSUMORI CHISATO、などを展開している株式会社エイネットがある。
愛用者
スティーブ・ジョブスのトレードマークである黒のタートルネックは三宅デザインのもの[8][9]。ジョブズは三宅のタートルネックを非常に気に入っており、『全く同じ色合い・肌合い・袖を捲り上げたときの感触』のものを、既に生産停止された商品であったにも関わらず、わざわざ自分の持っているものをサンプリングさせてまで作らせたことがある[10]。音楽家の山下洋輔はISSEY MIYAKE MENの洋服を公私ともに愛用している。
被爆体験
2009年7月14日付の『ニューヨーク・タイムズ』への寄稿 (A Flash of Memory) [11]の中で自身の被爆体験を初めて公表した。三宅は「破壊ではなく創造できるものについて考えることを好んできた」「『原爆を生き延びたデザイナー』というレッテルを貼られたくなかった」ことを理由に被爆体験については沈黙を続けていた[2][12][13][14]が、2009年4月にアメリカのバラク・オバマ大統領がプラハでおこなった核廃絶についての演説[15]が、「語ることに気乗りしなかった、自分の内側の深い場所に埋もれていた何かを呼び覚ました」という[2][12][13]。三宅は原爆について「原爆の色、いまでもイメージが浮かんでくる。いやな色だ」と話し[16]、被爆体験を語ることについて寄稿の中で「個人的かつ倫理的責務を感じている」と述べている[2][12]。
三宅は1995年の広島平和記念式典に参列。また毎年、原爆投下の時間に合わせて黙祷を捧げている。[14]
著書
- 三宅一生の発想と展開 - Issey Miyake east meets west(平凡社、1978年)
- Katsu on Issey(CBS・ソニー出版、1982年)
- 三宅一生/ボディワークス(小学館、1983年)
- XXIc. - 21世紀人(求龍堂、2008年)
出演CM
- サントリー角瓶(1978年 - 1982年)
- アップル・コンピュータ社 "Think Different"キャンペーン(1999年)
制服のデザイン
- 大阪万国博覧会 資生堂ユニフォームデザインを手がける。(1970年)以後、1985年まで数年に渡り、資生堂美容部員のユニフォームをデザイン。
- 全日本空輸(1979年 - 1982年の客室乗務員用)[17][18]
- ソニー(1981年)[19]
- 福岡ダイエーホークスユニフォーム(1989年 - 1992年)
- 第25回バルセロナ・オリンピック競技大会リトアニア代表選手団の公式ユニフォーム(1992年)