ワラキア

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ルーマニアの行政区域:黄がワラキア

ワラキア英語:Wallachiaルーマニア語:Valahiaハンガリー語:Havasalföld )は、ルーマニア南部の地方名である。ルーマニアの首都ブカレストがある地域で、かつては14世紀に建国されたワラキア公国があった。ここでは、古代に始まり、モルダヴィアと統合してルーマニア王国が成立するまでのワラキアの歴史を主に記す。

地理

ワラキアという地名は「ヴラフ人の国」という意味でルーマニア国外では慣用的に使われている呼称である。ルーマニア語には同義のヴァラヒア(Valahia)という呼び名もあるが、ルーマニア国内では「ルーマニア人の国」を意味するツァラ・ロムネヤスカŢara Românească)のほうがより一般的である。

ワラキアはドナウ川の北、南カルパチア山脈の南に位置する。オルト川で東西を分け、東部をムンテニア、西部をオルテニアと呼ぶ。モルダヴィアとの境は、伝統的にミルコヴ川(en:Milcov River)となってきた。ドナウ川河口の南北を領するのはドブルジャである。

首都とされた都市は時代と共に移り変わり、クムプルングen:Câmpulung)からクルテア・デ・アルジェシュen:Curtea de Argeş)、トゥルゴヴィシュテen:Târgovişte)、そして16世紀後半からブカレストが首都となった。

歴史

古代

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ローマ時代の属州ダキア。紫色部分

第二次ダキア戦争(紀元105年頃)の際、オルテニア西部が属州モエシアに含まれていたダキアの一部とともに、属州ダキアの一部となった。ローマの国境線がオルト川沿いに建設された(119年)。2世紀中に国境線は東へ伸び、ドナウ川からカルパチア山脈にあるルカル(en:Rucăr)へ拡張した。国境線は245年にオルト川まで退却し、271年にローマ人らはこの地域から撤退した(短期間のローマ支配で、ローマ文化とキリスト教が伝播した)。

ゴート族サルマタイ人など遊牧民族がもたらしたムレシュ=チェルナエホフ文化(en:Chernyakhov culture)の存在が現在のルーマニア全土に広まっていた頃と同時に、民族移動時代にローマ化された。328年、ローマ人がチェレイとオエスクス(現在のブルガリア・プレヴェン州)の間に橋を架けた。ドナウ川北方の人々との交易があったことを暗示するものである(コンスタンティヌス1世時代に短期間ワラキアが支配されていたことは立証されている)。332年、ゴート族がドナウ川南部のローマ帝国領を攻撃し、彼らはドナウ川北岸、のちに南岸に定住した。ゴート族支配は、アッティラ率いるフン族パンノニア平原へ到着した時に終焉を迎え、ドナウ両岸にあったゴート族の定住地は攻撃され破壊された。

東ローマ帝国の影響が5世紀から6世紀にかけてあったことは明かである。しかし6世紀半ばから7世紀にかけてスラヴ人がワラキアへ移動し始め、定住した。彼らは東ローマ領のドナウ南岸を占領した。593年、東ローマの将軍プリスクスはスラヴ人、アヴァール人ゲピド人を打ち負かした。602年、スラヴ人は手ひどい敗退を喫した。マウリキウス帝は帝国軍にドナウ北岸へ展開するよう命じ、軍の強固な反対に直面した。

681年に成立した第一次ブルガリア帝国にワラキアは支配され、10世紀後半にマジャル人がトランシルヴァニアを征服するまで続いた。ブルガリア帝国が衰え東ローマ帝国へ従属するようになると、10世紀から11世紀にかけ勢力を拡大してきたトルコ系のペチェネグ族がワラキアを支配下においた。1091年頃に南ロシアのクマン人がペチェネグ族を敗退させ、モルダヴィアとワラキアの領土を手中に入れた。10世紀初頭、東ローマ、ブルガリア、ハンガリー、のちに西欧の記録はルーマニア人(ヴラフ)の小さな政治形態が、最初はトランシルヴァニアで、12世紀・13世紀にはトランシルヴァニア東部やカルパチア山脈南部で、クニャズ(en:Knyaz、公)やヴォイヴォド(en:Voivode、総督や知事)に率いられて乱立していたことを示している。

1241年、モンゴル人のヨーロッパ侵攻でクマン人支配は終焉を迎えた。ワラキアはモンゴルの直接支配を受けたとされるが証明されていない。ワラキアの領有については、ハンガリー王国とブルガリア人の間でおそらく議論された。しかし、モンゴル侵攻を受けたハンガリー王国の過酷なまでの弱体化は、ワラキアにおいて新しく強固な勢力が確立するのに貢献することになった。

公国の誕生

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ポサダの戦い。14世紀ハンガリーの年代記クロニコン・ピクトゥムより

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ワラキアのヴォイヴォドについて初めて記述がなされた断片には、カルパチア山脈の両側の土地を支配していた(ファガラシュを含む)ワラキア公リトヴォイとのつながりが登場する(1271年)。彼はハンガリー王ラースロー4世朝貢することを拒んだという。リトヴォイの後を継いだのは弟のバルバト(en:Bărbat、在位1285年-1288年)であった。さらなるモンゴル侵攻(1285年-1319年)でハンガリー国家の弱体化は続き、アールパード王家が衰退したことでワラキア政治形態の統合、そしてハンガリー支配からの脱却の道が開けた。

ワラキアの建国は、言い伝えによれば伝説のワラキア公ラドゥ・ネグルen:Radu Negru)の業績とされてきた。ラドゥ・ネグルは、オルト川の両岸に支配を確立しハンガリー王カーロイ1世に対し反乱を起こしたバサラブ1世と歴史的につながる。バサラブ1世はバサラブ家初代の公として、クンプルングに宮廷をかまえた。彼はファガラシュ、アムラシュen:Amlaş)、セヴェリンの領土をハンガリーへ渡すことを拒み、1330年のテンプレート:仮リンクでカーロイ1世軍を打ち負かした。バサラブは東へ領土を拡張し、ブジャクのキリアにまで至る領土を支配した[1]。彼の後継者らはこの遙か東方の領土を維持することができず、キリアは1334年頃ノガイ人en:Nogais)によって奪われた[2]

バサラブ1世の次にワラキア公となったのはニコラエ・アレクサンドルen:Nicolae Alexandru)で、ニコラエの次はヴラディスラヴ1世Vladislav I)が継いだ。ヴラディスラヴは、ラヨシュ1世がドナウ川南部を占領したあとにトランシルヴァニアを攻撃した。1368年にヴラディスラヴは自身を大王として認めさせようとしたが、同じ年に再び反乱に遭った。彼の統治時代は、最初のワラキア=オスマン帝国間の対決を目の当たりにした。対トルコ戦でヴラディスラヴはブルガリア皇帝イヴァン・シシュマンen:Ivan Shishman of Bulgaria)と同盟した[3]。 ワラキア公ラドゥ1世と彼の後継であるダン1世のもとでは、トランシルヴァニアとセヴェリンの領域がハンガリー王国との間で争われ続けていた[4]

バサラブ1世以降、統一されたワラキアの統治者は『公』(ルーマニア語:DomnまたはDomnitor、英語:Prince)と呼ばれるが、一つの家系が世襲する国家ではなかったことが特色である。それぞれが大土地所有者であるボイェリ(en:Boyar、ボヤールとも。封建貴族階級)は、自身の領土から賦役と十分の一税を取り立てる封建領主であった。彼らは同じボイェリの中から、自分たちを代表する人物を公に選ぶ選挙制をとっていた。そのため、公は終身制と決まっているわけではなく、2、3年で交替したり、同じ人物が2度・3度公位につくことがあった。

1400年-1600年

ミルチャ1世からラドゥ大公の時代

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ワラキアの県を表した地図。1390年頃[5]

バルカン半島全体が、出現したオスマン帝国の必須部分となることで(1453年にスルタンメフメト2世コンスタンティノープルの陥落を終結させた過程)、ワラキアはトルコとの常習的な対決で時を費やされるようになった。ミルチャ1世(ミルチャ老公、en:Mircea the Elder、在位1386-1395年、1397-1418年)時代末期にはワラキアはオスマン帝国の属国となった。

ミルチャ1世は初め数度の戦い(1394年のロヴィネの戦いを含む)でトルコを敗退させ、敵をドブルジャから駆逐して自身の支配を広げた。彼は、神聖ローマ皇帝ジギスムントポーランドヤギェウォ朝との間の同盟に考えが定まらなかった(どちらの国ともニコポリスの戦いで同盟した)[6]。1415年、メフメト1世トゥルヌ・マグレレジュルジュを支配下においた後、ミルチャ1世はオスマン帝国の宗主権を受け入れた。この2つの港は短期間の中断があったものの、1829年まで軍直轄地としてトルコの支配下におかれた。1418年から1420年、ミハイル1世Mihail I)がセヴェリンでトルコを負かしたが、彼がトルコの攻撃で殺されただけだった。1422年、対トルコ危機はわずかな間ワラキアから目をそらした。ダン2世Dan II)が、ハンガリー軍人ピッポ・スパノen:Pipo of Ozora)の助けを得てムラト2世軍を打ち負かしたのである[7]

ワラキア内部の危機の時期である1428年に和平が結ばれた。ダン2世はラドゥ・プラスナグラヴァ(のちのラドゥ2世)から自身を防衛しなければならなかった。ラドゥは、既定のワラキア公に対抗して、ボイェリ連合と手を結び初めて登場した人物だった(当時、ボイェリらはトルコによる抑圧に応じて公然と親トルコとなっていた)[8] 。1431年にボイェリ側は勝利を納め(ボイェリが後押しをしたアレクサンドル1世アルデアがワラキア公となった)、アルデアはおよそ5年間公位にあった。ボイェリらは後継をアルデアの異母弟ヴラド2世Vrad II)とすることの取引を行った。ヴラド2世は、多くのボイェリらが親トルコでもやはりトルコの大宰相府と神聖ローマ帝国の間で妥協をしようとしていた [9]。しかし1444年のヴァルナの戦いでスルタン・ムラト2世軍にキリスト教国連合軍が大敗した後、ヴラド2世はトルコに従属する他なくなり、ハンガリーの将軍フニャディ・ヤーノシュと敵対するようになる。

その後の10年間は、2つの対抗する貴族ダネシュティ家(en:House of Dăneşti)と、ハンガリー王国摂政となったフニャディ・ヤーノシュの影響下にあるドラクレシュティ家(en:House of Drăculeşti)との対立が目立った。ワラキア公ヴラディスラヴ2世の中立的支配の後、ヴラド2世の次男ヴラド3世が継承した[10]。ヴラド3世時代に、ブカレストはワラキア公の居住地として初めて歴史上に名を現した。ヴラド3世は反抗的なボイェリたちに恐れを抱かせ、ボイェリとオスマン帝国との全てのつながりを断ち切った。彼はトゥルゴヴィシュテへ退却を強いられる前の1462年、夜襲(en:The Night Attack)の最中にメフメト2世軍の攻撃で打ち負かされ、以前よりさらに増やされた朝貢支払いを飲まされた[11] 。ワラキア公を僭称する実弟ラドゥ美男公やライオタ・バサラブとの対立が対トルコ戦と平行して続き、ハンガリー王マーチャーシュ1世軍のワラキア侵攻、モルダヴィア公シュテファン3世(シュテファン大公)のワラキア占領といった事態を招いた[12]。1495年にワラキア公となったラドゥ・チェル・マーレ(ラドゥ大公)はボイェリらといくつかの妥協をし、彼はモルダヴィア公ボグダン3世との衝突があったものの、国内の安定した時代を守った[13]

ミフネア・チェル・ラウ公からペトル・チェルチェル公まで

15世紀後半、強力なボイェリであるクラヨヴェシュティ家の昇進が見られるようになり、オルテニアのバン(総督)として事実上の独立した支配者となった。クラヨヴェシュティ家はワラキア公ミフネア・チェル・ラウ(ミフネア悪行公、ヴラド3世の子)と対立関係にあるオスマン帝国を支援しようと活躍し、ミフネアに替えてヴラドゥツ(Vlăduţ)を公位につけた。このヴラドゥツがバンに対して敵意を示した後、バサラブ家は正式にクラヨヴェシュティ家出身のワラキア公ネアゴエ・バサラブの台頭で断絶した[14]。ネアゴエ公の治めた平和な時代(1512年-1521年)は、文化的見解から知られている(クルテア・デ・アルジェシュ聖堂の建設、ルネサンスの影響など)。また、ブラショフシビウにおけるトランシルヴァニア・サクソン人商人の影響が強くなった様子が見られた。そしてワラキアはハンガリー王ラヨシュ2世と同盟関係にあった[15]。ネアゴエの子テオドシエがワラキア公となってから、国は再び4ヶ月間にわたるオスマン帝国の支配をうけ、ワラキアにおけるパシャルクパシャ領)創設を企むようにみえる軍政が敷かれた[16]。この危機が、ワラキア公ラドゥ・デ・ラ・アフマツィ(Radu de la Afumaţi)を支援すべく全てのボイェリを結集させた(彼は1522年から1529年にかけ、4度ワラキア公になっている)。ラドゥはクラヨヴェシュティ家とスレイマン1世との合意の後、戦いに負けた。ラドゥ公はすぐにスレイマンの地位と宗主権を認証し、以前より高額の朝貢を支払うことを承諾した[17]

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16世紀後半のワラキア(緑色の部分)

オスマン帝国の宗主権はそれから90年間を通じて事実上変わることなく残った。1545年にスレイマンによって位を追われたワラキア公ラドゥ・パイシエは、同年にオスマン施政に対しブライラ港を譲渡した。彼の後継ミルチャ・チョバヌル(en:Mircea Ciobanul、在位1558年-1559年)は貴族の相続財産を何も要求することなしに、彼は自分が公位にあることにつけ込み、必然的に自治権の低下を受け入れた(徴税は増え、トランシルヴァニアでの軍事干渉のため持ち出された。親トルコのハンガリー王位請求者サポヤイ・ヤーノシュを支援するためである)[18]。ボイェリの一族らの間の対立がパトラシュク・チェル・ブン(Pătraşcu cel Bun)公時代以後緊迫し、ボイェリが支配者以上に優勢であることはペトル・チェル・トゥナル(Petru cel Tânăr)公、ミフネア・トゥルチトゥルペトル・チェルチェル時代に明白となった[19]。ボイェリたちは、西欧の貴族のような称号を持っていなくとも、財産にものを言わせて官職を買うことは可能であったし、そのうえイスタンブルのスルタンや大宰相に献金をすれば公という最高位も買えた。また、オスマン帝国の方も、古くからあるボイェリによるワラキア公選挙制を残しつつも、帝国の推す人物が有利になるよう買収を行うことは珍しくなかった。同時代のオスマン帝国領ハンガリーやバルカン諸民族と違い、ワラキア、トランシルヴァニア、モルダヴィアの3公国が帝国に占領されず、パシャ領にもならなかったのは事実である。しかし、帝国は上記の3公国を属国とみなしていたのである。

オスマン帝国はますます、オスマン帝国軍の維持と供給のため、ワラキアとモルダヴィアの援助をあてにしていった。しかし、地元ワラキアの軍は強いられる負担の増加や、まして明白な傭兵軍の実力にすぐに幻滅してしまった[20]

17世紀

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1595年、ジュルジュでのミハイ勇敢公とトルコの戦闘

オスマン帝国の支援から最初に利益を得たのは、1593年にワラキア公位についたミハイ勇敢公en:Michael the Brave)であった。彼はトランシルヴァニア公バートリ・ジグモンドとモルダヴィア公アロン・ヴォダ(Aron Vodă)と同盟を結んだ上、ドナウの南北岸でムラト3世軍を攻撃した(カルガレニの戦い)。彼はすぐに神聖ローマ皇帝ルドルフ2世の宗主権のもとに下り、1599年から1600年にはトランシルヴァニアにおいて、ミハイの権力下にあった地方を所有する、ポーランド・リトアニア共和国時代のポーランド王ジグムント3世に対抗し干渉した。ミハイの事実上の支配は、翌年になってモルダヴィアへ拡大した [21]。ミハイの没落につれて、ワラキアはシミオン・モヴィラ率いるポーランド=モルダヴィア連合軍に占領された。1602年まで占領は続き、同じ年にはトルコ系のノガイ人による攻撃で被害を受けた[22]

オスマン帝国の拡大における最終局面が、ワラキアに増大する緊張をもたらした。オスマン帝国の経済的盟主権よって政治支配が伴われ、首都であったトゥルゴヴィシュテが見捨てられブカレストが選ばれた(ブカレストはオスマン帝国との国境に近く、貿易中心地として急速に成長していた)。ミハイ勇敢公治下での農奴制の確立は荘園での収入増加を示し、下級ボイェリらの重要性は薄れた(家系断絶を恐れた下級ボイェリらは1655年にセイメニの乱を起こした)[23] 。その上、土地所有者であるボイェリの前に高位官職に任命される重要性が芽生えたことから、金で官位を買うべくギリシャ人レバント人にすりより、これら一族の流入をもたらすことになった(ファナリオティスを参照。ギリシャ人らはワラキア人と同じ正教会信徒であり、金融業を営んでいたため富裕であった)。この過程は既に17世紀初頭のラドゥ・ミフネア公時代に地元ボイェリによって不快に思われていた [24] 。ボイェリの被任命者マテイ・バサラブは、1653年のフィンタの戦い(モルダヴィア公ヴァシレ・ルプを打ち負かした)を除けば、ワラキア公として比較的長い平和な時代をもたらした(1632年-1654年)。戦いの後にルプが公位を追われ、マテイ公の息のかかったゲオルゲ・シュテファンヤシでモルダヴィア公位についた。ゲオルゲ・シュテファン公と、マタイの後継であるコンスタンティン・シェルバンの密接な同盟関係は、トランシルヴァニアの支配者ラーコーツィー・ジョルジ2世によって維持された。しかし、トルコ支配から独立するための3公国の計画は、1658年から1659年にかけ襲ったメフメト4世軍に打ち破られた[25]。スルタンのお気に入りであったグリゴレ1世ギカゲオルゲ・ギカの時代、そのような反抗を妨げようとする試みが表された。しかし、反抗は、ボイェリであるバレアヌ家(Băleanu)とカンタクジノ家(ギリシャ人に始まるファナリオティスの家柄)との間の血なまぐさい衝突であった。この抗争は1680年代までワラキア史を特徴づけた[26]。カンタクジノ家は、同盟を結んでいたバレアヌ家とギカ家に脅かされ、アントニエ・ヴォダゲオルゲ・ドゥカといったカンタクジノ家が選んだワラキア公の背後に回って支援し[27]、後には同族からワラキア公を出した。1678年から10年間ワラキア公であったシェルバン・カンタクジノである。彼はブカレストに公国初の学校を創立させ、各種の活字印刷機の導入に同意した。彼はルーマニア・キリル文字で書かれたルーマニア語訳聖書(通称カンタクジノ聖書)の編纂も命じていた。この聖書はその後長きに渡ってルーマニア正教会で用いられた。

露土戦争とファナリオティス時代

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1699年のバルカン半島の地図。オスマン帝国領・及び属国はピンク色の地域

ワラキアは1690年前後の大トルコ戦争の終盤、ハプスブルク帝国(オーストリア)へ侵入するための標的となっていった。当時、ワラキア公コンスタンティン・ブルンコヴェアヌは秘密裡にそして失敗に終わったものの、反オスマン連合と交渉していた。ブルンコヴェアヌの統治時代(1688年-1714年)は、後期ルネサンス文化が花開いたことで知られる。そして同時にロシア皇帝ピョートル1世(大帝) のもとでロシアが台頭していた。

ブルンコヴェアヌは露土戦争(1710年 - 1711年)の最中ピョートル1世に接近した。しかしスルタン・アフメト3世にロシアとの交渉を知られてしまい公位を失い、逮捕されイスタンブルへ連行された。そして3年後の1714年8月、ブルンコヴェアヌは4人の息子達と共に斬首刑に処された[28]。ブルンコヴェアヌの政略が非難されたにもかかわらず、ワラキア公シュテファン・カンタクジノも反オスマン帝国に回りハプスブルク家の計画に加わり、プリンツ・オイゲン率いるオーストリア軍に対しワラキアを通過できるようにした。彼も公位から追われ父・叔父と共にイスタンブルへ連行され、1716年に3人とも処刑された[29]

シュテファン・カンタクジノの廃位に伴い、オスマン帝国は速やかに、単なる形式上のワラキア公選挙制度をやめた(既に当時、スルタンの決定を超えるような国民議会の重要性は衰えていることを示していた)。ワラキア、モルダヴィア両公国の君主はイスタンブルのファナリオティスの中から任命されていた。モルダヴィアではディミトリエ・カンテミール公以降、ニコラエ・マヴロコルダトによって始まり、ファナリオティス支配は1715年にワラキアへも導入された[30]。ボイェリと公の間の緊張関係が、免税扱いとなってきたボイェリの大多数から徴税する画期的な事態をもたらした。その結果、公国全体の税収は増加した[31]。マヴロコルダトは貨幣経済の成長を容認し、荘園制の衰退をもたらした。御前会議(en:Divan、最高会議とも)においてボイェリ集団の力が増大したのも事実である[32]

同時に、ワラキアはオスマン帝国対ロシア、または対ハプスブルクの戦争の連続で、戦場となっていった。マヴロコルダット自身はボイェリの反乱によって公位を追われ、墺土戦争(1716年 - 1718年)の最中にハプスブルク軍によって逮捕された。戦争後のパッサロヴィッツ条約でオスマン帝国はオルテニアを神聖ローマ皇帝カール6世へ与えなくてはならなかった[33]

オルテニアは啓蒙主義支配の影響を受け、すぐに地元ボイェリらが覚醒させられた。オルテニアは1739年のベオグラード条約によってワラキアへ復帰した(1737年から1739年にかけ起こったロシア・オーストリア・トルコ戦争の結果)。ワラキア公コンスタンティン・マヴロコルダトは国境における新たな変化を取り締まり、彼は1746年に農奴制の廃止を遂行した(これには、重い負担にあえぐ農民が隣国のトランシルヴァニアへ大量移住するのを止める目的があった)[34] 。この時代、マヴロコルダトの命令で国庫と彼の私的な国庫とが一つに併合するのと平行して、合図するように、オルテニアのバンは住居をクラヨーヴァからブカレストへ移した。これが中央集権政権へと向かう流れとなった[35]

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ブカレストに到着したフリードリヒ・ヨジアス・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト軍。1789年

露土戦争(1768年-1774年)最中の1768年, ワラキアはロシアによる最初の占領下にあった(ワラキアのボイェリで、ロシア帝国軍の士官であった反トルコの首領、プルヴ・カンタクジノの反乱によってロシアは占領するのに有利であった)[36]。1774年のキュチュク・カイナルジ条約は、オスマン帝国属国内に住む正教会信徒の保護をロシアに委ねたため、オスマン帝国による抑圧が削減され、ロシアの介入を許すことになった。この条約には義務となってきたトルコへの朝貢の減額も含まれていた[37]。同時にトルコは、南ブーフ川ドニエプル川に挟まれた地域をロシアへ割譲したため、初めてロシア領土が黒海沿岸に達した。当時、比較的国内は安定しており、開かれたワラキアはさらにロシアの干渉を受けるようになった[38]

露土戦争(1787年-1792年)の最中、フリードリヒ・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト率いるハプスブルク軍がワラキアへ入国し、1789年にワラキア公ニコラエ・マヴロゲニを退位させた[39]。この危機に、オスマン帝国の影響が復活した。オルテニアはオスマン・パズヴァントグルの遠征により荒らされた。パズヴァントグルは強力で反逆的なパシャで、ワラキア公コンスタンティン・ハンゲルリが起こした反乱に実際に加わっていた(ハンゲルリは反逆罪の容疑で1799年に処刑された)[40]。1806年、露土戦争(1806年-1812年)は在ブカレストのワラキア公コンスタンティン・イプシランティの御前会議の決定によって部分的に扇動されていた。ナポレオン戦争と波長が重なり、フランス第一帝政によって誘発されていたのだった。これにはキュチュク・カイナルジ条約の効果がみてとれる(ワラキア及びモルダヴィアで構成されるドナウ公国ではロシアの政治的影響力に対して許容的な姿勢がみられた)。この戦争で、ワラキアはミハイル・アンドレイェヴィチ・ミロラドヴィチ将軍率いるロシア軍に占領された[41]

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1793年から1812年のワラキア公国。緑色の部分

1812年のブカレスト和平条約以後、ヨアン・カラドジャ公時代はペスト大流行(en:Caradja's plague)のため記憶されているとはいえ、文化・工業の投機事業において知られている[42]。この時代のワラキアは、ヨーロッパ諸国の多くがロシア帝国の拡大を監視するうえで関心を持つ、戦略上の要地となっていた。ブカレスト和平条約でロシアは正式にベッサラビアを併合し、モルダヴィア公国と近接するようになったためである。領事館がブカレストで開設され、スディツィ商人(オーストリア、ロシア、フランスに保護されたワラキア商人に対する名称)に対し恩恵を与え保護することを通し、遠回しに、しかしワラキア経済の主な効果を担っていた。スディツィはすぐに地元ギルドに対して成功して競い合うようになった[43]

ワラキアからルーマニアへ

19世紀初頭

1821年、ワラキア公アレクサンドル・スツの死は、ギリシャ独立戦争の勃発と同時期であった。スツはボイェリの摂政体制を確立し、スカルラト・カリマキ(Scarlat Callimachi)がブカレストで公位につくべくやってくるのを防ごうとした。平行して起きた1821年のワラキア蜂起は、トゥドル・ウラジミレスクが首領として引き起こした。彼はギリシャ系による支配を転覆させるのを狙っていた[44]。しかし彼はフィリキ・エテリアに属するギリシャ人革命家と譲歩し、摂政らと同盟した[45]。その一方で、ロシアの支援を求めていた[46]

1821年3月21日、ウラジミレスクはブカレストへ入った。その後数週間で、特にウラジミレスクがオスマン軍に対抗する準備をしながらもオスマン帝国と合意を得てから、彼と同盟者の間の関係は悪化した[47]。フィリキ・エテリアの指導者アレクサンドル・イプシランチはモルダヴィアで蜂起した。その後5月、ワラキア北部でイプシランチはウラジミレスクを捕らえ、彼を処刑した。このために、ウラジミレスク側についていたパンドゥル(民兵組織)やロシア帝国の後ろ盾なしに、侵攻してきたスルタンの軍と直面することとなった。イプシランチ軍はブカレストとドラガシャニで大敗を喫した(彼はオーストリア帝国へ逃亡し、トランシルヴァニアで監禁されることになる)[48]。これらの反乱ではファナリオティスの大多数がイプシランチ率いるフィリキ・エテリアを支持したとみられたことから、スルタン・マフムト2世はトルコ支配下の公国を制定した(この公国はヨーロッパ諸国の要請で追い立てられる)[49] 。また、ファナリオティス支配の終わりが是認された。ワラキアでは、1715年以降初となるワラキア出身の公グリゴレ4世ギカが即位した。新たな体制が国家として実在するワラキアの残余で確立したにもかかわらず、ギカの支配は不意に圧倒的な露土戦争(1828年-1829年)によって断ち切られた[50]

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1837年、ワラキアでの立法議会

1829年のアドリアノープル条約で、オスマン帝国の宗主権が打倒されることなしに、ワラキアとモルダヴィアはロシア軍政下におかれ、2カ国には組織規定と初の憲法の外観が与えられた。オスマン帝国は、それまでの軍直轄地ブライラ、ジュルジュ(この2都市はすぐにドナウ川沿いの主要通商都市へと発展していく)、トゥルヌ・マグレレをワラキアへ返還した [51]。条約は、農民の状況を改善させるのと同様、相当量の経済と都市発展を知らしめる、オスマン帝国以外の国との自由貿易をワラキアとモルダヴィアに許可した[52]。条項の多くは、1826年のロシア=トルコ間のアッケルマン条約によって明記された(3年のへだたりをおいて十分に履行されることはなかった)[53]。2つの公国の監督責務はロシアの将軍パーヴェル・キセリョフに残された。この時代は主要な変化の連続で特徴づけられる。ワラキア軍の再設立(1831年)、改正税法(それでもなお特権のための免税措置が確立していた)、ブカレストや他都市における主要な都市施策である[54]。1834年、ワラキアの公位はアレクサンドル2世ギカが得た。アドリアノープル条約とは反対の流れで、彼は新しい立法議会によって選ばれていなかった。彼は1842年に宗主国(ロシアとオスマン帝国)から地位を追われ、議会が認定した公、ゲオルゲ・ビベスクに取って代わられた[55]

1840年代から1850年代

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1848年革命の活動家が、初期のルーマニア国旗を掲げる図

アレクサンドル2世ギカの専横と保守主義支配に対して反対する、自由主義の台頭と急進主義がともに流行したことは、イオン・クムピネアヌ(Ion Câmpineanu)による抗議の声を伴わって初めて世の中に伝わった(瞬く間に弾圧された)[56]。そのためにますます政府打倒の陰謀が増え、陰謀を企む秘密結社ニコラエ・バルチェスクやミティカ・フィリペスク(Mitică Filipescu)といった若い士官らによって結成されていた[57]

1843年に結成された秘密結社フラツィアFrăţia、ルーマニア語で友愛)は、ゲオルゲ・ビベスク政権を倒す革命、1848年には組織規定(Regulamentul Organic)を無効にすることを計画し始めた(ヨーロッパ諸国で起きた1848年革命に触発されていた)。彼らの全ワラキア・クーデターは、観衆が6月9日(新暦では6月21日)のイスラズ宣言en:Islaz Proclamation)に喝采をおくったトゥルヌ・マグレレ近郊で最初成功しただけであった。宣言には、外国による保護制廃止、完全独立、農地解放、そして国民防衛隊の創設が盛り込まれていた[58]。6月11日から12日、運動はビベスク公を退位させることに成功し、臨時政府が設立された。革命の反ロシア目的に対し共感を得たけれども、オスマン帝国は革命運動を押さえつけるロシアによって圧力をかけられた。トルコ軍は9月13日、ブカレストへ入った[59]。ロシアとトルコの軍は、1851年まで占領を続けた。退位したビベスク公の次にワラキア公となったのは、ロシア皇帝とスルタンから指名されたバルブ・ディミトリエ・シュティルベイで、革命関係者の多くが国外へ亡命した。

クリミア戦争の間ロシアによるワラキア占領が事実上再開され、戦後にワラキアとモルダヴィアは中立国オーストリア帝国管理(1854年-1856年)におかれ、パリ条約に基づいて新たな地位を与えられた。条約には、オスマン帝国による宗主権をヨーロッパ列強イギリスフランス第二帝政サルデーニャ王国、オーストリア帝国、プロイセン王国、ロシア帝国)の保障付きで認めること、列強の会議、カイマカム(en:kaymakam、トルコの地方長官職)主導の内政管理などが盛り込まれていた。ドナウ公国合同のために持ち上がった運動(最初1848年に要求する声が上がった。亡命した革命家の帰還によって大義が固められた)は、フランス帝国とサルデーニャ、ロシア、プロイセンが援護した。しかし、それは否決されるかその他の保護国によって不審に思われていた[60]

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1857年のワラキアでのディヴァン

激しい運動の後、正式なモルドヴィア=ワラキア合同公国が最終的に受諾された。協定によってそれぞれの公国は、現地出身の公と議会と選挙制議会を持つものの、2公国共通の司法裁判所を持つことになった。ボイェリの特権はこの時に廃止された。それにもかかわらず、1858年の公選挙は合法的な曖昧さから利益を得るものであった(最終合意の原文には2公国の公位を明文化していた。しかし同時に一人の人物に味方することや、一人の人物がブカレストのワラキア議会と、ヤシのモルダヴィア議会での選挙で勝利することを妨げなかった)。自由主義政党パルティダ・ナツィオナラ(Partida Naţională)の合同主義者として立候補した軍人アレクサンドル・ヨアン・クザが、1月5日にモルダヴィアでモルダヴィア公に選出された。合同主義者たちによって同じ投票がされると予想されていたワラキアは、最高会議において反合同主義者が多数派となって以前とは形勢が逆転した[61]

このような状況で、ブカレストに集まった群衆の一団が抗議した後、議員らの忠誠心に変化を与えた[62]。2月5日(旧暦では1月24日)、クザがワラキア公に選出された。従って彼はモルドヴィア=ワラキア合同公国の公(en:Domnitor)として承認された(1861年以後はルーマニア公となる)。これで事実上の合同を果たしたのだが、彼一代の統治期間が国際的に承認されたのみで、彼の後継者たちに対して効力はなかった。クザは7年に及ぶ在位の間、寄進修道院所領の世俗化、農地改革、メートル法採用、刑法典と民法典整備(ナポレオン法典を模範とする)、教育制度整備を行った。これらの改革活動によってクザは保守・自由両派と対立を繰り返すようになった。クザが支持を失い1866年2月に退位させられた後、合同を維持することを第一に考えた臨時政府は、ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン家のカール公子(カロル1世)を新たな公に選んだ。同年7月1日に憲法が制定され(1866年7月1日憲法)、正式に国名がルーマニアとなった。カロルの即位以後、2公国の合同を変更できなくなった(普墺戦争と同時期であった。この時オーストリアは決定に反対の立場をとっていたが、干渉する立場になかった)。

サン・ステファノ条約ベルリン会議を経て、ルーマニア王国が独立国家として正式に列強から承認されるのは、1881年のことである。

関連項目

脚注

  1. Ştefănescu, p.114
  2. Ştefănescu, p.119
  3. Ştefănescu, p.93-94
  4. Ştefănescu, p.94
  5. Petre Dan, Hotarele românismului în date, Editura, Litera International, Bucharest, 2005, p.32, 34. ISBN 973-675-278-X
  6. Ştefănescu, p.97
  7. Ştefănescu, p.105
  8. Ştefănescu, p.105-106
  9. Ştefănescu, p.106
  10. Ştefănescu, p.110
  11. Ştefănescu, p.115-118
  12. Ştefănescu, p.117-118; 125
  13. Ştefănescu, p.146
  14. Ştefănescu, p.140-141
  15. Ştefănescu, p.141-144
  16. Ştefănescu, p.144-145
  17. Ştefănescu, p.144-145
  18. Ştefănescu, p.162
  19. Ştefănescu, p.163-164
  20. Berza; Djuvara, p.24-26
  21. Ştefănescu, p.169-180
  22. Giurescu, p.65, 68
  23. Giurescu, p.68-69, 73-75
  24. Giurescu, p.68-69, 78, 268
  25. Giurescu, p.74
  26. Giurescu, p.78
  27. Giurescu, p.78-79
  28. Djuvara, p.31, 157, 336
  29. Djuvara, p.31, 336
  30. Djuvara, p.31-32
  31. Djuvara, p.67-70
  32. Djuvara, p.124
  33. Djuvara, p.48, 92; Giurescu, p.94-96
  34. Djuvara, p.48, 68, 91-92, 227-228, 254-256; Giurescu, p.93
  35. Djuvara, p.59, 71; Giurescu, p.93
  36. Djuvara, p.285; Giurescu, p.98-99
  37. Berza
  38. Djuvara, p.76
  39. Giurescu, p.105-106
  40. Djuvara, p.17-19, 282; Giurescu, p.107
  41. Djuvara, p.284-286; Giurescu, p.107-109
  42. Djuvara, p.165, 168-169; Giurescu, p.252
  43. Djuvara, p.184-187; Giurescu, p.114, 115, 288
  44. Djuvara, p.89, 299
  45. Djuvara, p.297
  46. Giurescu, p.115
  47. Djuvara, p.298
  48. Djuvara, p.301; Giurescu, p.116-117
  49. Djuvara, p.307
  50. Djuvara, p.321
  51. Giurescu, p.122, 127
  52. Djuvara, p.262, 324; Giurescu, p.127, 266
  53. Djuvara, p.323
  54. Djuvara, p.323-324; Giurescu, p.122-127
  55. Djuvara, p.325
  56. Djuvara, p.329; Giurescu, p.134
  57. Djuvara, p.330; Giurescu, p.132-133
  58. Djuvara, p.331; Giurescu, p.133-134
  59. Djuvara, p.331; Giurescu, p.136-137
  60. Giurescu, p.139-141
  61. Giurescu, p.142
  62. Giurescu, p.142

参照

  • Mihai Berza, "Haraciul Moldovei şi al Ţării Româneşti în sec. XV–XIX", in Studii şi Materiale de Istorie Medie, II, 1957, p.7–47
  • Neagu Djuvara, Între Orient şi Occident. Ţările române la începutul epocii moderne, Humanitas, Bucharest, 1995
  • Constantin C. Giurescu, Istoria Bucureştilor. Din cele mai vechi timpuri pînă în zilele noastre, Ed. Pentru Literatură, Bucharest, 1966
  • Ştefan Ştefănescu, Istoria medie a României, Vol. I, Bucharest, 1991

以上の参考文献は英語版作成の際に参考にされたもので、日本語版作成の際には参考にしておりません。

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