久遠郡

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北海道久遠郡の位置(緑:旧大成町 薄黄:合併の結果、他郡から編入された区域=旧瀬棚町+旧北檜山町)

久遠郡(くどうぐん・くどおぐん)は、北海道後志国檜山振興局

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以下の1町を含む。

郡域

1879年明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、せたな町の一部(大成区)にあたる。

本郡は合併により拡大した、全国でも数少ない例である。瀬棚郡北檜山町が町役場を、瀬棚郡瀬棚町が町名を、久遠郡大成町が郡名をそれぞれ引き継ぐ形となった。

歴史

郡発足までの沿革

室町時代嘉吉年間に太田山神社が創建され、享徳3年には松前藩武田信広公が久遠郡域の大田に上陸。

江戸時代、久遠郡域は和人地となる。松前藩によってクドウ場所・オオタ場所が開かれていた。陸上交通は、隣接する渡島国爾志郡から道道北檜山大成線の前身にあたる道が通じていたが、北の太櫓郡へは太田山が難所となって陸路が途絶えており、安政年間に江差の商人鈴鹿甚右衛門と津軽の商人松前屋庄兵衛らが私費を投じセキナイから太田山を経てラルインまでの12里(47.1km)の太田山道(国道229号の前身)を開削し通年の陸路での移動を可能とした。

江戸時代後期文化4年には、久遠郡域は天領とされた。文政4年には松前藩の元に戻されたものの、安政2年再び天領となり津軽藩が警固をおこなった。戊辰戦争箱館戦争)終結直後の1869年大宝律令国郡里制を踏襲して久遠郡が置かれた。

郡発足以降の沿革

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北海道一・二級町村制施行時の久遠郡の町村(5.久遠村 6.貝取澗村 桃:現在のせたな町)

参考文献

関連項目

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