武田信広

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武田 信広(たけだ のぶひろ)は、室町時代後期の武将若狭武田氏の一族といわれているが、実際には源姓武田氏流は仮冒とする説も強い。また、陸奥国南部氏の一族ともいわれる(『清私記』など)。

生涯

永享3年(1431年)2月1日、若狭国守護大名武田信賢の子として若狭小浜青井山城[1]に生まれたとされる。父・信賢は家督を弟の国信に譲る際に、自身の子である信広を養子にさせたが、間もなく国信に実子・信親が誕生したことで疎遠になった。また、信広は実父・信賢とも対立して孤立無援となったといわれているが、永享3年当時の信賢は12歳であり、国信は誕生前であったたため、この伝承の信憑性は低い。

宝徳3年(1452年)、21歳の時に家子の佐々木三郎兵衛門尉繁綱、郎党の工藤九郎左衛門尉祐長ほか侍3名を連れて夜陰に乗じて若狭を出奔したという。しばらくは鎌倉公方足利成氏のところに身を寄せていたが、この年の内に三戸の南部光政のもとへ移った。陸奥国宇曽利に移住し、南部家の領分から田名部・蠣崎の知行を許され、蠣崎武田氏を名乗るようになった。さらに享徳3年(1454年)8月28日、生駒政季を奉じて南部大畑より蝦夷地に渡り、上国花沢館蠣崎季繁に身を寄せた。その後、季繁に気に入られてその婿養子となり、蠣崎姓に改めている。康正2年(1456年)に嫡男・光広が生まれている。

1457年にはアイヌによる和人武士の館への一斉襲撃があり、和人武士団とアイヌの間でコシャマインの戦いが始まった。開戦当初は、奇襲攻撃を受けた武士達が当時蝦夷地にあった道南十二館のうち10館が陥落するなど追い詰められていたが、季繁の元にいた信広が武士達をまとめあげて大反撃に打って出ると、アイヌ軍は次々と敗退し、とうとうアイヌ軍総大将コシャマインの首も討ち取った(弓で射殺)。この功績により信広の蝦夷地における地位は決定的となった。1462年には勝山館を築城している。

1475年に、樺太アイヌの首長から貢物を献上され、樺太を支配下に置いたとされるが、勢力から考えても実効支配していたとはいえず、半ば放置されていたと考えられる。

明応3年(1494年6月23日、死去。子孫も着実に蝦夷地の平定を進めていき、松前守護職も得て松前氏と改姓し江戸時代には蝦夷地を支配するに至っている。

脚注

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関連項目

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  1. 書誌には御瀬山城生まれとあるが、同城は大永2年(1522年)に建造されたもので前身である青井山城と思われる。