標津郡
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以下の2町を含む。
郡域
1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記2町から標津町の一部(崎無異・薫別・古多糠・忠類[2]・茶志骨[3])、中標津町の一部(協和・豊岡[4]および俵橋の一部[3])除いた区域にあたる。
歴史
郡発足までの沿革
江戸時代の標津郡域は、松前藩によって開かれたネモロ場所に含まれた。標津神社は天明年間に創建されたと伝わる。いまから300年ほど前には養老牛温泉が発見されている。
江戸時代後期、標津郡域は東蝦夷地に属していた。南下政策を強力に進めるロシアの脅威に備え寛政11年標津郡域は天領とされた。文化年間にはそれまで蝦夷の人々が利用していた道を根室、釧路など三場所の蝦夷に請負わせ改修した斜里越も開削されている。斜里越は標津からチライワツタリに至る8里(31.4km)、チライワツタリから根北国境のルチシ峠を越え北見国斜里郡のワツカオイに至る8里32町(34.9km)など3区間にわたる道である。当時、最も権力の強かった釧路の蝦夷は自己の負担をできるだけ軽くするため、オタウニ(ルチシ峠の南方)にある斜里蝦夷と釧路蝦夷の境を本来より南東約20町(2.2km)のケネカワツカオイに移して開削したと言われている。
文政4年に一旦松前藩領に復したものの、安政2年再び天領となり会津藩がホニコイに陣屋を置き警固をおこなった。安政6年には会津藩領となっている(6藩分領)。戊辰戦争(箱館戦争)終結直後の1869年、大宝律令の国郡里制を踏襲して標津郡が置かれた。
郡発足以降の沿革
- 明治2年
- 明治4年
- 明治12年(1879年)7月23日 - 郡区町村編制法の北海道での施行により、行政区画としての標津郡が発足。
- 明治13年(1880年)7月 - 根室郡外八郡役所(根室花咲野付標津目梨国後得撫新知占守郡役所)の管轄となる。
- 明治15年(1882年)2月8日 - 廃使置県により根室県の管轄となる。
- 明治18年(1885年)1月 - 根室郡外九郡役所(根室花咲野付標津目梨国後得撫新知占守色丹郡役所)の管轄となる。
- 明治19年(1886年)
- 明治30年(1897年)11月5日 - 郡役所が廃止され、根室支庁の管轄となる。
- 大正12年(1923年)4月1日 - 北海道二級町村制の施行により、標津村、伊茶仁村および野付郡茶志骨村、目梨郡忠類村、薫別村、崎無意村の区域をもって標津村(二級村)が発足。(1村)
- 昭和18年(1943年)6月1日 - 北海道一・二級町村制が廃止され、北海道で町村制を施行。二級町村は指定町村となる。
- 昭和21年(1946年)
- 昭和22年(1947年)5月3日 - 地方自治法の施行により北海道根室支庁の管轄となる。
- 昭和25年(1950年)1月1日 - 中標津村が町制施行して中標津町となる。(1町1村)
- 昭和30年(1955年)4月1日 - 中標津町が野付郡別海村の一部(大字平糸村のうち現在の協和・豊岡)を編入。
- 昭和33年(1958年)1月1日 - 標津村が町制施行して標津町となる。(2町)
- 平成22年(2010年)4月1日 - 根室支庁が廃止され、根室振興局の管轄となる。
脚注
参考文献
- 角川日本地名大辞典 1 北海道