船田元
テンプレート:政治家 船田 元(ふなだ はじめ、1953年11月22日 ‐ )は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(10期)。前裁判官弾劾裁判所裁判長。元経済企画庁長官(第46代)。
衆議院議長や自由民主党副総裁、防衛庁長官を務めた元衆議院議員の船田中は祖父。栃木県知事や参議院議員を務めた船田譲は父。妻は元NHKアナウンサーで元参議院議員の船田恵。
来歴
栃木県宇都宮市生まれ。栃木県立宇都宮高等学校、慶應義塾大学経済学部卒業。大学卒業後、生家の船田家が創立した作新学院の副院長や総務部長を務める。1983年3月[1]、慶應義塾大学大学院社会学研究科教育学専攻修士課程修了。
1979年、祖父・船田中の地盤を引き継ぎ、第35回衆議院議員総選挙に旧栃木1区(定数5)から出馬。渡辺美智雄に次ぐ得票数2位で初当選した(当選同期に佐藤信二・保利耕輔・畑英次郎・麻生太郎・小里貞利・岸田文武・白川勝彦・丹羽雄哉・亀井静香・吹田あきら・宮下創平・亀井善之らがいる)。当時25歳で、史上最年少での当選であった。旧船田派を経て木曜クラブ(田中派)に入会し、田中派分裂の際は竹下登が結成した経世会に参加。自由民主党青年局長や文部政務次官を務め、竹下派の中では早くから将来を嘱望されていた。海部俊樹政権の下では、自由民主党幹事長に就任した小沢一郎が会長の「小沢調査会」で座長を務め、湾岸戦争における国際貢献策の議論を主導し、この頃から小沢一郎の側近を自任。竹下派分裂の際は羽田孜や小沢ら、金丸信の後継会長に羽田を推す陣営に加わり、スポークスマン役を務める。小渕恵三を会長に推すグループの大先輩・橋本龍太郎を相手に討論では一歩も引かず、丁々発止のやり取りを展開し、徐々に注目されるようになった。
1992年、宮澤改造内閣で経済企画庁長官に任命され、戦後の日本史上最年少の39歳1ヶ月で初入閣した[2]。宮澤改造内閣成立の直後、羽田孜、小沢一郎らが改革フォーラム21(羽田派)を結成。1993年6月、内閣不信任決議案が国会に提出され、懸案の政治改革に後ろ向きな宮澤喜一首相の逡巡に業を煮やした羽田派は賛成投票を決定する。そのため、宮澤改造内閣の閣僚だった船田、中島衛科学技術庁長官の2人は辞表を提出し、閣僚を辞任した上で宮澤内閣不信任決議案に賛成票を投じた。結果、内閣不信任案は可決され、宮澤首相は衆議院を解散した。その後羽田派は自民党を集団離党し、新生党を結党。船田も新生党公認で第40回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。新生党では国会対策委員長に相当する政務幹事に就任し、新生党代表幹事の小沢一郎を補佐する。
1994年、新生党解党により新進党結党に参加するが、この頃から次第に小沢への反発を強めるようになり、第2回の新進党党首選挙では羽田孜陣営に参加する(羽田は小沢に敗れた)。また新党さきがけの鳩山由紀夫、船田の2人を中心に新党構想(鳩船新党)が練られ、党派を超えて改革派を結集する動きを模索するが、リベラル志向の鳩山に対して船田は新保守主義を主張し、結局鳩船新党の構想は頓挫する。結局、鳩山は新党さきがけの菅直人や社会民主党の一部、新進党を離党した鳩山邦夫らを集め、旧民主党を結成した。
1996年9月、船田は新進党を離党し、第41回衆議院議員総選挙には無所属で栃木1区から出馬し当選。翌1997年1月、4年ぶりに自民党に復党した。復党後、自身は無派閥ながら山崎派の結成に奔走し、同じ栃木県選出の国井正幸参議院議員の旧渡辺派からの取り込みにも成功する。1999年、参議院議員の畑恵と再婚。2000年の第42回衆議院議員総選挙において民主党新人の水島広子に敗れ、1979年の初当選以来初めて落選した。この落選はまた、栃木県の名門・船田家の初の敗北でもあった。この選挙では都市部を中心に自民党に逆風が吹き荒れ閣僚経験者が多く落選した(1区現象)。なお落選後、山崎派を退会。
2003年の第43回衆議院議員総選挙では栃木1区で当選し、3年ぶりに国政に復帰した。当選後、竹下派の流れを汲む橋本派に入会。2005年の第44回衆議院議員総選挙で再選。
2009年の第45回衆議院議員総選挙では公明党、栃木県建設業協会の政治団体「県建設業協会政治連盟」の推薦も受け[3][4]自民党公認で出馬するが、栃木1区で比例復活もならず落選した。
2012年の第46回衆議院議員総選挙では、栃木1区で当選し、国政に復帰した[5]。
政策・主張
表現規制推進
- マンガ・アニメ・ゲーム・映画の表現を規制する青少年健全育成基本法案の請願を国会に提出した[6]。
- 自由民主党の日本国憲法改正案の草案に「有害図書の出版・販売は公共の秩序に照らして制限する」という条文を盛り込んだ[7]。
選択的夫婦別姓制度
選択的夫婦別姓制度導入に賛同する。「民法七百五十条は形式的には男女平等だが、ほとんどの場合は夫の姓になる。これは、間接的差別。そういう、やはり男女の差、あるいは差別に近い形がこういう社会通念の中にまだまだ入っているということがあり、そういうものを積極的に是正をしていくための法律、立法措置が必要」と述べた[8]。
人物
- 1992年12月、39歳1ヶ月で宮澤改造内閣において経済企画庁長官に就任し、戦後最年少で初入閣した。1990年代の政界再編では中心的な役割をにない最も将来を嘱望される存在であり、1994年には米タイム誌の「21世紀を動かす世界の100人」に、日本の政治家でただ1人選ばれた。また1996年に文藝春秋が企画した「現役政治部記者が選ぶ21世紀のリーダー」では、新党さきがけの鳩山由紀夫に次ぐ2位にランクインし、3位の谷垣禎一を凌駕している。しかしながら2度にわたる落選が響き、21世紀に入ってそれぞれ首相、自由民主党総裁の座に就いた両者に船田は大きく後れを取った。
- 名前が「船田 元」(ふなだ・はじめ)であるため、フルネームの後に肩書きがついた場合「船田元衆議院議員」となり、船田「元衆議院議員」の意味に取られてしまうため、マスメディアは表記の対応に苦慮している(同様の例として中谷元がいる)。落選中は「船田元前衆議院議員」の表記がなされていたが、今後元職になった場合「船田元元衆議院議員」となり、姓のみあるいは姓名の表記でさらに事態は複雑になる。
- かつては新保守主義を標榜し、顔ぶれがリベラルに偏る鳩山新党への参加を拒否した。しかし小泉内閣以降の自民党については右傾化していると批判的で、安倍晋三が掲げる「戦後レジームからの脱却」にも否定的な見解を示している。
- 警視庁公安部が1993年に作成した「勝共(表現規制推進運動を行っている統一教会の政治団体)推進議員名簿」に船田の名前が掲載されている[9]。
- 憲法改正に賛成、TPPに反対。
所属団体・議員連盟
- 日朝国交正常化推進議員連盟
- 神道政治連盟国会議員懇談会
- 再生医療を推進する議員の会
- LRT推進議員連盟
- 街コン推進議員連盟
- 新憲法制定議員同盟
- 日本・チェコ友好議員連盟(会長)
- 日本食文化普及推進議員連盟
- 栃木県私立中学高等学校連合会(会長)
- 栃木県ゲートボール協会(会長)
- 公益財団法人日本国際フォーラム(参与[10])
親族
- 船田元の父は参議院議員、栃木県知事を務めた船田譲。祖父は大野伴睦派に属し、大野の死後は船田派を率いて自由民主党副総裁や衆議院議長を務めた船田中で、船田家は栃木県の名門である。また元国務大臣の船田享二、元自治大臣の藤枝泉介は大叔父にあたる(いずれも船田中の弟)。
脚注
関連項目
外部リンク
テンプレート:S-ppo
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
(創設)
北村直人
船田元
|style="width:40%; text-align:center"|新生党政務幹事
畑英次郎・吹田愰と共同
初代・第3代・第4代:1993年6月 - 1994年
|style="width:30%"|次代:
北村直人
畑英次郎・吹田愰・船田元
(解党)
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
(創設)
|style="width:40%; text-align:center"|新生党組織幹事
初代:1993年
|style="width:30%"|次代:
中西啓介
- 転送 Template:End
テンプレート:衆議院文教委員長 テンプレート:裁判官弾劾裁判所裁判長 テンプレート:経済財政政策担当大臣
テンプレート:日本国際フォーラム- ↑ [1]
- ↑ 後に小渕優子が34歳9ヶ月で麻生内閣で内閣府特命担当大臣(男女共同参画・少子化対策)に任命され、記録を更新した。
- ↑ 衆院選小選挙区 自民128人推薦 2009年8月7日公明新聞
- ↑ 毎日新聞 2009年8月10日 地方版
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ 請願情報 請願名「青少年健全育成のための有害図書類・有害情報規制に関する法整備を求めることに関する請願」の情報
- ↑ 「国防の責務」明記を提示/自民・権利小委で船田氏 SIKOKU NEWS 2005年2月10日
- ↑ 第159回国会衆議院 - 憲法調査会基本的人権の保障に関する調査小委員会 - 1号 平成16年02月19日
- ↑ 現職国会議員128人の「勝共連合・統一教会」関係度リスト(『週刊現代』99.2.27号から)
- ↑ テンプレート:Cite web