伏見宮
テンプレート:日本の氏族 伏見宮(ふしみのみや)は、かつてあった日本の宮家の一つ。宮家御紋は伏見宮十四裏菊。世襲親王家の4家の中では最も歴史が古く、持明院統の嫡流で北朝の崇光天皇の第一皇子栄仁親王を初代とする。宮号はその所領だった伏見御領に因む。
第3代貞成親王の第一王子彦仁王(後花園天皇)は嗣子のない称光天皇の猶子となって皇統を継ぎ、この系統が今日の皇室に連なっている。一方、貞成親王の第二王子貞常親王の系統は以後代々と伏見宮を継承し、明治になるとそこから数多くの連枝が新宮家を創設した。
昭和22年(1947年)昭和天皇の弟である直宮3家を除いたすべての傍系宮家が皇籍を離脱することになったことにともない、代24代博明王が臣籍に下って伏見博明を名乗った。このとき皇籍離脱した11宮家はいずれもこの伏見宮の系統である。
歴史
北朝第3代崇光天皇第一皇子栄仁親王は持明院統の嫡流にあたったが、その皇位継承は将軍足利義満に忌避されたと考えられ、皇位を継承することなく御領のひとつ伏見御領に移り、伏見殿と呼ばれるようになった。
栄仁親王王子の3代貞成親王は、自ら伏見宮と称していた。貞成親王の第一王子は後花園天皇として即位し、第二王子の貞常親王が4代目となったが、貞常親王は兄の後花園天皇から永世「伏見殿」と称することを勅許され、以後、代々「伏見宮」と名乗るようになった。
幕末から明治維新の時の19代貞敬親王および20代・23代邦家親王は子女に恵まれ、貞敬親王からは梨本宮、邦家親王からは山階宮・久邇宮・華頂宮・小松宮・北白川宮・東伏見宮がそれぞれ創設されたほか、幕末に断絶していた閑院宮をも継承して再興している。また久邇宮からはさらに賀陽宮・東久邇宮・朝香宮が創設された。維新後に創設された宮家はそのすべてが伏見宮家の系統である。
邦家親王の跡を継いだ24代貞愛親王は、元帥・陸軍大将に累進。明治天皇および大正天皇の信任も厚く、皇族の重鎮として、大日本農会・在郷軍人会総裁を歴任した。
貞愛親王の跡を継いだのが、25代博恭王である。博恭王は当初、華頂宮家を継承していたが、伏見宮家の継嗣とされていた弟の邦芳王が病弱のため、伏見宮に復帰して継嗣となった。元帥・海軍大将・軍令部総長として昭和海軍の実力者であった。博恭王は、1946年(昭和21年)8月16日に薨去し、博恭王の第一王子の博義王は父よりも早く薨去していたので、博義王の第一王子である博明王が26代となった。
博明王は1947年(昭和22年)GHQの指令により10月14日皇籍離脱し、伏見氏を名乗る。
伏見宮家邸宅
江戸時代の伏見宮家は京都御所周辺に2ヶ所の邸宅を有しており、その時の当主の都合で、どちらかを本邸として使用していた。御所東部と御所北部に、その邸宅は存在した。御所北部の邸宅は現在、同志社女子大学の敷地の一部となっている。周囲には桂宮家と五摂家の二条家と近衛家の邸宅があった。
御所東部(出町北鴨口)の邸宅跡地付近には、「妙音弁財天」を祀る伏見宮家の鎮守社が今も残る。
明治初期以降の伏見宮邸の跡地は、現在はホテルニューオータニとなっており、庭園にその名残がある。なおこの場所には、はじめ加藤清正の下屋敷があり、後には井伊家中屋敷があった。
歴代当主
- 栄仁親王(北朝第 3代崇光天皇第 1皇子)
- 治仁王
- 貞成親王(後花園天皇父、後崇光太上天皇)
- 貞常親王
- 邦高親王
- 貞敦親王
- 邦輔親王
- 貞康親王
- 邦房親王
- 貞清親王
- 邦尚親王
- 邦道親王
- 貞致親王
- 邦永親王
- 貞建親王
- 邦忠親王
- 貞行親王(桃園天皇第 2皇子)
- 邦頼親王(15代貞建親王王子)
- 貞敬親王
- 邦家親王※
- 貞教親王
- 貞愛親王(元帥陸軍大将)
- 博恭王(元帥海軍大将、軍令部総長)
- 博明王(皇籍離脱、伏見氏を名乗る)
※ 正確には、邦家親王→貞教親王→貞愛親王→邦家親王(再継承)→貞愛親王(再継承)→博恭王という継承が行われた。そのため、系図によっては邦家親王を20代・23代、貞愛親王を22代・24代、博恭王を25代と数えているものもある。
また11代邦尚親王については、その父である10代貞清親王よりも7か月早く薨去しているので歴代当主に数えない説もある。同様に、24代博明王の父の博義王については、その父である23代博恭王よりも早く薨去しているが、博義王については歴代当主に数えていない資料が多い。
系図
参考文献
- 松薗斉「中世の宮家について-南北朝・室町期を中心に-」(『愛知学院大学人間文化研究所紀要・人間文化』25、2010)