北条時行
北条 時行(ほうじょう ときゆき)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の武将である。鎌倉幕府第14代執権北条高時の次男。
生涯
兄の邦時が正中2年(1325年)の生まれであるため、それ以後の誕生と考えられている。 後醍醐天皇が討幕運動を起こすと、幕府御家人であった足利高氏や新田義貞らが宮方に属し、鎌倉は新田義貞に攻められて高時ら北条氏は滅亡する。この際に時行は得宗被官諏訪盛高に連れられ、叔父の泰家と共に鎌倉を脱出、泰家は奥州に遁れている。幕府滅亡後に後醍醐天皇による建武の新政が開始されると、時行は北条氏が代々世襲する守護国の一つであった信濃に移り、諏訪氏などに迎えられた。北条一族の残党は各地に潜伏して蜂起し、泰家は京都で西園寺公宗らとともに各地の北条残党と連絡を取り新政の転覆と鎌倉幕府再興を図るが失敗する。
建武2年(1335年)7月、10歳前後(7歳とも)であったと考えられている時行は信濃の諏訪頼重、諏訪時継や滋野氏に擁立されて挙兵し、足利方の信濃守護小笠原貞宗と戦って撃破し、道中建武政権に不満を持つ武士を糾合しながら武蔵国へ入り鎌倉に向けて進軍した。7月22日には女影原(埼玉県日高市)で待ち構えていた渋川義季と岩松経家らの軍を破り、さらに小手指原(埼玉県所沢市)で今川範満を、武蔵府中で下野国守護小山秀朝を破って、ついに尊氏の弟である鎌倉将軍府執権足利直義を町田村(現在の町田市)の井出の沢の合戦で破り鎌倉を奪回した。
時行軍は逃げる直義を駿河国手越河原で撃破するが、京から直義救援に駆けつけた足利尊氏に、遠江国橋本、小夜の中山、箱根、相模国相模川、片瀬川などの戦いで連破され、時行の軍は壊滅し時行は逃亡した。時行が鎌倉を占領していたのはわずか20日間であるが、先代(北条氏)と後代(足利氏)の間に立った鎌倉の一時的支配者となったことから、この乱は中先代の乱と呼ばれる。
尊氏は中先代の乱を契機に新政から離反し、宮方を破り京都に武家政権を設立する。後醍醐天皇は吉野で南朝を開いて南北朝時代となり、延元2年(1337年)時行は吉野の後醍醐天皇と接触し、朝敵恩赦の綸旨を受けて南朝方に属する。時行は北畠顕家の軍に属し、顕家の2度目の西上の時に青野原の戦いなどで足利方と戦う。観応の擾乱の直後の正平7年/文和元年(1352年)に、新田義貞の遺児義宗・義興と共に上野国で挙兵するが、武蔵国で尊氏とその子基氏に敗れて捕らえられ、翌年5月20日に鎌倉龍ノ口で処刑された。時行の死により北条得宗家は滅亡する。
子孫
岡野氏、横井氏(子孫には横井小楠)や平野氏(尾張平野氏、子孫に平野長泰)など時行の子孫を称する家系もある。なお、近年黒田基樹は後北条氏第2代に数えられる北条氏綱の正室であった養珠院殿が後北条氏家臣で執権北条氏の末裔を名乗っていた横井氏出身の可能性を指摘している[1]。ゆえに、あくまで可能性だが養珠院殿の子孫(子の北条氏康など)は時行の子孫であると考えることもできる。
脚注
参考文献
- 「北条時行」「中先代の乱」(国史大辞典)
- 鎌倉・室町人名事典(新人物往来社)
- 北条氏研究会「北条氏系譜人名辞典」