ニキ・ラウダ
テンプレート:Infobox アンドレアス・ニコラウス・“ニキ”・ラウダ(Andreas Nikolaus "Niki" Lauda, 1949年2月22日 - )は、F1レーシングドライバー。オーストリアのウィーン出身。1975年、1977年、1984年のF1チャンピオン。「スーパーラット」、「不死鳥」の異名を持ち、その走りはコンピューターと云われた。
目次
プロフィール
デビュー前
生家はいくつもの製紙工場を所有する資産家階級で、長男として生まれた。1966年にニュルブルクリンクで開催されたドイツGPを観戦したのがきっかけで、レースへの道を進む決意をする。しかし、跡取りとして歩んで欲しかった家族は、決して協力的でなかった。初レースは家族に内緒で参戦。いきなり2位に入り新聞のスポーツ欄に掲載され、父親は激怒してレース禁止を言い渡した。次のレースでは優勝してしまったことから『レーサーを辞めなければ、ラウダ家の持ち物を一切置いて、家から出て行け』と言われる。それでもレースを続けたので暫く勘当されることとなった。後ろ盾のないままスポンサー獲得の交渉も行い、金銭的苦労を重ねながらステップアップしていった。
マーチ、BRM時代
- 1971年~1972年
- 欧州F2選手権等で活躍後、1971年9月にマックス・モズレーが代表をしていたマーチからF1にデビュー。このデビューでは父親の圧力でチームへの持参金が足りず、銀行に融資してもらう。担保は自らの生命保険であった。ラウダは、参戦前に自分のレース計画や将来の展望について記者会見を行う、新しいタイプのドライバーだった。チームメイトのロニー・ピーターソンとは友人であったが、資金不足のマーチでは、ピーターソンのみに肩入れをする状況が続いた。ピーターソンと遜色のない速さをみせたが、1972年末にいきなりマーチから解雇される。
- ピンチに立ったラウダであったがマールボロBRMに売り込みをし、BRMへ持参金を持ち込む条件で1973年シーズンのシートを確保した。同年、資金稼ぎのために参戦していたBMWアルピナ・ツーリングカーも、引き続き延長することとなった。
- 1973年
- 信頼性の問題でベルギーGP5位入賞のみだったが、各GPをリタイアする迄、速さを見せていた。特にモナコGPでフェラーリをリードする走りをしたことでエンツォ・フェラーリはラウダに注目。また、BRMで1レースだけ一緒に走り、既にフェラーリにいたクレイ・レガツォーニの推薦もあった。夏には、1974年からフェラーリの監督となるルカ・ディ・モンテゼーモロを代理として、ラウダをフェラーリへ勧誘。BRMとの契約をクリアーし、移籍が決まった。そして、BMWアルピナ・ツーリングカー参戦もこの年で終了となった。
フェラーリ時代
跳ね馬の新旗手
- 1974年
- 南アフリカGPで自身初のポールポジションを獲得。続くスペインGPではポール・トゥ・ウィンで初勝利を達成し、シーズン中盤にはドライバーズポイント首位に立った。イギリスGPではレース終了間際にピットインした際、観客の乱入によりコースに復帰できず5位となる珍事が起きた。この年は2勝し、最多の9ポールポジションを獲得したが、終盤戦の5連続リタイアによりタイトルを逃した(ドイツGPやカナダGPでミスもしていた)。しかしこのシーズンは、徹底したテスト・ドライブこそが、レースで高性能を引き出す鍵であることをラウダは理解した。アンダーステアを抱えていた312B3を進化させる為、工場に隣接するフィオラノサーキットを納得するだけ走り込んだ。
- 1975年
- テストを積極的に行い、312Tを開発。第3戦南アフリカGPより投入された312Tは、信頼性も高いマシンであった。ラウダは5勝9ポールポジションをあげ、速さと安定した走りでポイントを重ね、ワールドチャンピオンとなった。フェラーリのコンストラクターズタイトル獲得にも貢献した。監督のモンテゼーモロ、デザイナーのマウロ・フォルギエリとの関係も良好だった。しかし、そのモンテゼーモロは同シーズンで監督を退き、フィアットに戻った。後任はランチアのレース部門を管理していたダニエル・オーデットが就任した。
大事故からの生還
- 1976年
- 春にマルレーネと結婚。第4戦スペインGP前に自宅のトラクターで作業中に転落して肋骨を折りながら同GPで2位、第9戦終了時点で5勝をあげ、ポイントリーダーであった。しかし、ニュルブルクリンクで開催された第10戦ドイツGPで悲劇に襲われる。タイヤ交換で後退してから順位を挽回中に「ベルクヴェルク」の一つ手前にある左に廻る高速コーナーで突然コントロールを失い、右側のキャッチフェンスを突き破り、露出した岩に衝突、衝撃でヘルメットが脱げてしまった。発火したマシンはコース中央まで跳ね返され停止、これにブレット・ランガーのサーティースTS16が衝突し、アメリカ人ドライバーのガイ・エドワーズ、後続で停止したハラルド・アートル、アルトゥーロ・メルツァリオ、ランガー、コースマーシャルの5人が捨て身の行動で消火・救出活動を行った。事故原因については、縁石を乗せた弾みのスピン説やリアサスペンションの故障説なども浮上したが、現在も謎のままである。しかしラウダはタイヤトラブルだと語っている。
- ヘルメットが脱げた影響で頭部に大火傷を負い、FRP製のボディーワークが燃えて発生した有毒ガスを吸い込んだため、肺に深刻なダメージを受けた。全身のおよそ70%の血液を入れ替え、数日間生死の境をさ迷ったが、牧師が病室に訪れた途端にラウダは驚異的なペースで回復。事故発生から6週間後の第13戦イタリアGPで奇跡のレース復帰を果たし、4位入賞した。大腿部の皮膚を移植した顔の右半分には火傷の跡が生々しく残っている状態だったが、ラウダは周囲の好奇の目を気にする事も無かった。一方、マクラーレンのジェームス・ハントが第14戦カナダGP、第15戦アメリカ東GPと連勝。ラウダはそれぞれ8位、3位だった為、差を詰められた。
- タイトル争いは最終戦のF1世界選手権イン・ジャパンに持ち込まれた。この時点でポイントはラウダが3点リード。富士スピードウェイでの決勝は、コースに川ができるほどの豪雨に見舞われた。レース中止も噂される中で強行された決勝を、ラウダは「リスクが大きすぎる」として、わずか2周をスロー走行したのみで自らリタイアした。一方のハントは決勝で3位に入賞し、わずか1ポイント差でラウダを逆転して、1976年の世界チャンピオンになった。
- リタイアで自ら王座を手放したラウダをエンツォは公には庇ったが、その後の関係はギクシャクしていく。また、第12戦オーストリアGPをボイコットの最中にラウダがレースに復帰する見込みがないと判断したエンツォはダニエル・オーデットに頼み込み、イタリアGP前に代役としてカルロス・ロイテマンを引き入れた事が、結果的にレガツォーニの解雇につながり、その時点からチームとラウダの間に確執が生じ始めた。
- 1977年
- シーズン前のテスト・プログラムからラウダは除外されていたが、第3戦南アフリカGPでシーズン初勝利を上げ、チームの体制を再び自分に取り戻す。また第11戦ドイツGP、第13戦オランダGPをそれぞれ勝利し、シーズン3勝、2位6回と安定した走りで第15戦アメリカ東GPに2度目のワールドチャンピオンを確定した。しかし、それまでの経緯でフェラーリから離れることを決意していたラウダは、ゴードン・マレーのデザインした、サーフェイス・クーリング(表面冷却)と呼ばれるブラバム・BT46に惹かれ、バーニー・エクレストンとサインを交わす。そして、一緒に移籍することを希望したメカニックが解雇されたことに激怒し、アメリカ東GP後に2戦を残しフェラーリのシートを去った。
ブラバム時代
- 1978年
- 完走したレースは2勝、2位3回、3位2回と安定していたものの、BT46はラウダの見込みに反して信頼性が低く、全16戦中6戦をマシントラブルで、3戦をアクシデントでリタイアし、ランキング4位で終わった。スウェーデンGPではファン・カーと呼ばれたBT46Bに乗り優勝したが、リアエンドに取り付けられた冷却用ファンが可動する空力デバイスに当たるとのクレームを受け、次レースから同システムの使用が禁止された。また、この年にラウダ航空を設立し、チャーター便の市場に参入した。
- 1979年
- カナダGPで予選開始を前に突然引退する事を発表。「同じ場所(サーキット)を何回も何回も走りまわらなくてもよくなったんだ。一生の終わらないうちに、やっておくべきことが他にあると思うんだ」と理由を語ったが、一方でブラバムはアルファ・ロメオからフォード・コスワース・DFVへエンジンをスイッチしたが、欧州F2選手権時代から高回転のV12エンジン搭載のマシンに長年乗り続けてきたラウダはV8に幻滅し、突然引退を決めてしまったという説もある。ラウダ本人は『ピットでバーニーと話したのが直接の引き金になった』と語っている[1]。引退後は、ラウダ航空の経営に専念することとなった。
マクラーレン時代
現役復帰
- 1981年
- シーズン終了の少し前、マクラーレンのロン・デニスとマールボロのジョン・ホーガンから、ドニントンパークでのMP4/1のテストに招かれた。11月に、1982年からマクラーレンよりF1への参戦が発表され、2年半ぶりに復帰することとなった。「2年間、モーターレーシングに興味を示すことはなかった。オーストリアGP(1981年)の時にふと気づいたら、(復帰を)考え込んでいた」と語るラウダだが、当時の航空業界は世界的な金融不況の直撃を受け、ラウダ航空の経営も順調ではなかったからという説もある。その頃、国営のオーストリア航空と路線認可の紛争も抱えていたのだ。ちなみに復帰したラウダのヘルメットには、ラウダ航空の旅客機の尾翼と同様のデザインが施されていた。契約時にデニスはリスク軽減の一策として「もしラウダが明白に任務を果たしていない場合、4レース後に降りてもらう」という一文を入れたいと要求し、ラウダは快諾している。
- 1982年
- シーズン前、ラジアルタイヤへの違和感もあったが以前と同様にテストで走りこみ、感覚を取り戻していった。また、ニュルブルクリンクでの事故の後遺症を克服するためにサポートを受けたトレーナー(ヴィリー・ダンクル)のメニューで体力作りを行い、開幕に備えた。第3戦アメリカ西GPで復帰初勝利をあげ、第9戦イギリスGPを含む2勝を挙げランキング5位であった。
- 1983年
- 全15戦中、7戦をマシントラブルでリタイアし、ランキング10位。それでも第12戦オランダGPからTAGのスポンサーシップを得て、ポルシェ製1.5リッター・ターボV6エンジンを搭載したMP4/1Eが投入され、ラウダがドライブ。残りのレースは来年の準備となった。
3度目のタイトルと引退
- 1984年
- ラウダは、ルノーから移籍してきたチームメイトのアラン・プロストとタイトル争いをすることになる。ラウダ5勝、プロスト7勝で、予選もプロストの15勝1敗と劣勢だったものの、決勝で最後まで生き残ってポイントを確実に重ねるのはラウダの方だった。この年の5勝の中には、ラウダにとっては最初で最後となる地元オーストリアGPでの優勝も含まれている。決勝で1位走行中のラウダには、ギアのひとつが砕けるトラブルが起きていたが、ラップタイムを大きく落とさず、トラブルが起きているそぶりも見せなかった。それゆえ2位を走っていたブラバムのネルソン・ピケがラウダとのタイム差を考え、ポジションキープしたことで優勝できたレースであった。
- 最終戦ポルトガルGP迄、ラウダとプロストとの争いはもつれ込んだが、2位入賞したラウダがプロストにわずか0.5ポイントの差をつけ、3度目のワールドチャンピオンに輝いた。全16戦中12勝を得たマクラーレンはコンストラクターズタイトルも獲得した。ラウダは「今までチームメイトとこんなバトルをやったことはなかった。常に少しでも速く、少しでも上手に運転して、彼(プロスト)との競争で優位に立たなくてはならなかった」と喜びを語った。また、プロストへは「気にするな。来年は君がタイトルを取るよ」と声をかけている。1976年の事故以来サーキットへ一度も訪れなかったマルレーネ夫人も姿を見せ、表彰式ではラウダと抱擁して喜びを分かち合った
- ラウダはマクラーレン在籍の4シーズンの間にポールポジションは1度も獲得しなかったが、ポールポジションを1度も獲得せずにワールドチャンピオンを獲得したドライバーはこの年のラウダを最後に出ていない。
- 1985年
- ラウダのマシンにトラブルが多発し、チャンピオン争いから脱落。自身の予言どおり、プロストがチャンピオンを獲得した。第10戦オーストリアGPでF1からの引退を発表。次戦オランダGPでシーズン唯一の勝利を挙げ、これがラウダの最後のF1勝利となった。同GPは予選10番手スタートながら終盤プロストの追い上げを巧みにブロックし0秒232差で抑え込んで勝っている。最終戦のオーストラリアGPでは一時トップ走行をしたが、ブレーキトラブルでリタイアとなった。そのレースの10日後、ボーイング737の機長養成トレーニングを受けるラウダの姿があった。
引退後
1990年代前半に低迷するフェラーリのアドバイザーに就任。2002年にはボビー・レイホールの後任としてジャガーのチームマネージャーとなったが、社内人事の混乱により短期解任された。
実業家としては、1978年に設立したラウダ航空の経営に成功するが、1991年に機体の設計上の不具合が原因で、タイにて自社のボーイング767型機が墜落する大惨事を起こしてしまう。その後持ち直すも経営難から経営権をオーストリアのフラッグ・キャリアのオーストリア航空に譲渡している。
その後は2003年に自らのファーストネームをつけた格安航空会社のニキ航空を設立し、経営者となった。2011年に共同出資者のエア・ベルリンへ会社を売却し、エア・ベルリンの社外取締役に就任した。
現在はドイツ国内でのテレビ放送 (RTL) にて解説を務めるほか、F1の現状について辛口のコメントを発している。2012年にはレース後の表彰式でインタビュアーを務めた。
2012年9月、ラウダはエア・ベルリンの役員を辞任し、メルセデスAMGの業務執行権を持たない非常勤会長に就任した。併せてチームの株式10%を保有するとみられる[2]。ラウダは自身の役割について、イギリスのレース本部(ブラックレー)とドイツのメルセデス本社のつなぎ役と説明した[3]。
人物
エピソード
- 15歳の時に会社のトラックを運転して、工場間の短距離輸送をはじめていた。地元の警察官は名士の息子であるラウダが来ると手を振っていたが、18歳になり自動車運転免許を取得に警察へ来たラウダを見て、驚愕した。免許は取得できたものの、ラウダは厳しく叱られている。
- 初めてレーシングカーを手に入れる際、売り手には事前に実家をみせた。購入条件はラウダが持っていた公道用のクルマと交換し、不足分はそれを売った時に支払うというものであった。仮にラウダが支払わなくても実家が支払うだろうと売り手に思わせる為であった。その後、ラウダは前述のやり方でマシンを購入し続けるのだが、手にいれたマシンは丁寧に扱っていた。
- フェラーリ入りして最初のテストで、感想を聞かれると「ひどいマシンだ」と切り捨てた(当時のフェラーリではマシンの批判は絶対禁句だった)。「フロントサスペンションを直してほしい」と要求すると、エンツォ・フェラーリは「よかろう、ただし1秒速く走れなければ、お前はクビだ」と告げた。ラウダは手直ししたマシンで1秒以上速く走り、有言実行ぶりを示した[4]。
- 名誉に執着が無く、地元のガソリンスタンドで代金代わりにF1の優勝トロフィーを渡したこともあった。
- 1976年のニュルブルクリンクでの大事故では、病院では助かる見込みが少ないと思われ、神父を呼んで臨終の儀式まで行われていた。ラウダは「冗談じゃない、死んでたまるか」と妻の呼びかけで薄れる意識を保とうとした。その後、エンツォにイタリアGPからの復帰を申し出たが「ダメだ。もし最終的に世界チャンピオンになれなかった時、事故のせいにできるから、あまり早く復帰しない方が良い」と一時は断られた。また、最終戦で自らマシンを降りた際には、メカニックに「また死に損なうのは御免だ」と告げたという。
- 引退から2年経った1982年にF1に復帰する際、マクラーレンのメインスポンサーであるマールボロの重役から「契約金はいくら欲しいんだ」と聞かれ、それまでの現役ドライバーよりも遙かに高額の金額を口にした。それに対して重役は「まだ誰よりも走る自信があるのか?」と質問するとラウダは「私のドライバーとしての価値はせいぜい1ドル程度だろう。この金額は、ニキ・ラウダというブランドに対して支払われる対価だと考えて欲しい」と答え、これにマールボロ側も了承したが、ラウダは1984年に3度目となるワールドチャンピオンを獲得するなど、1ドルの価値の高さを見せつけている。
- エンツオと口論の末フェラーリから離脱した後、自家用飛行機で帰ろうとするが、航空管制塔から離陸許可が出なかった。実は既にラウダがフェラーリを辞める話はイタリア人の耳に入っていたため、フェラーリを辞めて行くドライバーに対する管制官からの嫌がらせだった。それに対してラウダは「私は来年、イタリアのアルファロメオエンジンを積むブラバムに行くんだ、イタリアとは縁が残ってるよ」と答えたところ、管制官は離陸を許可した。
人間関係
- エンツォ・フェラーリはラウダを評して「永年ヌヴォラーリを探していたのに、バルツィを見つけてしまったようだ」と語った[5]。限界派のタツィオ・ヌヴォラーリと頭脳派のアキッレ・バルツィはライバル関係にあった往時の名ドライバーで、エンツォはヌヴォラーリのようなドライバーを理想としていた。
- 1977年シーズン終盤、チャンピオンを獲得してフェラーリを去る際に、エンツォ・フェラーリから白紙の小切手を提示され、「いくらでもいいから好きな金額を書き込め!」と契約更新を促された。ラウダは意地からそれを固辞すると、エンツォは「何だ!何が目的なんだ!」と激昂。ラウダは「ただあなたのチームでこれ以上走りたくないだけだ」と告げたという。
- カルロス・ロイテマンの事を「チームメイトか、ライバルか?」と記者に聞かれ、「どちらでもない」と答えた。
- アラン・プロストは、ラウダのファンであったことを公言している。また「ニキは私に何かを教えてくれた唯一の人だった。彼はマシンの技術面にも関心を示し、仕事には厳しく、厳格な人であった。私たちはふたりともエゴイストだったけれど、考え方が似ていた。流れるような、飾りのない、地味なドライビングも似ていた。マシンの調整の仕方まで同じだった。ニキと出会ったことで、私は多くのことを学んだよ」と語っている。
- ケケ・ロズベルグは、その走りを「ニキと一緒にコーナーに入ったことが何度かあるが、非常にフェアだけど情け容赦ない攻め方をする」と語る。
- ジョン・バーナードは「ポルシェの手綱を取れたのはニキのおかげだ。ポルシェは彼の意見なら聞く耳がある。信頼もしていたようだ」と語っている。
- 最後の勝利となったオランダGPでラウダは予選10位に甘んじていたが、スタート前に友人のジャーナリスト、ヘルベルト・フォッカーに「今日は君が勝つよ」と言われ「何言っているんだ。完走出来るくらいには頑張るけど、俺は生きて帰らなきゃならないんだぜ」とかぶりをふった。が、スタートの混乱に乗じて5位に躍り出たラウダは「ヘルベルトのために勝ってみせようじゃないか」と、会心のレース運びで勝利を飾った。
- フェラーリのアドバイザー時代の1992年、ブラバムの女性ドライバージョバンナ・アマティとの不倫報道で騒がれた。
帽子
- 大やけどを負って以来、公の場では傷を隠すためにアポロキャップを被っている。スポンサーだったイタリアの食品会社パルマラット (parmalat) の文字が入った赤い帽子を常に被っていたため、時に「正装姿に赤いパルマラット帽」、などの奇妙な出で立ちとなったが、本人は平然たるものであった。2004年にパルマラットの粉飾決算スキャンダルに伴う経営不振の影響で契約が切れ、広告収入を得るため新たな「帽子スポンサー」を募集。以後、暖房器具メーカーフィースマン(Viessmann)、エリコン、アーバー(aabar)などが契約した。
- 2014年には新たなキャップスポンサーを披露したが、地元オーストリアで批判を受けている大手賭博会社としてニュースになった[6]。
日本国内での知名度
- 瀕死の重傷から6週間で再び復帰するまでの話は、日本の高校生向け英語教科書に掲載されていた時期もあった。当時の日本ではスーパーカーブームに付随する様な形でF1レースの人気も盛り上がりを見せており、ラウダは“大事故からレースに復帰したチャンピオン”という分かりやすい個性もあって、特に知名度が高かった。
- アニメ作品の『グランプリの鷹』には彼をモデルとした「ニック・ラムダ」と呼ばれるキャラクターが登場する。
- 1980年代初頭(一時引退の時期)には日本のヨコハマタイヤのCMキャラクターを務めている。
家族
- 1982年に復帰することが決まった際、何かにかこつけてマルレーネ夫人と揃って渡英し、夫人がショッピングする合間にこっそりテストに抜け出していた。その後、夫人がラウダのF1復帰を知った際には相当怒っていたそうで、『このろくでなし!』とこっぴどく罵られたという[1]。
- マルレーネ夫人との間に2人の息子を儲け、息子のマティアス・ラウダ (Mathias Lauda) もレーシングドライバーとして活躍中である。スピードカー・シリーズをともに戦っていた片山右京曰く「えげつないドライバー」。その他、非嫡出子の息子が1人いる。
- 1991年に前妻と離婚し、2008年8月に30歳年下のビルギット夫人(ラウダ航空の元スチュワーデス)と再婚。2009年9月16日に60歳で双子の父親になった。
映画
2011年、1976年シーズンのラウダとハントのライバル関係を描く"Rush"の製作が発表された。ピーター・モーガンが脚本を執筆、ロン・ハワードが監督を務め[7]、ラウダ役はダニエル・ブリュールが演じた。2013年9月より全米で封切られた。
ブリュールの好演は様々な映画賞にノミネートされ、サンタバーバラ国際映画祭のヴァーチュオソス賞を受賞している。ラウダ自身も映画のプロモーションに協力し、ハント役のクリス・ヘムズワースと共にゴールデングローブ賞授賞式に出席した。
日本では邦題『ラッシュ/プライドと友情』として2014年2月7日に公開(2月1・2日先行上映)。日本語吹き替え版ではKinKi Kidsの堂本剛がラウダ役を演じた。
F1での年度別成績
参考文献
- アラン・ヘンリー著『ニキ・ラウダ/不屈のチャンピオン』(ソニー・マガジンズ)
脚注
- ↑ 1.0 1.1 『F1 RACING』2011年1月情報号より。
- ↑ "ウォルフがメルセデス入り。ラウダと株式取得も". オートスポーツ.(2013年1月21日)2013年2月14日閲覧。
- ↑ "メルセデスの"実力者"にはならないとラウダ". ESPN F1.(2012年10月3日)2013年2月14日閲覧。
- ↑ 『スクーデリア・フェラーリ 1947-1997 50年全記録』 ソニーマガジンズ、1998年、p103。
- ↑ 『レーシングオン』2008年11月号、ネコパブリッシング、p35。
- ↑ "ラウダ、新スポンサーで物議をかもす". Topnews.(2014年1月20日)2014年3月5日閲覧。
- ↑ F1 on film - Q&A with Hollywood director Ron Howard Formula 1.com 2011年8月9日
関連項目
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