応神天皇
応神天皇(おうじんてんのう、仲哀天皇9年12月14日 - 応神天皇41年2月15日)は、第15代天皇(在位:応神天皇元年1月1日 - 同41年2月15日)。諱は誉田別尊(ほむたわけのみこと)、大鞆和気命(おおともわけのみこと)。誉田天皇(ほむたのすめらみこと/ほんだのすめらみこと)、胎中天皇(はらのうちにましますすめらみこと)とも称される。
諸説
井上光貞は、確実に実在が確かめられる最初の天皇としている[1]。仁徳天皇の条と記載の重複・混乱が見られる。河内王朝の始祖と見なす説[2]、日本国外の史料との相対比較から、『宋書』や『梁書』に見える倭の五王の讃に比定する説(ほかに仁徳天皇や履中天皇を比定する説もある)がある[3]。
諡号
- 『日本書紀』には、譽田天皇(ほむたのすめらみこと)[4]。この名は、天皇が生まれた時、その腕の肉が弓具の鞆(ほむた)のように盛り上がっていた事に由来し、ほむたに譽田をあてたものだという。また、母の神功皇后の胎内にあったときから皇位に就く宿命にあったので、「胎中天皇」とも称された。
- 『古事記』には、品陀和氣命(ほむだわけのみこと)、別名は大鞆和気命(おおともわけのみこと)とある。
- 『播磨国風土記』には、品太天皇(ほむだのすめらみこと)と表記。
- 『上宮記』逸文には、凡牟都和希王(ほむたわけのみこ)と表記。
諡号か実名か
応神天皇の名とされる「ホムダワケ」(『日本書紀』では誉田別、『古事記』では品陀和気と表記)は、実は生前に使われた実名だった、とする説がある。確実性を増してからの書紀の記述による限り、天皇に和風諡号を追号するようになったのは6世紀の半ば以降と見られる。とくに応神天皇から継体天皇にかけての名は概して素朴であり、ワカタケルのように明らかに生前の実名と証明されたものもある[5]。第22代清寧天皇のシラカタケヒロクニオシワカヤマトネコ(白髪武広国押稚日本根子、『日本書紀』に因る)のように明らかな和風諡号も見られるが、これはむしろ清寧天皇が後に皇統の列に加えられた架空の天皇である可能性を物語っている(ただし、清寧天皇の和風諡号は実名を基にした物であるため、実在した可能性が高い、とする説もある)。
『日本書紀』には、吉備臣の祖として御友別(みともわけ)の名が、『古事記』には、近江の安(やす)国造の祖先として意富多牟和気(おほたむわけ)の名が見えるが、これらの豪族の名の構成は「ホムダワケ」と全く同じである。これらのことから、「ワケ」(別・和気・和希などと表記)の称を有する名は4世紀から5世紀にかけて皇族・地方豪族の区別なく存在し、ごく普遍的に用いられた名であることが分かる。事実、景行・履中・反正の各天皇の名にも「ワケ」が含まれており、実名を基にした和風諡号である可能性が高い。以上の点から、応神天皇の「ホムダワケ」と言う名も実名だったと、この仮説では見なしている。
なお、この「ワケ」の語義ならびに由来については、諸説あって明らかにしがたい。『古事記』では、景行天皇が設置した地方官の官職名であり、皇族から分かれて諸地方に分封された豪族の称としている。が、これは観念的説明であろう。姓としての「ワケ」の項も参照。
系譜
父は先帝仲哀天皇で、母は神功皇后こと息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)とされるが、異説も多い。その理由は異常に出産が遅れたことにある。父として「是に皇后、大神と密事あり」(住吉大社の『神代記』)とある住吉大神や、あるいはまた武内宿禰とする考えもある[6]。このような出生の神秘性は、本来応神天皇が前王朝との血統上のつながりを持たず、新王朝の開祖であるとされたことを物語っているとするものもある。
- 皇后:仲姫命(なかつひめのみこと、中日売命) - 品陀真若王(五百城入彦皇子王子)女
- 荒田皇女(あらたのひめみこ、木之荒田郎女)
- 大鷦鷯尊(おおさざきのみこと、大雀命・仁徳天皇)
- 根鳥皇子(ねとりのみこ) - 大田君祖
- 妃:高城入姫命(たかきのいりびめ、高木之入日売命) - 品陀真若王女、仲姫命同母姉
- 妃:弟姫命(おとひめ、弟日売命) - 品陀真若王女、仲姫命同母妹
- 阿倍皇女(あへのひめみこ)
- 淡路御原皇女(あわじのみはらのひめみこ、阿具知能三腹郎女) - 根鳥皇子妃
- 紀之菟野皇女(きのうののひめみこ、木之菟野郎女)
- 滋原皇女(しげはらのひめみこ) - 記紀に見えず、『先代旧事本紀』より補う。
- 三野郎女(みののいらつめ)
- 妃:宮主宅媛(みやぬしやかひめ、宮主矢河枝比売) - 和弭日触使主女[7]
- 妃:小甂媛(おなべひめ) - 和弭日触使主女、宮主宅媛妹[7]
- 菟道稚郎女皇女(うじのわきいらつひめのひめみこ、宇遅能若郎女) - 仁徳天皇妃
- 妃:息長真若中比売(おきながまわかなかつひめ、弟媛) - 河派仲彦王(息長田別王子、日本武尊孫)女
- 妃:糸媛(いとひめ、糸井比売) - 桜井田部連島垂根女、男鉏妹
- 隼総別皇子(はやぶさわけのみこ、速総別命)
- 妃:日向泉長媛(ひむかのいずみのながひめ)
- 妃:迦具漏比売(かぐろひめ) - 須売伊呂大中日子(稚武彦王王子、日本武尊孫)王女
- 妃:葛城野伊呂売(かつらぎののいろめ、怒能伊呂比売?) - 武内宿禰女?
- (伊奢能麻和迦王) - 去来真稚皇子の重複か。
- 妃:兄媛(えひめ) - 吉備武彦命(稚武彦命子)女、吉備御友別妹
皇居
都は軽島豊明宮(かるしまのとよあきらのみや、現在の奈良県橿原市大軽町あるいは岡山県玉野市宇野(宇野八幡宮、通称・軽島八幡宮)か)。『古事記』には、軽島之明宮と見える。『日本書紀』によると、難波にも大隅宮(おおすみのみや。現在の大阪市東淀川区大隅、一説に同市中央区)が置かれたという。
事績
神功皇后の三韓征伐の帰途に宇瀰(うみ、福岡県糟屋郡宇美町あるいは岡山県玉野市宇野)または、 筑紫の蚊田(かだ、筑後国御井郡賀駄郷あるいは筑前国怡土郡長野村蚊田)で生まれたとされる。神功4年に立太子。応神天皇元年に71歳で即位、同41年に111歳で崩御。『古事記』に130歳。
- 『日本書紀』によると応神天皇14年に弓月君(秦氏の先祖)が百済から来朝して窮状を天皇に上奏し援軍を求めた。
弓月君(秦氏の先祖)は百二十県の民を率いての帰化を希望していたが新羅の妨害によって叶わず、葛城襲津彦の助けで弓月君の民は加羅が引き受けるという状況下にあった。 しかし三年が経過しても葛城襲津彦は、弓月君の民を連れて本邦に帰還することはなかった。 そこで、応神天皇16年8月、新羅による妨害の危険を除いて弓月君の民の渡来を実現させるため、平群木莵宿禰と的戸田宿禰が率いる精鋭が加羅に派遣され、新羅国境に展開した。新羅への牽制は功を奏し、無事に弓月君の民が渡来した。
- 『古事記』に「この御世に、海部(あまべ)、山部、山守部、伊勢部を定めたまひき。また、剣池(つるぎのいけ)を作りき。また新羅人参渡(まいわた)り来つ。ここをもちて建内宿禰命引い率て、堤池に役ちて、百済池(くだらのいけ)を作りき」。『日本書紀』にも同様の記事が見え、応神五年八月条に「諸国に令して、海人及び山守を定む」、応神十一年十月条に「剣池・軽池(かるのいけ)・鹿垣池(ししかきのいけ)・厩坂池(うまやさかのいけ)を作る」とある。剣池は奈良県橿原市石川町の石川池という。
- 『古事記』に、百済の国主照古王(百済の近肖古王)が、雄雌各一頭を阿知吉師(あちきし)に付けて献上したとある。この阿知吉師は阿直史等の祖。また、横刀(たち)や大鏡を献上した。また「もし賢人しき人あらば貢上れ」と仰せになったので、「命を受けて貢上れる人、名は和邇吉師(わにきし)。すなわち論語十巻、千字文一巻、併せて十一巻をこの人に付けてすなわち貢進りき。この和爾吉師は文首等の祖。また手人韓鍛(てひとからかぬち)名は卓素(たくそ)また呉服(くれはとり)の西素(さいそ)二人を貢上りき」。『書紀』の十五年八月条と十六年二月条に同様の記事が見える。また、応神二十年九月条に「倭の漢直の祖阿知使主(あちのおみ)、其の子都加使主、並びに己が党類十七県を率て、来帰り」とあって、多くの渡来人があったことを伝えている。
後世、神功皇后と共に八幡神に付会され、皇祖神や武神として各地の八幡宮に祭られる。
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、大阪府羽曳野市誉田6丁目にある惠我藻伏崗陵(恵我藻伏岡陵、えがのもふしのおかのみささぎ)に治定されている。公式形式は前方後円。考古学名は誉田御廟山古墳(前方後円墳、全長約420m)。
『古事記』には「御陵は川内の恵賀(えが)の裳伏(もふし)岡にあり」、『日本書紀』には陵名の記載はないが、雄略紀に「蓬蔂丘(いちびこのおか)の誉田陵」とある。誉田御廟山古墳は大仙陵古墳(仁徳天皇陵)に次ぐ(第2位の規模)5世紀初ともいわれる大前方後円墳である。ただし考古学の絶対年代はよほど強力な史料などが出ない限り、常に浮動的であることに注意する必要がある。2011年宮内庁により考古学者らの立ち入り調査が認められた。
上記とは別に、大阪府堺市北区百舌鳥本町にある宮内庁の百舌鳥陵墓参考地(もずりょうぼさんこうち)では、応神天皇が被葬候補者に想定されている[8]。考古学名は御廟山古墳。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
在位年と西暦との対照
当天皇の在位について、実態は明らかでない。『日本書紀』に記述される在位を機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。
年代に関して、『日本書紀』では応神天皇16年条に百済の阿花王(あくえおう、あかおう)が死去したと記述されているが、『三国史記』ではこの阿花王(阿莘王/阿芳王と記載)は西暦405年に死去したと記されている[9][10]。
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
- ↑ 『日本の歴史 第1巻 神話から歴史へ』 中央公論社 1964年、中公文庫 1973年/文庫改版 2005年,405頁
- ↑ 塚口義信の説。古代日向の謎 「神武東征」伝説の背景 : こだわり歴史考 : 教育 文化 : 九州発 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)2004年07月03日(リンク切れ)
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 『書紀』は分注に一伝として、元は去来紗別尊(いざさわけのみこと)といい、気比神宮の笥飯大神と名前を交換して譽田別尊の名を得たのであろうが、他に所見なく未詳、としている。これは『古事記』仲哀天皇段に見える「魚(な)と名(な)の交換」の説話を、「名前の交換」と解釈した誤伝であるが、詳しくは「氣比神宮」参照。
- ↑ 赤城(2006,118)
- ↑ 佐藤(2006,213)
- ↑ 7.0 7.1 『先代旧事本紀』は記紀と異なり、宮主宅媛を山無媛(やまなしひめ、香室媛)、日触使主を物部多遅麻連(たじまのむらじ)女とする。
- ↑ 外池昇『事典陵墓参考地 もうひとつの天皇陵』(吉川弘文館、2005年)pp. 49-52。
- ↑ 阿花王(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)(朝日新聞社コトバンクより)。
- ↑ 『日本古代氏族人名辞典 普及版』(吉川弘文館、2010年)阿花王項。