小林光一
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小林 光一(こばやし こういち、1952年9月10日 - )は、囲碁のプロ棋士。北海道旭川市出身。木谷實九段門下。日本棋院東京本院所属。名誉棋聖、名誉名人、名誉碁聖。前妻の小林禮子(1996年逝去)との間に一男一女。後妻との間にも子あり。長女は小林泉美。娘婿は張栩。門下に河野臨、大矢浩一、酒井真樹、大木啓司、金澤秀男、桑原陽子、穂坂繭ら。
棋聖8連覇、名人7連覇、碁聖6連覇など、数々のタイトル連覇記録を樹立。日本の現役囲碁棋士の中で、最も多く名誉称号を持つ。棋道賞「最優秀棋士賞」7回、秀哉賞7回。
履歴
- 1965年 13歳の時、木谷實に入門。
- 1967年 15歳の時、プロ試験合格。入段。同年、二段に昇段
- 1968年 三段に昇段
- 1969年 四段に昇段
- 1970年 五段に昇段
- 1971年 六段に昇段
- 1973年 七段に昇段
- 1974年 13歳年上の木谷禮子(木谷の三女)と結婚。
- 1976年 八段に昇段。第2期天元戦で公式戦初優勝。
- 1977年 初のビッグタイトル天元戦優勝。長女泉美誕生。
- 1978年 九段に昇段
- 1982年 本因坊戦挑戦。
- 1984年 十段戦で加藤正夫十段を破り、二度目の公式タイトルに就く(以降、三連覇)。
- 1985年 名人戦で趙治勲名人に挑戦し4―3で破り初の名人位に就く。同年、天元位奪取。
- 1986年 棋聖戦で趙治勲棋聖の四連覇を阻止。同年、NHK杯も初制覇。一気に五冠王となる。
- 1987年 棋聖位を獲得。以後八連覇、名誉棋聖の資格を得る。
- 1988年 名人と碁聖奪回。
- 以後それぞれ七連覇、六連覇を達成し名誉名人、名誉碁聖の資格を得る。この時期、日中名人戦などで対戦した中国棋士をことごとく降し、中国では「鬼小林」と呼ばれ恐れられた。
- 1990年 本因坊戦挑戦
- 1991年 本因坊戦挑戦
- 1992年 名人、碁聖を防衛。各五連覇により名誉称号の資格を得る。本因坊戦、王座戦挑戦。
- 1993年 名人、碁聖各六連覇。
- 1994年 名人七連覇。
- 1995年 NEC杯優勝。
- 1996年 4月16日、妻禮子と死別。
- 1997年 世界囲碁選手権富士通杯優勝。同年竜星戦優勝。名人戦挑戦。
- 1998年 15歳年下の女性と再婚。天元位奪取
- 1999年 十段戦で彦坂直人十段からタイトル奪取、さらに碁聖位を獲得。同年、阿含・桐山杯優勝。棋聖戦挑戦。
- 2000年 十段を防衛。
- 2001年 碁聖戦で山下敬吾碁聖からタイトル奪取。
- 2002年 碁聖防衛。第11期竜星戦優勝。本因坊リーグ入り。
- 2003年 第12期竜星戦優勝。長女泉美、張栩と結婚。
- 2004年 第51期NHK杯優勝。NEC杯優勝。史上初の父娘対決(後掲)
- 2006年 日本棋院副理事長(-2007年)
- 2011年 第36期棋聖戦リーグ入り。第1回囲碁マスターズカップ準優勝。
- 2012年 9月10日に満60歳の誕生日を迎え、名誉棋聖・名誉名人・名誉碁聖を名乗る。この内名誉名人は、囲碁界初である。
七大タイトル獲得数
- 棋聖 8期
- 名人 8期
- 十段 5期
- 天元 5期
- 碁聖 9期
記録
- 棋聖連覇 8期
- 名人連覇 7期
- タイトル獲得数 59(歴代3位) 2012年現在
- 通算700勝達成 史上5人目 達成時勝率第1位.708 1989年3月23日達成
- 通算1000勝達成 史上4人目 達成時勝率第1位.680 1998年11月28日達成
- 通算1200勝達成 史上4人目 2005年9月1日達成
- 1990年 囲碁界史上初の年間獲得賞金1億円突破
顕彰
- 1985年12月29日 旭川市民栄誉賞
- 1986年1月27日 北海道栄誉賞
- 1993年1月28日 都民文化栄誉章
棋風
足早に地を稼ぎ、ヨセで勝負を付ける。全盛時代に多用した小林流布石は好成績を挙げ、世界で流行布石となった。味や含みを残さず、早々と部分部分の形を決めて打つ「決め打ち」は有名。
趙治勲との角逐
趙治勲とは1980年代から90年代にかけて幾度となくタイトル戦で激突し、囲碁界において「小林・趙時代」を作った。対局は127局(2010年現在)に及び、同一カードとしては史上最多。対戦成績はほぼ五分(2011年現在で小林の63勝66敗)で、現代碁界きってのライバル関係にある。なお、若手時代は石田・加藤・武宮の「黄金トリオ」に対して、趙・小林は「シルバーコンビ」と呼ばれた[1]。
本因坊戦には過去4回登場しているが、すべて趙に敗れ、いまだ獲得に至っていない。特に1990年から三年連続の挑戦は、本因坊位獲得で大三冠達成となる寸前までいきながら、ことごとく趙の大逆転勝利に終わった。「大一番に好局なし」という言葉を覆したこのドラマチックな七番勝負は、現代日本囲碁界のハイライトともいわれている。
エピソード
- 地に辛く、含みを残さずに決め打ちするスタイルのため、同門の武宮正樹に「地下鉄みたいな碁」と揶揄されたことがあった。が、小林は「地下鉄とはうまいことをいう。碁に勝つためには真理だけを見ればよく、他は目に入れる必要がない」と受け流し、直後のタイトル戦で武宮にみごと完勝した。いっぽう武宮は1995年の名人戦登場にあたり、小林に揶揄したことを詫びた上で対戦し、小林から名人位を奪取した。
- 感想戦では思ったことを率直に口にするところがあり、かつては武宮正樹や趙治勲ともめたこともある。囲碁ライター・小堀啓爾は、「純粋で正直な人なのだけど、その純粋さがときに人を傷つける」と、小林の性格を描写している[2]。
- 前妻禮子は小林より13歳年上だった上、師匠木谷実の令嬢にして、早くから女流の実力者であった。部屋住みの若手棋士との結婚はつり合いがとれないという周囲の反発を乗り越え、二人は三年越しで結婚にこぎつけた[3]。同門の趙治勲は、「マドンナだった禮子さんと駆け落ちした光一さんに復讐しようと、門下生でたくらんでいた」と冗談をこめて語っている[4]。
- 1996年、禮子が乳がんにより他界するまで、小林は妻の病気のことを周囲に一切もらさなかった[5]。その間に棋聖・名人など長期連覇してきたタイトルを次々と失冠していくことになる。
- かねてから知り合いだった15歳年下の女性と再婚した際、『週刊朝日』は「『姉さん』失った小林九段の再婚相手は『妹』」という見出しの記事を載せた。実際再婚相手は、実弟の妻の妹即ち義妹の妹であり、また実弟と義妹が結婚する縁を作ったのは禮子夫人であった。
- 2004年7月29日、娘の小林泉美と十段戦本戦敗者復活戦1回戦で史上初の父娘対決[6]を行い、白番中押し勝ちで勝利した。
- 全盛期には眼鏡をかけていたが、視力矯正手術を受けて眼鏡を外した。
- 顔や声が萩本欽一に非常に良く似ており、インターネット上で一時話題になった。
- 愛読書は大藪春彦のハードボイルド。ストーリーと結末の明快さが、自分の気質に合っているから、という[7]。
著作
- 『現代花形棋士名局選(別巻1)小林光一』日本棋院 1977年
- 『小林光一』(現代囲碁大系42)講談社 1984年
- 『小林光一 (現代囲碁名勝負シリーズ)』講談社 1986年
- 『早わかり大斜・村正・大ナダレ 』誠文堂新光社 1986年
- 『小林光一必勝囲碁講座』(全3巻)日本棋院 1989年
- 『囲碁定石事典―筋と形に強くなる』学研 1997年
- 『棋士ふたり 亡き妻からの手紙』NHK出版 1997年
- 『小林光一の囲碁上達塾』全3冊 (進化する布石構想・勝負どころの感性・勝負を決める形勢判断) 』フローラル出版 2003年
- 『飛翔の譜 ~名誉三冠への軌跡~』マイナビ 2012年
他
脚注
外部リンク
テンプレート:Navboxes- ↑ 『坂田栄男と現代強豪20人』(誠文堂新光社)P.188
- ↑ 小堀啓爾『独り荒野をめざせ 趙治勲物語』(毎日新聞社)、37ページ。
- ↑ 荒谷一成『囲碁名棋士たちの頭の中』(中経出版)、92-93ページ
- ↑ 「小林九段「名誉三冠」の偉業祝う」産経新聞2012年9月20日付、同年10月3日閲覧。
- ↑ 荒谷、前掲書、93ページ。
- ↑ 「父息子対決」は羽根泰正・直樹、泉谷政憲・英雄の2例があり、いずれも息子(後者)が勝利している。碁界ニュース参照。この対決はいずれも予選のものであり、さらにトーナメント方式の場合は1回戦で父子・師弟が当たらないように配慮しているという(asahi.com2004年7月22日付報道による)。
- ↑ 荒谷、前掲書、99ページ。