杉村太蔵
杉村 太蔵(すぎむら たいぞう、1979年〈昭和54年〉8月13日 - )は、タレント、政治家、政治評論家。元衆議院議員。
目次
経歴
出生から学生時代まで
北海道旭川市に生まれる。父、祖父は歯科医、曾祖父は弁護士[1]。三兄弟の長男である。
小学校4年生の時から、親の影響でテニスをはじめた[2]。
北海道札幌藻岩高等学校在学時の1997年(平成9年)に、テニスのなみはや国体少年男子ダブルスで優勝をした[3]。
筑波大学体育専門学群にスポーツ推薦で入学した。曾祖父が弁護士だったため大学時代、弁護士を目指して勉強をしていた[1]。体育専門の学群から法学専攻(第一学群社会学類法学主専攻)への転部はかなわず、司法試験の勉強をしたものの、そのまま6年通った大学を中退することになった[1]。
出馬・政界入り
大学在学中、民主党の鳩山由紀夫の事務所でアルバイトをしていた。
筑波大学を中退後、就職活動が上手くいかず、旭川の実家に「もう帰ろうと思う」と弱音を吐いたところ、父に「帰ってくるな。働けないなら死ね」と言われて、目が覚め、「それぐらいでないと人間は生きていけないと悟った」と後に語っている[4]。
その後、総理大臣官邸の隣りにある山王パークタワーでビル清掃員のアルバイトをする。トイレ掃除なども行っていたが、この時に職業に貴賤は無いと悟る。また、同僚の年配の人々と親しくなり、のちに選挙事務所を手伝ってくれた人もいた。ある日の勤務中、ビル内清掃で顔なじみになっていたドイツ証券のグレン・ウッドという人物から「キミは若いし、そんなに頭も悪そうじゃない。1週間後、うち(ドイツ証券)の入社試験をぜひ受けなさい」と声をかけられる[5]、試験を受けて契約社員として働くようになった。清掃員の同僚に報告をするといつもは集まらない面々が一同に介して就職祝いの宴を張ってくれ、新たな門出を祝ってもらったという。ドイツ証券では株式調査部に勤務した。証券アナリストへ新聞や郵便の配達等、庶務業務を行っていた。
ある時、グレン・ウッドから郵政民営化の動向を調査するように依頼をされ、調査を行っている2005年(平成17年)の自由民主党の公式サイトをみて候補者公募を知り、その一次審査の論文課題が自分がまさに調査していた『郵政民営化と構造改革について』であったため応募した。翌日に自民党本部から『すぐ来られますか?』と電話があり、その後5度の面接を経て公募に合格した[6](元参議院議員で太蔵の「教育係」を勝手に名乗っていた大仁田厚の著書『国会デスマッチ』によると、太蔵の父親は元々北海道で当時自民党幹事長だった武部勤の後援会の有力支持者であるとのことだが、選挙にその父親が出るわけにはいかず息子である太蔵を比例名簿に登載させることにしたらしい)。
郵政解散を受けて行われた2005年(平成17年)9月11日の第44回衆議院議員総選挙で、自由民主党福岡県支部連合会から福岡1区出馬の推薦を取り付けたが、党本部が難色を示したため、比例南関東ブロック35位での出馬となった。この総選挙は都市部を中心に自民党が圧勝し同ブロックの多くの候補者が次々と小選挙区で当選し順位が繰り上がったことで当選を果たした。その後、テレビのインタビューテンプレート:要出典で自分は「ヒラリーマン」(ヒラのサラリーマンという意味の造語)にすぎない旨を述べた。その後もインタビューで「黒塗りのハイヤーに乗って料亭通いしたい」、「議員宿舎への入居が楽しみでしょうがない」、「(選挙後)真っ先に国会議員の給料を調べました」、「議員報酬でBMWを買いたい」、「無料パスでグリーン車に乗り放題」など、自由奔放な発言を連発したテンプレート:要出典。
衆議院議員として
本人はフリーター・ニート問題について主に取り組んでいると公言していたテンプレート:要出典。
当選直後からテレビ取材での様々な発言をして、「棚からぼた餅という言葉は僕のためにあるような言葉」、「ゆかりタンと僕とでは同じ外資系でも天と地の差ですよ」、「120%小泉チルドレンでございます」、「歩き方も分からないのでキッチリ派閥に入って勉強します、ハイ…」(その後記者から「小泉が新人議員に派閥に入るなと指示」と聞かされ)「…え、総理が派閥に入るなと!?総理が!!?総理がおっしゃるならその通りだと」などがメディアで話題になった。国会議員としてあまりに軽率な発言が目立ったため、テレビ局の取材中に、当時の自民党幹事長であった武部勤から厳重注意を受ける。後に、党本部にて単独記者会見を行い、謝罪する結果となった。
「新しい風」の入会と退会
議員当選直後から武部に師事して、武部が作った勉強会「新しい風」に入会。同会の『夕張再生プロジェクト』の座長に就任した。その後も参院選の北海道選挙区総決起集会などに参加している。
しかし、2007年(平成19年)の自民党総裁選で武部が「新しい風」において福田康夫を推すことでまとめたことに対し反発して、「新しい風」を脱会した。総裁選挙では麻生太郎に投票した[8][9]。
公認候補争い
第45回衆議院議員総選挙では北海道1区(札幌市中央区・南区・西区)からの小選挙区立候補を表明した。既に自民党の公認申請をしており、公認はまだ決定してなかったが、「いくら若くても、私は現職です。現職には現職の強みがあります。大臣に会おうと思えば会えるんです」「公認するかしないかは党の判断ですが、選挙に出るか出ないかは私の判断です。私は誰が何と言おうと北海道第1区から出馬します」と宣言した[10]。
候補者選考委員会は、杉村とYOSAKOIソーラン祭りの創始者である長谷川岳の両名による演説で、党員の意向を調整しようとしていたが、杉村はそれを無視[11]。2007年(平成19年)12月30日、選考委員会が長谷川を公認することを2008年(平成20年)1月8日の役員会で正式決定して、党本部に長谷川の公認申請を行なった。その後も無所属での出馬を模索していたが、最終的に出馬を断念して、2009年(平成21年)6月4日に自民党本部で記者会見を開き、次回総選挙への不出馬を表明した。記者会見では「いずれひと回りもふた回りも大きくなって、この場に挑戦したい。捲土重来を期したい」とコメントし、機会があれば国政復帰に挑戦したいとの意向を表明した[12]。
2009年(平成21年)7月21日の衆議院解散に伴い、1期で衆議院議員の任期を終えた。
その後
2010年(平成22年)6月3日にたちあがれ日本が第22回参議院議員通常選挙の比例代表候補に杉村を擁立すると発表して、同日、杉村は自民党に離党届を提出した[13]が、2010年7月11日投票の結果、党の候補者9人中6位の31,146票で落選した[14]。落選後は、テレビの出演依頼を受けCMやTVバラエティ番組などに出演するようになり、「薄口政治評論家」として、女性国会議員たちのパンチラなどについて解説するようになった[15]。 芸能人生活保護不正受給問題では問題提起を行った片山さつき参議院議員に対して、「国会議員として基本的人権の感覚はあるのか? なぜ個人攻撃をするのか」「目立ちたかっただけ。河本の実名を出せば自分が有名になれるから」などの批判を行った。これに対して片山は「問題を追及し、法律を変えていくのが私たちの仕事ですから」と理解を求めた[16]。
2011年(平成23年)、たちあがれ日本を離党した[17]。
その他
自身も所属する小泉チルドレンによる83会について、「あんなの意味あるんですかね」、「学級会みたいじゃないですか[18]」、「おじさん、おばさんの井戸端会議状態」などと発言している。
2007年(平成19年)3月7日の自身のブログで赤ちゃんポストについて、「ここで政治家として国民の生命を守る責務を負った立場から一言申し上げると、どのようなご時世であろうとも、常識ではおよそ考えつかないような、とんでもなく無責任な親は、たとえ数は少なくても絶対数存在する、となると、『産んだはいいけど、育てられない』よって、例えば赤ちゃんをロッカーに入れてしまうだとか、捨ててしまうだとか、そうした胸が張り裂けそうになるような事件が起きているのも事実です。生まれてくる赤ちゃんには何の罪もないのに」と述べている[19]。
2007年(平成19年)7月12日の自身のブログにて、赤城徳彦農林水産大臣の「政治とカネ」の問題について、「はっきり申し上げて、いい加減にしていただきたいですね。うんざりでございます」などと批判した上、領収書を公開すべきだと主張した[20]。
2006年(平成18年)頃に公設第2秘書の公募をしてフリーター・ニートの若者を採用すると見られたが、結局公募による採用はしなかった。詳細や本人の会見などは開かれていないが、2008年(平成20年)8月28日に公設秘書の一人が自殺を図り[21]、同年9月11日に死亡した[22]。
2009年(平成21年)の衆院選出馬断念のあと、一旦、地元の旭川に戻り、その後政治の勉強をし直すために北米など世界各国を渡り歩き、雇用政策などに関する書籍約150冊を読むなど猛勉強したという[23][24]。
2011年(平成23年)の東日本大震災の発生をうけ、サンデージャポンの番組企画において何度か被災地入りしている[25]。
家族
杉村家
衆議院議員在職中の2005年に群馬県出身の女性(実業家の娘で当時OL)と結婚。子どもが2人いる。『SPA!』2007年7月3日号で、自身が担当するコラムにて、新米親としての育児体験談の中に生後2か月の長女を議員宿舎に残して夫妻で1時間ほどの外食に出た際に、長女が脱水症状を起こしていたことを語った。『女性セブン』は2007年7月19日号でこれを取り上げ、ネグレクトであることを指摘し、脱水症状でショック状態を引き起こせば冗談事では済まされないことになったとも指摘している。杉村は長女の容態について「3ヶ月検診の結果、異常はみられなかった」と自身のブログで釈明している[26]。
出演
テレビ
- Jリーグ2011 〜Jリーグ ディビジョン1 第13節 浦和レッズ×アルビレックス新潟〜(2011年5月28日、TBS) - 副音声
- Golden Hour(水曜日)TOKYO MXTV
- ナニコレ珍百景 - 「珍百景党」党首として
- 爆報! THE フライデー - レポーター
- サンデージャポン - コメンテーター。
- run for money 逃走中(フジテレビ)(2011年3月6日、10月9日、12月20日)
- battle for money 戦闘中(フジテレビ)(2012年3月30日、5月19日、2013年6月30日)
- 幸せ!ボンビーガール(日本テレビ)
他多数
テレビドラマ
- ナサケの女 〜国税局査察官〜 最終話(2010年12月9日、テレビ朝日) - 中山知道 役
- 黒の女教師 第5話(2012年8月17日、TBS) - 永井浩 役
ラジオ
- TBSラジオおトクな春を迎えよう!新生活応援キャンペーン(2014年3月10日 - 3月16日、TBSラジオ) - TBSラジオ新生活応援大使
CM
- ソフトバンクモバイル ホワイト学割 with 家族 2011「ガッツ先生編」(2011年)
雑誌
- 『SPA!』(2007年2月6日号)にて、かつて司法試験受験生であったと述べたものの、民法と刑法の違いを問われしどろもどろになった。受験歴などについては一切触れていない。また、衆議院選挙に初当選直後、司法試験の受験指導を受けていた伊藤塾に赴き、当選を機にもう一度憲法を勉強し直したいと言って憲法の教材を購入した。
脚注
関連項目
外部リンク
テンプレート:S-start
テンプレート:S-hon
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
寺田学
|style="width:40%; text-align:center"|最年少衆議院議員
2005年 - 2009年
|style="width:30%"|次代:
松岡広隆
- ↑ 1.0 1.1 1.2 「3つの原則」でつかんだ 社会人1年目のシンデレラ・ストーリー杉村太蔵 <前編>
- ↑ 『スポーツ対談 杉村太蔵 氏: 杉山記一のブログ』(2011年1月25日 (火))
- ↑ 国民体育大会記録集【第1回(1946)~第65回(2010)】PDF 483ページ、日本体育協会
- ↑ 杉村太蔵 25才ニートの母に「メシ作るな、兵糧攻めにしろ」2012.06.27 07:02
- ↑ 杉村太蔵「今は無職。あえて肩書きがあるとすれば『杉村太蔵』2011.10.11
- ↑ "「チルドレン」何を思う" 2012年12月15日付朝日新聞夕刊(大阪本社3版)8面
- ↑ 読売新聞2010年参院選 各党候補者アンケート
- ↑ テンプレート:Cite newsテンプレート:リンク切れ
- ↑ 日本テレビ 『真相報道 バンキシャ!』(2007年9月23日放送)のカメラの覗き見によるもの。
- ↑ テンプレート:Cite newsテンプレート:リンク切れ
- ↑ 『太蔵氏、討論会リタイアへ…「自民党公認」事実上消滅』 スポーツ報知、2007年12月15日。
- ↑ テンプレート:Cite newsテンプレート:リンク切れ
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 「小池百合子も蓮舫もパンチラが凄い」 杉村太蔵の余りにひどい下劣発言 J-CASTニュース 2012年6月11日
- ↑ 片山さつき議員 杉村太蔵の批判にも冷静「問題を追及するのが仕事」 スポーツニッポン 2012年6月3日
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
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- ↑ テンプレート:Cite newsテンプレート:リンク切れ
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ ワイド!スクランブル 2009年12月29日放送
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