鈴木貫太郎内閣
概要
鈴木貫太郎内閣は、前の小磯内閣の総辞職を受け、枢密院議長だった鈴木貫太郎が組閣した内閣である。
内閣が発足した1945年(昭和20年)4月30日にはベルリンでナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーが自殺し、5月8日にはドイツ軍が無条件降伏した(欧州戦線における終戦)ことによって、日本は有力な同盟国を失った。国内各都市への日本本土空襲は日増しに激しくなり、6月23日には沖縄における組織的戦闘が終結するなど、日本の敗色は濃厚となっていた。7月26日にアメリカ合衆国・中国・イギリスの首脳名で発表された降伏勧告ポツダム宣言に対して、鈴木首相は同月28日に「政府としては重大な価値あるものとは認めず黙殺し、斷固戰争完遂に邁進する。」とコメントした。一方で内閣は、戦争の早期終結を図り、日ソ中立条約によって中立国であったソビエト連邦を通じた和平工作を模索していた。
しかし8月6日に広島、同月9日には長崎に原子爆弾が投下されて壊滅的な被害を受け、同じ9日にはソ連軍が満州国に侵攻する(ソ連対日参戦)など、和平工作の失敗が明白となった。この8月9日深更から開かれた最高戦争指導会議および閣議の御前会議は、ポツダム宣言を受諾して降伏するか、あくまでも本土決戦を期して戦争を遂行するかで議論は紛糾した。
鈴木首相は昭和天皇の聖断を仰ぎ、「国体護持」を条件として、ポツダム宣言受諾に意見統一した。翌8月10日、内閣は、ポツダム宣言を受諾するにあたり、「万世一系」の天皇を中心とする国家統治体制である「国体」を維持するため、「天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラザルコトノ了解ノ下ニ受諾」すると付言して、連合国側に申し入れた。これに対し、連合国側は、天皇の権限は、連合国最高司令官の制限の下に置かれ、日本の究極的な政治形態は、日本国民が自由に表明した意思に従い決定されると回答した[1]。
この回答を受け、8月14日に再度の御前会議が開かれ、再び鈴木首相が聖断を仰ぎ、最終的にポツダム宣言の無留保受諾が決定された。天皇は終戦の詔書を発布し、即座に連合国側にその旨通告された。この詔書の中では「国体ヲ護持シ得」たとしている。国民に対しては、翌8月15日正午から、ラジオ放送を通じて、天皇自ら終戦の詔書を朗読する形で、ポツダム宣言の受諾が伝えられた(玉音放送)。聖断が下されるまで本土決戦を主張した陸軍大臣の阿南惟幾は、阿南にクーデターの旗頭になることを求める一部の陸軍将校らに対して承詔必謹を命じた後、同日自決した。
大任を終えた鈴木内閣は8月17日、閣内の意見を統一できず、聖断を仰ぐに至った責任を取るとして、内閣総辞職した。
閣僚
- 男爵鈴木貫太郎(首相兼任・退役海軍大将[海兵14期]): 1945年(昭和20年)4月7日 - 同年4月9日
- 東郷茂徳(貴族院所属:無所属倶楽部・元官僚:外務省): 1945年(昭和20年)4月9日 - 同年8月17日
- 内務大臣: 安倍源基(官僚: 内務省): 1945年(昭和20年)4月7日 - 同年8月17日
- 大蔵大臣: 広瀬豊作(官僚: 大蔵省): 1945年(昭和20年)4月7日 - 同年8月17日
- 陸軍大臣
- 阿南惟幾(軍人: 陸軍大将 [陸士18期]): 1945年(昭和20年)4月7日 - 同年8月14日
- 阿南が8月15日に敗戦の責任を取って自決したため、総辞職の8月17日まで陸相欠員。
- 海軍大臣: 米内光政(軍人: 海軍大将 [海兵29期])(小磯内閣から留任): 1945年(昭和20年)4月7日 - 同年8月17日
- 司法大臣: 松阪広政(官僚: 司法省)(小磯内閣から留任): 1945年(昭和20年)4月7日 - 同年8月17日
- 文部大臣: 太田耕造(貴族院所属: 無所属倶楽部): 1945年(昭和20年)4月7日 - 同年8月17日
- 農商大臣: 石黒忠篤(貴族院所属: 無所属倶楽部): 1945年(昭和20年)4月7日 - 同年8月17日
- 軍需大臣: 豊田貞次郎(予備役海軍大将 [海兵33期]): 1945年(昭和20年)4月7日 - 同年8月17日
- 運輸通信大臣 - 同年5月19日廃止
- 豊田貞次郎(軍需相兼任・予備役海軍大将 [海兵33期]): 1945年(昭和20年)4月7日 - 同年4月11日
- 小日山直登(貴族院所属:無所属・実業家、鉄鋼統制会理事長): 1945年(昭和20年)4月7日 - 同年5月19日
- 運輸大臣 - 同年5月19日設置
- 小日山直登(貴族院所属: 無所属・実業家、鉄鋼統制会理事長) - 運輸通信相から転じる: 1945年(昭和20年)5月19日 - 同年8月17日
- 大東亜大臣: 男爵鈴木貫太郎(首相兼任・退役海軍大将 [海兵14期]): 1945年(昭和20年)4月7日 - 同年4月9日
- 厚生大臣: 岡田忠彦(衆議院: 大日本政治会): 1945年(昭和20年)4月7日 - 同年8月17日
- 国務大臣: 桜井兵五郎(衆議院: 大日本政治会): 1945年(昭和20年)4月7日 - 同年8月17日
- 国務大臣: 左近司政三(退役海軍中将[海兵28期]・貴族院所属:同和会): 1945年(昭和20年)4月7日 - 同年8月17日
- 国務大臣(情報局総裁): 下村宏(貴族院所属: 研究会): 1945年(昭和20年)4月7日 - 同年8月17日
- 国務大臣: 安井藤治(予備役陸軍中将[陸士18期]): 1945年(昭和20年)4月7日 - 同年8月17日
- 内閣書記官長: 迫水久常(貴族院所属: 無所属): 1945年(昭和20年)4月7日 - 同年8月17日
- 法制局長官: 村瀬直養(貴族院所属: 研究会): 1945年(昭和20年)4月7日 - 同年8月17日
政務次官
- 外務政務次官
- 内務政務次官
- 大蔵政務次官
- 陸軍政務次官
- 海軍政務次官
- 司法政務次官
- 文部政務次官
- 農商政務次官
- 軍需政務次官
- 運輸通信政務次官
- 運輸政務次官
- 真鍋儀十: 1945年(昭和20年)5月19日 - 同年8月22日
- 大東亜政務次官
- 厚生政務次官
参与官
- 外務参与官
- 内務参与官
- 大蔵参与官
- 陸軍参与官
- 海軍参与官
- 司法参与官
- 文部参与官
- 農商参与官
- 軍需参与官
- 運輸通信参与官
- 運輸参与官
- 羽田武嗣郎: 1945年(昭和20年)5月19日 - 同年8月22日
- 大東亜参与官
- 厚生参与官
脚注
参考文献
- 鈴木貫太郎伝記編纂委員会編「鈴木貫太郎伝」鈴木貫太郎伝記編纂委員会,1960
- 鈴木貫太郎「終戦の表情」労働文化社,1946
- 迫水久常「機関銃下の首相官邸—2・26事件から終戦まで—」恒文社,1964/ちくま学芸文庫,2011
- 迫水久常「大日本帝国最後の四か月」オリエント書房,1973
- 迫水久常「降伏時の真相」『自由国民』1946年2月特集号
- 聞き手:三國一朗 「私の昭和史5」 旺文社文庫、のち文春文庫、1987
- 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001。
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005。
外部リンク
- 鈴木内閣 - 首相官邸
- 「日本国憲法の誕生」 - 国立国会図書館