チャーリー・マニエル
テンプレート:Infobox baseball player チャーリー・マニエル(Charles Fuqua Manuel, 1944年1月4日 - )は、アメリカ合衆国ウェストバージニア州出身の元プロ野球選手(外野手)。愛称は「赤鬼」。
近年、日本の一部のマスコミ(NHKなど)では、姓を「マニュエル」と表記している[1]。
目次
来歴・人物
現役時代
高校時代は野球の他にアメリカンフットボール・バスケットボール・陸上競技でも活躍。野球とバスケットボールではキャプテンを務めていた。当時はバスケットボールが一番好きな種目で、いくつかの大学から奨学金つきの勧誘を受けていた。しかし、高校卒業間近に控えた1963年4月に、糖尿病と心臓疾患を患っていた父が自殺。チャーリーに母と兄弟の世話をするよう求める遺書が残されていた。MLB数球団から誘いを受けていた為、進学を断念してミネソタ・ツインズと2万ドルで契約。
テンプレート:Byにメジャー初昇格。テンプレート:Byにロサンゼルス・ドジャースに移籍。メジャーでは控えや代打に甘んじて、6シーズンで僅か4本塁打に終わった。
テンプレート:Byには日本球界入りが検討されたがAAA級アルバカーキを選択してプレイした。
テンプレート:Byには打率.316、42本塁打、97打点と活躍し、チームの球団創設以来初の2位躍進に貢献。
テンプレート:Byには打率.312、39本塁打、107打点をあげてヤクルトのリーグ初優勝・日本一に貢献。しかし、機動力・守備力を重視する広岡達朗監督の評価は低かった。その年のオフ、守備面での不安に加え、ヤクルトに左腕投手が不足していた事情もあり、永尾泰憲とともに神部年男・佐藤竹秀・寺田吉孝との交換トレードで近鉄バファローズに移籍する。
近鉄では指名打者で起用され、テンプレート:Byは開幕から打ちまくってチームの独走に貢献。ところが、6月9日の対ロッテオリオンズ戦で八木沢荘六から顔面に死球を受けて顎を複雑骨折するというアクシデントがあったが[2]、わずか14試合の欠場で復帰。この時、マニエル自身はアメリカに帰国しての手術を最初は強硬に主張したが、負傷や痛みの状態などから航空会社から航空機への搭乗を拒否される可能性が極めて高い事が判明すると、日本国内での手術と治療に同意した。その年、97試合出場だったものの、37本塁打で本塁打王を獲得し、近鉄のリーグ初優勝に貢献[2]。MVPにも輝いた。欠場期間、首位を走っていた近鉄の調子が急下降し、西本幸雄監督は「マニエルおじさんが残してくれた貯金を皆で使い果たしてしまうんじゃないかと心配していた」とコメントした。欠場後の失速とこの発言により奮起し、チームと監督の期待に応えるべく強行出場を続け、チームは辛うじて踏みとどまり、前期最終戦でようやく前期優勝を決めた。復帰した際、球団は顎への防禦用のフェイスマスクを付けた特殊なヘルメットを用意した[3]。この死球に関して、マニエルは「ロッテのベンチから『ぶっつけてしまえ』という声が聞こえた。あれは故意だ」と発言している[4]。ロッテ側は否定しているが、マニエルは納得せず、後日八木沢とマニエルの「手打ち」が行われても、マニエルは決して八木沢と握手しようとはしなかった。
テンプレート:Byは打率.325、48本塁打、129打点で本塁打・打点の2冠を獲得、チームをリーグ連覇に導いた。しかし、契約更改で複数年契約を要求したが、単年契約を呈示した球団と折り合わず、退団。
テンプレート:Byに、広岡が退団したヤクルトに復帰したものの、同年限りで退団して帰国した。ヤクルト、近鉄両球団とも、マニエルが退団した翌年は最下位に転落しており、マニエルの存在感が大きかったことが分かる。複数の球団から日本シリーズに出場した数少ない外国人選手の一人でもある。
引退後
引退後はクリーブランド・インディアンスでマイナーリーグの監督やコーチを経て、テンプレート:Byからテンプレート:Byとテンプレート:Byからテンプレート:Byにインディアンス打撃コーチを歴任した。日本流の早出特打ちを行うなど打線の強化を図り、翌テンプレート:Byにはワールドシリーズに導いた。この指導が認められてテンプレート:Byに監督に昇格。テンプレート:Byにはアメリカンリーグ中地区優勝を果たしたが、翌テンプレート:Byに成績不振を理由にシーズン途中で解任された。
テンプレート:Byにフィラデルフィア・フィリーズGM特別補佐に就任、その後、テンプレート:Byからは監督として現場でチームの指揮を執っている。テンプレート:Byは独走するニューヨーク・メッツを終盤戦に猛追。残り17試合で6ゲーム差という状況から逆転して地区優勝する。テンプレート:Byには、リーグチャンピオンシップシリーズでロサンゼルス・ドジャースを破ってナショナルリーグ優勝を果たし、チームをワールドシリーズに導いた。そのワールドシリーズでもタンパベイ・レイズを破り、見事チームをワールドチャンピオンへと導いた。因みに日本球界経験者でのワールドシリーズ優勝監督は、巨人でプレーして、テンプレート:Byにニューヨーク・メッツをワールドチャンピオンに導いたデーブ・ジョンソン以来となった。テンプレート:By8月12日には監督としてMLB通算1000勝を達成したが、この年チームは地区4位と低迷しており、4日後の8月16日、フィリーズより監督解任が発表された[5]。
エピソード
- 並外れたパワーと興奮しやすい性格から「赤鬼(あかおに)」の異名を持つ。それ以前では阪神に在籍したハル・ブリーデン、後にはマニエルと同じタイプのバッターであるボブ・ホーナーもこう呼ばれた。
- 打撃とは対照的に守備については評価が高いとはいえなかった。指名打者制が採用されていなかった日本シリーズにおいて、マニエルの守備は近鉄のウイークポイントとなってしまった。また、走塁面についても難が多い選手だった。
- そのため当時ヤクルト時代(1978年まで)の監督だった広岡からは「打つことしかできない選手」などと酷評され、マニエル自身も池井優のインタビュー本の中で、近鉄時代の監督だった西本を絶賛する一方で、広岡の人間性を批判していた。しかし、後に自身が大リーグで監督を務めるようになってからは「ようやくヒロオカの言っていたことが理解できた」とその意見を変えている。
来日の経緯
マニエルは、1976年にドジャースからヤクルトに入団したが、これには以下のような経緯が存在したといわれている。
1973年、ヤクルトに入団したジョー・ペピトーンが数々のトラブルを起こして以降、ヤクルトはもちろん日本のプロ野球界、そして野球ファン全体に、メジャーリーガーを排除すべしという雰囲気が漂っていた。その情報はアメリカにも伝わり、多くのメジャーリーグ関係者が日米プロ野球間の関係悪化を懸念したが、その一人に、ドジャース創設者ウォルター・オマリー元オーナーの長男で、当時のドジャースのオーナーだったピーター・オマリーもいた。オマリーはこの懸念を解消し、メジャーリーガーの信用を回復させるために、自軍からまじめで、かつ活躍できる選手を、ペピトーンが問題を起こしたヤクルトに派遣しようと考えた。かくして、マニエルはこの状況下の日本に送っても大丈夫という信頼が置ける選手として事を託され、来日に至ったといわれている。
詳細情報
年度別打撃成績
テンプレート:By2 | MIN | 83 | 194 | 164 | 14 | 34 | 6 | 0 | 2 | 46 | 24 | 1 | 0 | 0 | 2 | 28 | 4 | 0 | 33 | 3 | .207 | .320 | .280 | .600 |
テンプレート:By2 | 59 | 73 | 64 | 4 | 12 | 0 | 0 | 1 | 15 | 7 | 0 | 0 | 0 | 2 | 6 | 2 | 1 | 17 | 1 | .188 | .260 | .234 | .495 | |
テンプレート:By2 | 18 | 17 | 16 | 1 | 2 | 1 | 0 | 0 | 3 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 8 | 0 | .125 | .176 | .188 | .364 | |
テンプレート:By2 | 63 | 129 | 122 | 6 | 25 | 5 | 0 | 1 | 33 | 8 | 0 | 0 | 0 | 2 | 4 | 0 | 1 | 16 | 1 | .205 | .233 | .270 | .503 | |
テンプレート:By2 | LAD | 4 | 4 | 3 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | .333 | .500 | .333 | .833 |
テンプレート:By2 | 15 | 15 | 15 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 2 | .133 | .133 | .133 | .267 | |
テンプレート:By2 | ヤクルト | 84 | 296 | 263 | 28 | 64 | 5 | 0 | 11 | 102 | 32 | 1 | 0 | 0 | 1 | 27 | 4 | 5 | 54 | 7 | .243 | .324 | .388 | .712 |
テンプレート:By2 | 114 | 419 | 358 | 70 | 113 | 8 | 0 | 42 | 247 | 97 | 3 | 0 | 0 | 5 | 49 | 6 | 7 | 60 | 10 | .316 | .403 | .690 | 1.093 | |
テンプレート:By2 | 127 | 522 | 468 | 85 | 146 | 12 | 2 | 39 | 279 | 103 | 1 | 3 | 1 | 5 | 43 | 5 | 5 | 80 | 14 | .312 | .372 | .596 | .969 | |
テンプレート:By2 | 近鉄 | 97 | 403 | 333 | 69 | 108 | 18 | 0 | 37 | 237 | 94 | 0 | 0 | 0 | 3 | 65 | 9 | 2 | 62 | 5 | .324 | .434 | .712 | 1.146 |
テンプレート:By2 | 118 | 520 | 459 | 88 | 149 | 16 | 0 | 48 | 309 | 129 | 0 | 1 | 0 | 2 | 58 | 7 | 1 | 66 | 11 | .325 | .400 | .673 | 1.073 | |
テンプレート:By2 | ヤクルト | 81 | 280 | 246 | 28 | 64 | 10 | 0 | 12 | 110 | 36 | 1 | 0 | 0 | 2 | 31 | 4 | 1 | 42 | 8 | .260 | .343 | .447 | .790 |
MLB通算:6年 | 242 | 432 | 384 | 25 | 76 | 12 | 0 | 4 | 100 | 43 | 1 | 0 | 0 | 6 | 40 | 6 | 2 | 77 | 7 | .198 | .273 | .260 | .534 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
NPB通算:6年 | 621 | 2440 | 2127 | 368 | 644 | 69 | 2 | 189 | 1284 | 491 | 6 | 4 | 1 | 18 | 273 | 35 | 21 | 364 | 55 | .303 | .385 | .604 | .988 |
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別監督戦績
年度 | チーム | 地区 | 年齢 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 勝率 | 順位/チーム数 | 備考 | ポストシーズン</br>勝敗 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2000 | CLE | AL 中 | 56 | 162 | 90 | 72 | .556 | 2 / 5 | ||
2001 | 57 | 162 | 91 | 71 | .562 | 1 / 5 | ALDS敗退 | 2勝3敗 | ||
2002 | 58 | 87 | 39 | 48 | .448 | 3 / 6 | 途中解任 | |||
2005 | PHI | NL 東 | 61 | 162 | 88 | 74 | .543 | 2 / 5 | ||
2006 | 62 | 162 | 85 | 77 | .525 | 2 / 5 | ||||
2007 | 63 | 162 | 89 | 73 | .549 | 1 / 5 | NLDS敗退 | 0勝3敗 | ||
2008 | 64 | 162 | 91 | 70 | .568 | 1 / 5 | WS優勝 | 11勝3敗 | ||
2009 | 65 | 162 | 93 | 69 | .574 | 1 / 5 | WS敗退 | 9勝6敗 | ||
2010 | 66 | 162 | 97 | 65 | .599 | 1 / 5 | NLCS敗退 | 5勝4敗 | ||
2011 | 67 | 162 | 102 | 60 | .630 | 1 / 5 | NLDS敗退 | 2勝3敗 | ||
2012 | 68 | 162 | 81 | 81 | .500 | 3 / 5 | ||||
2013 | 69 | 120 | 53 | 67 | .442 | 4 / 5 | 途中解任 | |||
通算 | 12年 | 1827 | 1000 | 827 | .547 | 29勝22敗 |
- 太字はプレイオフ進出(ワイルドカードを含む)。
- 途中解任の年度の順位はいずれも最終順位。
タイトル
- NPB
表彰
- NPB
記録
- NPB初記録
- 初出場・初先発出場:1976年4月3日、対読売ジャイアンツ1回戦(明治神宮野球場)、4番・右翼手として先発出場
- 初安打:同上、5回裏に堀内恒夫から単打
- 初打点:1976年4月10日、対阪神タイガース1回戦(阪神甲子園球場)、1回表に山本和行から先制適時二塁打
- 初本塁打:1976年4月15日、対大洋ホエールズ2回戦(明治神宮野球場)、8回裏に宮本四郎から右越決勝ソロ
- NPB節目の記録
- 100本塁打:1979年5月6日、対阪急ブレーブス前期6回戦(藤井寺球場)、1回裏に三浦広之から右中間へ先制2ラン ※史上101人目
- 150本塁打:1980年6月28日、対ロッテオリオンズ前期10回戦(日生球場)、7回裏に倉持明から2ラン ※史上55人目
背番号
- 9 (1969年 - 1972年)
- 46 (1974年)
- 16 (1975年)
- 4 (1976年 - 1980年, 1989年)
- 2 (1981年)
- 42 (1994年 - 1996年)
- 48 (1997年)
- 32 (1998年 - 2002年)
- 41 (2005年 - 2013年)
脚注
関連項目
外部リンク
テンプレート:2008 フィラデルフィア・フィリーズ- ↑ フィリーズが優勝パレードNHKスポーツトピックス2008年11月1日
- ↑ 2.0 2.1 テンプレート:Cite web
- ↑ 実はヘルメットの話には、後日談があり、顎への防禦用のフェイスマスクが打席に立つ際に上下に動いてしまい、打ちづらかった事を週刊ベースボール創刊50周年記念特別企画のインタビューでコメントしていた。
- ↑ 乾坤一筆
- ↑ テンプレート:Cite news