マリア・テレジア

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テンプレート:基礎情報 君主

マリア・テレジア / マリア・テレジア・ヴァルブルガ・アマリア・クリスティーナ・フォン・エスターライヒ[1]テンプレート:Lang-de-short, 1717年5月13日 - 1780年11月29日)は、神聖ローマ皇帝カール6世の娘で、ハプスブルク=ロートリンゲン朝の同皇帝フランツ1世シュテファンの皇后にして共同統治者、オーストリア大公(在位:1740年 - 1780年)、ハンガリー女王(在位:同じ)、ベーメン女王(在位:1743年 - 1780年)で、ハプスブルク君主国の領袖である(女帝については下記参照)。

オーストリア系ハプスブルク家の男系の最後の君主であり、彼女の次代から、つまり子供たちの代からが正式に、夫の家名ロートリンゲン(ロレーヌ)との複合姓(二重姓)でハプスブルク=ロートリンゲン家となる。なお、マリア・テレジア本人が好んで使用した称号(サイン)は「テンプレート:ルビ」と「テンプレート:ルビ」の頭文字を取った「K.K」であった。

略歴

大公女時代

1717年、ハプスブルク家神聖ローマ皇帝カール6世と皇后エリーザベト・クリスティーネの長女として誕生した。カール6世の最初の女子であり、両親は遥かヨルダン川の水で洗礼を受けさせたり、マリアツェル教会に黄金の子供像を奉納したりと歓迎した。「小さなレースル」は母親譲りの輝く美貌を持ち、市民からの人気も高かった。1722年からウィーンへ留学に来ていた又従兄のロレーヌ公子フランツ・シュテファン(フランソワ・エティエンヌ)に恋し、その様子は「夜は彼のことを夢見、昼は女官達に彼のことを話している」とイギリス大使が記している。オイゲン公と在ベルリンのオーストリア大使ゼッケンドルフ[2]によりプロイセン王太子フリードリヒ(後のフリードリヒ大王)との結婚案も浮上するが、父カール6世もフランツのことを大変気に入っており、1736年2月12日に2人は婚礼をあげた。当時の王族としては奇蹟にも近い恋愛結婚であった。

それまでハプスブルク家はサリカ法に基づく男系相続を定めていたが、彼女の兄が夭折して以後、カール6世に男子がいなかったことから、やがて次期後継者と目されるようになった。カール6世はテンプレート:ルビ[3]を出して国内および各国に、彼女のオーストリア・ボヘミア(ベーメン)・モラヴィア(メーレン)・ハンガリーなど、ハプスブルク家世襲領の相続を認めさせた。また、女子が皇帝になることはできなかったため、帝位には娘婿のロレーヌ公(1729年に父レオポルトから公位を継承した)フランツ・シュテファンが就くこととした。しかしカール6世はそれでもなお男児(孫)の誕生を夢見ており、彼女に政治家としての教育は施さなかった。

オーストリア継承戦争

だが、その見通しの甘さはカール6世の死後すぐに露呈する。すなわち、カールが死ぬと周辺諸国は娘の相続を認めず、領土を分割しようと攻め込んできた。これがオーストリア継承戦争1740年 - 1748年)である。

プロイセン王フリードリヒ2世が最初に、自領の南にあるハプスブルク家領のシュレージエンに攻め込んだ。これに対し、マリア・テレジアはシュレージエン防衛の決意を明らかにし、第一次シュレージエン戦争、オーストリア・ザクセン戦争が勃発した。彼女は当時23歳(しかも第4子を妊娠中)であったが、1741年3月13日に待望の男児ヨーゼフが誕生し、国内の士気は大いに上がる。1741年6月25日にマリア・テレジアはまずハンガリー女王として即位した。しかしその後、バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトもオーストリアの敵に回った。マリア・テレジアはバイエルンとの戦いを決意したものの、オーストリアは度重なる戦争のため戦費も援軍もすでになく、宮廷の重臣たちは冷ややかで窮地に追い込まれた。そこで彼女はハンガリーへ乗り込み、9月11日にハンガリー議会で演説を行った。そして軍資金と兵力を獲得し、戦う態勢を整える。

その後の戦況は二転三転し、一時は帝位もボヘミア王位もカール・アルブレヒト(皇帝カール7世)に奪われるが、カールの死後に奪還し、1745年10月4日には夫フランツ・シュテファンを帝位に就けることに成功する。だがプロイセンには軍隊の質などから敗北を喫し、1745年のドレスデンの和においてシュレージエンのプロイセン領有を承認した。英仏間で戦争は続行され、最終的に1748年アーヘンの和約(エクス・ラ・シャペル条約)によって終結した。

七年戦争

シュレージエンを奪還する目的で、ハウクヴィッツを登用しての内政改革やダウンによる軍改革を行いつつも、外交面においてはカウニッツを登用してフランスに接近する。マクシミリアン1世以来長らくハプスブルク家と争ってきたフランスは、当時イギリスとも対立しており、プロイセンがイギリスと同盟したことが最終的なきっかけとなってオーストリアと同盟を結ぶ。これを外交革命という。

また、フランス王ルイ15世の愛妾ポンパドゥール夫人(政治上でも重要な地位を占めていた)、ロシアエリザヴェータ女帝、そしてマリア・テレジアと3人の女性が反プロイセン包囲網を結成したことから「3枚のペチコート作戦」という呼称もある。

1756年プロイセンとオーストリアの間で再び戦争が勃発する。後に七年戦争と呼ばれるこの戦争は、前回と違ってフランスやロシアの同盟を得たオーストリアが優勢に戦争を進めるが、フリードリヒの粘りによって財政的負担が重くのしかかってきた。1762年、ロシアでオーストリアとの同盟を推進してきたエリザヴェータ女帝が死去し、甥でフリードリヒの信奉者のピョートル3世が即位した結果、ロシアが最終的に戦争そのものから離脱、その後オーストリアが敗戦したことで、マリア・テレジアはシュレージエン奪還を諦めざるを得なくなる。こうして1763年フベルトゥスブルク条約で、シュレージエンのプロイセンによる領有が確定した。

政治家として

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マリア・テレジアとフランツ1世の墓

オーストリアを強国にすべく、封建制度に縛られず様々な改革を行った。

  • 小学校の新設
    他国に先駆け、全土に均一の小学校を新設、義務教育を確立させた。全国で同内容の教科書が配布され、各地域それぞれの言語で教育が行われた。その結果、国民の知的水準が大きく上昇した。
  • 徴兵制度の改新
    軍事行政委員が設置され、軍税徴収に関する等族の介入が排除された。1762年には軍事機構が宮廷軍事庁の下に統括され、宮廷軍事庁が最高決定機関となった。また、一般徴兵制が採用された。この徴兵制は全国民の無差別の兵役義務を承認しており(実際は身分差別あり)、農民出身であっても給料を得られるようになったことで、兵士たちが安定した生活を保証され、オーストリアの軍事力は格段に上がった。

七年戦争後もマリア・テレジアによる改革は進められた。しかし、この頃になると啓蒙主義的な官僚の勢いが強くなり、改革も次第に啓蒙主義的な色彩を帯びるようになる。衣装の自由化(1766年)やイエズス会の禁止(1773年)などが代表的であるが、彼女自身は次第に保守化した。1765年に死去した夫フランツに代わって帝位についた息子ヨーゼフ2世の急進的な改革姿勢とはしばしば意見が対立し、宰相カウニッツも彼女への不満を書き残している。

1780年、死去した。遺体は最愛の夫フランツと共に、ハプスブルク家の墓所であるカプツィーナー納骨堂に埋葬されている。

子女

ファイル:Maria Theresia Familie.jpg
マリア・テレジアと家族たち

父カール6世が後継者問題で悩んだため、彼女はできるかぎり子を産もうと考えていた。マリア・アントーニア出産時以外は安産であったという。

家庭生活

個人的には、当時の王族としては珍しく、初恋の人である夫フランツ・シュテファンとは恋愛結婚で結ばれ(夫の方はこの結婚のために、家領ロレーヌ公国を手放さなければならなかった)、夫婦生活は非常に円満だった。結婚の4日前にフランツにしたためた手紙が現在も残り、未来の夫への情熱的な想いを今に伝える。この手紙はラテン語フランス語などの様々な言語で書かれ、彼女の教養の深さを窺い知ることができる。フランツは時折他の女性と浮き名を流すことがあったが、政治家として多忙な彼女はそれらをすべて把握した上で目をつむった。また、夫が亡くなると、彼女はそれまで持っていた豪華な衣装や装飾品をすべて女官たちに与えてしまい、以後15年間、自らの死まで喪服だけの生活を送ったと言われる。

多忙な政務をこなしながら、フランツとの間に男子5人、女子11人の16人の子供をなした。子供に関しては、四女マリア・クリスティーナを最も可愛がり、彼女にだけは相愛のポーランド王アウグスト3世の息子アルベルト・カジミールとの恋愛結婚を1766年に許している。このためマリア・テレジアの死後、この夫婦はヨーゼフ2世から冷遇された。また、身体障害者で病弱であった次女マリア・アンナに対しては生涯を通じて酷薄であった。死の直前まで末娘でフランス王妃になったマリア・アントーニア(マリー・アントワネット)の身を案じていた。夫フランツ譲りの遊び好きな娘に対し、フランス革命の発生を警告する手紙を送っている。また、プファルツ選帝侯家傍系のツヴァイブリュッケン公カール・アウグストバイエルン王マクシミリアン1世の兄)との恋愛結婚を認められないままパルマフェルディナンド妃となった六女マリア・アマーリアは、嫁ぎ先で傍若無人な振る舞いをしたため帰国禁止となっている。

結婚政策

プロイセン打倒のため、マクシミリアン1世の時代に始まる200年来の宿敵フランスと和解する必要から、娘や息子のほとんどがフランス、スペイン、イタリアのブルボン家の一族(多くはルイ15世の孫)と結婚している。これが後になって、ドイツ諸侯のハプスブルク家離れの一因となったとも言われる。19世紀以降のドイツ情勢を考えるに、これらの結婚政策は成功とは言い難い。他にもハプスブルク、ブルボンの両家は古くから血族結婚を頻繁に行ってきたことから、両家が縁組を繰り返したことにより、夭折したり、成人しても体に障害を持った人物が双方で続出する結果になった。

備考

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マリア・テレジアの刻まれた金貨
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シェーンブルン宮殿
  • 一般に「女帝」と呼ばれ、実態も女帝そのものであったが、実際には皇帝に即位したことはない。前述のようにハプスブルク家の領国と家督を相続したのはマリア・テレジアであるため、彼女の肖像画には神聖ローマ皇帝の帝冠が添えられている場合が多く、当時も少なくとも領国内では「女帝」視されていた。正式には皇后でしかない彼女がこのように扱われる理由としては、次のような点が考えられる。
    1. 夫である皇帝がフランス国境沿い(現フランス領)の小国ロレーヌ公国出身の養子的存在であり、ハプスブルク家領国内において実際の政治的権力をほとんど持たなかったこと。
    2. 帝位は夫のものであったが、ハプスブルク家当主が継承してきたオーストリア大公の位には彼女が就いていたこと。つまり、実質的に国家の実態を失っていた神聖ローマ帝国よりも、その盟主的位置にある(法的には国家ではなくハプスブルク家を媒介とする曖昧な存在だが)オーストリアおよびハプスブルク家支配地域のほうが事実上の政体(ハプスブルク君主国)と見なされていた。したがって、兼位しない場合は皇帝位は単なる国家連合議長にすぎず、オーストリア大公位の方が遥かに政治的権限が強かったこと。
このためフランツは夫君、王配としてのイメージで捉えられ、マリア・テレジアの女帝的性格(実際には皇后女王)が広まったといえる。百科事典などにおいてもマリア・テレジアは伝統的に「女帝(神聖ローマ女帝)」として掲載される場合が非常に多く、日本国外でも同じ傾向にある。
  • 英語名は「マリア・テレサ」(Maria Theresa)、フランス語名では「マリー・テレーズ」(Marie Thérèse)。日本で歴史上の人物「マリア・テレジア」本人を指す場合はほとんどの場合「マリア・テレジア」が用いられる。「マリア・テレサ」と表記されて使われている場合は「ものや場所の呼び名(呼称)」として「マリア・テレジアにちなんで」名づけられている場合であり、その対象は「もの」や「場所」(まれに「人物」)となる。「マリア・テレジア」本人の記述として「マリア・テレサ」が使用されるのは珍しい(例:シュテファン・ツワイク『マリー・アントワネット』高橋禎二、秋山英夫訳の岩波文庫版)。
  • オーストリアの将軍プリンツ・オイゲンがマリア・テレジアの結婚相手にフリードリヒ2世を推挙したときのことである。フリードリヒは密かにウィーンを訪れ、マリア・テレジアに好意を抱き、結婚を望んだがかなわなかった。彼はその後マリア・テレジアをはじめ、女性を嘲笑する言動が目立つようになり、そのためにフランスやロシアも敵に回すことになったという(フランスのポンパドゥール夫人やロシアのエリザヴェータが七年戦争においてマリア・テレジアに味方したのは、フリードリヒを個人的に忌み嫌っていたからであったともいわれている)。フリードリヒは結婚生活も破綻するなど、マリア・テレジア以外に好意を持った女性は見当たらない。実際にはフリードリヒはマリア・テレジアを評価していたとも言われている。もっともそのような経過を知らない彼女は、終生フリードリヒのことを憎んだ。
  • シェーンブルン宮殿の黄色は「テレジアン・イエロー」とも呼ばれる。しかし彼女が好んだ色というわけではなく、宮殿の塗装を決める際、夫フランツが「金にしよう」と言ったものの経済事情が厳しいため、彼女が黄色に決定したという。宮殿内に「日本の間」があり、素晴らしい古伊万里コレクションがある。

マリア・テレジアを演じた女優

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脚注

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関連書籍

関連項目

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先代:
カール6世
オーストリア大公
ハンガリー女王
1740年 - 1780年
次代:
ヨーゼフ2世
先代:
カール7世
ボヘミア女王
1743年 - 1780年
次代:
ヨーゼフ2世
先代:
カルロ・ダズブルゴ
パルマ女公
1740年 - 1748年
次代:
フィリッポ
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  1. 王侯としての慣例上、このようなフルネームの言い方は失礼にあたるため行われないが、洗礼名をすべて記すために記す
  2. 倉田稔著『ハプスブルク歴史物語』(NHKブックス1994年、p32)より。
  3. Pragmatic sanction