森藩
森藩(もりはん)は、江戸時代に豊後国日田郡・玖珠郡・速見郡内を領した藩。藩庁として森(現在の大分県玖珠郡玖珠町)に森陣屋が置かれた。
略史
瀬戸内海で村上水軍の一軍として活躍した来島水軍の後裔である来島長親(のち康親)は伊予国来島(愛媛県今治市)に1万4千石を領していた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属したが、長親の妻の伯父にあたる福島正則の取りなしで本多正信を通じ家名存続の沙汰を得た。慶長6年(1601年)、豊後森に旧領と同じ1万4千石を得て森藩が成立した。
2代通春は、元和2年(1616年)、姓を久留島と改めた。3代通清は寛文3年(1663年)、参勤交代のため、飛び地である別府湾頭成港(大分県速見郡日出町)より瀬戸内海を船で江戸に向かう途中、周防国屋代島沖で暴風雨のため遭難。藩主の弟・通方はじめ多くの家臣を失った。通清は弟の通貞に1千石、通逈に500石をそれぞれ分与した。
寛文4年(1664年)、渡辺五郎右衛門が飛び地の速見郡鶴見村(別府市)の照湯にて明礬の製造に初めて成功した。享保10年(1725年)に脇儀助が同じ鶴見村の明礬温泉にて本格的な生産をおこない、産出量は全国の30%強を占め(隣接する幕府領野田村でも生産を行い、これを合わせると70%)藩の重要な財源となった。この伝統的な明礬製造技術は、2006年(平成18年)に別府明礬温泉の湯の花製造技術として国の重要無形民俗文化財に指定されている。
幕末、藩論は勤王倒幕で統一され、放棄された日田の西国筋郡代代官所警備を任された。
明治4年(1871年)、廃藩置県により森県となった。のち、大分県に編入された。明治17年(1884年)、久留島家は子爵となり華族に列した。
久留島家の末裔に童話作家久留島武彦がいる。玖珠町では武彦の業績を記念し昭和25年(1950年)より「日本童話祭」を開催している。
歴代藩主
- 歴代藩主の〈 〉内の年号は藩主在任期間
- 久留島(くるしま)家
外様 14,000石→12,500石
- 康親(やすちか)〔従五位下、右衛門佐〕〈慶長6~17(1601年~1612年)〉
- 通春(みちはる)〔従五位下、丹波守〕〈慶長17~明暦元(1612年~1655年)〉
- 通清(みちきよ)〔従五位下、信濃守〕〈明暦元~元禄13(1655年~1700年)〉
- 通政(みちまさ)〔従五位下、伊予守〕〈元禄13~享保4(1700年~1719年)〉
- 光通(てるみち)〔従五位下、信濃守 伏見奉行〕〈享保4~明和元(1719年~1764年)〉
- 通祐(みちすけ)〔従五位下、信濃守 伏見奉行・大番頭〕〈明和元~寛政3(1764年~1791年)〉
- 通同(みちとも)〔従五位下、出雲守 大番頭〕〈寛政3~10(1791年~1798年)〉
- 通嘉(みちひろ)〔従五位下、伊予守〕〈寛政10~弘化3(1798年~1846年)〉
- 通容(みちかた)〔従五位下、安房守〕〈弘化3~嘉永3(1846年~1850年)〉
- 通明(みちあき)〔従五位下、出雲守〕〈嘉永3~5(1850年~1852年)〉
- 通胤(みちたね)〔従五位下、信濃守〕〈嘉永5~安政6(1852年~1859年)〉
- 通靖(みちやす)〔従五位下、伊予守〕〈万延元~明治4(1860年~1871年)〉
現存建物
8代藩主通嘉の代に建てられた2層の茶室「栖鳳楼」が現存する。県指定有形文化財。老朽化のため、2003年 - 2005年に保存修理が実施された[1]。
幕末の領地
関連項目
参考文献
- 甲斐素純・竹野孝一郎『時空を超えて 森藩誕生四〇〇年』西日本新聞社、2005年、ISBN 4-8167-0635-6
- 児玉幸多・北島正元監修『藩史総覧』新人物往来社、1977年
- 『別冊歴史読本㉔ 江戸三百藩 藩主総覧 歴代藩主でたどる藩政史』新人物往来社、1977年
- 中嶋繁雄『大名の日本地図』文春新書、2003年
- 八幡和郎『江戸三00藩 バカ殿と名君 うちの殿さまは偉かった?』光文社新書、2004年
外部リンク
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