ニコライ・ゴーゴリ

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テンプレート:Infobox 作家 ニコライ・ヴァシーリエヴィチ・ゴーゴリウクライナ語:Микола Васильович Гоголь[1] / ロシア語: Николай Васильевич Гоголь1809年4月1日ユリウス暦3月20日) - 1852年3月4日)は、ウクライナ生まれのロシア帝国の小説家、劇作家。ウクライナ人。戸籍上の姓は、ホーホリ=ヤノーウシクィイ(ロシア語:ゴーゴリ=ヤノフスキー)である。『ディカーニカ近郷夜話』、『ミルゴロド』、『検察官』、『外套』、『死せる魂』などの作品で知られる。

生涯

ウクライナのソロチンツィの小地主の家に生まれる。ソ連時代のゴーゴリ研究によると、先祖はヤノーウシクィイ(ロシア語:ヤノフスキー)姓で、ウクライナの聖職者であったが、祖父の代(18世紀後半)に至り、婚姻によって領地を得、地主となった。1783年エカチェリーナ2世がウクライナに農奴制を導入するに伴い、貴族の称号を持たない者には地主としての土地と農奴の所有が許されなくなったため、フメリニツキーの乱に参加したウクライナ・コサック連隊長であるオスタープ・ホーホリ(ロシア語:オスタープ・ゴーゴリ)なる人物を、自家の系図の筆頭に据え、姓もホーホリ=ヤノーウシクィイ(ロシア語:ゴーゴリ=ヤノフスキー)と改めた[2]。父親のヴァスィーリ・ホーホリ=ヤノーウシクィイ(ロシア語:ワシーリー・ゴーゴリ=ヤノフスキー)は、アマチュア劇作家で、ウクライナ語による劇作品を2篇遺している。

1818年、弟イワンと共に親元を離れ、ポルタヴァの小学校に入学。翌年弟が死去し、深い衝撃を受ける。1821年ネージンの高等中学校に寄宿生として入学。在学中は学業よりも絵画と文学に熱中し、また父譲りの演劇の才を発揮して、学校劇では老け役や吝嗇漢を演ずるのを得意とした。卒業後、1828年サンクトペテルブルクに移り、長詩『ガンツ・キュヘリガルテン』をV・アロフなる筆名で自費出版するが、酷評され、失望のあまり国外へ逃亡する。同年、ペテルブルクに舞い戻り、俳優を志すが失敗し、かろうじて下級官吏の職を得る。この時期の、薄給に喘ぐ貧寒な生活の経験は、都市の下層民や小役人や俗物たちを描くのちの「ペテルブルクもの」と呼ばれる作品群に活かされることになる。1830年、『ビザヴリューク、あるいはイワン・クパーラの前夜』を匿名で発表、不遇のうちにも詩人ジュコーフスキーや、ペテルブルク大学総長で詩人・批評家のピョートル・プレトニョフの知遇を得る。1831年には愛国女学院に職を得て生活も安定し、同年5月、ジュコーフスキーの紹介でアレクサンドル・プーシキンと会う。プーシキンはゴーゴリの才能を評価し、以後、親交を持った。同年9月、当時流行のウクライナのフォークロアに取材した『ディカーニカ近郷夜話』(第1部1831年、第2部1832年)を出版し、一躍人気作家となる。1834年から1835年までペテルブルク大学で歴史を教える。その後、ウクライナ物を集めた『テンプレート:仮リンク』や、ペテルブルクを舞台にした『肖像画』、『ネフスキー大通り』、『狂人日記』、『鼻』などの中編小説(ポーヴェスチ、повесть)で文名はいよいよ高まる。1836年の戯曲『テンプレート:仮リンク』によってその名は広く一般に知られるところとなるが、その皮肉な調子は非難の対象となり、それを避けてゴーゴリはローマへ発った。途中パリでプーシキンの訃報を知り、衝撃を受ける(1837年)。これ以降彼は、教化と予言とによってロシア民衆を覚醒させ、キリスト教的な理想社会へと教え導くことこそが自己の使命であると痛感するようになる。

ゴーゴリはその残りの人生の大部分をドイツイタリアで過ごした。その頃の手紙によって、ゴーゴリには同性愛的傾向があったと言われる[3]。1839年に恋人の突然の死を経験するが、その事件が彼の後半生にどのような影響を与えたのかについては未だ謎が多い。『死せる魂』と『外套』を書いたのはこの頃のことである。『死せる魂』第一部は1842年に刊行された。ゴーゴリにとって、第一部は克服すべきロシアの腐敗を描いた序章にすぎず、第二部・第三部において主人公チチコフの成長と魂の救済、美と調和を体現する理想のロシアが描かれる筈であった。しかし、執筆は遅々として進まず、1845年、苦悶のあまり第二部の草稿を火中に投じる。1847年、『友人との往復書簡選』[4]を出版。その頑迷で教条的な説教と、帝政と農奴制を賛美する反動思想とにより、ベリンスキーをはじめそれまでゴーゴリを高く評価してきた多くの支持者を失う。1848年、次第に信仰にのめり込んでいたゴーゴリはエルサレム巡礼に旅立つ。エルサレムより戻った後、聖職者コンスタンティノフスキーの影響のもと、信仰生活のために文学を棄てることを決心し、書き溜めてあった『死せる魂』の第二部をふたたび焼いてしまう。彼がモスクワで歿したのはその10日後、1852年3月4日のことだった。『死せる魂』の第二部は、その一部が残されており、刊行されている。

解釈・評価

ゴーゴリの初期作品は、主にエルンスト・ホフマンをはじめとするドイツ・ロマン派[5]の強い影響下にあり、概して明るいユーモアとロマン主義的な幻想性を特徴とする。中期以降の作品では、地方地主たちの安逸な日常や、ペテルブルクの小役人・下層階級の人々の日々の生活の現実的で詳細かつ極めて誇張された描写から来る笑いと、それらの俗悪さ、空虚さ、卑小さへの作者の絶望と恐れから来る詠歎とが同居した独特の文体を特色とする。その笑いは、『外套』の「人道主義的箇所」[6]や、『死せる魂』第一部に顕著な抒情的詠歎などから、しばしば「涙を通しての笑い」と呼ばれる。

ゴーゴリ作品への評価には、ロシア文化における西欧派とスラヴ派(民族主義派)の分裂・相克が映し出されている。帝政への不満を持つ急進的な知識人たちは、ゴーゴリの作品を醜悪な現実社会を映し「社会批判」「社会改革」を志向する「諷刺文学」として受け容れた。『鼻』や『外套』などに見られる空想的要素については、厳しい検閲に対する目くらましとも言われた[7]

ところが、評論や書簡、同時代の回想などから窺えるところの、現実の政治や社会問題に対するゴーゴリの見識は、視野が狭くきわめて保守的であったとされる[8]。畢生の大作となるべき『死せる魂』をゴーゴリに書かせた根底に、一種の理想主義があったことは確かであるが、それはロシアの体制それ自体の変革を志向するものでなく、第一部で主人公の過ちを、第二部でその矯正を描くことによって、ロシア民衆を道徳的に目覚めさせ、古き良きロシアを再生させようとするものであった。

しかし、人間の否定的な、醜悪な面を誇張し、グロテスクに描くことに長けたゴーゴリにとって、第二部の創作は手に余るものであった。第二部の執筆は遅滞し、それと裏腹にロシア民衆の教化とロシア再生への祈願は年を追うごとに大きくなって、晩年には『友人との往復書簡選』により、宗教への狂信と体制への賛美を表明するに至った。それまで彼を体制への批判者と信じてきた自由主義者たちばかりか、保守反動のスラヴ派の人々からも痛烈な批判を浴びたこの最後の著作は、ゴーゴリの晩年に至るまでの思想的推移を、小説の解釈にどのように結びつけるかという点で、作品解釈上の分裂を生じさせる原因ともなった。

つまり、『死せる魂』第一部までの前半生の作品群に笑いと諷刺による体制批判を読み取り、後半生の神秘思想・保守思想をあくまで宗教的迷妄による転向として切って捨てる西欧派・進歩派の解釈と、晩年の復古的ユートピア思想の価値を積極的に認め、そこから全作品に通底するゴーゴリの汎スラヴ思想を読み取ろうとするスラヴ派的読解とが生じた。前者は、ベリンスキーの批評と相まって、ゴーゴリを自然派の代表者、ロシア・リアリズム文学の祖にして人道主義者であると見なすソ連公式理論へと繋がる。後者の代表としては、ウラジーミル・ソロヴィヨフニコライ・ベルジャーエフなどが挙げられる[9]。ゴーゴリ作品へのそうしたイデオロギー的読解に対する根本的な意義が唱えられるのは、20世紀初頭のロシア・フォルマニズム運動以降のことである[10]

ドストエフスキー[11]をはじめその後のロシア文学にゴーゴリが与えた影響はきわめて大きい。ゴーゴリは前述のように長らくロシア・リアリズム文学の祖とされたが、その作品の幻想性、細部の誇張グロテスクの手法などが20世紀文学に与えた影響も重視されている。ドミトリー・メレジコフスキーエヴゲーニイ・ザミャーチンミハイル・ブルガーコフアンドレイ・シニャフスキー(アブラム・テルツ)などはその伝統を強く意識していた。1920年代に、ホフマンの作品の登場人物の名を借りてつくられた文学サークル『セラピオン兄弟』は有名である。

また、日本文学にも強い影響を与えた。芥川龍之介の作品『芋粥』は導入部分が、ゴーゴリの『外套』に酷似している。ほかに、宇野浩二の饒舌体、後藤明生の『笑い地獄』『挟み撃ち』など、ゴーゴリの小説作法に学んだ作品が数多く存在する。

「所有権」争い

ゴーゴリ生誕200年を迎えた2009年にロシアとウクライナとの間でゴーゴリの「所有権」を巡る争いが起きた。ゴーゴリが文学活動をしたロシアでは首都モスクワに初めての「ゴーゴリ博物館」がオープンし、ザポロージャ・コサックとポーランドとの戦い(フメリニツキーの乱)を描いたゴーゴリの小説『テンプレート:仮リンク』が映画化され公開された。しかし、この映画は、ウクライナ人のザポロージャ・コサックをロシア人として描いているなどの理由で、ロシア民族主義を前面に押し出しているとの批判がなされている[12]。一方、ゴーゴリの出身地で、作品の題材に取り上げられているウクライナでは同国のヴィクトル・ユシチェンコ大統領が2009年4月1日の「ゴーゴリ生誕200周年記念式典」で「ゴーゴリは疑いなくウクライナのものだ。彼はロシア語で書いたがウクライナ語で思索していた」と主張。ウクライナではゴーゴリのすべての作品のウクライナ語訳も進められているが、ロシアの文学者たちは「ウクライナ語訳はオリジナルを損ねる」と反発した[13]。青年時代からゴーゴリはウクライナ贔屓で、ネージン時代にはウクライナ語による戯曲を創作したことがあり[14]、ベテルブルクで人気の小説家になってから後も、ロシアでの生活に馴染みきれず、故郷の習俗や言語への愛惜の念を終生失わなかった。しかし、晩年のゴーゴリはウクライナ語文学に対しては批判的であり、ウクライナ語で詩作していた同郷の詩人タラス・シェフチェンコに対し、「われわれはロシア語で書くべきなのだ。われわれ全スラブ人にとって主権を有するロシア語を擁護し、強固なものにしてゆかねばならない。プーシキンの言葉こそが唯一主要な聖物なのだ」と苦言を呈したと伝えられる[15]

作品(一部)

注釈

テンプレート:脚注ヘルプ

  1. ウクライナ語名ではムィコーラ・ヴァスィーリョヴィチ・ホーホリ。
  2. 青山太郎著『ニコライ・ゴーゴリ』(河出書房新社、1986年9月)21-22ページ。
  3. テンプレート:仮リンク(1924-2009)の研究による。
    Simon Karlinsky "The Sexual Labyrinth of Nikolai Gogol" Cambridge, 1976.
  4. 全32章の日本語訳は『ゴーゴリ書簡集 作者の懺悔』原久一郎訳(鎌倉文庫、1949年7月)。
  5. E・T・A・ホフマン、ルートヴィヒ・ティークウォルター・スコットジョージ・ゴードン・バイロンらロマン主義文学からの影響については古くから指摘されている。ゴーゴリとロマンチシズムとの関係については、諌早勇一「ゴーゴリの「ロマン主義」解釈」(Rusistika/東京大学文学部露文研究室年報2、1982年、40-48ページ)が詳しい。
  6. 主人公アカーキイ・アカーキエヴィチを揶揄おうとした若い役人が、主人公の「心にしみとおる言葉」を聞き衝撃を受ける箇所。河出書房新社「ゴーゴリ全集」第3巻(1976年9月)197-198ページ。
  7. スターリン時代の文芸批評家ウラジーミル・エルミーロフ(1904-1965)は、比喩やほのめかしで敵を嘲笑し諷刺するゴーゴリの巧妙な手法であるとした(エルミーロフ『決定版 ゴーゴリ研究』未來社、1955年10月)。
  8. 河出書房新社「ゴーゴリ全集」第6巻(1977年1月)の評論集、同7巻(1977年12月)の書簡集、前掲『ゴーゴリ書簡集 作者の懺悔』。アンリ・トロワイヤ『ゴーゴリ伝』(中央公論社、1983年10月)に引用されている同時代人回想など。
  9. 『友人との往復書簡選』を高く評価したレフ・トルストイとゴーゴリのそれぞれの晩年に於ける思想の相似性についてもしばしば指摘される(Boris de Schlœzer "Gogol", Paris, 1946. など)。
  10. 代表的な論文は、ボリス・エイヘンバウム「ゴーゴリの『外套』はいかに作られたか」(1919年)(水野忠夫編、北岡誠司/小平武訳『ロシア・フォルマリズム文学論集1』せりか書房、1971年9月 所収)。
  11. ドストエフスキーが「われわれはみなゴーゴリの『外套』から出た」と述べたという俗説は広く知られているが、実際は、フランスの外交官で文人のウージェーヌ=メルシオール・ド・ヴォギュエ(Eugène Melchior de Vogüé, 1848-1910)が、その著作『ロシア小説』(Le Roman russe, 1886年刊)のドストエフスキーを論じた章で、「四十年来文学の歴史に深く関わってきた一人物」の口に託した言葉であるとされる(青山太郎 前掲書、411ページ)。
  12. 【映画批評】
    Фільм «Тарас Бульба»: мистецтво на службі…
    Гоголь и придворный кинематограф
    Цензурированный Бульба и режиссер Бортко в роли Андрея
    【参考映像】
    2009年の映画『タラス・ブーリバ』
  13. ゴーゴリは誰のもの(産経新聞 4月9日)
  14. 青山太郎 前掲書、36ページ。なお、ウクライナ語によるこれらの作品は今に伝わらない。彼がウクライナ語で書いた文章は、1編のエピグラムと1通の書簡のみが現存する(同、24ページ)。
  15. 青山太郎 前掲書、577ページ。
    Сочинения Г. П. Данилевского. — 8-е изд. — СПб., 1901. — Т. 14. — С. 92-100.

関連項目

外部リンク

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