アンワル・アッ=サーダート
アンワル・アッ=サーダート محمد أنور السادات ノーベル賞受賞者 | |||||
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任期 | 1971年9月2日 – 1981年10月6日 | ||||
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任期 | 1970年10月15日 – 1971年9月2日 (1970年9月28日から10月15日まで大統領代行) | ||||
テンプレート:UAR
副大統領 | |||||
任期 | 1964年2月17日 – 1964年3月23日 1969年12月19日 – 1970年10月15日 | ||||
元首 | ガマール・アブドゥル=ナーセル大統領 | ||||
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任期 | 1973年3月26日 – 1974年9月25日 1980年3月15日 – 1981年10月6日 | ||||
元首 | アンワル・アッ=サーダート大統領(兼務) | ||||
テンプレート:UAR
第2代人民議会議長 | |||||
任期 | 1960年7月21日 – 1968年11月12日 | ||||
元首 | ガマール・アブドゥル=ナーセル大統領 | ||||
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出生 | テンプレート:生年月日と年齢 テンプレート:EGY1882、ミヌーフィーヤ県 ミト・アブ・アル=クム | ||||
死去 | テンプレート:死亡年月日と没年齢 テンプレート:EGY1972、カイロ |
政党 | アラブ社会主義連合(1977年まで) 国民民主党 |
配偶者 | ジーハーン・サーダート |
ムハンマド・アンワル・アッ=サーダート(テンプレート:Lang-ar, ラテン文字: Muhammad Anwar al-Sādāt, 1918年12月25日 - 1981年10月6日)は、エジプトの軍人、政治家。共和政エジプト第3代大統領(第2代アラブ連合共和国大統領、初代エジプト・アラブ共和国大統領)。また首相を2期務めた。
「アッ=サーダート」は原語での発音に近いカタカナ表記で、比較的新しい表記法である。日本ではサダトの存命中から現在に至るまで、外務省[1]や新聞・報道は一貫してサダトと表記しており、一般にはこちらの方がより広く知られている。
目次
経歴
自由将校団への参加とエジプト革命
サダトはミヌーフィーヤ県のミト・アブ・アル=クムで、貧しいスーダン系エジプト人一家の13人兄弟の一人として誕生した。1938年、カイロの王立陸軍士官学校を卒業し、通信部隊に配属された。
その後、士官達の祖国解放運動に加わる。それは1922年にイギリスの保護領として成立したエジプト王国において、実権を握るイギリス軍の支配から、真に祖国を解放しようという運動であった。
第二次世界大戦中の1942年、エルヴィン・ロンメル率いるドイツ・アフリカ軍団はエル・アラメインまで進撃していた。祖国解放を目指したサダトは、それに呼応して、カイロ市内でイギリス軍を狙ったテロを計画したとして、投獄される。その後、証拠不十分で銃殺は免れた。しかし軍籍を剥奪され、初めは外国人留置所に、次に監獄病院と拘留生活を送った。1944年に脱獄し、終戦までカイロの日本庭園で潜伏する。
士官学校の同期で友人のガマール・アブドゥル=ナーセルとともに自由将校団を結成し、1952年のクーデター(エジプト革命)に参加する。クーデターの際、サダトはラジオおよびテレビ局を占拠し、国民に革命の発表を行なった。
ナセル政権下で
革命によって1953年、エジプトは王制を廃止し共和制へ移行した。サダトは新政府のリーダーとなったナセルを支える。ナセル政権が成立した1954年、国務大臣に就任。1958年にナセルがエジプトとシリアを合邦してアラブ連合共和国を建国し、その初代大統領の地位に就くと、サダトは翌年、連合国務長官に任命された。さらに1960年から1968年まで人民議会議長を務める。この間の1964年には副大統領に任命され、大統領評議会の議員となる。このときの副大統領就任は短期間であったが、1969年12月19日に再び副大統領に任命され、翌年10月15日まで同職を務めた。
大統領就任
1970年9月28日、ナセル大統領が死去する。副大統領として大統領代行を務めることになったサダトは、国民へ大統領の死去を伝えるスピーチを行った。同年10月15日、サダトは正式に大統領に就任する。大統領就任後はナーセルの社会主義的経済政策を改めて経済自由化を進めるとともに、イスラーム主義の運動を解禁してエジプトの路線を大きく右旋回させた。これらの政策に対する反対派は一掃し、国有メディアはそれを革命の矯正と名付けた。さらに、1961年にシリアが離脱して以来、連合国家の体をなしていなかったアラブ連合共和国の正式な解体を決断し、1971年9月2日、国号をエジプト・アラブ共和国に改めた。
第四次中東戦争と対イスラエル和平
大統領就任当初、サダトはナーセルが敷いた対イスラエル強硬路線を継承していた。1973年10月6日、シリアと共同でイスラエルに開戦して第四次中東戦争を起こし、イスラエル軍に大打撃を与えた。これによってサダトは国民的英雄となった。
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しかし、以後はナセルの外交路線を完全に転換してアメリカ合衆国に接近し、1977年にイスラエルのメナヘム・ベギン首相の招きでエルサレムを訪問。エジプト・イスラエル間の和平交渉を開始し、翌1978年、アメリカのジミー・カーター大統領の仲介のもと、キャンプ・デービッド合意にこぎつけた。そして1979年には両国間に平和条約が結ばれた。
この合意は、長年の仇敵だったイスラエルとの和解をもたらすものだけではなく、1967年の第三次中東戦争でイスラエルに奪われたシナイ半島の領土を平和裡に返還する伏線ともいうべきもので、エジプトが中東和平の先駆けとして周知されることにも繋がった。
国民からの反発
この歴史的合意により、サダトはベギンとともに1978年ノーベル平和賞を受賞、世界各国から高い支持を受けた。しかし、このエジプト=イスラエル単独和平は「パレスチナのアラブ人同胞に対する裏切り」と受け取られ、アラブ諸国とイスラム教徒の民衆の反感を招き、サダト政権は次第に孤立する。また、経済自由化と外資導入のインフィタ政策による急激な成長の結果、エジプト社会に貧富の差が広がり、腐敗が横行したことによる国民の不満も高まっていた。
1979年1月、イランでルーホッラー・ホメイニーが指導するイラン革命が勃発する。サダトは親しかったモハンマド・レザー・パフラヴィー皇帝のエジプトへの亡命を受け入れたものの、その後パフラヴィーがアメリカへ向かうと、イスラム教徒を中心に猛烈な反発を受けることになった。
イスラム教徒や知識層からの反発が強まる中、1981年9月に、サダトは共産主義者、ナセル支持者、フェミニスト、イスラム原理派、大学教授やジャーナリスト、学生運動家といった知識人および政治的活動家の多くを厳しく取り締まり拘束した。その数はおよそ1600人におよび、国際的な非難を受けた。
この間に発生した経済恐慌と、反対派に対する抑圧によって、サダトに対する国民の支持はますます失われていった。
暗殺
1981年10月6日、サダトは第四次中東戦争開戦日を記念しその勝利を祝う戦勝記念日のパレードを観閲中に、イスラム復興主義過激派のジハード団に所属するハリド・イスランブリ中尉によって暗殺された。
サダト本人も自分がいつか暗殺されることを予期しており、近々自分が殺されるだろうと親しい友人などに語っていたという。死の直前にしたためたとされる手記には「自分は、今まで永年の仇敵とされていた、イスラエルとの間に平和を作り上げた。これで人生の終わり。あとはただ昇天を待つのみである」と記述されている。また暗殺される一年前に出された自伝にも自らの死を予期する記述がある。
そのため、4重の警護に守られており、パレードにおける火器使用の規制が行われるはずであったが、その手続きを担当する士官はメッカ巡礼に出かけていた。空軍のミラージュが上空を飛行し、群衆はそれに気をとられていた。パレードのトラックが大統領の観閲席前に停止し、乗車していた暗殺隊が降りてきた。イスランブリ中尉は大統領の前に進んだ。サダトはイスランブリ中尉の敬礼を受けようと起立していたが、中尉は3個の手榴弾を投げつけ、その内1個が爆発した。中尉と暗殺隊は突撃銃で観閲スタンドに射撃した。サダトが倒れた後、人々は、銃弾から彼を守るために周囲に椅子を投げた。イスランブリ中尉は「ファラオへの死!」と叫びながら観閲スタンドに走り寄り、サダトの体へ銃を発射した。
銃撃戦は約2分間続いた。キューバ特命全権大使、オマーンの将官、ギリシャ正教司祭を含む11名が死亡し、副大統領のホスニー・ムバラク、外務大臣のブトロス・ブトロス=ガーリ、訪問客のアイルランド国防大臣ジェームズ・タリー、4人のアメリカ軍連絡将校を含む28名が負傷した。
保安部隊は不意を突かれたものの、間もなく応戦した。 暗殺隊の2人が射殺され、イスランブリ中尉と他の暗殺隊は憲兵隊によってその場で逮捕された。
サダトは病院へ搬送され11人の医師による手術を受けたが、数時間後にその死が発表された。サダトの後継として、副大統領のホスニー・ムバラクが大統領に昇格した。ムバラクもこの攻撃で手を負傷していた。サダトの葬儀には世界中から多くの高官が参列した。
家族
サダトは2度結婚している。最初の妻エーサン・マジと1949年5月29日に離婚し、その日に、16歳年下のエジプト人とイギリス人の混血であるテンプレート:仮リンク(当時15歳)と結婚(再婚)した。サダトはジーハーンとの間に三人の娘と一人の息子をもうけた。ジーハーンは『In Search of Identity』(1977年)により2001年にパール・バック賞を受賞している。
邦訳著作
- 『サダト・最後の回想録』(読売新聞外報部訳、読売新聞社、1982年)
- 『サダト自伝』(朝日新聞外報部訳、朝日新聞社、1978年)
- 『ナイルの叛乱』(井上幸治訳、岩波書店〈岩波新書〉、初版1958年) - フランス語版を元にしている。
脚注
関連項目
外部リンク
- Official website テンプレート:Ar icon
- http://www.anwarelsadat.com/
- http://www.elsadat.info/
- http://www.bsos.umd.edu/sadat
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テンプレート:ノーベル平和賞受賞者 (1976年-2000年) テンプレート:エジプト大統領テンプレート:Link GA