藤原俊成
藤原 俊成(ふじわら の としなり)は、平安時代後期から鎌倉時代初期の公家・歌人。名は有職読みで「しゅんぜい」とも読む。藤原北家御子左流、権中納言・藤原俊忠の子。はじめ葉室家に養子に入り藤原(葉室) 顕広(あきひろ)を名乗ったが、後に実家の御子左家に戻り改名した。法名は釈阿。最終官位は正三位・皇太后宮大夫。『千載和歌集』の編者として知られる。
生涯
早くから歌人としての活動を始め、藤原基俊に師事する。佐藤義清(西行)の出家に影響され、自身も一時その願望を持つ事となったが、平安末期の無常観を反映しつつ、『万葉集』『古今和歌集』の伝統を踏まえた抒情性の豊かな歌風を確立し、当世風の新奇性を重視した六条流の歌風と当時の歌壇を二分した。和歌所寄人をつとめ、後白河院の院宣で単独で『千載和歌集』を編んだ。
歌学書には『古来風躰抄』(後白河院の皇女である式子内親王に奉ったもの)のほか、『俊成卿和字奏状』『古今問答』。選歌集に『俊成三十六人歌合』。家集に『長秋詠藻』『俊成家集』があり、『長秋詠藻』は六家集の一つに数えられる。『詞花和歌集』以下の勅撰和歌集に414首が採録されている[2]。 また九条良経が催した六百番歌合の判者をつとめた。
指導者としても、九条家の歌の指導をおこなうほか、息子・定家をはじめとして、門下に寂蓮・藤原家隆など優秀な歌人を多数輩出した。『平家物語』にも門下のひとり平忠度とのエピソードが描かれる。また桐火桶を抱えながら歌を作る癖をからかわれていた事も有名である。
北家でも、権大納言を極官とした傍系の長家流で、父と早く死別した事もあって出世は大きく遅れたが、当時としては異例の長寿を保ち、皇太后宮大夫・正三位にまで進んだ。息子・藤原定家の『小倉百人一首』には皇太后宮大夫俊成として採られるが、彼とともに社会の政治・経済的矛盾が深まる中、武家が政権を奪取する中世へ移行する時代の激動期を生き抜き、歌の家としての御子左家の名を確立した。
俊成と平忠度
俊成に関する逸話で第一に思い浮かぶのが源平合戦(治承・寿永の乱)の最中の平忠度との最後の対面であろう。この話は『平家物語』巻7「忠度都落」に記されている。
平清盛の末弟・平忠度は武勇も優れていたが、俊成に師事し歌人としても才能に優れていた。寿永2年(1183年)7月の平家一門が都落ちした後、忠度は従者6人と共に都に引き返し、師・藤原俊成の邸を訪れた。「落人が帰って来た!」と動揺する家人達に構わず対面した俊成に忠度は「(源平)争乱のため院宣が沙汰やみとなった事は残念です。争乱が収まれば改めて『勅撰和歌集を作るように』との院宣が出るでしょう。もし、この巻物の中に相応しい歌があるならば勅撰和歌集に私の歌を一首でも入れて下さるとあの世においても嬉しいと思えば、遠いあの世からお守りする者になりましょう」と秀歌と思われる歌・百余首が収められた巻物を俊成に託して立ち去った。翌年に忠度は一ノ谷の戦いで戦死した。その巻物に勅撰和歌集に相応しい秀歌はいくらでも収められていたが、忠度は勅勘の人だったので[3]、俊成は忠度の歌を「詠み人知らず」として一首のみ勅撰和歌集(『千載和歌集』)に載せた。その加護があったのか、既に70近かった俊成は更に20年余り生きた。
なお、俊成死去の4ヶ月前には平氏に代わって政権を握り、鎌倉幕府を建てた源氏も前将軍・源頼家が御家人の勢力争いの中命を落とし、それを見ていた専制的君主・後鳥羽上皇が政治の主導権を朝廷に取り戻そうとしていた。早くから出家願望があった俊成だったが、改めて世の無常をかみ締めていたのかもしれない。
官歴
※日付=旧暦
- 保安4年(1123年) 父・俊忠薨去により、葉室顕頼の養子となり、顕広と名乗る。
- 大治2年(1127年)1月19日、従五位下に叙せられ、美作守に任官[4]。
- 天承2年(1132年)閏4月4日 加賀守に遷任。
- 保延3年(1137年)12月16日 遠江守に遷任。
- 永治2年(1142年)1月23日、遠江守を重任。
- 久安元年(1145年)
- 11月23日 従五位上に昇叙し、遠江守如元。
- 12月30日 三河守に遷任。
- 久安5年(1149年)4月9日 丹後守に遷任。
- 久安6年(1150年)1月6日 正五位下に昇叙し、丹後守如元。
- 久安7年(1151年)1月6日 従四位下に昇叙し、丹後守如元。
- 仁平2年(1152年)12月30日 左京権大夫に転任。
- 久寿2年(1155年)10月23日 従四位上に昇叙し、左京権大夫如元。
- 保元2年(1157年)10月22日 正四位下に昇叙し、左京権大夫如元。
- 応保元年(1161年)9月19日、左京大夫に遷任。
- 永万2年(1166年)
- 1月12日 左京大夫を辞任。
- 改元して仁安元年8月27日 従三位に昇叙。
- 仁安2年(1167年)
- 1月28日 正三位に昇叙。
- 12月24日 諱を俊成と改める。
- 仁安3年(1168年)12月12日 右京大夫に任官。
- 嘉暦2年(1170年)7月26日 皇后宮大夫(後白河院の皇后藤原忻子)を兼任。
- 嘉暦3年(1171年)1月18日 備前権守を兼任。
- 承安2年(1172年)2月10日 皇后・忻子が皇太后となったため、皇后宮大夫から皇太后宮大夫に異動。
- 承安5年(1175年)12月8日 右京大夫を止む。
- 安元2年1176年)9月28日 出家。法名:釈阿
- 元久元年(1204年)11月30日 薨去。享年91
系譜
藤原道長の玄孫にあたり、藤原氏北家長家流(御子左家)に属する。
- 父:藤原俊忠
- 母:藤原敦家女
- 養父:藤原顕頼
- 妻:美福門院加賀 - 藤原親忠女
- 妻:藤原為忠女
- 妻:六条院宣旨 - 藤原顕良女
- 女子:八条院坊門局
- 妻:藤原忠子家半物
- 男子:覚弁(1132頃-1199?)[6]
- 妻:三位藤原忠子家女房
- 女子:前斎院女別当
- 妻:皇嘉門院備前内侍(近衛院備前内侍) - 木工権頭源季業妹
- 女子:二条院兵衛督 - 左馬頭源隆保の妻
- 生母不明:
- 男子:静快
- 女子:二条殿青女房
- 養子女:
脚注
関連項目
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- ↑ 『勅撰作者部類』
- ↑ 都落ちした安徳天皇は「源氏を討て」との勅命を出した。対して後白河法皇は安徳天皇の異母弟・尊成親王を即位させ(後鳥羽天皇)「平家を討て」との勅命を出させた。忠度は「後鳥羽天皇側の」朝敵である。
- ↑ 『上皇御移徙記』によれば、翌大治4年(1128年)に養父の院御所進上の成功によって重任宣旨を受けている(寺内浩『受領制の研究』2004年、塙書房、P149)。
- ↑ 明月記研究会編『明月記研究提要』(八木書店、2006年)所収「藤原定家関係系図」による。六条院宣旨を母とする説もあり。
- ↑ 明月記研究会編『明月記研究提要』所収「藤原定家関係系図」による。藤原為忠女を母とする説もあり。