初期仏教
テンプレート:Sidebar テンプレート:出典の明記 初期仏教(しょきぶっきょう)とは、 釈迦が生きていた時代を含む初期のおよそ150年から200年の間のテンプレート:仮リンクをいう[1]。
原始仏教または根本仏教とも呼ぶことがあるが、「原始」・「根本」という言葉にはさまざまな価値的な判断の意味が含まれるため、ここでは中立的な時間的に先であることを示す「初期仏教」という用語を使用する。ただし、「初期仏教」と表記する場合、初期・中期・後期という仏教があるかのように考えられるので、中村元と前田惠學は「原始仏教」(原点・始点)という用語を用いているテンプレート:どこ。
目次
初期仏教の歴史
ブラーフマナ時代
リグ・ヴェーダによれば、紀元前13世紀頃、現在のアフガニスタンのバルフから多神教のヴェーダの宗教(紀元前11世紀頃に誕生するザラスシュトラの興した一神教・ゾロアスター教の原型でもある)を奉ずる民族が十王戦争においてインドに侵攻し、先住民族であるドラヴィダ人を支配する封建社会体制が形作られた。
紀元前10世紀に始まるドラヴィダ人との同化の時代であるブラーフマナ時代(紀元前900年 - 紀元前500年)になると、司祭階級バラモン(ブラフミン)を頂点とするカースト制を持つバラモン教がインドで形作られていった。紀元前5世紀になると、4大ヴェーダが完成し、バラモン教が宗教として完成した。しかし、カースト制に不満を持つ人々(マハーヴィーラ、マッカリ・ゴーサーラ、ガウタマ・シッダールタ(釈迦))も同時期に登場し、ジャイナ教・アージーヴィカ教・仏教といったアンチ・バラモン教を開いた。このように、当時のインド四大宗教はほぼ同時期にそろって誕生したのである。
釈迦の初期仏教
仏教は、約2500年前(紀元前5世紀)に釈迦が、インド北部ガンジス川中流域のブッダガヤで悟りを開き、サールナートで初転法輪(初説法)を行ったことに起源が求められている。発生当初の仏教の性格は、同時代の孔子などの諸子百家、ソクラテスなどのギリシャ哲学者らが示すのと同じく、従来の盲信的な原始的宗教から脱しようとしたものと見られ、『マハー・ワッガ』をはじめとする初期経典では、このとき五比丘(5人の修行仲間)に説かれた教えが、中道・八正道・四諦・三転十二行相であったとされている。
釈迦と五比丘、すなわちコンダンニャ・ワッパ・バッディヤ・マハーナーマン・アッサジの6人が阿羅漢となり創設された初期仏教教団は、シュラーヴァスティーのジェータヴァーナー寺院を教団本部とし、インド各地で布教活動を行った。これら釈迦の生涯において重要な各地を八大聖地と呼ぶ。
提婆達多の新教団
釈迦の存命中、弟子のひとり提婆達多が「五事の戒律」(his sangha to adopt five Tapas)を提案したが釈迦仏教教団に受け入れられず、分派して新しい独自の教団を結成したとパーリ語経典は伝えている。これが仏教の最初の分派と考えられるが、この新教団が仏教と云えるかどうかには諸説がある。
玄奘三蔵の『大唐西域記・巻十』には、提婆達多派が過去七仏の中でも釈迦仏を除いた仏を信奉していた事が記されており、釈迦を仏として認めず釈迦仏教教団とはその後も長期間に渡って対立していたことがわかっている。提婆達多は釈迦の従兄弟で阿難(アーナンダ)の兄と考えられており、釈迦仏教教団内部で高位の僧であったことから、新教団への対応はかなり微妙なものであったと考えられている。
釈迦仏教教団
釈迦がクシーナガラで死亡(仏滅)して後、直ぐに出家者集団(僧伽、サンガ; Early Sangha)は個人個人が聞いた釈迦の言葉(仏典)を集める作業(結集)を行った。これは「三蔵の結集」(さんぞうのけちじゅう)と呼ばれ、十大弟子の一人、マハーカッサパ(摩訶迦葉尊者)が中心になって開かれた。
仏典はこの時には口誦によって伝承され(このため当初は「多聞」(釈迦の教えを多く聞いた)が褒め言葉になっていた)、後に文字化された[2]釈迦の説いた法話を経・律・論と三つに大きく分類し、それぞれ心に印しているものを持ち寄り、仏教聖典の編纂会議を行った。これが第一回の三蔵結集である。この時、アーナンダが経、ウパーリが律の編集責任者となった。編集責任者が伝わっていない論は、のちに根本分裂の原因となった。
初期仏教からの展開
根本分裂
テンプレート:See also 釈迦の死から約100年後のアショーカ王(前3世紀)のころ、仏教教団(テンプレート:仮リンク)は保守的な上座部と進歩的な大衆部とに分裂した。これを根本分裂と呼び、それ以前を初期仏教、以後を部派仏教と呼びならわす。分裂の原因は、上座部の教典、パーリ語経典に含まれる論蔵の解釈にあった。
インド最大の宗派となった上座部の説一切有部は三世実有・法体恒有と云われる立場を完成させた。一方、大衆部及び上座部の経量部・法蔵部は現在有体・過未無体を主張する立場となっていった。後者の集団について書かれた『八千頌般若経(29品)』の古写本が発見され、大乗仏教の形成期についての解明が期待されているが、研究結果は発表されていない。鳩摩羅什以前の時代の訳経を「古訳」と呼ぶ。
ただし、これらが分裂の要因とされたという見解については、漠然としているという説や、そのように画一的に線を引くことが出来るかどうかという点も指摘されており、分裂の原因は、いまなお、混沌としていて、研究結果不明の状態である。
大乗仏教
さらに釈迦の死後約500年経った西暦紀元前後になると、「大乗仏教」[3]と自ら宣言をする集団が現れる。大乗仏教は論敵とした説一切有部などの上座部を「専門的な煩瑣な哲学論議に陥ち入り、自己の解脱を中心にしている小乗仏教」[4]として批判した。
その一方で、大乗仏教は、700年に渡って反逆者とされてきた提婆達多をどう捉えるかという問題にも取り組んでいる。提婆達多派の存在を認知や、他の分派した仏教部派(主に説一切有部)をどう包摂するか、などが大乗の観点から大きな問題として中観派・唯識派から提起され、それらの諸問題を扱うことが原動力となって多くの新しい経典[5]を生み出していったと推察されている。この点に於いて、上座部は現在でも提婆達多派を仏教と認めておらず、大乗仏教との関係も学術的には三世実有説の立場から対立している。
インドにおける仏教への弾圧
国際交流の時代
西域の亀茲国(トカラ語B方言が話されていた)で3世紀頃から仏典の翻訳が盛んになったことは、キジル石窟や敦煌文献から知ることができる。亀茲の仏僧鳩摩羅什がサンスクリット語から漢訳した訳経を「旧訳」(くやく)と呼ぶ。
479年、達磨が南インド(パッラヴァ朝)から中国(南北朝時代の宋)へ渡り、中国禅の開祖となった。達磨は「二入四行論」によって自己修養の入り方・行じ方を説き、日本へは鎌倉時代に伝来した。
5世紀頃、世界最古の大学として知られるナーランダ大学が設立されると、インドの大乗仏教が活発に研究され唯識などが研究された。629年、中国(唐)からの留学僧・玄奘三蔵がナーランダ大学を訪れ、657部の経典を長安に持ち帰り、原典を翻訳したことが日中の仏教界に大きな影響を与えた。玄奘三蔵による訳経を「新訳」(しんやく)と呼ぶ。695年、海路でインドから帰国した義浄が400部、50万頌のサンスクリットの経律論、金剛座、舎利300粒などを中国(唐)へもたらした。
751年、中国(唐)とアッバース朝のイスラム軍との間でタラス河畔の戦いが起こった。752年、鑑真が中国(唐)から来日(奈良時代)して律宗をもたらし、上座部法蔵部の四分律の流布を行った。753年に鑑真が日本で初めて授戒を行い、唐招提寺が日本での学究の本拠の一つとなった。
密教
6世紀になると、新興のヒンドゥー教の隆盛に圧迫される中で、バラモン教のマントラに影響を受けたと考えられているマントラヤーナが始まり、現世利益が説かれていた。中期密教ではヒンドゥー教の隆盛に対抗できなくなると、理論より実践を重視した後期密教が誕生した。サムイェー寺の宗論(792年 - 794年)を経て、チベット仏教はインドの後期密教を継承している。
11世紀にガズナ朝のマフムードがインドへ侵攻した際、イスラーム教徒による異教徒へのジハードによって仏教寺院の破壊と略奪が行なわれた。11世紀の終わり頃になるとデリー・スルターン朝(奴隷王朝)のイスラム教勢力がインド北部に侵攻し、クトゥブッディーン・アイバクが1193年にナーランダ大学を、1203年にヴィクラマシーラ大学を破壊すると、インドの他の仏教(上座部・大乗仏教など)と共にインド密教も歴史的に消滅した。
脚注
- ↑ 三枝充悳『仏教入門』《岩波新書》、1990年
- ↑ これに近いのがアーガマのサンユッタ・ニカーヤであることが文献学的考証から定説になっている。(文献学的考証)
- ↑ 「大乗」は大いなる救いの乗り物の意
- ↑ 「小乗」は自分しか救わない小さな乗り物の意
- ↑ 摩訶般若波羅蜜経では、八千頌般若経の29品から、90品に増えている。
出典
- Buswell, Jr., Robert E. (ed.) (2003). Encyclopedia of Buddhism (MacMillan). ISBN 0-028-65718-7.