平清盛

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平 清盛(たいら の きよもり)は、平安時代末期の武将公卿

伊勢平氏棟梁平忠盛の長男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任ぜられる。娘の徳子高倉天皇に入内させ「平氏にあらずんば人にあらず」(『平家物語[1])と言われる時代を築いた(平氏政権)。

平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏独裁貴族・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。

生涯

伊勢平氏の嫡男

元永元年(1118年)、伊勢平氏棟梁である平忠盛の長男として三重県津市(? 諸説有り)に生まれる(実父は白河法皇という説もある。詳細後述)。生母は不明だが、もと白河法皇に仕えた女房で、忠盛の妻となった女性(『中右記』によると保安元年(1120年)没)である可能性が高い。『平家物語』の語り本系の諸本は清盛の生母を祇園女御としているが、読み本系の延慶本は清盛は祇園女御に仕えた中﨟女房の腹であったというように書いている[2]。また、近江国胡宮神社文書(『仏舎利相承系図』[3])は清盛生母を祇園女御の妹とし、祇園女御が清盛を猶子としたと記している。清盛が忠盛の正室の子でない(あるいは生母が始め正室であったかもしれないがその死後である)にもかかわらず嫡男となった背景には、後見役である祇園女御の権勢があったとも考えられる。

大治4年(1129年)正月に12歳で従五位下左兵衛佐に叙任。これについて中御門宗忠は驚愕している[4][5]。清盛は同年3月に石清水臨時祭の舞人に選ばれるが[6]、清盛の馬の口取を祇園女御の養子とされる内大臣・源有仁の随身が勤めていることから、幼少期の清盛は祇園女御の庇護の下で成長したと推定されている。また祇園女御の庇護下で育ったことから、清盛の実父は白河法皇であるとの説も当時からある。清盛が院近臣家の出身にもかかわらず、後に皇族か摂関、清華家でなければ任命されない太政大臣に任命されたことから、当時の朝廷が非公式にではあるがこの話を事実としていたともいわれる[7]

若い頃は、鳥羽法皇第一の寵臣・藤原家成の邸に出入りしていた。家成は、清盛の継母・池禅尼の従兄弟だった。高階基章の娘との間に重盛基盛が生まれるが、死別したと推測される。保延3年(1137年)忠盛が熊野本宮を造営した功により、清盛は肥後に任じられる。久安3年(1147年)、継室に迎えた平時子との間に宗盛が生まれる。時子の父・平時信は鳥羽法皇の判官代として、葉室顕頼信西とともに院庁の実務を担当していた。

この年6月15日、清盛は祇園社に赴くが、郎等の武具を咎めた神人と小競り合いとなり、郎等の放った矢が宝殿に当たるという事件が発生した(祇園闘乱事件)。祇園社を末社とする延暦寺は忠盛・清盛の配流を要求して強訴するが、鳥羽法皇は延暦寺の攻勢から忠盛・清盛を保護し、清盛の罪を贖銅三十斤という罰金刑にとどめた。その後、清盛に代わり正室腹の異母弟の平家盛が常陸介・右馬頭に任じられ頭角を現す。既に母を亡くし問題を起こした清盛に替わって、母方の後見の確かな家盛が家督を継ぐ可能性もあった。しかし久安5年(1149年)に家盛は急死したため、清盛の嫡流としての地位は磐石となる。家盛の同母弟・頼盛は15歳の年齢差もあって統制下に入り清盛も兄弟間の№2として遇するが、経盛教盛に比べてその関係は微妙なものであり続けた。安芸守に任じられて瀬戸内海の制海権を手にすることで莫大な利益をあげ、父と共に西国へと勢力を拡大した。またその頃より宮島の厳島神社を信仰するようになり、仁平3年(1153年)、忠盛の死後に平氏一門の棟梁となる。

保元の乱、平治の乱

テンプレート:Main 保元元年(1156年)の保元の乱では義母・池禅尼が崇徳上皇の子・重仁親王の乳母だったため清盛の立場は難しいものであったが、一門の結束につとめ後白河天皇側について勝利をもたらし播磨守大宰大弐となる。信西と藤原信頼・二条親政派の対立では中立的立場をとっていたが、平治元年(1159年)の平治の乱で政権を握った藤原信頼・大炊御門経宗葉室惟方などの反信西派を一掃することで、急速にその政治的地位を高めることになる。この過程で源義朝源重成源季実源光保といった有力武士が滅亡したため、清盛は武士の第一人者として朝廷の軍事力・警察力を掌握し、武家政権樹立の礎を築く。

全盛期

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長寛2年(1164年)に厳島神社に奉納した『平家納経』 観普賢経 見返し

室の時子が二条天皇の乳母だったことから、清盛は天皇の乳父として後見役となり検非違使別当中納言になる一方、後白河上皇の院庁の別当にもなり、天皇・上皇の双方に仕えることで磐石の体制を築いていった。応保元年(1161年)9月、後白河上皇と平滋子(建春門院)の間に第七皇子(憲仁親王、後の高倉天皇)が生まれると、平時忠平教盛が立太子を画策した。二条天皇はこの動きに激怒し、時忠・教盛・藤原成親坊門信隆を解官して後白河院政を停止した。清盛は天皇の御所に武士を宿直させて警護することで、二条天皇支持の姿勢を明確にした。翌年3月には平治の乱で配流されていた二条親政派の大炊御門経宗が帰京を許され、6月には平時忠・源資賢が二条天皇を賀茂社で呪詛した罪で配流された。清盛は二条天皇の厚い信任を受け、親政を軌道に乗せた。さらに関白・近衛基実に娘・盛子を嫁がせて、摂関家とも緊密な関係を結んだ。院政を停止させられた後白河上皇への配慮も怠りなく、長寛2年(1164年)に蓮華王院を後白河上皇のために造営している。蓮華王院には荘園・所領が寄進され、後白河上皇の経済基盤も強化された。二条天皇は後白河上皇の動きに警戒心を抱き、長寛3年(1165年)に重盛を参議に任じて平家への依存を深めるが、7月28日崩御した。

後継者の六条天皇は幼少であり近衛基実が摂政として政治を主導して、清盛は大納言に昇進して基実を補佐した。9月、平時忠が帰京を許され、12月25日に憲仁親王が親王宣下を受けると、清盛は勅別当になった。後白河院政派は次第に勢力を盛り返していたが、清盛は後白河上皇の行動・性格に不安を覚え、院政復活を望まなかったという。永万2年(1166年)7月26日、摂政・藤氏長者の近衛基実が急死して後白河院政が復活すると、基実の子・基通が幼少であることから弟・松殿基房が摂政となる。基実の領していた摂関家領が基房に移動すれば、平氏にとって大打撃となる。清盛は藤原邦綱の助言により、殿下渡領勧学院領・御堂流寺院領を除いた私的家領を後家の盛子に相続させることで、摂関家領の管轄に成功した。10月10日に憲仁親王が立太子すると清盛は春宮大夫となり、11月には内大臣となった。翌仁安2年(1167年)2月に太政大臣になるが[8]、太政大臣は白河天皇の治世に藤原師実と摂関を争って敗れた藤原信長が就任してからは実権のない名誉職に過ぎず、わずか3ヶ月で辞任する。清盛は政界から表向きは引退し、嫡子・重盛は同年5月、宣旨により東海東山山陽南海道の治安警察権を委任され、後継者の地位についたことを内外に明らかにした。

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厳島神社 仁安3年(1168年)清盛の援助によって今日のような海上社殿が造られた。

仁安3年(1168年)清盛は病に倒れ、出家する。原因は「寸白(すびゃく)」だったとされる。清盛の病状が政情不安をもたらすことを危惧した後白河上皇は、当初の予定を早めて六条天皇から憲仁親王に譲位させることで体制の安定を図った。病から回復した清盛は福原に別荘・雪見御所を造営して、かねてからの念願だった厳島神社の整備・日宋貿易の拡大に没頭する。嘉応元年(1169年)、後白河上皇は出家して法皇となるが、清盛は後白河法皇とともに東大寺で受戒して協調につとめた。これは、鳥羽法皇と藤原忠実が同日に受戒した例に倣ったものであった。この頃は、後白河法皇が福原を訪れ宋人に面会、清盛の娘・徳子が高倉天皇に入内、福原で後白河法皇と清盛が千僧供養を行うなど両者の関係は友好的に推移していた。この間、平氏一門は隆盛を極め、全国に500余りの荘園を保有し、日宋貿易によって莫大な財貨を手にし、平時忠をして「平氏にあらずんば人にあらず」といわしめた。

平氏に対する不満

テンプレート:Main ところが、この清盛の勢力の伸張に対して、後白河法皇をはじめとする院政勢力は次第に不快感を持つようになり、建春門院の死を契機に、清盛と対立を深めていく。

治承元年(1177年)6月には鹿ケ谷の陰謀が起こる。これは多田行綱の密告で露見したが、これを契機に清盛は院政における院近臣の排除を図る。西光は処刑とし、藤原成親は備前国へ流罪[9]俊寛らは鬼界ヶ島に流罪に処したが、後白河法皇に対しては罪を問わなかった。ただし、実際に平氏打倒の陰謀があったかは不明であり、直前に後白河法皇から延暦寺攻撃を命じられた清盛が、延暦寺との衝突を回避するために行ったとする見方もある[10]

治承3年(1179年)6月、娘の盛子が死亡。すると法皇は直ちに盛子の荘園を清盛に無断で没収した。さらに7月、重盛が42歳で病死。するとまた、後白河法皇は重盛の知行国であった越前国を没収した。さらに、法皇は20歳の近衛基通(室は清盛女・完子)をさしおいて、8歳の松殿師家を権中納言に任じた。この人事によって摂関家嫡流の地位を松殿家が継承することが明白となり、近衛家を支援していた清盛は憤慨する。

11月14日、清盛は福原から軍勢を率いて上洛し、クーデターを決行した。いわゆる治承三年の政変であるが、清盛は松殿基房・師家父子を手始めに、藤原師長など反平氏的とされた39名に及ぶ公卿・院近臣(貴族8名、殿上人・受領・検非違使など31名)を全て解任とし、代わって親平氏的な公家を任官する。後白河法皇は恐れを覚えて清盛に許しを請うが、清盛はこれを許さず、11月20日には鳥羽殿に幽閉するにいたった。ここに後白河院政は完全に停止された。清盛は、後の処置を宗盛に委ね福原に引き上げた。このクーデターは発端が後白河法皇の挑発であったため、院政停止後の政権構想がしっかりと準備されていなかった。高倉天皇・近衛基通・平宗盛の三人はいずれも政治的経験が未熟であり、結局は清盛が表に出てこざるを得なかった。清盛は、解官していた平頼盛花山院兼雅の処分を解除するなど一門の結束につとめ、基通の補佐のため藤原氏の有力者である左大臣・藤原経宗、右大臣・九条兼実の懐柔を図った。実際の政務に関しては、平時忠・四条隆季土御門通親などの能吏が清盛の代弁者となった。治承4年(1180年)2月、高倉天皇が譲位、言仁親王が践祚した(安徳天皇)。安徳天皇の母は言うまでもなく清盛の娘・徳子である。名目上は高倉上皇の院政だったが、平氏の傀儡政権であることは誰の目にも明らかだった。さらに、法皇を幽閉して政治の実権を握ったことは多くの反平氏勢力を生み出すことになる。

反乱の狼煙

テンプレート:Main 平氏の独裁に対して反抗の第一波となったのは、後白河法皇の第3皇子・以仁王の挙兵だった。以仁王は優秀であったが建春門院の圧力で親王宣下も受けられず、八条院の猶子となって即位の機会を伺っていたものの、今回のクーデターでその望みは絶望的なものとなっていた。以仁王には、八条院直属の武力ともいえる源頼政下河辺行義足利義清源仲家などが付き従い、平氏に反発する興福寺園城寺もこの動きに同調した。しかし計画は未然に発覚、清盛の手早い対策により検非違使で平氏家人の藤原景高・伊藤忠綱が300騎の兵で追撃して、以仁王と源頼政らを討ち取った。しかし寺社勢力、特に園城寺と同じ天台宗で親平氏の延暦寺でも反平氏勢力の動きがあり、清盛は有力寺社に囲まれ平氏にとって地勢的に不利な京都を放棄し、6月、一門の反対を押し切り、平氏の拠点である国際貿易港の大輪田泊(現在の兵庫県神戸市)を望む地への遷都を目指して福原行幸を強行する。

しかし以仁王の令旨が全国各地に飛び火して、8月には伊豆に流されていた源頼朝武田信義を棟梁とする甲斐源氏、9月には信濃国において木曾義仲が挙兵する。これに対して清盛は頼朝らの勢力拡大を防ぐため、平維盛を総大将とした大軍を関東に派遣したが、富士川の戦いでは交戦をせずに撤退してしまった。

この敗戦を契機として寺社勢力、特に以仁王の反乱に協力的であった園城寺・興福寺が不穏な動きを見せ始める。さらに、近江源氏が蜂起し園城寺・延暦寺の反平氏分子と提携して、物流の要所・琵琶湖を占拠し、反乱勢力は旧都を攻め落とす勢いにまで成長した。また、九州でも反乱が勃発、高倉帝や公家衆、さらに平氏一門や延暦寺からも遷都を望まない声が高まり、11月23日、清盛は平安京に還都する。12月になると清盛は、平知盛・平資盛・藤原清綱らが率いる軍勢を差し向けて園城寺を焼き払い、近江源氏の山本義経柏木義兼を打ち破って、近江の平定に成功する(近江攻防)。次に清盛が標的としたのは、畿内最大の反平氏勢力・興福寺だった。清盛は背後の脅威を一掃することを決意して、重衡を総大将とした大軍を南都に派遣、12月28日、興福寺・東大寺など南都の諸寺は炎上した。確かにこれにより都周辺の反平氏勢力の動きは鎮静化したが、南都焼討は清盛が恐れていた「仏敵」の汚名を着せるにいたってしまった。

最期

治承4年(1180年)末までには、平氏の勢力基盤である西国においても伊予国河野通清通信父子、翌治承5年(1181年)には豊後国緒方惟栄・臼杵惟隆・佐賀惟憲ら豪族が挙兵し、伊勢志摩においても反乱の動きがあった。東国においても平氏方であった佐竹秀義などが頼朝によって討伐される。

このような中で、清盛は京都を中心に新体制を築こうと、畿内近国の惣官職を置いて宗盛を任じた。これは天平3年(731年)に京・畿内を対象に兵馬の権を与えられた新田部親王の例に倣ったものであり、畿内近国に兵士役と兵糧米を課して臨戦体制を築いた。また丹波国に諸荘園総下司職を設けて、平盛俊を任じた。さらに越後国城資永陸奥国藤原秀衡に源頼朝・武田信義追討の宣旨を与えている。2月26日には平重衡の鎮西下向を中止し、宗盛以下一族の武士が東国追討に向かう事が決められていたが、清盛は27日に熱病に倒れた[11]。死期を悟った清盛は、自分の死後はすべて宗盛に任せてあるので、宗盛と協力して政務を行うよう法皇に奏上したが、返答がなかったため、恨みを残して「天下の事は宗盛に任せ、異論あるべからず」と言い残し、閏2月4日に九条河原口の平盛国の屋敷で死亡した。享年64。

清盛の死により、平氏の新体制作りは計画倒れに終わる。『平家物語』では清盛が死に臨んで「葬儀などは無用。頼朝の首を我が墓前に供えよ」と遺言を残したとしている。死亡した年の8月1日、頼朝が密かに院に平氏との和睦を申し入れたが、宗盛は清盛の遺言として「我の子、孫は一人生き残る者といえども、骸を頼朝の前に晒すべし」と述べてこれを拒否し、頼朝への激しい憎悪を示した[12]

死後

清盛の死後、嫡男の重盛はすでに病死し、次男の基盛も早世していたため、平氏の棟梁の座は三男の宗盛が継いだが、全国各地で相次ぐ反乱に対処できず、後白河法皇の奇謀に翻弄された上、院政勢力も勢力を盛り返すなど、平氏は次第に追いつめられていった。しかも、折からの飢饉養和の大飢饉)という悪条件なども重なって、寿永2年(1183年)、倶利伽羅峠の戦いで平氏軍が壊滅した後、義仲軍の攻勢の前に成す術無く都落ちする。そして元暦2年(1185年)の壇ノ浦の戦いに敗れて平氏は滅亡した。

評価

  • 平家物語』における悪虐、非道、非情の描写から、かつての清盛は成り上がりの暴君・傲慢な性格の持ち主だという評価が定着していたが、現在では実際の清盛の人物像は温厚で情け深いものだったとも言われている。(実際、後の源頼朝や源義経など義朝の遺児を殺さずに伊豆への流罪、仏門入りで済ませたことが災いして後に平家を滅ぼすことにもなった。しかしこれは池禅尼、もしくは彼女の背後の上西門院や頼朝の母方の実家の熱田宮司家の意向も働いていると言われている。)
    • 十訓抄』7-27には、若い頃の清盛について「人がとんでもない不都合な振る舞いをしても、冗談と思うことにした」「やったことがちっともおかしくなくても、相手への労わりとしてにこやかに笑い、とんでもない誤りをしても、役立たずと声を荒らげることはない」「冬の寒い時に身辺に奉仕する幼い従者を自分の衣の裾の方に寝かせ、彼らが朝寝坊をしていたらそっと床から抜け出して存分に寝かせた」「最下層の召使いでも、彼の家族や知り合いの見ている前では一人前の人物として扱ったので、その者は大変な面目と感じて心から喜んだ」という逸話が記されている。
    • 『平家物語』においても若い頃に世話になった藤原顕時の息子である葉室行隆が苦境に陥っていることを知ると援助を申し出るなど、義理堅い一面が描かれている。
  • 清盛の非道を示す有名なエピソードである殿下乗合事件は、清盛が松殿基房に報復したというのは『平家物語』の虚構であり、『玉葉』や『百錬抄』の記述によれば、実際に非道な報復を行ったのは重盛であり、清盛はむしろ基房に謝罪したとされる[13]
  • 平治の乱前後の清盛について『愚管抄』では、如才なく諸方に気を配る人物であり、複雑な院政期の政界を生き抜く処世術を持っていた。しかし大きな権力を持つようになると、それを維持するために院・摂関家・寺社勢力と対立していく過程で強引な手段に出るようになり、悪評も増えていった。
  • 源平盛衰記』では僧侶の祈祷によって雨を降らせた事を偶然に過ぎないと一蹴したり、経が島では清盛が人柱を廃止したという伝説があるなど、迷信に囚われない開明的な考え方の逸話も見られる。
  • 政治的には日宋貿易に見られるような財政基盤の開拓、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、経が島築造に見られる公共事業の推進、時代の矛盾に行き詰まりつつあった貴族政治を打ち破り、(貴族的要素が強いとは言え)日本初の武家政権を打ち立てるなど、優れた功績も残している。
  • 軍記物で政治上手の戦下手と書かれることも多いが、平治の乱で複数の部隊を連携させた戦術で藤原信頼軍を撃破し、御所や市街地の被害も最低限に抑えることに成功しており「洗練された戦法(評:元木泰雄)」を得意とする優秀な武将でもあったとされる。
  • 京都・奈良で大きな勢力を持ち始めていた仏教勢力の抑制に努めた。皇位継承問題に干渉した興福寺と園城寺に総攻撃をかけたことは当時は評判が悪かったが、強大な武力をもつ宗教勢力が重大な政治問題に関わることを阻止した意義は無視できない。皮肉なことに、この政策は敵である鎌倉幕府に僧兵を擁しない禅宗や念仏宗の保護といった穏健化した形で受け継がれていった。
  • 南都焼討の際、東大寺興福寺に放火するよう直接命令したとする説が見受けられるが、史実とは異なり、清盛がそのような命令をしたことはない。実際は平重衡が夜の陣中にて灯りを求めたところ、配下が火攻めの命令と勘違いして民家に火を放ち、折からの強風に煽られて東大寺・興福寺を巻き込む大火災を招いたのである[14]

経歴

和暦 西暦 月日
旧暦
内容 出典
元永 1118年 生誕(数え年1歳)
大治4 1129年 1月6日 従五位下。1月24日、左兵衛佐。(12歳) 公卿補任
大治6 1131年 1月5日 従五位上(14歳) 公卿補任
長承4 1135年 1月5日 正五位下。8月21日、従四位下。(18歳) 公卿補任
保延2 1136年 4月7日 中務大輔(19歳) 公卿補任
保延3 1137年 1月30日 肥後守兼任(20歳) 公卿補任
保延6 1140年 11月14日 従四位上(23歳) 公卿補任
久安2 1146年 2月1日 正四位下。2月2日、安芸守兼任。肥後守任替。(29歳) 公卿補任
保元 1156年 7月6~11日 保元の乱(39歳) 公卿補任
7月11日 播磨守 公卿補任
保元3 1158年 8月10日 大宰大弐(41歳) 公卿補任
平治 1159年 12月9~26日 平治の乱(42歳)
永暦 1160年 6月20日 正三位。8月11日、参議。大宰大弐如元。9月2日、右衛門督兼任。12月30日、大宰大弐辞任。(43歳) 公卿補任
永暦2 1161年 1月23日 検非違使別当兼職。近江権守兼任。9月13日、権中納言。検非違使別当・右衛門督如元。(44歳) 公卿補任
応保2 1162年 1月9日 検非違使別当・右衛門督両官職辞任。閏2月9日、検非違使別当・右衛門督兼職。4月7日、皇太后宮権大夫兼任。8月20日、従二位。9月、検非違使別当・右衛門督両官職辞任。(45歳) 公卿補任
長寛3 1165年 1月23日 兵部卿兼任。8月17日、権大納言。兵部卿・皇太后権大夫如元。(48歳) 公卿補任
永万2 1166年 6月6日 正二位。10月1日、春宮大夫兼任。兵部卿・皇太后宮権大夫両官止む。11月11日、内大臣。(49歳) 公卿補任
仁安2 1167年 2月11日 従一位太政大臣。5月17日、太政大臣辞任。(50歳) 公卿補任
仁安3 1168年 2月11日 出家(51歳) 公卿補任
承安 1171年 徳子入内(54歳)
治承 1177年 鹿ケ谷の陰謀(60歳)
治承3 1179年 治承三年の政変(62歳)
治承4年 1180年 4月22日 安徳天皇即位(63歳)
4月 以仁王が平氏追討の令旨を発する 吾妻鏡
6月10日 准三宮宣下 百錬抄
8月17日 源頼朝挙兵 吾妻鏡
養和 1181年 閏2月4日 薨去(享年64 / 満63歳没) 玉葉

墓所

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能福寺にある平相國廟

以下が清盛の墓所として伝わっている。

系譜

平清盛は、伊勢国産品(うぶしな)の生まれとされる。桓武天皇の曾孫・平高望(たかもち)の子孫で、坂東の桓武平氏の流れを汲む伊勢平氏の一族。

桓武天皇葛原親王高見王平高望平国香平貞盛平維衡平正度平正衡平正盛平忠盛平清盛

平忠盛の長男。『公卿補任』の記事から逆算すると、元永元年(1118年)の誕生となる。『中右記保安元年(1120年)7月12日条の「伯耆守忠盛妻俄に卒去すと云々。是仙院の辺なり」という記事により忠盛の妻が仙院(白河法皇)の周辺に仕えた女房であったことがわかり、この女性が清盛の母である可能性がある。『平家物語』は、白河法皇の寵愛を受けて懐妊した祇園女御が忠盛に下賜されて清盛が生まれたとしている(いわゆる落胤説)。しかし、『平家物語』の成立は鎌倉時代以降であり、祇園女御は当時40歳を越えていたと推測されることから信憑性は薄い。また、明治26年(1893年)に発見された滋賀県・胡宮神社所蔵の『仏舎利相承系図』(文暦2年(1235年)の日付を持つ)には、清盛の母「女房」は祇園女御の妹であり、姉の祇園女御が清盛を「猶子」として白河院所有の仏舎利を清盛に伝えたことが記されている[15]

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脚注

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史料

史料
軍記物語

参考文献

  • 上横手雅敬 『源平争乱と平家物語』 角川選書、2001年。
  • 五味文彦 『平清盛』 吉川弘文館〈人物叢書〉、1998年。
  • 高橋昌明 『平清盛 福原の夢』 講談社、2007年。
  • 元木泰雄 『平清盛の闘い-幻の中世国家』 角川叢書、2001年。
  • 元木泰雄 『平清盛と後白河院』 角川選書、2012年。
  • 山田真哉 『経営者・平清盛の失敗-会計士が書いた歴史と経済の教科書』 講談社、2011年。

平清盛を題材とした現代の創作

小説
漫画
  • 『平家物語』(マンガ日本の古典シリーズ) 横山光輝
戯曲
映画
TVドラマ
平清盛が主人公のTVドラマ
平清盛が登場するTVドラマ
人形劇
歌謡曲
  • 『長編歌謡浪曲 清盛天下を射る』(三波春夫
  • 『長編歌謡浪曲 神戸を拓く清盛』(三波春夫)
ウォーゲーム(ボードゲーム)

関連項目

外部リンク

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  • なお、これは平時忠の言葉であり、清盛自身はこのようなことは言っていない。
  • 佐々木八郎は、初めの頃はその中﨟女房の腹であったとして語られたのが、語られてゆくうちに祇園女御の腹であるというように変化していったのであろうと推断している(『平家物語の研究』早稲田大学出版部、1948年)。
  • 仏舎利相承図テクスト
  • 「人耳目を驚かすか、言ふに足らず」『中右記』大治4年正月24日条
  • 通常、武士の任官は三等官の尉から始まり、二等官の佐に任じられるのは極めて異例だった。
  • 『中右記』3月16日条
  • 元木泰雄『平清盛の闘い 幻の中世国家』(2001年、角川書店)
  • これにより後世において「平大相国(へいだいしょうこく)」と尊称される
  • 7月9日に食物を与えられず殺害される
  • 河内祥輔は治承元年事件(鹿ケ谷の陰謀)は具体的な陰謀があったものではなく、平清盛からみて後白河法皇の延暦寺攻撃命令そのものが平家と延暦寺と争わせるだけでなく、平家を「仏敵」にして延暦寺攻撃の仏罰によって滅亡に追い込むための陰謀と解されたとする(河内祥輔『日本中世の朝廷・幕府体制』(吉川弘文館、2007年)P124-144)。
  • 病状の記録から、大陸から伝来して流行していた風土病であるマラリアに罹ったとされる。
  • 玉葉』による
  • いずれにせよ、この事件の背景には平氏と摂関家(松殿家)の強い反目があったと考えられている。
  • 歴史秘話ヒストリア 異色の革命児 平安を動かす~日本を変えたヒーロー 平清盛~(2012年1月11日放送)」よりテンプレート:出典無効
  • 高橋昌明は『仏舎利相承系図』の記述を後世の加筆として、清盛の母を祇園女御の妹とする説を否定している(『清盛以前-伊勢平氏の興隆- 増補・改訂版』文理閣、2004年)。