源通親

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源 通親(みなもと の みちちか)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。七朝にわたり奉仕し、村上源氏の全盛期を築いた。土御門 通親(つちみかど -)と呼ばれるのが一般的で、曹洞宗などでは久我(こが)通親と呼ばれている。

生涯

高倉天皇の側近

久安5年(1149年)に村上源氏の嫡流に生まれ、保元3年(1158年)、10歳で氏爵により従五位下に叙された。村上源氏は堀河天皇の治世では外戚として隆盛を極めたが、その後は閑院流に押されて勢力を後退させていた。通親の父・雅通鳥羽院政期は美福門院に近侍していたが、後白河院政が開始されると立場を転換し、仁安3年(1168年)、後白河上皇の妃・平滋子の立后に際して皇太后宮大夫となった。通親も高倉天皇践祚と同時に昇殿を許され、側近として奉仕した。通親の最初の妻は花山院忠雅の娘だったが、やがて平教盛の娘(または通盛の娘)を二人目の妻とし、天皇の背後にいる平氏との関係を深めている。

治承3年(1179年)正月、蔵人頭となり、治承4年(1180年)正月には参議左近衛権中将となって公卿に列した。治承三年の政変によって心ならずも政務を執ることになった高倉天皇は2月に譲位して院政を開始するが、通親は院庁別当として政務に未熟な上皇を補佐した。通親は3月の厳島御幸や6月の福原遷都にも付き従ったが、5月に起こった以仁王の挙兵を機に全国各地は動乱状態となり、11月には平安京還都となった。高倉上皇は体調が悪化して病の床に伏し、通親は「惜しからぬ 命をかへて 類ひなき 君が御世をも 千代になさはや」と歌を詠んで快癒を祈ったが、治承5年(1181年)正月、21歳の若さで崩御した。通親は上皇の近臣として素服を賜った。長年、上皇に仕えた通親は崩御を悼み『高倉院昇霞記』に哀切の情を綴っている。

治承・寿永の乱

やがて平清盛が死去して後白河院が院政を再開するなど情勢は目まぐるしく変転するが、通親は特定の勢力の庇護に頼らず、院御所議定の場で積極的に発言を行い、公事に精励することで朝廷内での存在感を高めていった。寿永2年(1183年)7月の平家都落ちでは後白河院の下へ参入して平氏と決別し、8月の後鳥羽天皇の践祚では神器がないことについて、後漢光武帝東晋元帝が即位後に璽を得た例を挙げてその実現に尽力した[出典 1]。11月の法住寺合戦に際しても法住寺殿に参入している[出典 2]

その忠勤が認められ、元暦2年(1185年)正月に権中納言に昇進し、12月の源頼朝による廟堂改革要求において議奏公卿10名の中に選ばれた。通親には因幡国知行国として給付されたため、次男の通具を国司に推挙した。なお、この頃に後鳥羽天皇の乳母・藤原範子を妻に迎え、範子の連れ子である在子を養女としている[1]。 通親は九条兼実内覧宣下及び摂政藤氏長者宣下において上卿を務め、兼実も通親の公事への精励ぶりを称揚するなど、当初は両者の関係は悪いものではなかった[2]。 しかし保守的な兼実の執政下では通親の昇進は抑えられ、権中納言のまま留め置かれた。文治4年(1188年)正月、通親は下臈若輩の九条良経が超越して正二位に昇ったことに抗議し、所職を辞して自らも正二位に叙すことを求めたが、兼実は前年に従二位に叙した恩を知らないのは禽獣に異ならないと罵倒している(『玉葉』文治4年正月7日条)。これを機に両者の関係は悪化し、通親は兼実を追い落とす機会を伺うことになる。

宣陽門院の後見

文治5年(1189年)10月16日、通親は後白河院を久我邸に招いて種々の進物を献上した。通親はさらに12月5日、後白河院の末の皇女(覲子内親王)が内親王宣下を受けると勅別当に補されて後見人となり、生母である丹後局との結びつきを強めた。建久2年(1191年)6月26日、覲子内親王が院号宣下を受けて宣陽門院となると、通親は宣陽門院執事別当としてその家政を掌握し、院司に子息の通宗・通具を登用する。宣陽門院は建久3年(1192年)の後白河院崩御に伴い、院領の中で最大規模の長講堂領を伝領したが、これを実質的に管理した通親は、院領を知行する廷臣を自らの傘下に組み入れて大きな政治的足場を築くことになる。

通親は建久元年(1190年)の頼朝上洛において、頼朝の右近衛大将任官の上卿を務めるなど関東の歓心を買うことも忘れなかったが、頼朝の腹心・大江広元との関係強化を図り、建久2年(1191年)4月1日、慣例を破って広元を明法博士左衛門大尉に任じている[3]

法皇崩御により九条兼実は幼年だった後鳥羽天皇を擁して朝政を主導するが、故実先例に厳格な姿勢や門閥重視の人事は中・下級貴族の反発を招き、しだいに朝廷内での信望を失っていった。通親は兼実に冷遇されている善勝寺流勧修寺流の貴族を味方に引き入れ、丹後局を通して大姫入内を望む頼朝に働きかけ、中宮任子を入内させている兼実との離間を図った。建久6年(1195年)11月、権大納言に昇進し、さらに自らの養女・在子が皇子(為仁、後の土御門天皇)を産んだことで一気に地歩を固めた通親は、建久7年(1196年)11月、任子を内裏から退去させ、近衛基通関白に任じて兼実を失脚させた(建久七年の政変)。

源博陸

建久9年(1198年)正月、通親は先例や幕府の反対を押し切り、土御門天皇の践祚を強行した[4]。 親王宣下がなかったのは光仁天皇の例によるとされたが、藤原定家は「光仁の例によるなら弓削法皇(道鏡)は誰なのか」(兼実を道鏡になぞらえるつもりか)と憤慨している[出典 3]。これ以降、通親は「外祖の号を借りて天下を独歩するの体なり」と権勢を極め、「源博陸[5]」と称されることになる[出典 4]

正治元年(1199年)正月、通親は自らの右近衛大将就任にあたり、頼朝の嫡子・源頼家を左近衛中将に昇進させることで幕府の反発を和らげようとしたが、18日になって頼朝の重病危急の報が舞い込んできた。頼朝の死去が公表された後では頼家昇進は延引せざるを得なくなるため、通親は臨時除目を急遽行い、自らの右大将就任と頼家の昇進の手続きを取った。定家は、頼朝の死を知りながら見存の由を称して除目を強行し、その翌日に弔意を表して閉門したことを「奇謀の至り」と非難している[出典 5]。頼朝の死は政局の動揺を巻き起こし、京都では一条能保の郎等が通親の襲撃を企て、通親が院御所に立て籠もるという事件が発生した(三左衛門事件)。大江広元を中心とする幕府首脳部は通親支持を決定し、通親排斥の動きは抑えられて京都は平静に帰した。

通親は土御門邸において、寝殿を造り直し四足門を立てるなど準備を整え[出典 6]、6月22日に内大臣に任じられた。一方で成人した後鳥羽上皇の意向にも配慮して、九条良経を左大臣近衛家実右大臣に据えることで近衛・九条両家の融和を図っている。良経と家実は共に若年であり、通親が実質的に太政官を取りまとめる形となった。この頃に、通親は松殿基房の娘・伊子を妻としている。

正治2年(1200年)4月、後鳥羽上皇の第三皇子・守成親王(後の順徳天皇)が立太子すると通親は東宮傅となり、義弟の藤原範光を春宮亮、嫡子の源通光を春宮権亮に任じて、春宮坊を村上源氏と高倉家で固めた。建仁2年(1202年)になっても通親は、養女・在子の院号宣下(承明門院)の上卿を務め、盟友の葉室宗頼が造営した院御所・京極殿に参入して上皇を迎えるなど精力的に活動していたが、10月21日に54歳で急死した。突然の訃報を聞いた近衛家実は「院中諸事を申し行うの人なり」と日記に記し(『猪隈関白記』)、朝廷は土御門天皇の外祖父として従一位を追贈した。後鳥羽上皇も御歌合を止めて哀悼の意を表したという。通親の死後、後鳥羽上皇を諫止できる者はいなくなり、後鳥羽院政が本格的に始まることになる。

通親は和歌の才能にも優れ、和歌所寄人にも任じられて後の『新古今和歌集』編纂に通じる新しい勅撰和歌集の計画を主導した。しかし、新古今集の完成を見ることなく死去。『新古今和歌集』など多くの和歌集に通親の和歌が採用されている。

官歴

※日付=旧暦

著作

  • 『高倉院厳島御幸記』 - 治承4年(1180年)、高倉上皇の安芸国厳島御幸に随行した際の旅日記。和漢混淆文(『群書類従』紀行部・『岩波新日本古典文学大系 中世日記紀行集』所収)。
  • 『高倉院昇霞記』 - 治承5年(養和元年)(1181年)、高倉上皇崩御時の様子の記録と追悼文。和漢混交文。
    • 両者は合わせて『源通親日記』として伝わる。笠間書院・勉誠出版(勉誠社文庫)から活字本刊行。

系譜

通親の子孫

長男・源通宗参議正四位下左中将になったものの建久9年(1198年)に31歳の若さで卒去した。だが、その娘・通子と土御門天皇の間から後嵯峨天皇が誕生し、通親の一族は土御門・後嵯峨の2代の天皇外戚になった。

その後、新たに台頭してきた西園寺家に押されて通親時代の繁栄を取り戻す事はなかったが、それでも通親の子供達―通具通光(嫡子)・定通通方はそれぞれ堀川家久我家土御門家中院家の四家に分かれ、堀川家と土御門家は断絶したが、久我家と中院家は明治維新にいたるまで家名を存続させ華族に列せられた。なお、北畠家は中院家の、岩倉家は久我家の庶流である。

最も歴史に名を残したのは、通親と藤原伊子との間に生まれた六男である。幼くして両親の死に遭遇したその少年は出家して道元と名乗る。彼が南宋から帰国して「曹洞宗」を開くのは通親の死から24年後の事である。ただし、道元の両親が誰であるかについては諸説あり、通親と伊子を両親とする面山瑞方による訂補本『建撕記』の記載の信用性には疑義が呈されている。

養子の証空法然に弟子入りし、浄土宗西山三派の初祖となった。

脚注

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出典

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参考文献

関連項目

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  1. 範子所生の三男・通光は文治3年(1187年)生まれなので、通親と範子の婚姻は文治2年(1186年)頃と見られる。範子の前夫・能円は壇ノ浦で捕らえられて配流となったが、通親は流罪宣下の上卿を務めている(『玉葉』元暦2年5月21日条)。
  2. 文治2年(1186年)6月、祈雨奉幣の八幡使勤仕を通親に要請して快諾を得た兼実は、「凡そ件の卿、奉公の至り、肩を比ぶる人なし。卒璽の催し、又以て領状す。かたがた忠士と謂うべし」と評し、通親に使者を遣わして感悦の旨を伝えている(『玉葉』文治2年6月1条)。
  3. この人事については、頼朝が在京武力掌握のために検非違使庁を幕府の管理下に置く構想を抱き、2月に検非違使別当となった一条能保を補佐するため、広元が検非違使庁の法曹部門を担当する明法博士に就任したのではないかとする見解がある(佐伯智広「一条能保と鎌倉初期公武関係」『古代文化』564、2006年)。
  4. 「桑門(僧侶)の外孫、かつて例なし」「幼主甘心せざる由、東方頻りに申さしむ」(『玉葉』建久9年正月7日条)
  5. 「博陸」は関白の唐名武帝が重臣・霍光を博陸侯に封じた故事に由来する。