平幹二朗

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平 幹二朗(ひら みきじろう、1933年昭和8年)11月21日 - )は、日本の俳優演出家

ケイファクトリー所属。長男は俳優の平岳大

来歴・人物

出生から学生時代まで

現在の広島県広島市中区小網町出身。生後9ヵ月の時、父・文雄が病死する[1]。家の造りは京都町家みたいに間口は狭いけど奥行きのある二階家で、一階が十畳、八畳が二間、中庭、それが土間に面して奥に続いて、二階は八畳二間と物干し[1]。そこに祖母と母と幹二朗の三人で住んでいた[1]

小学6年生の初め、幹二朗は広島県東部の甲奴郡上下町(現・府中市)の母方の大叔父宅に疎開する[1]。母は流川町郵便局で働くようになっていたので広島に残った[2]。郵便局は原爆ドームのすぐ側だが、1945年8月6日原爆投下の朝、通勤途中だった母はビルの陰で靴を履き直していたため光線を受けなかった[2]。だから爆心地にいたにもかかわらず生き残った[2]。終戦後まもなく母は上下町の家で危篤状態になり、子供のない農家の大叔父に「うちの子になるか」と言われたが、幹二朗は「農家の子供になるのはイヤだなぁ」と思ったという[2]

内気な少年だった幹二朗が演劇にかかわるのは、上下高校の時だった[3]

俳優として

映画監督になりたい」という漠然とした夢は持っていたが、それには大学に行って会社に入らないといけない[3]。しかし理数系が苦手だった[3]

困っている時俳優座養成所の募集記事を読んだ[3]。そこが3年間の俳優教育をする学校だった[3]。しかし養成所の試験に落ちた[3]。翌年には合格、俳優座養成所五期生となった[4]。同期に木村俊恵今井和子藤田敏八ジェームス三木[5]1956年俳優座座員となり、同年『貸間探し』で初舞台。以後、『千鳥』『四谷怪談』『ファウスト』などに出演。端整な容姿と、スケールの大きさを感じさせる演技で注目され、仲代達矢とともに同座の若手ホープと目される。

1963年テレビドラマ三匹の侍』にレギュラー出演。五社英雄演出によるリアルな殺陣シーンで、テレビ時代劇の流れを大きく変えたこの作品で、虚無的な浪人・桔梗鋭之介役が人気を集めた。お茶の間にもお馴染みの顔となり、時代劇を中心に多くの主演ドラマを持った。1968年フリー。浅利慶太演出『アンドロマック』の出演を機に劇団四季に客員し1968年、浅利慶太演出『ハムレット』で主役を演じ、各界から高い評価を受ける[5]。続く『狂気と天才』などの演技も高く評価され、日本を代表する舞台俳優の一人となる。

四季がミュージカルに力を入れ始めたころ蜷川幸雄に出会い、1976年蜷川演出『近代能楽集 卒塔婆小町』主演を皮切りに、『王女メディア』『近松心中物語』『NINAGAWAマクベス』『タンゴ・冬の終わりに』『テンペスト』『グリークス』『リア王』など長年に渡り蜷川演出作品に主演、海外公演でも高い評価を得る。1993年には、東京グローブ座シェイクスピア全37作品上演に挑戦するという壮大な計画を発表。以後『マクベス』(1993年)、『ハムレット』(1994年)、『オセロ』(1995年)、『十二夜』(1995年、1998年)、『リア王』(1997年)、『テンペスト』(2000年)など、着実に実行している。陰影に富んだ格調の高い演技で悲劇的人物を得意とする。

テレビドラマにも多数出演。特にNHK大河ドラマでは、1970年放送の『樅ノ木は残った』、1973年放送の『国盗り物語』とで2度に渡って主演。その後も『義経』などに助演として出演。1988年放送の『武田信玄』では、武田信虎役で横暴な支配者と失意の流浪者という全く相反する姿を演じている。1992年放送の『信長 KING OF ZIPANGU』では織田家を惑わす架空の祈祷師・加納随天役で、不可解さと迫力に満ちた演技を見せつけた。大河ドラマ以外でも『新選組始末記』『けものみち』など代表作は数多い。

また映画出演も多く、『他人の顔』『天城越え』などの代表作がある。

演出家としての顔も持ち、中村玉緒主演の舞台等の演出も手がける。

1998年紫綬褒章、2005年に旭日小綬章を受章。

2013年、赤坂マネージメント事務所からケイファクトリーへ移籍。

最近では、長髪を束ねる髪型をしており、高齢ながらダンディーさを持ち、加えて大物俳優としての貫禄を見せている。

家族・親族

平家

広島県広島市中区小網町、東京都世田谷区
広島市内に「西の遊廓」というのがあった[1]。周囲が興行街で、映画館芝居小屋がたくさんあって、大きな寿座という小屋には旅興行の歌舞伎や新派が来ていた[1]。その街に三光寺という寺があって、門前の両側の二十軒ずつぐらい小さな家が並んでいた[1]。その中の一軒が幹二朗の生家だった[1]。夕方になると三味線の音や歓楽街のざわめきが聞こえてくるような所で、幹二朗は遊廓を抜けて小学校に通っていた[1]。自身の家系について、幹二朗によれば「うちは原爆過去帳がなくなったんですが、僕の友達でいろいろ調べてくれた人がいまして、それによると平の祖父母は質屋をやっていて十軒ほど家作[6]を持っていたらしいんです[1]。思うに僕の家もその一軒で、うちは他の家作[6]から上がる家賃で暮らしていたんじゃないでしょうか[1]。だから祖母も母も働かないで何とかやっていけたんだと思います[1]。」という。
祖母は幹二朗が小学校に上がる前に死んだ[1]
  • 父・文雄[1]
父・文雄は広島の大きな廻船問屋の長男だったが、継母に子供がたくさん生まれたので家に居づらくなり、自ら望んで平家の養子になった[1]。その養母が幹二朗の祖母である[1]。文雄は幹二朗が生後九ヵ月の時、病死[1]。そのため幹二朗には兄弟がなく、父の記憶もない[1]
  • 母・久代[1](池田福吉の娘)
カナダ生まれで移民二世の母は敗戦後、原爆の後遺症に苦しみながら、東京のワシントンハイツメイドの仕事等、様々な仕事を続けて幹二朗に仕送りを続けた[7]。久代の父池田福吉は広島県甲奴郡上下町で誕生[8]。豊かでない家庭に生まれた福吉は出稼ぎラハイナ(アメリカ)へと渡った[8]。そこで福吉は同じく出稼ぎにきていた、後に結婚するトキと出会った[8]。福吉は次にバンクーバー(カナダ)へと出稼ぎに向かった[8]。当時、この地のパウエルストリートは日系人に溢れ、日系ミュージアムの資料には福吉の名も記されていた[8]。福吉は当時の移民に排他的な雰囲気に負けず、日系人の為の下宿屋をはじめた[8]。カナダの知的財産庁のホームページを調べると、福吉は下水処理装置を開発するなどの功績を残していた[8]
1939年2月生 -
幹二朗がドラマ「お吟さま」で共演した佐久間良子と結婚したのは、NHK大河「樅の木は残った」に主演した36歳の時だった[9]1970年4月16日佐久間良子霊南坂教会で挙式[10]1974年7月27日に双子の一男一女が生まれた。1984年5月に離婚[11]。子供達は佐久間が引き取った。
長男の岳大は当初、俳優になることに抵抗を持っており、アメリカに渡った後、一般企業に就職していた。しかし、その後、考えを改めて俳優になることを決めたとき、喜んで賛成したという(「スタジオパークからこんにちは」に岳大が出演したときに語ったエピソード)。

出演作品

テレビドラマ

映画

舞台

劇場アニメ

吹き替え

朗読

バラエティ

受賞歴

脚注

  1. 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 1.11 1.12 1.13 1.14 1.15 1.16 1.17 1.18 1.19 斎藤明美『家の履歴書 男優・女優篇』160頁
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 斎藤明美『家の履歴書 男優・女優篇』161頁
  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 3.5 斎藤明美『家の履歴書 男優・女優篇』163頁
  4. 斎藤明美『家の履歴書 男優・女優篇』164頁
  5. 5.0 5.1 「日曜日のヒーロー748 平幹二朗」日刊スポーツ 2010年11月21日
  6. 6.0 6.1 家作とは「人に貸して収益をあげるためにつくった持ち家。貸し家。」のこと
  7. ファミリーヒストリー』 NHK総合 2013年2月18日放送
  8. 8.0 8.1 8.2 8.3 8.4 8.5 8.6 ファミリーヒストリー』 NHK総合 2013年2月18日放送
  9. 斎藤明美『家の履歴書 男優・女優篇』165頁
  10. 佐久間良子『私の履歴書』(2012年2月、日本経済新聞
  11. 斎藤明美『家の履歴書 男優・女優篇』166頁

外部リンク

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