調所広郷

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:基礎情報 武士 調所 広郷(ずしょ ひろさと、安永5年2月5日1776年3月24日) - 嘉永元年12月19日1849年1月13日))は、江戸時代後期の薩摩藩家老ははじめ恒篤、後に広郷(廣郷)。通称は清八、友治、笑悦、笑左衛門。当時の呼称は調所笑左衛門が一般的。

生涯

城下士・川崎主右衛門基明(兼高)の息子として生まれ、天明8年(1788年)に城下士・調所清悦の養子となる。茶道職として出仕し、寛政10年(1798年)に江戸へ出府し、隠居していた前藩主・島津重豪にその才能を見出されて、登用される。ちなみに養父・清悦は同年11月27日に江戸で死去し[1]、この年に家督相続したものと思われる。

後に藩主・島津斉興に仕え、使番・町奉行などを歴任し、小林郷地頭鹿屋郷地頭、佐多郷地頭を兼務する。藩が琉球と行っていた密貿易にも携わる。天保3年(1832年)には家老格に、天保9年(1838年)には家老に出世し、藩の財政・農政・軍制改革に取り組んだ。弘化3年7月27日には志布志郷地頭となり、死ぬまで兼職する。

当時、薩摩藩の財政は500万両にも及ぶ膨大な借金を抱えて破綻寸前となっており、これに対して広郷は行政改革、農政改革を始め、商人を脅迫して借金を無利子で250年の分割払い(つまり2085年までに及ぶ分割払い。だが、実際には明治5年(1872年)の廃藩置県後に明治政府によって債務の無効が宣言されてしまった)にし、さらに琉球を通じて清と密貿易を行なった。一部商人資本に対しては交換条件としてこの密貿易品を優先的に扱わせ、踏み倒すどころかむしろ利益を上げさせている。そして大島徳之島などから取れる砂糖専売制を行って大坂の砂糖問屋の関与の排除を行ったり、商品作物の開発などを行うなど財政改革を行い、天保11年(1840年)には薩摩藩の金蔵に250万両の蓄えが出来る程にまで財政が回復した。

やがて斉興の後継を巡る島津斉彬島津久光による争いがお家騒動(後のお由羅騒動)に発展すると、広郷は斉興・久光派に与する。これは、聡明だがかつての重豪に似て西洋かぶれである斉彬が藩主になる事で再び財政が悪化する事を懸念しての事であると言われている。

斉彬は幕府老中阿部正弘らと協力し、薩摩藩の密貿易(藩直轄地の坊津琉球などを拠点としたご禁制品の中継貿易)に関する情報を幕府に流し、斉興、調所らの失脚を図る。

嘉永元年(1848年)、調所が江戸に出仕した際、阿部に密貿易の件を糾問される。同年12月、薩摩藩上屋敷芝藩邸にて急死、享年73。死因は責任追及が斉興にまで及ぶのを防ごうとした服毒自殺とも言われる。

死後、広郷の遺族は斉彬によって家禄と屋敷を召し上げられ、家格も下げられた。葬所は養父清悦と同じ江戸芝の泉谷山大円寺法号は全機院殿敷積顕功大居士。現在の墓所は鹿児島市内の福昌寺跡。

評価

明治維新の実現は薩摩藩の軍事力に負うところが大である。薩摩藩が維新の時に他藩と異なり、新型の蒸気船や鉄砲を大量に保有し羽振りが良かったのは一世代前に500万両に及ぶ借金を「踏み倒し」、薩摩藩の財政を再建した広郷のお蔭と言える。

しかし、当時の薩摩藩の500万両という借金は年間利息だけで年80万両を越えていた。これは薩摩藩の年収(12~14万両)を越えており、返済不可能、つまり破産状態に陥っていた。「無利子250年払い」が踏み倒すも同然の処置であるのは事実だが、そのような「債務整理」を行うのはやむを得ない処置である。実際には明治5年(1872年)までの35年間は律儀に返済されており(但しそれ以降は廃藩置県のために返済されなかった)、密貿易品を扱わせ利益を上げさせるといった代替措置も行っていた。また、広郷のお陰で薩摩藩の財政改革や殖産や農業改革、及び高島砲術採用など軍制改革にも成功しており、財政の面を中心に見ると薩摩藩の救世主である事は間違いない。借金踏み倒しの面ばかりが強調されているが、広郷の真価はその後の薩摩藩の経済の建て直しにある。膨大な借金を作るような体制を作り変え、甲突川の五大石橋建設など長期的にプラスと判断したものには積極的に財政支出を行うことにより、最終的には50万両にも及ぶ蓄えを生み出している。しかし、これは、あくまでも幕府等を意識した表向きの公表数字であり、実際には少なく見積っても200万両はあったとのことである。(この200万両という数字は2013年、鹿児島県歴史資料センター黎明館30周年記念企画特別展「島津重豪 薩摩を変えた博物大名」図録による。また原口虎雄は「幕末の薩摩」、論文等で天保の改革時の利益を黒糖のみで230万両超としている。)

しかし砂糖の専売では奄美群島の百姓から砂糖を安く買い上げた上に税を厳しく取り立てており、借金の返済でも証文を燃やしたり商人を脅したりして途方もない分割払いを成立させたため、同時期に長州藩で財政改革を行なった村田清風と較べて(長州のほうがケタはひとつ少ないものの)、財政を再建させた一方で多くの領民を苦しめた極悪人という低い評価がある。但し、苗代川地区(現在の日置市東市来町美山)では例外で調所が同地の薩摩焼の増産と朝鮮人陶工の生活改善に尽くした事から、同地域では調所の死後もその恩義を感じて調所の招魂墓が建てられて密かに祀られ続けていたという(この墓も現存している)。

また斉興と斉彬の権力抗争の矢面に立ち、その憎悪を一身に受けた。その後、斉彬派の西郷隆盛大久保利通明治維新の立て役者となったため、調所家は徹底的な迫害を受け一家は離散する。斉彬排斥の首謀者は斉興とその側室のお由羅の方だったが、この2人は斉彬の死後に事実上の藩主となった久光の両親であり弾劾出来なかったので、一層調所家への風当たりが強くなったものと考えられる。広郷の財政改革が後の斉彬や西郷らの幕末における行動の基礎を作り出し、現在の日本の近代化が実現されたと評価されるようになったのは戦後のことである[2]

ちなみに名君とされる斉彬であるが、斉彬時代になってからの方が領民に対する税率は上げられている。結局は船や大砲などを自前で作るよりは、斉興・広郷路線で海外から購入したほうが安くついたのである。ただしそうした斉彬の開明的な姿勢が、日本の近代化に貢献した事実は評価されるべきであろう。

現在、鹿児島県鹿児島市の天保山公園には広郷の銅像がある。また鹿児島市平之町平田公園北側の旧邸宅跡地に彼の旧邸址を示す石碑がある。

家系

調所家は本姓藤原氏を称する。初代・藤原調所(ちょうそ)恒親(つねちか)が藤原氏北家出身の為。恒親は神職として京から大隅国へ赴任し、調所職(ちょうそしき)という徴税職も兼ねた。以後、調所を姓とした。調所恒林は、近衞前久より「廣」の一字拝領、廣榮と改め、調所家通し字となる。(「旧記雜録家分け調所氏」参照。)

広郷の相続したのは調所大炊左衛門の養子、調所内記の次男である調所善右衛門を家祖とする調所家で万治2年の石高は10石であったことが、『万治鹿府高帳』より知ることができる。

広郷の三男・調所広丈(読みをちょうしょに改称)は札幌農学校初代校長・札幌県令・高知県知事・鳥取県知事・貴族院議員などを歴任し、男爵に叙されて華族となっている。

関連史跡

鹿児島市史三」の『鹿児島市の金石文』によると、鹿児島市吉野町磯の菅原神社に天保5年8月25日に島津久風や市田美作、諏訪治部、猪飼央とともに奉献した献灯があるという。

関連書籍

研究書

小説

演じた俳優

補注

テンプレート:Reflist

関連項目

  • 「鹿児島県史料集 薩陽過去帳」参照。養父の法号は良泰院禅応喚宗居士。
  • ちなみに一時期調所家は墓所を鹿児島から東京に移していたが、これは直木三十五の『南国太平記』がベストセラーになった昭和6年(1931年)以後のことである。