鳥取県立米子東高等学校

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鳥取県立米子東高等学校(とっとりけんりつ よなごひがしこうとうがっこう)は、鳥取県米子市勝田町にある公立高等学校

概要

起源は旧制鳥取県立米子中学校。県内では一般的に「米東」(べいとう)と呼ばれるが、「勝陵」(しょうりょう)という呼称もある。鳥取大学島根大学などの地元国公立大学への進学が最も多い。選抜高校野球大会準優勝校、高校生クイズ優勝校。また、7ヘクタール以上の敷地を有し、勝田山、3つのグラウンドを持つ。

校訓
質実剛健
校風
文武両道
文武両道を校風とする一方で、近年は管理職主導の下、部活動・学校祭などより学業を重視する姿勢に転換し始めている。
校章
校章は、柏の葉をX型に組み合わせ、「高」の字を外したもので、右の葉はロゴス、左の葉はパトスを象徴しており、同校の理念を表し、真理の探求と情緒豊かな人間性を陶冶するために努力をすることを意味している。現校名になった後制定。ロゴス、パトスは校歌(3番)にもうたわれている。校章作者は、特にその意味を考えていなかったが、意味するところを当時の生徒に問われ、その場で咄嗟に思いついたという[1]
スクールカラー
臙脂(緑)。テンプレート:要出典範囲
米子東高等学校校歌
1955年。作詞:針本武義、作曲:藤本秀夫・渡部恵一郎
米子中学校校歌
1936年。作詞:土井晩翠、作曲:東京音楽学校
凱歌 松の緑
1917年。作詞:毎高 勇 作曲・秋山 升。古くからの卒業生も歌える曲として、同窓会などの締めや、高校野球の試合終了後(勝利した場合)に歌われる
応援歌 黒鉄の力
作詞・作曲:不詳。かつての慶應義塾大学の応援歌を用いたもの[2]筑波大学宣揚歌など、同じメロディの曲が各地にある
応援歌 北風荒き
作詞・作曲・不詳。

教育方針

日本海をのぞみ、大山を仰ぐこの美わしい学園は、つぎのごとき人間を育成する。

一.個性を生かして社会に生き、人類の幸福に貢献する。
一.自由を尊び、責任と自主性を重んずる。
一.英知に輝き、真理に徹する。
一.豊かでかおり高く、真実の人生を愛する。
一.明朗で健康で、信念を貫徹する強い意志と実行力を持つ。

歴史

  • 1899年明治32年)4月1日 - 鳥取県第二中学校として創立
  • 1900年(明治33年)5月29日 - 開校式挙行(のち開校記念日となる)
  • 1901年(明治34年)6月12日 - 鳥取県立第二中学校に改称
  • 1909年(明治42年)4月1日 - 鳥取県立米子中学校に改称
  • 1917年大正6年) 8月4日 - 凱歌 松の緑、初めて歌われる
  • 1936年昭和11年)4月29日 - 旧校歌制定(作詞・土井晩翠 作曲・東京音楽学校
  • 1948年(昭和23年)4月1日 - 鳥取県立米子第一高等学校に改称。定時制(夜間)を併設
  • 1948年(昭和23年)9月1日 - 通信制を併設
  • 1949年(昭和24年)4月1日 - 米子第一高等学校・米子実業高等学校・法勝寺実業高等学校が合併して鳥取県立米子東高等学校となり、男女共学となる。勝田校舎(旧米子第一)、長砂校舎(旧米子実業)、法勝寺校舎(旧法勝寺実業)を設置
  • 1952年(昭和27年)4月1日 - 勝田校舎に全日制家庭学科を設置
  • 1953年(昭和28年)4月1日 - 長砂校舎、法勝寺校舎が鳥取県立米子南高等学校(同年11月に法勝寺校舎は鳥取県立法勝寺農業高等学校(後の鳥取県立法勝寺高等学校、現在は鳥取県立米子高等学校)となる)として分離・独立。家庭学科は鳥取県立米子西高等学校へ移管
  • 1955年(昭和30年)1月15日 - 校歌制定(作詞・針本武義 作曲・藤本秀夫 渡部恵一郎
  • 1960年(昭和35年)4月1日 - 専攻科を設置
  • 1997年平成9年) 4月1日 - 全日制に2学期制を導入
  • 1999年(平成11年) - 創立100周年
  • 2000年(平成12年)3月 - 全日制入試、一次締切で定員割れ。
  • 2001年(平成13年)4月1日 - 新入生から全日制にコース制(普通コース・生命科学コース)を導入
  • 2004年(平成16年)4月1日 - 全日制に3学期制を導入
  • 2005年(平成17年)4月1日 - 通信制を鳥取県立米子白鳳高等学校として分離・独立
  • 2008年(平成20年)3月 - 通信制課程閉課程
  • 2011年(平成23年)3月 - 全日制入試、生命科学コース定員割れで再募集。
  • 2013年(平成25年)3月 - 専攻科閉講

歴代学校長

  • 初代 1899年4月 - 石橋 朗
  • 2代 1903年4月 - 田中 礼助
  • 3代 1906年4月 - 林 重浩
  • 4代 1911年12月 - 原田 長松
  • 5代 1919年4月 - 勝島 林蔵
  • 6代 1920年4月 - 三木 順治
  • 7代 1929年12月 - 小林 政吾
  • 8代 1932年3月 - 吉岡 重美
  • 9代 1932年11月 - 水田 文平
  • 10代 1936年6月 - 垣内 春雄
  • 11代 1943年3月 - 酒井 福蔵
  • 12代 1948年4月 - 花房 寿美太
  • 13代 1949年4月 - 福田 邦男
  • 14代 1956年4月 - 有福 友好
  • 15代 1962年4月 - 星野 章蔵 ☆
  • 16代 1964年4月 - 樋口 義憲
  • 17代 1970年4月 - 友松 五郎
  • 18代 1973年4月 - 松田 千歳 ☆
  • 19代 1978年4月 - 西村 嘉寿 ☆
  • 20代 1981年4月 - 板見 甲子夫
  • 21代 1983年10月 - 上田 幸一 ☆
  • 22代 1986年4月 - 村上 光雄
  • 23代 1990年4月 - 勝部 勝 ☆
  • 24代 1995年4月 - 長谷川 洋一郎
  • 25代 1998年4月 - 永見 収
  • 26代 2002年4月 - 仲本 敏行 ☆
  • 27代 2007年4月 - 小田原 利典
  • 28代 2010年4月 - 依藤 典篤

☆=同校卒業生

学科

  • 全日制課程普通学科普通科
    • 普通コース
    • 生命科学コース
      医歯薬学部をはじめ理系学部進学を目指すコース。学年1クラス。
  • 定時制課程普通学科普通科(夜間定時制)
  • 専攻科
    県内に予備校が少ないため、浪人生の大学進学の学習のために設置。1年制。国語・地歴・公民・数学・理科・英語・保健体育の授業がある。入学試験があり、他校卒業生も入学できる。県内に予備校の設置が進んだため、長く専攻科廃止が検討されてきた。2010年10月、県議会は、圧倒的多数の在校生・PTA・教職員らの懇願を退け、2012年度末での廃止を決定した。

部活動など

  • 硬式野球部 - 後述を参照
  • 軟式野球部 - 明石出場はないが春中国優勝経験
  • ソフトボール部
  • サッカー部 - 後述を参照
  • ラグビー部 - 後述を参照
  • 山岳部 - 高校総体入賞常連
  • バスケットボール部 - 全国大会出場経験
  • バレーボール部
  • ハンドボール部
  • 陸上競技部 - 全国高校駅伝入賞
  • テニス部 - 高校総体出場常連
  • ソフトテニス部
  • 卓球部
  • バドミントン部
  • ボート部 - 朝日レガッタで全国優勝、全国選抜や国体などで毎年入賞ほか、全国大会で毎年好成績
  • 体操部
  • 柔道部 - 団体全国優勝
  • 剣道部
  • 弓道部
  • 水泳部 - 全国大会出場
  • ESS
  • 茶道部
  • 華道部
  • 吹奏楽部
  • 合唱部
  • 弦楽部
  • 放送部
  • 演劇部
  • JRC部
  • 社会問題研究部
  • 文芸部
  • 写真部
  • 囲碁部
  • パソコン研究同好会
  • 新聞部
  • 應援團(かつては生徒会の一機関であった) - 県内唯一の完全六大学

硬式野球部

  • 硬式野球部は1900年頃から活動している。鳥取西と並ぶ旧制中学以来の山陰の名門で、春夏の甲子園で通算16勝21敗の成績を残している。伝統的に短打戦法に犠打、堅い守備に加え、洗練されたマナーは「米東野球」と称され、特に第32回選抜大会では準優勝を果たしていることで有名である(これは現在のところ山陰勢として春夏の甲子園で唯一の決勝進出である)。国体でも2度の準優勝を誇る。
  • 1950年から着用している純白を基調に緑と黄の胸文字のユニフォームは、「勝者を讃え敗者をいたわる清らかな心をもち、清流に躍る若鮎のごとくはつらつとあれ」との願いが込められたものであり、全国的にも有名である。また、かつて主として慶應義塾大学野球部に師事したため、胸文字にはいわゆる慶應体を採用している。
  • 県内では鳥取西とともに、夏の選手権大会の第1回予選からの皆勤校である。夏の出場回数と勝ち星ではライバル鳥取西に後れを取っているが(米子東:13回出場で8勝13敗、鳥取西:22回出場で23勝22敗)、春の出場回数と勝ち星では鳥取西を大きく上回っている(米子東:8回出場で8勝8敗、鳥取西:4回出場で2勝4敗)。春夏連続出場は1935年1960年の2回ある。
  • 米子東と鳥取西両校の、特に夏の県大会での対戦は「山陰の早慶戦」と呼ばれ、県内の高校野球ファンの熱い注目を集める。旧制中学の頃の両校の対戦の際は、試合開始前から観客の小競り合いや喧嘩は当たり前だった。1930年山陰大会決勝で両校が対戦した際は、短刀を持った観客が乱入し、警官監視下で試合が続行された。1957年からは夏の大会前に、両校で校長を務め、野球部強化に尽力した林重浩の名を冠した「林重浩杯」と呼ばれる定期戦が行われている。
  • 1996年選抜出場後は甲子園出場を果たしておらず、県大会の早い段階で敗退することが多くなっている。1999年からは6季連続で県大会初戦敗退、16季連続で県大会ベスト4に進出できなかった。また、夏に関しては1991年の優勝以来ベスト4進出がなく、2008年からは6年連続で初戦敗退を喫している。
  • 平成以降、県内の一部公立中学校の道徳副読本に、硬式野球部のマナーの良さを讃える物語が掲載されている。
  • 使用している第1グラウンドは、関連書物では1910年設置となっており[3](実際はそれ以前から使用しているが、整地されたことを考慮していると考えられる)、現存するわが国最古の野球場であるとする説もある。かつてはプロ野球オープン戦などが開かれた。

全国高等学校野球選手権大会 - 夏通算成績8勝13敗

年度 出場回数 全国大会成績 対戦校
1925年(第11回大会 初出場  2回戦敗退 2-0 前橋中(群馬)
4-10 第一神港商(兵庫)
1930年(第16回大会 5年ぶり2回目 1回戦敗退 0-4 大邱商(朝鮮)
1932年(第18回大会 2年ぶり3回目 2回戦敗退 1-3 石川師範(石川)
1935年(第21回大会 3年ぶり4回目 1回戦敗退 4-5 育英商(兵庫)
1939年(第25回大会 4年ぶり5回目 ベスト8 12-7 高岡商(富山)
0-3 海草中(和歌山)
1950年(第32回大会 11年ぶり6回目 ベスト8 3-2 盛岡(岩手) ※盛岡商も後身校。
7-8 鳴門(徳島)
1954年(第36回大会 4年ぶり7回目 2回戦敗退 2-1 滝川(兵庫) 延長11回
1-3 早稲田実(東京)
1956年(第38回大会 2年ぶり8回目 ベスト4 1-0 別府鶴見丘(大分)
3-0 中京商(愛知)
1-2 岐阜商(岐阜) 延長10回
1960年(第42回大会 4年ぶり9回目 2回戦敗退 8-0 盈進商(広島)
5-12 徳島商(徳島)
1983年(第65回大会 23年ぶり10回目 1回戦敗退 1-2 学法石川(福島) 延長10回
1986年(第68回大会 3年ぶり11回目 3回戦敗退 3-1 東亜学園(西東京)
2-7 天理(奈良)
1989年(第71回大会 3年ぶり12回目 2回戦敗退 0-3 帝京(東東京)
1991年(第73回大会 2年ぶり13回目 1回戦敗退 0-5 我孫子(千葉)
  • 第25回大会には、のちに阪神で活躍した土井垣武捕手、長谷川善三遊撃手が出場している。2回戦で、1イニング最多四死球8、連続四死球7の大会記録を達成した(記録は破られていない)。また準々決勝で敗れた相手校・海草中の投手は、全5試合を完封して優勝した嶋清一
  • 第32回大会では、準々決勝で鳴門に逆転負けを喫してベスト4入りを逃したが、飛田穂州はこの試合を「まさに惜敗中の惜敗」と賞賛した。
  • ベスト4入りした第38回大会では同じく飛田穂州に、「負けても後味のよい試合をすることが、高校野球の魅力ともいうべきであろう。その最たるものは、山陰米子の力戦であった。米子東の活躍は、老いのまぶたに今も残る。真実を言うならば、このチームに優勝を与えたかったと思う」と激賛された。なおこの大会で主戦だった長島康夫は、引き揚げ者救済措置に伴う年齢超過での出場だった。またこの時以降、県勢は夏の1大会で2勝以上を挙げていない。
  • 第68回大会では石川直主将が選手宣誓をしている。
  • 第80回大会では山本和広主将が地方大会出場皆勤校全国15校のうちの1校として開会式で入場行進した。

選抜高等学校野球大会 - 春通算成績8勝8敗

年度 出場回数 全国大会成績 対戦校
1935年(第12回大会 初出場 2回戦敗退 2-5 島田商(静岡)
1960年(第32回大会 25年ぶり2回目 準優勝 2-1 大宮(埼玉)
4-2 松阪商(三重)
2-0 秋田商(秋田)
1-2 高松商(香川)
1961年 (第33回大会 2年連続3回目 ベスト4 2-1 掛川西(静岡)
2-1 敦賀(福井) 延長16回
1-4 高松商(香川)
1965年(第37回大会 4年ぶり4回目 2回戦敗退 0-4 高松商(香川県)
1966年(第38回大会 2年連続5回目 ベスト8 6-1 富士宮北(静岡)
2-0 高知(高知)
2-11 中京商(愛知)
1970年(第42回大会 4年ぶり6回目 1回戦敗退 0-5 津久見(大分)
1977年(第49回大会 7年ぶり7回目 1回戦敗退 0-5 県岐阜商(岐阜)
1996年(第68回大会 19年ぶり8回目 2回戦敗退 9-7 釜石南(岩手)
4-8 大院大(大阪)
  • 第32回大会の決勝戦では、宮本洋二郎投手が高松商・山口富士雄選手にサヨナラ本塁打を浴びた。これは春夏通じ初の決勝戦サヨナラ本塁打で、選抜のサヨナラ優勝本塁打は今のところこの1本のみである。この試合をはじめとして、高松商には3度苦杯を嘗めている。
  • 第33回大会の準々決勝・敦賀戦で矢滝伸高投手が記録した奪三振23は、参考記録ながら選抜における1試合の最多奪三振記録。
  • 第68回大会の初戦・釜石南戦の初回に、大田優投手が春夏通じ県勢初となる満塁本塁打を記録している(大会史上13本目)。
  • これまで選手表彰を受けたのは、第10回大会・清水秀雄(優秀選手賞・投手)、第32回大会・宮本洋二郎(ベストナイン・投手)、同・松本勝彦(同・三塁手)、第33回大会・細田俊次(ベストナイン・外野手)、第38回大会・木村喜一(優秀選手・投手)、同・小島正(同・三塁手)、同・加藤直樹(同・外野手)、同・山西敏夫(同・同)である。

国民体育大会高等学校野球競技 - 通算成績5勝4敗

年度 出場回数 全国大会成績 対戦校
1950年(第5回大会 初出場 2回戦敗退 2-6 瑞陵(愛知) ※愛知商も後身校。
1956年(第11回大会 6年ぶり2回目 準優勝 3-1 西条(愛媛) 延長11回
1-0 岐阜商(岐阜) 延長10回
0-1 中京商(愛知) 延長10回
1960年 (第15回大会 4年ぶり3回目 準優勝 2-0 大宮(埼玉) 天覧試合
1-0 静岡(静岡) 延長10回
1-0 熊本商(熊本)
0-3 北海(北海道)
1986年(第41回大会 26年ぶり4回目 2回戦敗退 1-7 沖縄水産(沖縄)

サッカー部

  • 戦前にも活動していたが、戦後の復活は昭和40年代だった。米子工とともに、県内における古くからの高校サッカーの名門。1983年には高校サッカー選手権での県勢初勝利をあげ、1992年には県勢初のベスト8進出を成し遂げるなど、県内の草分け的存在。ただ近年は米子北に押され、2003年インターハイを最後に全国大会から遠ざかっている。

全国高等学校サッカー選手権大会 - 通算成績 5勝8敗

年度 出場回数 全国大会成績 対戦校
1979年(第58回 初出場 1回戦敗退 0-1 水戸商(茨城)
1983年(第62回 4年ぶり2回目 2回戦敗退 2-2 北陸(福井)
0-3 暁星(東京)
1985年(第64回 2年ぶり3回目 2回戦敗退 3-0 丸岡(福井)
1-3 京都商(京都)
1986年(第65回 2年連続4回目 1回戦敗退 0-4 暁星(東京)
1992年(第71回 6年ぶり5回目 ベスト8 1-0 東京学館新潟(新潟)
2-0 宮崎工(宮崎)
1-0 富山一(富山)
0-4 国見(長崎)
1993年(第72回 2年連続6回目 1回戦敗退 0-2 桐光学園(神奈川)
1996年(第75回 3年ぶり7回目 2回戦敗退 0-2 光星学院(青森)
1998年(第77回 2年ぶり8回目 2回戦敗退 1-3 水橋(富山)

全国高等学校総合体育大会サッカー競技大会 - 通算成績 ?勝10敗

年度 出場回数 全国大会成績 対戦校
1973年(昭和48年度 初出場
1976年(昭和51年度 3年ぶり2回目
1979年(昭和54年度 3年ぶり3回目
1982年(昭和57年度 3年ぶり4回目
1983年(昭和58年度 2年連続5回目
1984年(昭和59年度 3年連続6回目
1995年(平成7年度 11年ぶり7回目
1996年(平成8年度 2年連続8回目
1998年(平成10年度 2年ぶり9回目
2003年(平成15年度 5年ぶり10回目 2回戦敗退 1-0 釧路湖陵(北海道)
1-6 徳島商(徳島)

ラグビー部

県内の高校ラグビーは長らく米子工の牙城だったが、米子東は1989年に初出場を果たし、以後9回の出場を数える。県全体のラグビーのレベルが高くないため苦戦が続いているが、1999年には県勢大会初勝利を挙げている(現在これが県勢唯一の白星である)。翌2000年に第1回選抜大会にも選出された。2004年以降は部員不足などから、県内でも勝てない状況が続いている。

全国高等学校ラグビーフットボール大会 - 通算成績1勝9敗

年度 出場回数 全国大会成績 対戦校
1989年(第69回 初出場 1回戦敗退 3-30 岐阜工(岐阜)
1990年(第70回 2年連続2回目 1回戦敗退 0-41 早大学院(東京)
1996年(第76回 6年ぶり3回目 1回戦敗退 0-69 磐城(福島)
1997年(第77回 2年連続4回目 1回戦敗退 5-93 深谷(埼玉)
1998年(第78回 3年連続5回目 1回戦敗退 7-69 山形中央(山形)
1999年(第79回 4年連続6回目 2回戦敗退 12-10 鶴来(石川)
3-106 東海大仰星(大阪)
2000年(第80回 5年連続7回目 1回戦敗退 17-34 富良野(北海道)
2002年(第82回 2年ぶり8回目 1回戦敗退 0-113 秋田工(秋田)
2003年(第83回 2年連続9回目 1回戦敗退 7-62 (山梨)

全国高等学校選抜ラグビーフットボール大会 - 通算成績0勝2敗

年度 出場回数 全国大会成績 対戦校
2000年(第1回 初出場 Bブロック1回戦敗退 7-68 中標津(北海道)
0-97 西陵商(愛知)=敗者戦

高校生クイズ

全国大会へ15回出場しており、東大寺学園(奈良)、ラ・サール高校(鹿児島)に次ぐ、出場回数3位を誇る常連校である。特に、準優勝した第14回(1994年)でリーダーだった生徒が、次の第15回(1995年)でメンバーを替えて出場し、大会史上初となる、同一人物の全国大会決勝2度進出を成し遂げ、優勝した。また、第9 - 15回(1989 - 1995年)の7年連続全国大会出場は31回まで大会記録である[4]

全国高等学校クイズ選手権

  • 1986年(第6回) - 準決勝進出
  • 1987年(第7回)
  • 1989年(第9回)
  • 1990年(第10回) - 第3位
  • 1991年(第11回)
  • 1992年(第12回) - 準々決勝進出
  • 1993年(第13回)
  • 1994年(第14回) - 準優勝
  • 1995年(第15回) - 優勝
  • 1997年(第17回) - 準優勝
  • 2000年(第20回) - 1回戦勝ち抜け
  • 2005年(第25回)
  • 2009年(第29回)
  • 2010年(第30回)
  • 2012年(第32回)

その他

制服
男子は標準学生服(いわゆる学ラン)、女子はセーラー服を着用する。女子のセーラー服は、かつてのものより青色になった。夏期はいずれも夏服となり、女子は盛夏服もある。男子は制服の襟の部分に、金色の校章及び「Z」(全日制の頭文字)のバッジを付ける(専攻科生は「S」(専攻科の頭文字)のバッジであった)。男子の制帽には白線を2本付ける(現在着用は任意)。
授業
1997年より2学期制を採用していたが(定期考査の名称は「夏休み前第1回定期考査」などであった)、学校システム(終業式や成績発表など)自体3学期制時のままで運営されていた。導入時最大のメリットであった65分授業もなくなり45分授業となっていたため、2004年に3学期制に戻った。現在1コマ45分の7限授業である。2004年から主に7月の夏期休業期間中、基本的に午前中は全員参加の夏期講習を実施していて、正式な授業日数には含まれなかったが、2012年からは、稼業日(内容は夏期講習と同一)となった。
環境
校内敷地には勝田山(かんだやま、標高44メートル)がある。麓はかつて勝田神社(現在は移転)があった場所であり、元勝田とも呼ばれ、1960年代頃までは鳥居も立っていた。1989年に創立90周年を記念して登山道が整備された。頂上からは米子市内をはじめ、島根半島日本海大山などを見渡せる。学校を別名「勝田ヶ丘(かんだがおか)」と呼ぶことがある。
第1グラウンド(野球場。硬式野球部が使用)、第2グラウンド(軟式野球部、ソフトボール部、ハンドボール部が使用)、第3グラウンド(サッカー部、ラグビー部が使用)、屋内練習場、ピッチングハウス(以上は主に硬式野球部が使用)、トレーニングルーム(各部共用)、第1体育館(バスケットボール部、卓球部が使用)、第2体育館(バレーボール部、バドミントン部、体操部(ダンス部)が使用)、第2体育館内の柔道場(柔道部が使用)・剣道場(剣道部が使用)、硬式テニスコート(硬式テニス部が使用)、ソフトテニスコート(ソフトテニス部が使用)を有するなど、運動施設は全国の公立校の中でも稀なほど充実している。第2体育館は敷地内日本専売公社跡地に2010年新設された。旧第2体育館はプールとともに、同年7月取り壊された。創立100周年を記念し、校門のそばに勝利の女神像(サモトラケのニケ)が設置された。
行事
新入生に対して4月中の1週間、生徒会(應援團)による応援練習が行われる。指導される曲目は、校歌、凱歌、応援歌(前述を参照)に加え、コンバットマーチ、ダッシュ米東(ダッシュケイオウ)、コール米東(突撃のテーマ)、スパークリングマーチ大進撃、サンライズマーチ(カメハメハ)など、早稲田大学応援部慶應義塾大学應援指導部、東京大学運動会応援部から導入したマーチなど。
球技大会
毎年春と秋に実施。第1回は1908年、第1グラウンドの全校生徒による整地事業の完成記念校内野球大会であり、2008年に100周年を迎えた。種目は現在、バスケットボール、バレーボール、ソフトボール、卓球、ソフトテニスであり、第1体育館改修の際にはサッカーやドッチボールが行われたこともある。他に春の遠足が行われている。強歩遠足、校内陸上競技大会も2001年まで実施されていたが、週休2日制移行に伴う授業時間確保のため廃止された(競歩遠足は最終年度雨天中止のため、最後に開催されたのは2000年)。
学校祭
校章からとって「柏葉祭(はくようさい)」と呼ばれている。以前より日程が短縮され、現在は文化の部が2日間、体育の部が1日間、計3日間にわたり8月下旬から9月上旬に開催される。各クラスが張り子、ユニフォームを制作する。
どぜう(どじょう)すくい三・三・七拍子
1965年の選抜高校野球大会出場を記念して作られた、應援團による演技。「東に、大山の雄姿を仰ぎ」「西に、日本海の荒波を受ける」「わが米子東高等学校名物、どぜうすくい三・三・七拍子」の前口上で始まる。当時の安来市出身の生徒が、安来節をアレンジして作ったものである。以前は野球応援(守備中)などで頻繁に使用していたが、現在は応援規則に抵触するため、主に壮行会などで使用される。2006年BSSラジオでこの演技についての番組が放送された。
卒業生組織
同窓会組織は「勝田ヶ丘同窓会」と称し、全日制・定時制・通信制課程も含めた卒業生が加入している。ただし、米子南高校などと統合中の卒業生については、勝田校舎卒業生のみ。東京、関西、東海、九州・沖縄、安来、県内各地に支部を持つ。卒業期については、2010年3月卒業生は全日制第106期、定時制第59期にあたる。まれに、他校に転校などで卒業していない者が加入していることがある。校内に同窓会館(1階は食堂)があり、同窓会事務や寄贈品などの展示を行っている。また、硬式野球部、サッカー部、ボート部、バレーボール部、吹奏楽部、應援團などにはOB会組織があり、現役生の支援を行っている。
漫画
弘兼憲史の「ガクラン放浪記」(講談社、弘兼憲史青春作品集)に登場する。三重県の高校を退学した主人公が、「米子第一高校」に入り直して高校生活を送り始めるという、稲田耕三の自伝的小説「高校放浪記」(角川文庫)の漫画化作品である。
公式ウェブサイト
同校の公式ウェブサイト「とんがれ米東」は、かつては中海テレビ放送のサーバーにあった[5]

出身者

政治家
官僚
法曹
実業家
教育者・学者
文化人
芸能人
スポーツ選手
軍人
医師
その他
教員

参考文献

  • 『勝田ヶ丘の人物誌』(編集・勝田ヶ丘の人物誌編集委員会、発行・鳥取県立米子東高等学校創立百周年記念事業実行委員会 2000年)

脚注

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関連項目

外部リンク

  • 鳥取県立米子東高等学校創立90周年記念誌(1989年)
  • つくばスチューデンツ2005年10月号(筑波大学学生部)
  • 野球場建設の研究(沢柳政義、野球場建設の研究刊行会、1951年)
  • 7年連続全国大会出場は埼玉の浦和高校が33回にて9大会連続を成し遂げたためにこれに次ぐ記録である。
  • とんがれ米東 - サイトマップ
  • 『勝田ヶ丘の人物誌』30 - 33頁
  • 『勝田ヶ丘の人物誌』46 - 52頁
  • 『勝田ヶ丘の人物誌』84 - 87頁
  • 『勝田ヶ丘の人物誌』127 - 132頁
  • 『勝田ヶ丘の人物誌』149 - 152頁
  • 『勝田ヶ丘の人物誌』163 - 165頁
  • 『勝田ヶ丘の人物誌』285 - 288頁
  • 『勝田ヶ丘の人物誌』391 - 394頁
  • 『勝田ヶ丘の人物誌』418 - 420頁
  • 『勝田ヶ丘の人物誌』37 - 39頁
  • 『勝田ヶ丘の人物誌』175 - 178頁
  • 『勝田ヶ丘の人物誌』255 - 256頁
  • 『勝田ヶ丘の人物誌』300 - 303頁
  • 『勝田ヶ丘の人物誌』52 - 55頁
  • 『勝田ヶ丘の人物誌』135 - 138頁
  • 『勝田ヶ丘の人物誌』124 - 127頁
  • 『勝田ヶ丘の人物誌』140 - 143頁
  • 『勝田ヶ丘の人物誌』146 - 149頁
  • 『勝田ヶ丘の人物誌』219 - 224頁
  • 『勝田ヶ丘の人物誌』244 - 248頁
  • 『勝田ヶ丘の人物誌』257 - 265頁
  • 『勝田ヶ丘の人物誌』292 - 300頁
  • 『勝田ヶ丘の人物誌』319 - 322頁
  • 『勝田ヶ丘の人物誌』327 - 331頁
  • 『勝田ヶ丘の人物誌』359 - 366頁
  • 『勝田ヶ丘の人物誌』152 - 156頁
  • 『勝田ヶ丘の人物誌』81 - 84頁
  • 『勝田ヶ丘の人物誌』132 - 134頁
  • 『勝田ヶ丘の人物誌』188 - 190頁
  • 『勝田ヶ丘の人物誌』273 - 276頁
  • 『勝田ヶ丘の人物誌』366 - 373頁
  • 『勝田ヶ丘の人物誌』411 - 413頁
  • 『勝田ヶ丘の人物誌』414 - 418頁
  • 『勝田ヶ丘の人物誌』182 - 188頁
  • 『鳥取県 郷土が誇る人物誌』355頁
  • 『勝田ヶ丘の人物誌』394 - 397頁
  • 『勝田ヶ丘の人物誌』335 - 338頁
  • 『勝田ヶ丘の人物誌』34 - 35頁
  • 『勝田ヶ丘の人物誌』114 - 120頁
  • 『勝田ヶ丘の人物誌』156 - 159頁
  • 『勝田ヶ丘の人物誌』196 - 198頁
  • 『勝田ヶ丘の人物誌』166 - 175頁
  • 『勝田ヶ丘の人物誌』199 - 200頁
  • 『勝田ヶ丘の人物誌』331 - 335頁
  • 『勝田ヶ丘の人物誌』39 - 43頁
  • 『勝田ヶ丘の人物誌』43 - 45頁
  • 『勝田ヶ丘の人物誌』108 - 110頁
  • 『勝田ヶ丘の人物誌』179 - 181頁
  • 『勝田ヶ丘の人物誌』201頁
  • 『勝田ヶ丘の人物誌』276 - 278頁
  • 『勝田ヶ丘の人物誌』106 - 108頁