鳥取県立境高等学校

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鳥取県立境高等学校(とっとりけんりつ さかいこうとうがっこう, Tottori Prefectural Sakai High School)は、鳥取県境港市上道町にある県立の高等学校。略称「境高」(さかいこう)。

概要

歴史
昭和15年(1940年)に開校した「鳥取県立境中学校」(旧制中学校)を前身とする。昭和23年(1948年)に新制高等学校「鳥取県立境第一高等学校」(男子校)となり、その翌年高等女学校を前身とする「鳥取県立境第二高等学校」(女子校)と水産学校(実業学校)を前身とする「島根県立余子水産高等学校」の2校と統合され、総合制高等学校「鳥取県立境高等学校」(現校名)となった。水産科は昭和28年(1953年)に鳥取県立境水産高等学校として分離・独立した。平成22年(2010年)に創立70周年を迎えた。
設置課程・学科
全日制課程 普通科単位制
校訓
「質実剛健・文武両道」
校章
カシの絵を背景にして、中央に「高」の文字(旧字体)を置いている。
校歌
作曲は薮田義雄、作曲は下総皖一による。歌詞は3番まであり、各番に校名の「境高校」が登場する。
同窓会
校章にちなみ、「かしのは会」と称している。

沿革

旧制中学校・新制高等学校(男子校)時代

  • 1940年
    • 2月2日 - 「鳥取県立境中学校」(修業年限5年)の設置が認可される(創立記念日)。
    • 2月10日 - 初代校長に吉灘好栄が就任。
    • 4月1日 - 開校。
    • 4月6日 - 第1回入学式を挙行。境尋常高等小学校(現・境港市立境小学校)校舎一部を仮校舎とする。
  • 1941年3月13日 - 新校舎(第1期工事)が東本町に完成し、仮校舎より移転を完了。
  • 1942年6月27日 - 新校舎(第2期工事)が完成し、校舎落成式を挙行。
  • 1943年4月1日 - 中等学校令の施行により、この時の入学生から修業年限が4年に短縮される。
  • 1944年4月1日 - 前年に閣議決定された教育ニ関スル戦時非常措置方策により、修業年限4年施行[1]の前倒しが行われることとなる。
    • この時の4年生(1941年(入学生)から適用し、4年を修了する1945年3月の施行となる。
  • 1945年
    • 3月 - 決戦教育措置要綱[2]が閣議決定され、同年4月から翌年3月末まで授業が停止されることとなる。修業年限短縮の前倒しにより、4・5年合同の卒業式を挙行。
    • 4月 - 授業を停止。
    • 5月22日 - 戦時教育令が公布され、授業を無期限で停止することが法制化される。
    • 8月15日 - 終戦。
    • 9月 - 授業を再開。
  • 1946年4月1日 - 修業年限が5年に戻る(4年で卒業することもできた)。
  • 1947年4月1日 - 学制改革(六・三制の実施、新制中学校の発足)
    • 旧制中学校の生徒募集を停止。
    • 新制中学校を併設し(名称・鳥取県立境中学校併設中学校、以下・併設中学校)、旧制中学校の1・2年修了者を新制中学2・3年生として収容。
    • 併設中学校は経過措置として暫定的に設置されたため、新たに生徒募集は行われず(1年生不在)、在校生が2・3年生のみの中学校であった。
    • 旧制中学校3・4年修了者はそのまま旧制中学校に在籍し、4・5年生となる(4年で卒業することもできた)。
  • 1948年4月1日 - 学制改革(六・三・三制の実施、新制高等学校の発足)
    • 旧制中学校が廃止され、新制高等学校「鳥取県立境第一高等学校」(男子校)が発足。
      • 旧制中学校卒業生(希望者)を新制高校3年生、旧制中学校4年修了者を新制高校2年生、併設中学校卒業生を新制高校1年生として収容。
      • 併設中学校は新制高校に継承され(名称・鳥取県立境第一高等学校併設中学校)、在校生が1946年に旧制中学校へ最後に入学した3年生のみとなる。
      • 夜間部課程(普通科・商業科)・定時制課程(普通科・農業科・家庭科)を併置。
  • 1949年3月31日 - 併設中学校を廃止(旧制4・5年から新制3年への修業年限の移行が完了)。

高等女学校・新制高等学校(女子校)時代

  • 1938年4月1日 - 「組合立境高等家政女学校」が開校。
  • 1944年4月1日 -「境女子商業学校」に改称。
  • 1946年3月 - 県立移管の上「島根県立境高等女学校」に改称。修業年限を5年とし、商業学校生を高等女学校生として収容。
  • 1947年4月1日 - 学制改革(六・三制の実施、新制中学校の発足)
    • 高等女学校の募集を停止(1年生不在)。
    • 新制中学校を併設し(名称:島根県立境高等女学校併設中学校、以下・併設中学校)、高等女学校1年修了者を新制中学2年生、高等女学校(旧・商業学校)2年修了者を新制中学3年生として収容。
    • 高等女学校(旧・女子商業学校)3・4年修了者はそのまま商業学校に在籍し、高等女学校4・5年生となる(4年修了時点で卒業することもできた)。
    • 併設中学校はあくまで経過措置として暫定的に設置されたため、在校生が2・3年生のみの中学校であった。
  • 1948年4月1日 - 学制改革(六・三・三制の実施、新制高等学校の発足)
    • 高等女学校が廃止され、新制高等学校「島根県立境第二高等学校」(女子校)が発足。
      • 高等女学校卒業生(5年修了者)を新制高校3年生、高等女学校4年修了者を新制高校2年生、併設中学校卒業生(3年修了者)を新制高校1年生として収容。
      • 併設中学校は新制高校に継承され(名称:島根県立境第二高等学校併設中学校)、在校生が1946年に高等女学校へ最後に入学した3年生のみとなる。
  • 1949年3月31日 - 併設中学校を廃止(旧制4・5年から新制3年への修業年限の移行が完了)。

水産学校・新制水産高等学校時代

  • 1946年4月1日 - 西伯郡余子村に「鳥取県立水産学校」が開校。漁撈科・製造科を設置。
  • 1947年4月1日 - 学制改革(六・三制の実施、新制中学校の発足)
    • 水産学校の募集を停止(1年生不在)。
    • 新制中学校を併設し(名称:島根県立水産学校併設中学校、以下・併設中学校)、水産学校1年修了者を新制中学2年生として収容。
    • 併設中学校はあくまで経過措置として暫定的に設置されたため、在校生が2年生のみの中学校であった。
  • 1948年4月1日 - 学制改革(六・三・三制の実施、新制高等学校の発足)
    • 水産学校が廃止され、新制高等学校「鳥取県立余子[3]水産高等学校」が発足。
    • 併設中学校は新制高校に継承された(名称・鳥取県立余子水産高等学校併設中学校)。
  • 1949年3月31日 - 併設中学校を廃止(旧制4・5年から新制3年への修業年限の移行が完了)。

新制高等学校(男女共学)

  • 1949年4月1日 - 高校三原則に基づく鳥取県内公立高校の再編が行われる。
    • 上記3校が統合され、総合制高等学校「島根県立境高等学校」(現校名)が発足。
      • 全日制課程(普通科・水産科・家庭別科)、夜間部課程(普通科・商業科)、定時制課程(農業科)を設置。
  • 1951年4月 - 水産科が西伯郡境町上道に移転。
  • 1953年
  • 1954年3月31日 - 家庭別科(1年課程)を廃止。
  • 1955年3月31日 - 家庭別科(2年課程)を廃止。
  • 1963年12月14日 - 境港市上道町に新校舎(第1期工事・教室棟)が完成。
  • 1964年
    • 4月1日 - 全日制普通科第1学年が移転し、新校舎で授業を開始。
    • 12月25日 - 第2期工事が完了し、管理棟・大小体育館・渡り廊下が完成。全面移転を完了。
  • 1969年
  • 1971年12月30日 - 生徒会館が完成。
  • 1974年3月29日 - 東グラウンドが完成。
  • 1981年3月16日 - 弓道場が完成。
  • 1983年2月28日 - 新体育館が完成。
  • 1984年3月28日 - 特別教室棟が完成。
  • 1986年7月15日 - クラブ後援会が発足。
  • 1987年4月1日 - 定時制課程 普通科の募集を停止。
  • 1989年3月31日 - 定時制課程 普通科を廃止。
  • 1990年2月2日 - 創立50周年を記念して新「かしのは会館」が完成。旧かしのは会館・生徒会館を解体。
  • 1994年4月1日 - 推薦入試を導入。全日制家政科を家庭科学科に改編。
  • 1996年12月20日 - 創作・交流ホールが完成。
  • 1998年
    • 3月18日 - 新部室棟が完成。
    • 10月6日 - 第2体育館・柔剣道場が完成。
  • 2003年
  • 2004年2月20日 - 選択教室棟が完成。
  • 2005年
    • 3月31日 - 家庭科学科を廃止。
    • 5月31日 - 教室棟に冷房設備を設置。
  • 2011年12月19日 - 教室棟の耐震工事を完了。

部活動

硬式野球部

1946年創部。県西部の伝統校・米子中への対抗心からであった。のちに米子東で監督を務めた、2代目監督岡本利之の指導で急速に力をつけ、創部6年目の1952年に夏の大会初出場を果たしている。その後も米子東OBの貫名和久の指揮で1973年、春の選抜に初出場するなど、米子東OBの指導で力をつけた。

夏の甲子園出場回数は7回を数える。これは鳥取西・米子東に次ぐ県3位の出場回数である。甲子園初勝利は1974年の春の選抜だったが、夏の全国大会初勝利は遅く、初出場から38年を経た1990年のことだった。全国大会では、県大会で見せた力を発揮できないまま敗れることが多い。

全国高等学校野球選手権大会 夏通算成績1勝7敗

年度 出場回数 全国大会成績 対戦校
1952年(第34回大会 初出場  2回戦敗退 0-4 日大三(東京)
1979年(第61回大会 27年ぶり2回目 1回戦敗退 6-13 中京(愛知)
1982年(第64回大会 3年ぶり3回目 1回戦敗退 3-9 東海大甲府(山梨) 「ルールブックの盲点の1点」事件
1984年(第66回大会 2年ぶり4回目 1回戦敗退 0-1 法政一(西東京) 延長10回
1990年(第72回大会 6年ぶり5回目 2回戦敗退 3-2 八戸工大一(青森)
0-5 平安(京都)
1998年(第80回大会 8年ぶり6回目 1回戦敗退 6-7 滑川(西埼玉)
2007年(第89回大会 9年ぶり7回目 1回戦敗退 1-14 甲府商(山梨)
  • 1952年に初出場した時の投手は、のちに広島に入団した拝藤宣雄である。
  • 1984年の夏の大会では、初戦の法政一戦で、投手の安部伸一(のち三菱重工三原)が相手打線を無安打無得点に抑えながらも味方打線の援護がなく、延長10回裏に許した初安打がサヨナラ本塁打となって敗れた。

選抜高等学校野球大会 春通算成績1勝2敗

年度 出場回数 全国大会成績 対戦校
1973年(第45回大会 初出場 1回戦敗退 2-5 日大山形(山形)
1974年(第46回大会 2年連続2回目 2回戦敗退 8-1 長良(岐阜)
0-7 和歌山工(和歌山)
  • 1973年に初出場したチームはベンチ入りメンバーが11人で、「ひよっ子イレブン」として話題を集めた。前年秋の新チーム結成時は部員が5、6人しかいなかったが、そこから部員を集めての秋の快進撃だった。蔦文也監督の率いる池田(徳島)が「さわやかイレブン」として人気を集め、準優勝を飾る1年前のことである。この時対戦して敗れた日大山形は、これが山形県勢の選抜初出場であり、境は山形県勢に選抜初勝利を献上した形になった。

サッカー部

元米子東監督・池田洋二の監督就任で急速に力をつけ、米子北とともに県高校サッカー界を牽引している。現在は、米子東-早稲田大学-SC鳥取で活躍した廣川雄一監督の指導で、力を維持している。

全国高等学校サッカー選手権大会 通算成績 3勝8敗

年度 出場回数 全国大会成績 対戦校
1999年(第78回 初出場 1回戦敗退 0-2 秋田商(秋田)
2000年(第79回 2年連続2回目 1回戦敗退 0-1 各務原(岐阜)
2001年(第80回 3年連続3回目 1回戦敗退 1-1(PK5-6) 浦和南(埼玉)
2002年(第81回 4年連続4回目 2回戦敗退 0-1 北越(新潟)
2006年(第85回 4年ぶり5回目 3回戦敗退 1-0 帝京三(山梨)
0-0(PK2-3) 広島皆実(広島)
2007年(第86回 2年連続6回目 1回戦敗退 0-0(PK2-4) 室蘭大谷(北海道)
2008年(第87回 3年連続7回目 2回戦敗退 0-4 藤枝東(静岡)
2009年(第88回 4年連続8回目 3回戦敗退 1-0 東久留米総合(東京A)
2-0 四日市中央工(三重)
0-2 神村学園(鹿児島)

出身者

政治家

  • 中村勝治(境港市長)
  • 安田優子(鳥取県議会議員)。父は元境港市長の安田貞栄
  • 佐名木知信(境港市議会議員)

実業家

教育者・学者

芸能人・文化人

スポーツ

野球

サッカー

その他

脚注

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関連項目

外部リンク

  • 本来は1943年に入学した生徒が4年を修了し卒業する1947年3月に施行する予定であった。
  • 国民学校初等科を除く学校の昭和20年度1年間の授業停止が決定された。
  • 読みは「あまりこ」。