埼玉西武ライオンズ

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テンプレート:出典の明記 テンプレート:Redirectlist テンプレート:野球チーム テンプレート:Infobox 埼玉西武ライオンズ(さいたませいぶライオンズ、テンプレート:Lang-en)は、日本プロ野球球団。パシフィック・リーグに所属する。

埼玉県保護地域とし、同県所沢市にある西武ドーム専用球場(本拠地)としている。また、二軍[1]イースタン・リーグ所属)の本拠地も一軍本拠地と同じ所沢市にあり西武ドームに隣接する西武第二球場である。

球団の歴史

福岡時代

西鉄時代

西日本鉄道(西鉄)は、1943年にそれまでの大洋軍[2]を譲り受け、西鉄軍として経営していたが、同年限りで解散している[3]

戦後すぐの1946年6月には西鉄はノンプロチームを立ち上げ、1948年には都市対抗野球で優勝するなど、アマ球界では強豪チームとなっていた。西鉄初代社長の村上巧児は「戦後の福岡に明るい話題を提供したい」との思いから1949年初めに戦前の西鉄軍を復活させ、再びプロ野球チームを持とうとするが、西鉄軍が解散で球団消滅扱いになっていた事もあって、1949年3月に日本野球連盟から復帰申請を却下されている。

ところが1949年暮れに、プロ野球再編問題が発生。1リーグ体制だった連盟がセントラル・リーグパシフィック・リーグの2リーグに分裂。これを契機に村上は、後の西鉄3代目社長で球団オーナーも務める木村重吉らとともにプロ野球への進出を図り[4]福岡県福岡市西鉄クリッパース(にしてつ-、Nishitetsu Clippers)を結成。11月26日に発足、パ・リーグへ加盟(この加盟日が球団創立日とされている)し、1950年1月下旬に運営会社「西鉄野球株式会社」を設立登記した[5])。当初は西日本新聞社と共同で球団を設立しようとしたが、これには頓挫。西日本新聞は西鉄と同じ福岡県を本拠地として西日本パイレーツを立ち上げ、福岡県にプロ野球チームが2球団出来ることになった。

選手は、ノンプロとしての西日本鉄道チームから初代監督となる宮崎要を始め大津守深見安博河野昭修塚本悦郎ら、八幡製鉄鬼頭政一ら、別府星野組の新留国良ら九州地方のノンプロ選手に加え、佐賀県出身で読売ジャイアンツ川崎徳次、福岡県出身で前年度南海ホークスで20勝を挙げた武末悉昌、同じく福岡出身の野口正明ら、九州出身のプロ球界の有力選手を集めた。川崎の移籍に関しては、巨人との契約が残っていたこともあり、当初巨人が移籍を認めず難航したが最終的に移籍させている。

1年目のシーズンは、チームがアマチュア出身の選手が中心だった事や、エースと期待された川崎が初登板の毎日オリオンズ戦で3回に肘を故障するなどが災いし、7球団中5位に終わる。

同じ福岡を本拠地とする西日本と比べると、西日本がドル箱の巨人戦などを抱えていたこともあって、人気、観客動員数の面で西鉄が下回っていたが、西日本も初年度のチーム成績は8球団中6位と西鉄同様に低迷、また西日本新聞がプロ野球の経営には素人で、福岡市での主催試合を自前で興行できずに、収益を興行師に持ち逃げされる事もあり経営が安定せず、シーズン中の8月には選手への給料が遅配するなど経営悪化が進んでいた。6月に既に西日本の経営悪化の事実を掴んだ西鉄は西日本新聞がいずれ球団経営を手放すであろうと見て、パイレーツの吸収合併をもちかけ、9月に正式に合併調印している[6]。川崎徳次の提案で、次期監督には巨人の総監督で、水原茂の復帰に伴う排斥問題が起きていた三原脩を迎え入れようとするが、元からの西鉄選手の反発もあり、三原は当初は総監督に据えられ、宮崎要が選手兼任のまま監督を1952年まで続けた。

1951年1月30日、西日本パイレーツを吸収合併して西鉄ライオンズ(にしてつ-、Nishitetsu Lions)となる(球団名変更は3月1日[7]。西日本からは、後の黄金時代の主力となる関口清治日比野武が加入。当初は旧クリッパーズ出身選手の反発が強く、球団上層部からも「クリッパーズの選手を使うように」と介入してくるが、三原は反発せずにクリッパーズの選手を使い続けることで、クリッパーズ出身選手が使えない事を証明させ、後にそれらの不満分子の選手を他球団に放出したり、解雇している。首位の南海と18.5ゲーム差の2位に終わる[8]

1952年、シーズン途中に、契約が難航していた東急フライヤーズの大スター大下弘を深見安博とのトレードで獲得。このシーズンは、首位の南海と8.5ゲーム差の3位。

1953年、Bクラスの4位に終わるも、中西太がホームラン王・打点王・最多安打。川崎徳次が最多勝・最優秀防御率を獲得。三原は1954年時には1951年ライオンズ発足時にいた34選手のうち、3/4にあたる26名を解雇や他球団に移籍させ、大幅に入れ替えている。

1954年[9]、西鉄が開幕から11連勝で首位に立つが、途中8月中旬から9月にかけて27勝1敗[10]とした南海に追い上げられ一時首位に立たれるなど、南海と激しい首位争いとなったが、西鉄が残り1試合となった10月11日に対阪急戦に勝利した事で、西鉄の初のパ・リーグ優勝が決定する。最終的に西鉄は90勝、南海は91勝だったが引き分け数の差で西鉄が勝率で上回った。このシーズンは2番打者豊田泰光の18本に続き、クリーンアップ全員が20本塁打(大下弘(22本)、中西太(31本)、関口清治(27本))を記録する等、チームで両リーグトップの134本の本塁打を記録。しかし、日本シリーズでは中日ドラゴンズに3勝4敗で敗れる。

1955年[11]、前年とは逆に開幕から南海が10連勝するが、序盤から西鉄との首位争いとなり25度に渡って首位が入れ替わる状況であった。6月4日の対近鉄戦で大津守が球団初のノーヒットノーランを達成。 8月24日以降は南海が首位を明け渡さず、南海は日本プロ野球記録の99勝で、前年に続き90勝だった西鉄に9ゲームをつけて優勝、西鉄は2位に終わる。

1956年[12]、4月15日から6月の一時期を除いて南海が一貫して首位を守り、9月上旬の時点でも南海が2位の西鉄に7ゲ-ム差をつけていた。同月下旬の南海との首位攻防4連戦で西鉄が3勝1分とし、9月30日には西鉄が一時首位に立ち、その後も南海と首位が入れ替わる状況だったが、10月6日の対阪急戦に西鉄が勝利した事で2年ぶりにリーグ優勝達成。南海と西鉄は共に96勝だったが、引き分け数の差で西鉄が勝率を上回った。読売ジャイアンツとの日本シリーズは4勝2敗で勝利し、初の日本一達成。

1957年[13]、この年も南海との首位争いとなるが、7月下旬から8月にかけて西鉄は対南海戦7連勝を含む14連勝を記録し、この年の南海との対戦成績も7勝15敗と勝ち越した事もあり南海に7ゲ-ム差をつけて、10月13日に東映フライヤーズダブルヘッダーに連勝した事で、2年連続3度目のリーグ優勝を達成[14]。2年連続の対戦となった巨人との日本シリーズは負けなしの4勝1引き分けで巨人に勝利し、2年連続2度目の日本一達成。

1958年[15]、南海が新人の杉浦忠が前半戦だけで20勝3敗と活躍をみせて3年連続で開幕から首位を独走、オールスター前には2位の西鉄に11ゲーム差をつけていた。しかし後半に入ると杉浦は調子を落とし、西鉄の稲尾和久が後半戦のチーム36勝のうち31勝に絡む鉄腕ぶりをみせる。9月27、28日には6厘差で南海との首位攻防2連戦となり、27日は先発の杉浦と途中からリリーフの稲尾との投げ合いで10回を引き分けとし、28日には連投の先発の杉浦を打ち崩して初回で降板させるなど7対2で勝利し、西鉄が首位となり、10月2日の対近鉄ダブルヘッダーに連勝した事で、3年連続で序盤から首位を走った南海を逆転しての優勝達成となった。3年連続の対戦となった巨人との日本シリーズでは3連敗の後、稲尾和久の好投で4連勝を飾る。

稲尾を始めとしてこの当時の主力には大下弘・中西太・豊田泰光・仰木彬・高倉照幸らの好選手を擁し「野武士軍団」と呼ばれた。

1959年[16]、中西太、大下弘、関口清治らの故障もあり、投手陣も稲尾和久以外は島原幸雄が12勝しただけで2桁勝利投手がなく、4位に終わる。三原脩が監督を辞任、三原は大洋ホエールズの監督に就任。西鉄の次期監督には川崎徳次が就任。

1960年[16]、この年も中西太が故障で32試合の出場にとどまり、稲尾和久の出遅れもあり序盤は最下位になるなど低迷、前半戦は5割そこそこの成績で折り返すが、後半にかけ復調した稲尾が20勝を挙げるなど3位となるが、首位の大毎オリオンズや2位の南海に大きく負け越しての結果となった。

1961年[16]、稲尾和久が序盤から勝利を重ね7月11日には日本プロ野球史上最速の20勝到達となったが、この時点で他の投手全員の勝利数が19勝で稲尾が半分以上を占めていた[17]。稲尾はこの年シーズンの半分以上の78試合、404イニングを投げ日本プロ野球タイ記録となる42勝[18]を挙げ、また353奪三振のシーズン日本プロ野球記録(当時)を樹立するが[17]、チームは2年連続3位に終わり、川崎徳次が監督を辞任。シーズン終了後、選手兼任監督の中西太、選手兼任助監督の豊田泰光、選手兼任投手コーチの稲尾和久による「青年内閣」が誕生する。

1962年[16]、前年に続き前半戦最下位から、後半戦は稲尾和久の復調など投手陣がふんばり、3年連続の3位となる。共に故障を抱えながら欠場した中西太と出場した豊田泰光との間がかみ合わず、オフには豊田は国鉄スワローズへ金銭トレードにより移籍。

1963年[16]、序盤から独走状態だった南海に6月には最大14ゲーム差をつけられ、オールスター戦直前でも10.5ゲーム差であったが、西鉄が8月に6連勝、9月に7連勝と追い上げて、9月末には3.5ゲーム差として、9月末から1分を挟んで9連勝で一時、南海に並ぶ。10月17日に南海が全日程を終了した時点では1ゲーム差で南海が首位、西鉄は残り4試合を、3勝1分以上で優勝、3勝1敗で西鉄と南海が同率でプレーオフを行い、2勝以下だと南海の優勝となる状況で、10月19、20日に共に対近鉄戦ダブルヘッダーが平和台で行われ、19日の第1戦を17対5、第2戦は3対2でそれぞれ勝利。続く20日の第1戦は5対4のサヨナラゲームで3連勝すると、勝てば優勝となる第4戦では若生忠男安部和春の継投で2対0で勝利し、5年ぶり5度目のリーグ優勝となり、福岡時代最後のリーグ優勝となった。14.5ゲーム差の逆転優勝は2013年現在日本プロ野球史上最大。日本シリーズでは稲尾が故障を抱えていた事もあり、巨人に3勝4敗で敗れる。

1964年[19]、序盤首位にたつことはあったが、これまで8年連続20勝の稲尾和久が故障で0勝2敗に終わり、井上善夫ノーヒットノーランを含む17勝、田中勉が15勝を挙げるものの、5年ぶりのBクラスとなる5位に終わる。

1965年[19]、8年ぶりに開幕戦に敗れ、序盤から負け越し、前半戦終了時には首位と26.5ゲーム差となったものの、前年未勝利の稲尾和久が13勝、新人の池永正明が20勝を挙げ、3位となる。

1966年[19]、5月12日の南海戦(大阪)で球団史上初の完全試合を達成した田中勉が23勝、11勝ながら最優秀防御率を獲得した稲尾和久など安定した投手陣に比べ、打撃陣がふるわなかったものの、1963年同様、首位南海が全日程終了時点で西鉄が4試合を残し、西鉄が4連勝すれば同率で南海とのプレーオフとなったものの、初戦の東映フライヤーズ戦に敗れ、優勝を逃し2位に終わる。

1967年[19]、開幕戦から2連続完封勝利を含む5連勝で4月を首位としたものの、5月以降は連敗がつづき8月末には一時5位としたものの、前年同様ふるわない打撃陣だったが、この年最多勝となった池永正明ら投手陣の活躍で2位となる。これが西鉄最後のAクラス入りとなった。

1968年[20]、開幕から4連敗。6月には9連敗で、前半戦終了時点で首位の阪急と12ゲーム差の最下位となる。池永正明が2年連続23勝を挙げるものの、4年ぶりの5位となる。

1969年[20]、5月に9連敗で一時は中西太が監督休養となっている。9月には一時4位まで上がるものの、最終的には5位でシーズン終了。10月、永易将之八百長行為を行ったとして、永久追放処分となり、これが所謂『黒い霧事件』の発端となった。稲尾和久が現役引退し、中西の後任監督に就任。

1970年[20]、開幕直前、前年追放された永易将之が池永正明ら西鉄の6選手[21]が八百長行為を行っていたと暴露した。チームは序盤から5勝10敗と低迷、そのうち4勝が渦中の池永正明が挙げた。5月14日には勝率が2割台まで落ち込む状況となり、5月25日にコミッショナー委員会により池永、与田、益田らに永久追放処分[22][23]がくだり、これにより西鉄は戦力を大きく低下させる(詳細は『黒い霧事件』参照)。投手では東尾修など、打者では東田正義竹之内雅史(トンタケコンビ)などの若手を起用し、東尾は防御率5点台ながら11勝を挙げるが、チームは43勝78敗9分、勝率.355、首位のロッテオリオンズと34ゲーム差の球団初の最下位となる。

1971年[20]、巨人から移籍の高橋明が14勝を挙げるが、それ以外は前年2桁勝利の東尾修と河原明が共に16敗で最多敗になるなど、負け続ける状況が続き、8月21日に高橋善正に完全試合、9月9日には鈴木啓示にノーヒット・ノーランをたてつづけに記録されるなど、全球団に対し10勝できずに15敗以上を喫し、前年を下回る成績で首位の阪急と43.5ゲーム差の2年連続最下位に終わる。

1972年[20]、東尾修が300イニングを投げ18勝、加藤初が17勝を挙げ新人王を獲得するが、チームは47勝に終わり、2年連続全球団負け越して、首位の阪急と32ゲーム差で3年連続最下位に終わり、観客動員数も激減するなど経営が悪化、西鉄は球団経営を手放す事になった。

太平洋時代

1972年11月にロッテオリオンズ中村長芳オーナーが球団を買い取り、「福岡野球株式会社」に商号変更。ペプシコ日本法人(日本のペプシコーラ販売会社)に買収させる案があったが、東映フライヤーズの身売り話が出てきたため(翌1973年2月、日拓ホームに身売りされることとなった)、パ・リーグの現状を危ぶむペプシ側により破談となった。また、東映の買収を検討していた音響機器メーカーのパイオニアに買い取らせることも選択肢に挙げられたが、こちらも実現しなかった。このため、これらの売却を提案した中村が自ら買収した。資金面強化のため小宮山英蔵が創業したゴルフ場開発会社の太平洋クラブと提携し、球団名が太平洋クラブライオンズ(たいへいよう-、Taiheiyo-Club Lions)となる(11月9日のパ・リーグ実行委員会で、会社株式の移動・球団名変更承認を受ける)。

1973年[24]、この年からパリーグは前後期制度となる。開幕戦で新外国人のドン・ビュフォードのサヨナラ本塁打で勝利すると4月を10勝3敗で首位としたものの、その後順位を下げ前期は4位。後期も序盤は良かったが、5位に終わり通年4位に終わっている。この年から翌年にかけてロッテ監督・金田正一との遺恨対決が話題となった。オフにはメジャーリーグ382本塁打のフランク・ハワードを獲得する[25]

1974年[24]、期待されたフランク・ハワードは開幕戦に出場しただけで離脱、5月にはアメリカに帰国している。加藤初が不調で打線に安定感がなく、前期3位、後期は4位、通年では4位に終わり、5年連続Bクラスの責任を取って稲尾は監督を辞任。後任には大洋から江藤愼一をトレードで獲得し、選手兼任監督とした。近鉄から土井正博、日本ハムから白仁天をトレードで獲得

1975年[24]、54人中17人が新戦力となり、新監督・江藤の豪快な野球を目指す方針で、土井正博、白仁天らの打線は「山賊打線」と呼ばれ他球団に恐れられ、前期は2位としたものの、後期は打線に疲れが出て4位。通年では8年ぶりとなるAクラス入りで3位となり、土井は本塁打王、白が首位打者、東尾修が最多勝を獲得した。オフ、メジャーリーグで名将として知られるレオ・ドローチャーを監督に招聘しようとしたが、これに江藤が反発、退団してロッテに移籍。ドローチャーも結局は来日直前に病気で倒れてしまい、来日もしないままに監督就任にならなかった[26]

1976年[24]、3月にヘッドコーチの鬼頭政一が昇格し監督に就任。しかし、前年からのゴタゴタの影響もありこの年は前後期とも6位の最下位に終わる。吉岡悟がプロ入り9年目で初の首位打者。オフにクラウンガスライターに球団買収される事が決定。

クラウン時代

1976年10月12日に桜井義晃率いる廣済堂グループ傘下のクラウンガスライターと提携し、球団名をクラウンライターライオンズCrown-Lighter Lions。本来の社名である「ガス」は球団名が長くなってしまうため入れなかった)と再度改名する(10月15日にパ・リーグより承認)。しかし太平洋クラブからの資金援助が続いていたため、引き続きユニフォームに太平洋クラブのロゴマークが挿入された。

1977年[24]、エースの東尾修、前年11勝の古賀正明が合わせて16勝、移籍してきた山下律夫が12勝でチーム最多勝、本塁打129本はリーグ2位だったが、打率はボブ・ハンセンの.269が規定打席到達者で最高だったなど決定打に欠き低迷。前期6位、後期5位で通年では2年連続6位の最下位に終わる。この年のドラフトでは法政大学江川卓を指名するが入団拒否される。鬼頭政一が監督を辞任、後任には根本陸夫が監督に就任。

1978年[24]真弓明信立花義家など若手がレギュラーとなり、中日から移籍のウィリー・デービスが活躍したものの、23勝した東尾修以外の投手陣の駒不足が明らかで、前期は4位。後期は開幕から10試合で0勝7敗3分けで、その後一時は5割まで到達するものの、優勝争いに加わることなく5位に終わり、総合順位は5位。オフ、球団は西武鉄道グループ国土計画に買収されることになる。

所沢時代

根本監督時代

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パ・リーグ優勝 ペナント
1983年-1985年-1986年-1987年
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パ・リーグ優勝 ペナント
1997年-1998年-2002年

1978年レギュラーシーズン終了後の10月12日、廣済堂クラウン[27]がライオンズ球団の売却・埼玉県所沢市への移転を発表[28]国土計画堤義明社長(当時)がクラウンライターライオンズを買取り、西武ライオンズSeibu Lions)となる。堤の媒酌人福田赳夫が名誉会長就任。

10月17日、球団事務所を東京都豊島区東池袋サンシャイン60内に開設。10月25日、運営会社の商号を福岡野球株式会社から、現在の「株式会社西武ライオンズ」に変更。12月5日、ペットマーク・シンボルカラーの発表。12月18日当時建設中であった新本拠地球場の名前が西武ライオンズ球場に決定。堤は新球団の目玉にロッテ・野村克也山崎裕之、阪神・田淵幸一を獲得。クラウン時代の77年ドラフトで指名し交渉権を得た江川卓入団にも執念を燃やしたが失敗。これにより読売グループとの関係悪化(江川事件

1979年に西武ライオンズとして最初のシーズンは、春季キャンプでの調整失敗もあり前期は開幕から2引き分けを挟み12連敗を喫するなど最下位、後期も5位で、通算成績も最下位であった。

1980年は前期最下位、スティーブ・オンティベロスが加入し、打線が強化された後期は9月に首位に立つが終盤6連敗し、後期優勝を逃し結局4位となった。通算でも4位。

1981年は前期は終盤まで優勝を争うも惜しくもロッテに敗れ2位。だが後期は失速して5位に沈む。通算では4位。このシーズン限りで根本陸夫が監督退任。

広岡監督時代

1982年は、この年より監督に就任した広岡達朗の下、チームの改革を実施。その効果はすぐに現れ、前期優勝を果たす。後期は序盤躓くと残り試合をプレーオフ対策に費やし、1982年のパシフィック・リーグプレーオフでは後期優勝の日本ハムの江夏豊を攻略し、3勝1敗でプレーオフを制し、19年ぶりのリーグ優勝を達成。日本シリーズでも中日ドラゴンズを4勝2敗で破り、チームとして24年ぶり、西武としては初の日本一を達成。

1983年は、序盤から首位を独走、86勝40敗4分の圧倒的な成績[29]で2年連続リーグ優勝、日本シリーズは巨人に4勝3敗で勝利し、2年連続日本一を達成。

1984年は、田淵幸一や山崎裕之など2連覇を支えたベテラン選手が衰え序盤から低迷し、3位に終わる。このシーズン終了後、田淵、山崎が現役を引退。

1985年中日ドラゴンズ田尾安志をトレードで獲得。5年目の秋山幸二がホームラン王を争い、投手陣では2年目の渡辺久信、4年目の工藤公康が主力投手となるなど若い力が台頭、2年ぶりのリーグ優勝を果たす。しかし、日本シリーズでは阪神タイガースの前に2勝4敗で敗れる。シーズン終了後、広岡が自身の健康問題(痛風)などを理由に契約年数を1年残して監督を辞任する。後任には1982年から1984年まで広岡の下、ヘッドコーチを務めた森昌彦が就任。この年のドラフトで、甲子園通算本塁打記録を持つPL学園清原和博を6球団競合の末[30]、交渉権を獲得している。

森監督時代

1986年からの森祇晶(昌彦より改名)監督時代は投打ともに戦力(秋山幸二、オレステス・デストラーデ清原和博石毛宏典伊東勤辻発彦平野謙田辺徳雄タイ・バンバークレオ安部理など)が揃い、特に渡辺久信最多勝利投手1986年、1988年、1990年、勝率第1位1986年)、郭泰源シーズンMVP1991年、勝率第1位1988年、1994年)、工藤公康(シーズンMVP1993年、勝率第1位1987年、1991年、1993年)、石井丈裕(シーズンMVP、勝率第1位、沢村賞1992年)、渡辺智男最優秀防御率1991年)、鹿取義隆最優秀救援投手1990年)などを擁した投手陣や、AK砲と呼ばれた秋山・清原の打力は目立っていた。森監督在任中の1986年~1994年の9シーズンで8度のリーグ優勝(唯一優勝を逸した1989年は、優勝した近鉄バファローズに勝率2厘差、さらに2位のオリックス・ブレーブスに勝率1厘差の3位)、6度の日本一(1993年ヤクルトスワローズ、1994年は読売ジャイアンツに敗れてリーグ優勝のみ)を達成した。

1986年はドラフト1位で入団した清原和博らの活躍で近鉄とのデッドヒートを制し、2年連続のリーグ優勝。日本シリーズでは広島東洋カープと対戦するが、第1戦で引き分け3連敗とした後、第5戦から日本シリーズ史上初の第8戦までの4連勝で逆転勝利。3年ぶりの日本一に輝く。

8月5日に球団事務所を現在の西武球場敷地内に移転。球団の諸施設(事務所・本拠地球場・練習場・合宿所)が全て埼玉県所沢市上山口に集まった(会社の登記上本店は、引き続きサンシャイン60と同地に残る)。

1987年は序盤は清原和博の不振、辻発彦や渡辺久信など故障者続出で苦戦するが、徐々に盛り返して8月に首位・阪急を逆転、3年連続のリーグ優勝。日本シリーズでは巨人と対戦、4勝2敗で勝利し2年連続日本一[31]

1988年は終盤まで首位を快走するが近鉄の猛追にあう。近鉄が10月19日のロッテ戦ダブルヘッダーに連勝するとリーグ4連覇を逃すところであったが、近鉄がダブルヘッダー第2試合を引き分けたことにより4連覇を達成。日本シリーズでは4勝1敗と中日に勝利、3年連続日本一。

1989年は序盤から低迷、7月途中まで3連勝すらない状況であった。後半戦は巻き返し、9月には首位に立つが10月12日の近鉄とのダブルヘッダーでラルフ・ブライアントに4打席連続ホームランを打たれるなどして連敗したのが大きく響き、近鉄に優勝を許しリーグ5連覇を逃す。結果は、優勝した近鉄、2位のオリックスと0.5ゲーム差の3位。

1990年は3年連続最多セーブ数が一桁だった反省を生かし、リリーフ陣の強化を図る。巨人から鹿取義隆、ドラフトで潮崎哲也を獲得。この二人がリリーフ陣を支え序盤から首位を独走、6月に8連敗した以外は安定感ある戦いでリーグ優勝を奪回。日本シリーズでは巨人を4連勝で破って、2年ぶりの日本一達成。

1991年は開幕から8連勝を果たす。独走と思いきや、中盤からは調子を上げてきた近鉄との一騎打ちとなる。しかし、9月に12連勝して近鉄を突き放し2年連続のリーグ優勝。日本シリーズでは広島と対戦。先に2勝3敗で王手をかけられるも、第6・7戦で勝利し4勝3敗、逆転で広島を破って2年連続日本一。

1992年は6月に近鉄を抜いて首位に出るとそのまま独走し、3年連続リーグ優勝、日本シリーズでもヤクルトを4勝3敗で破り3年連続日本一[32]

1993年はオレステス・デストラーデがメジャー復帰のため退団、攻撃力低下が懸念されたものの、日本ハムとの争いを制して4年連続リーグ優勝、しかし、日本シリーズではヤクルトに3勝4敗で敗れた。オフ、福岡ダイエーホークス秋山幸二渡辺智男内山智之と、佐々木誠橋本武広村田勝喜による3対3の交換トレードが成立する。

1994年はオリックス、近鉄、ダイエーとの優勝争いになるが西武が9月に抜け出すとそのままリーグ優勝、パ新記録のリーグ5連覇を果たした。しかし、日本シリーズでは巨人に2勝4敗で敗れ、2年連続のシリーズ敗退。森はこの年限りで監督を勇退。

東尾監督時代

1995年東尾修が監督就任。しかし、石毛や工藤公康といった黄金期の主力メンバーが次々とダイエーに移籍し戦力が低下、残った主力もベテランが増え成績が低迷。序盤は優勝争いに加わっていたが首位オリックスに大幅に負けて独走を許し、更に快進撃したロッテに追いつくことができず、結果3位に終わり連続優勝も途絶えた。

1996年、序盤から低迷しBクラスをさまよっていたが、西口文也が最多勝にあと少しの活躍などもあり、終盤の猛攻で借金持ちではあったが、2年連続の3位に終わる。4番として活躍した清原も1996年シーズン後にフリーエージェントで巨人に移籍した。

1997年松井稼頭央大友進髙木大成といった若手の台頭もあり3年ぶりにリーグ優勝。しかし、日本シリーズではヤクルトに1勝4敗で敗れ日本一を逃す。

1998年、日本ハムとの熾烈な首位争いを制し、リーグ2連覇を達成。[33]日本シリーズでは、横浜ベイスターズと対戦。2勝4敗で敗れている。ドラフトでは、この年の高校野球春夏連覇を果たした横浜高校松坂大輔を1巡目指名。日本ハム、横浜との競合の末、抽選で交渉権を獲得している。1999年には西武ドームが完成、松坂人気などもあり観客動員数増加、テレビ中継増加と世間の注目を集める。

しかしチーム成績は、1999年は優勝したダイエーと4ゲーム差の2位、2000年は優勝したダイエーと2.5ゲーム差の2位、2001年は優勝した近鉄と6ゲーム差、2位のダイエーとは3.5ゲーム差の3位と3年連続で僅差で優勝を逃した。

伊原監督時代(第一次)

2001年を最後に東尾修が監督を勇退し、同年のシーズンオフ、伊東勤が後任の監督として候補に挙がったが、伊東が現役続行を希望したため伊原春樹ヘッドコーチが監督に昇格。伊東は総合コーチ兼捕手に昇格。2002年、開幕直後から首位を独走しリーグ優勝、アレックス・カブレラが球団新記録・当時の日本プロ野球タイ(右打者としては当時史上最高)記録のシーズン本塁打55本。しかし日本シリーズは巨人に4連敗した。

2002年の西武の開幕戦は西武主催試合だが、西武ドームではなく札幌ドームで行った。札幌で行った理由は、NPBが全国各地の主要6都市(札幌、東京名古屋大阪広島福岡)で開幕戦を行う事を目的とした事に加え、札幌ドームの建設に当時の西武ライオンズ球団の親会社であるコクドが携わっていたからである。
西武は札幌ドームを翌2003年から準本拠地として使用し、年間20試合程度開催することを企画していた。ところが、2002年のシーズン開幕前に、当時東京ドームを本拠地にしていた日本ハムが2004年から札幌ドームを本拠地として使用する計画を発表した。上記の企画をしていた西武は一旦はこれに難色を示したものの、2002年6月に他チームの公式戦も開催できることを条件に日本ハムの札幌ドーム本拠地化に同意した。しかし結局2003年は、当初20試合程度の予定であった西武の主催試合は6試合しか行われず、2004年以降は、西武の札幌ドームでの主催試合は行われていない。[34]
日本ハムは札幌移転の2004年以降も公式戦の年間数試合を、準本拠地として東京ドームで開催しているが、西武は東京ドームでの日本ハム主催試合に関しては、日本ハムの札幌ドーム移転前の2003年9月28日の試合を最後に行われていない。[35] また、西武の東京ドームでの主催試合は行われていない。

2003年はダイエーと優勝を争ったが最終的に2位に終わった。同年シーズン終了直前に伊東が現役引退を表明し、同時に監督就任を承諾。伊原は退任し、オリックスの監督に就任した。

伊東監督時代

ファイル:Saitama Seibu Lions in Seibu Dome November 23-2007-01.jpg
2007年ファン感謝の集い・渡辺監督の就任挨拶風景。(西武ドーム)

2004年、レギュラーシーズンは総合2位であったが、この年導入されたプレーオフの第1ステージにおいて日本ハムを2勝1敗で破り、続く第2ステージではダイエーを3勝2敗で破り2年ぶり20回目の優勝を果たす[36]日本シリーズでは、中日と対戦。先に王手をかけられるものの、4勝3敗で12年ぶりの日本一に輝いた。この年、経営改善策の一環として、本拠地・西武ドームの施設名称と二軍のチーム名称について命名権を売却することとなった。企業向け通信料金一括請求サービスを主たる事業としているインボイスが取得に名乗りを上げ、12月29日に二軍の命名権を3年契約で取得することに合意した。

2005年シーズンから二軍の球団名を「インボイス」、球場名を「インボイスSEIBUドーム」とすることを発表した。レギュラーシーズンは総合3位、プレーオフでロッテに敗れた。シーズンオフ、当時の親会社コクドの事業不振に加え、コクドの系列会社で現在の親会社である西武鉄道の有価証券報告書虚偽記載問題に端を発した西武鉄道株の急落・上場廃止により財務体質の悪化が進行したため、西武グループの経営再建を目指すべく、コクド側が球団売却を行う方針となった。売却を2004年の球団の新規参入を楽天と争って敗れたライブドアなど複数の企業に打診したが、売却額が200億から250億と予想されていた上、西武ドームの継続使用が条件であったため交渉はまとまらず、結局2005年西武ライオンズとして引き続き経営された。西武グループの再建計画の中で球団の赤字が解消されなければ2005年シーズンオフに再び球団売却を検討するとしていたが、2006年以降も球団を保有することとなった。2005年11月23日に「ファン感謝の集い」が1980年以来、25年ぶりの開催となった(以後、毎年同日に開催する)。

2006年、日本ハムとのシーズン1位争いの末、最終戦までもつれるが、わずか1ゲーム差で2位に終わる。プレーオフでも、福岡ソフトバンクホークスに1勝2敗で敗退となった。同年12月2日、西武は任期満了となったインボイスに代わり人材派遣介護サービス大手のグッドウィル・グループ(現 アドバンテージ・リソーシング・ジャパン)と5年間の命名権取得契約に合意し、西武ドームを「グッドウィルドーム」、二軍のチーム名称を「グッドウィル」に変更することを発表。同月4日の実行委員会で正式に承認され、2007年1月1日から改称した。

2007年1月17日太田秀和球団社長兼オーナー代行(当時)が埼玉県庁を訪問し、埼玉県知事に2008年より球団名に地域名を入れる方針であることが報告された。この段階では「埼玉ライオンズ」もしくは「所沢ライオンズ」が最有力候補だが、"武蔵国の西部"として地域名を表現する球団会社名の「西武ライオンズ」も候補になっていた。また、2008年以降、さいたま市の埼玉県営大宮公園野球場で一軍の公式戦やクライマックスシリーズを開催する方針であることも伝えられた。

チームは交流戦で10連敗を記録するなどして低迷。9月26日、対ロッテ戦に敗れた時点で26年ぶりのBクラスが確定し、連続Aクラスの日本プロ野球記録(25年連続Aクラス)が途切れ、最下位オリックスから2.5ゲーム差の5位に終わる。シーズン最終戦の直前、伊東は不振の責任を取り辞意表明し、シーズン終了と同時に監督を退任。

11月6日、2008年より「埼玉西武ライオンズ」と球団名を変更することをプロ野球実行委員会に申請し、2007年11月14日のプロ野球オーナー会議で承認され、球団名が正式に変更された。これにより、保護地域である埼玉県の球団であることを明確にし、地域密着を図る。

12月にグッドウィルの不祥事が発覚し、グッドウィル・グループは西武球団に2軍チームと球場の命名権の契約解除を申し入れ、同球場を所有する西武鉄道とライオンズ球団側もそれを受け入れ、命名権取得契約を解除することを決めた。2008年1月8日、正式に命名権契約の解除が発表され、1月9日より、本拠地名称が「西武ドーム」、二軍のチーム名称が一軍同様「埼玉西武ライオンズ」となることが発表された。

渡辺監督時代

2008年
1月1日付で球団名を埼玉西武ライオンズに変更(運営会社は「株式会社西武ライオンズ」のまま)。渡辺久信が二軍監督から一軍監督に昇格し、黒江透修をヘッドコーチに、大久保博元を打撃コーチにするなどコーチ陣を一新。その結果、打撃力がアップし、渡辺はNo Limit打線と名付けた。8月11日には西鉄クリッパース創設以来通算4000勝を達成。これは日本プロ野球では6球団目(2リーグ分裂後にできた球団の中では初)の記録であり、2リーグ分裂後の4000勝は読売ジャイアンツに次いで2球団目である。4月に首位になって以来一度もその座を明け渡さず、9月26日、埼玉西武ライオンズとなって初めての年で4年ぶり21回目のリーグ優勝を決めた[37]
クライマックスシリーズでは、日本ハムとファイナルステージで対戦。4勝2敗で2004年以来、4年ぶりの日本シリーズ出場を決めた。巨人との日本シリーズでは、先に巨人に2勝3敗で王手をかけられたものの、その後連勝し、4勝3敗で4年ぶりの日本一達成[38]アジアシリーズでは決勝戦の台湾の統一ライオンズ戦をサヨナラ勝ちで初優勝を達成。
2009年
1月1日、公式ホームページにて、チームカラーがこれまでのライトブルーから紺(レジェンド・ブルー:西鉄の黒と西武の青の合体)に変更され、ペットマーク、チームネームロゴ、ユニフォームも変更されることが発表された(ただし、球団旗およびマスコットは変更しない)。1月28日、新ペットマークおよびチームネームロゴを用いた公式戦用新ユニフォームが発表された。この年より西武ドームの3塁側をホームとする事も発表されている[39]
2009年、昨シーズンの守護神であったグラマンの離脱などにより、リリーフ投手に安定感がなく、リーグワーストの14試合のサヨナラ負けを喫する。それでも終盤には帆足和幸が4試合連続完投勝利するなど先発投手陣が踏ん張り、楽天やソフトバンクなどと激しくAクラス争いをするが、最終的な順位は4位に終わった。前年日本一からBクラスへの転落は球団として50年ぶりとなる。ドラフト会議で花巻東高校の菊池雄星との交渉権を阪神、ヤクルト、楽天、中日、日本ハムとの6球団による競合の末、獲得。
2010年
前半はリリーフ投手が安定し、主力選手の故障が相次ぎながらも前半戦を首位で折り返す。しかし、終盤にリリーフ投手陣が崩壊して失速し、優勝したソフトバンクにわずか2厘差の2位に終わる。クライマックスシリーズも投手陣の崩壊は止まらず、ロッテ2連敗で敗退。ドラフトでは1位希望の早稲田大学の大石達也を横浜、楽天、広島、オリックス、阪神との6球団による競合の末、獲得。
2011年
東日本大震災による計画停電の影響を受け、4月中は本拠地西武ドームでの試合を自粛する事となった[40][41]セパ交流戦の後半から失速し、8月終了時点で最大借金15を経験して最下位に低迷する。しかし9月は19勝5敗2分の成績で[42]、クライマックスシリーズ出場権をめぐる3位争いに加わった。10月18日の最終戦前まで4位であったが、最終戦で勝利し68勝67敗9分で勝率.50370となり、前日まで3位だったオリックスが同日に敗戦して69勝68敗7分、勝率.50365となってシーズンを終了したため勝率を5(0.5)上回り、シーズン3位が確定しクライマックスシリーズ出場を決めた[43]クライマックスシリーズでは、ファーストステージで日本ハムに2連勝するが、ファイナルステージではソフトバンクに3連敗で敗退。オフには、FA移籍で帆足和幸がソフトバンクに、許銘傑がオリックスにそれぞれ移籍。
2012年
5月1日、稲尾和久の背番号「24」を永久欠番とすることを発表[44]、7月1日の西武ドームでの対日本ハム戦にはメモリアルゲームとしてこの試合に出場した選手全員が背番号24を着用した[45]
[46]開幕戦は5年連続で涌井秀章が先発するものの、敗戦投手となり涌井は開幕から3連敗で4月16日に登録抹消、チ-ムも最大借金9を抱えて最下位と低迷した。涌井が救援投手に回り、6月以降は勝ち越すようになり8月までの3カ月で貯金を19とし、8月19日に首位に立つ。日本ハムとの優勝争いとなったが、10月2日の試合に敗れたことで優勝を逃し[47]、3ゲーム差の2位に終わる。クライマックスシリーズでは、ファーストステージでソフトバンクに1勝2敗で敗れ、3年連続のクライマックスシリーズ敗退[48]。中村剛也が本塁打王を獲得。オフには、中島裕之が海外FA権を行使し、メジャーリーグのオークランド・アスレチックスに入団[49][50]
2013年
リーグ一番乗りで10勝に到達するなど開幕ダッシュに成功したものの[51]、5月9日、ロッテに連敗したことで4月10日から守り続けた首位を明け渡し[52]、交流戦開始後の同月22日には楽天に抜かれ3位に転落[53]、6月8日には交流戦で優勝したソフトバンクにも抜かれて4位に後退、結局交流戦は11勝13敗で同率8位でパ6球団では最下位に終わり[54]、6月29日には最大9あった貯金が一旦なくなる[55]。7月28日には再び2位浮上するが[56]、8月15日にソフトバンクに3連敗した時点で4位に転落[57]、その後3位ソフトバンクに最大5ゲーム差をつけられたが[58]、10月3日にソフトバンクとの直接対決で連勝したことにより再度3位浮上、[59]10月5日に対楽天戦(Kスタ宮城)で2対1で勝利した事で年間3位以上を確定し、4年連続でクライマックスシリーズに進出が決定[60]。10月8日、共にシーズン最終戦の西武ドームでの2位ロッテとの直接対決を10対2で勝利し8連勝で2位浮上、本拠地でのCSファーストステージ開催権を獲得した[61]が、CSファーストステージは1勝2敗でロッテに敗退し[62]、ファーストステージ終了翌日の10月15日、渡辺久信が球団に監督を辞任する事を申し入れ、了承された事を発表[63]、渡辺久信は球団シニアディレクターに就任することとなった[64]10月22日、渡辺の後任には2002年から2年間西武の監督をつとめた、伊原春樹の就任が発表された[65]

伊原監督時代(第二次)

※ 田辺徳雄監督代行時代含む

2014年
開幕から3連敗スタートで、5月25日には両リーグ最速の30敗に到達するなどチームは最下位に低迷。6月3日に伊原は自ら休養を申し入れ、球団はこれを了承、翌6月4日のシーズン53試合目の対DeNA戦後に、伊原の休養と監督代行に打撃コーチの田辺徳雄の就任を発表[66]。6月27日、伊原からの辞任の申し入れによる監督退任と、伊原の7月1日付での球団本部付アドバイザーへの就任を発表した(田辺の監督代行職はそのまま)[67]

チーム成績・記録

ファイル:Seibu Lions Ranking.svg
1950年以降の順位の変遷。赤い丸は日本シリーズ優勝を示す
  • リーグ優勝 21回(その内、年間最高勝率は下記のうち1982年と2004年除く19回)
    • (1954年、1956年~1958年、1963年、1982年~1983年、1985年~1988年、1990年~1994年、1997年~1998年、2002年、2004年、2008年)
  • 日本一 13回
    • (1956年~1958年、1982年~1983年、1986年~1988年、1990年~1992年、2004年、2008年)
  • クライマックスシリーズ優勝 1回
    • (2008年)
  • 前期優勝 1回
    • (1982年前期)
  • Aクラス 44回
    • (1951年~1952年、1954年~1958年、1960年~1963年、1965年~1967年、1975年、1982年~2006年、2008年、2010年~2012年)
  • Bクラス 19回
    • (1950年、1953年、1959年、1964年、1968年~1974年、1976年~1981年、2007年、2009年)
  • 連続Aクラス入り最長記録 25年[日本プロ野球記録](1982年~2006年)
  • 連続Bクラス最長記録 7年(1968年~1974年)
  • 最多勝 96勝(1956年)
  • 最多敗 84敗(1971年)
  • 最多引分 14分(1959年、1987年)
  • 最高勝率 .683(1983年)
  • 最低勝率 .311(1971年)

※1982年度は日本ハムとのプレーオフを制して優勝。2004年度はレギュラーシーズン2位ながらプレーオフで3位・日本ハムを2勝1敗、1位・ダイエーを3勝2敗でそれぞれ破り優勝。

その他の記録

  • 最小ゲーム差 0.0ゲーム(2010年)
  • 最大ゲーム差 43.5ゲーム(1971年)
  • 最多本塁打 219本(1980年)
  • 最少本塁打 63本(1951年)
  • 最高打率 .281(1986年、1997年)
  • 最低打率 .222(1967年)
  • 最高防御率 1.87(1956年)
  • 最低防御率 4.60(1979年)
  • 最多連勝 14(1957年)※2引き分けを挟む
    • 引き分けを挟まない連勝記録は11(1954年、1994年)
  • 最多連敗 12(1979年)※2引き分けを挟む
    • 引き分けを挟まない連敗記録は10(1978年、2007年)

チームの特徴

テンプレート:出典の明記

  • 西鉄時代は三原・川崎徳次以外はチームの出身者が監督を務めた。太平洋・クラウン時代、西武時代は長らく外様監督が続いたが、1995年の東尾修以降は、伊原春樹伊東勤渡辺久信とチームの出身者の監督が続いている。
  • 西鉄黄金期の三原時代はトレードに消極的だった(ただし、広島に移籍した大和田明近鉄に移籍した大津守のように、このままチームにいても出場機会に恵まれないと思われる選手を他球団に移籍させることはあった)のに対し、西武黄金期の根本・広岡・森時代は大型トレードを敢行。対照的な手法で黄金時代を作り上げた。

福岡時代

  • 戦時中の1943年に職業野球に参加していた西鉄軍は、親会社こそ同一企業(西鉄)だがチームとして直接の繋がりはなく、西鉄クリッパースは戦後一から作り直した球団である。
  • 西鉄クリッパースのニックネームの由来は、ニックネームを公募したところ、親会社だった西鉄が当時パンアメリカン航空の日本販売代理店だったことから、パンナム機の愛称「クリッパー」から採用されたと言われる[68]
  • 西日本パイレーツの吸収合併に伴い1951年より採用した「ライオンズ」はライオン(獅子)から取ったもので、やはり公募による。西鉄時代から変わることなくニックネームとして定着している。ちなみに西日本パイレーツと合併した時には「ターザン」が流行していたため、愛称の最終選考には「ターザンズ」も残っていたという。
  • 1953年には中西太平和台野球場のセンターバックスクリーンを越える、推定160mとされる大ホームランを放った。この他にも中西は多くの逸話を残しており、「野武士軍団」西鉄ライオンズの看板選手たる人物だった。
  • 西鉄全盛期というと「宿舎での女湯のぞきは当たり前、無断で他の選手のビールをスポーツ新聞の記者におごったり、博多どんたくの前日に仮装行列で繁華街を練り歩いたり…」といった数々の武勇伝が語り継がれているが、選手同士の仲は良いというよりも逆に悪すぎる(言い換えれば、馴れ合いが決してない)ほどで、たとえレギュラーであっても細かいミスを犯した選手に対しては容赦なく味方ベンチから罵声が飛んだ、大事な試合でエラーを犯した高倉照幸が、試合後全選手の前で土下座した(次の試合で高倉は名誉挽回の活躍をする)、全く試合に起用されない選手が、冴えないプレーをしたレギュラー陣に「俺の代わりに試合に出ていることを解っているのか」と説教したなど、エピソードには事欠かない。豊田泰光は「三原のオヤジの采配もさることながら、この雰囲気があったからこそ、3年連続日本一を達成できた」と述懐している。
  • 黒い霧事件以降は成績も低迷し、経営も逼迫していた。練習では球場外に飛んだファールボールを拾ってきては汚れを消しゴムで消して使い回すという有様だった。当時、巨人から移籍してきた関本四十四が若手の使っているバスタオルがぼろぼろなので自分が持っているものをあげると皆喜んでいたと述懐している。そんな状態だったので所沢に移転してエアコン完備の西武球場のベンチに入った選手は異様に驚いたという。

所沢時代

  • 所沢移転以降、「西武」を名乗っているが、元々は西武グループの意味であり、直接の球団親会社は1978年に旧クラウンライターライオンズを買収した国土計画(後のコクド)、2006年の西武グループの再編時にはコクドを吸収したプリンスホテルであった。しかし、2008年から本格化している地域密着の強化を目的として、2008年11月21日のプロ野球オーナー会議において、球団の親会社を所沢市内に移転していた西武鉄道に変更することが承認された[69]
  • 西武になってからの球団シンボルマークは、西武線沿線にゆかりが深い手塚治虫の『ジャングル大帝』の主人公・レオを採用している。肖像権料は1億円という。
    • 作者の手塚によると、堤オーナーから直接「引退中のジャングル大帝レオを球団マークとして復帰させてみる気はないですか」との連絡があり、さらに「子供のレオではなく、大人になってからのレオに衣服(ユニフォーム等)を着用させて使いたい」との意向も示され[70]、球団マスコットとしてレオが(人型で)登場した。発表後、手塚の周囲では「あれはレオじゃなくて父親のパンジャじゃないか。パンジャ球団にでもするのか」などと冷やかされたという。マスコットには他に女性キャラのライナがいるが、こちらは球団としてのオリジナルキャラクターとなるため、鼻の頭の色や目の大きさ等何度も作りなおした末に仕上げ、思い出深いキャラクターになったという。実際その後、手塚の自室では様々なライナの失敗作を飾っていたとのこと[71]。共に当初は背番号無し(のちにユニフォームのスポンサー・ナイキのロゴが入る)。また、このマスコットは「異競技交流」の一環として、2003-2004年シーズンに西武鉄道アイスホッケー部を統合したコクドアイスホッケーチームにも使用された(チームが西武プリンスラビッツとなった2006年からは使用せず)。
    • このレオの名前は共通SFカードシステム「パスネット」に加盟する西武鉄道のプリペイドカードの名称にも使用されていた(SFレオカード
  • 2003年までのホーム用で使用されていたユニフォームによる白地に緑・青・赤のストライプを配した塗装は「ライオンズカラー」と呼ばれ、ユニフォームの変わった現在でも西武4000系電車西武8500系電車や西武グループに所属する西武バス伊豆箱根鉄道近江鉄道のバスなど様々な場所で使用されている。このユニフォームは2009年の「ライオンズ・クラシック2009」企画で再び着用された。
  • 宣伝広告やチケットなど長らく自軍は「ライオンズ」、相手は企業名で表記する(例:「ライオンズ対ロッテ」)ことが多かった。
  • 西武鉄道の駅においては、試合のスコア速報を掲示板にて示している。かつては上記のように自軍表記は「ライオンズ」、相手は企業名であったが、近年は球団ロゴを使用する形となっている。
  • 西武鉄道の車内中吊りや駅では勝利試合や入団会見などの写真(基本的に白黒写真)を「ライオンズニュース」の名で掲示していた。特に勝利した試合の写真は、翌日には車内に掲示されるようになっていた。
  • 1982年に西武としてリーグ初優勝以来、2006年まで日本プロ野球新記録となる25年連続Aクラス入りを達成した。それ以前、黒い霧事件が発生する前の1968年から西武発足3年目だった1981年までの14年間ではAクラス入りが太平洋時代の1975年に1回(3位)しかなかった。
  • パ・リーグでは唯一、セ・リーグに現存する6球団全てと日本選手権シリーズで対戦している。そのうち、中日ドラゴンズ読売ジャイアンツ広島東洋カープヤクルトスワローズの4球団には勝利したが、広島以外の5球団には敗北した経験がある。またこの6球団全てと対戦した事実を生かし、2011年の交流戦で「交流戦OB対決」と称して西武(投手)とセ・リーグ6球団(打者)のOB同士による始球式1打席対決を行った。

球団旗の変遷

テンプレート:出典の明記

球団旗(一軍)

福岡時代
  • 1950年 - 上が青・下が黄色のセパレート型。上に西鉄の社章。下に青字で「CLIPPERS」。書体は前述の事情でパンアメリカン航空が使用していたものとなる。
  • 1951年~1972年 - 球団名が西鉄ライオンズへの変更に伴い「CLIPPERS」の部分を「LIONS」に変更。書体は数度にわたって変更されている。
  • 1973年~1976年 - 球団買収により、球団名が太平洋クラブライオンズへの変更に伴い、上が青・下が赤のセパレート型、間に白の細い線。上には太平洋クラブの社章。下には白文字の筆記体で「Lions」。
  • 1977年~1978年 - メインスポンサーがクラウンガスライターとなり、球団名がクラウンライターライオンズへの変更に伴い、上が赤・下が青のセパレート型と太平洋時代のものとは上下反対に、中心の白線が太くなる。中心の白地に青文字で「CROWN LIGHTER」の文字。上に王冠と「C」を模したクラウンのマークが入った。白文字の筆記体で「Lions」のロゴが大きくなる。
所沢時代
  • 1979年~ - 西武グループが買収し、球団名が西武ライオンズへの変更に伴い、ライオンズブルー(水色)が地色。中央に手塚治虫デザインの「レオマーク」。上に白文字で「SEIBU」、下に白文字の筆記体で「Lions」。総合デザインはユニフォームを含めて細谷巖が担当。

球団旗(二軍)

  • 2005年~2006年 - 二軍の球団名がインボイスに変更され、白地にインボイスのマーク。
  • 2007年 - 二軍の球団名がグッドウィルに変更され、白地にグッドウィルのマーク。

ユニフォームの変遷

テンプレート:出典の明記

ユニフォーム(一軍)

西鉄時代

ファイル:Nishitetsu Kosoku bus Lions Express01.jpg
西鉄ライオンズ時代のマークとロゴを使用している西鉄高速バスLions Express
  • 1950年~1951年 - 紺に黄色の縁取りで「CLIPPERS」。グレーの縦縞に「FUKUOKA」のマークもある。西鉄ライオンズになってからロゴが「Lions」に変わった以外、変更点はない。1950年は帽子のマークは黄色の「N」と紺の「C」の組み合わせで、翌1951年はペットネーム変更により「L」となった。
  • 1951年~1952年 - 濃紺で「LIONS」と書かれたロゴが登場。黄金期の象徴だった「NISITETU」マークが初登場。しかし、ストッキングの評判が悪くビジター用は1年で廃止。
    • 1952年当時のユニフォームは、その後もしばらく二軍・練習用に使用された。
  • 1952年~1954年 - ブルーグレーの縦縞を採用したユニフォームとなる。同時に、西鉄晩年まで使われていた「Lions」のブラックレター(飾り文字)が登場。
  • 1954年~1961年 - 黒色の帽子・ライン・レターを基調とした、後の西鉄黄金期を象徴するデザインが登場。また、胸ロゴ「Lions」はiの黒点が取れるなどのマイナーチェンジ、帽子マークは従来のNマークからNとLを重ねたマークに変更された(以来、NLマークは'60~'61年を除き、西鉄売却まで使用)。このユニフォームは日本シリーズから使用された。1958年シーズン途中からビジター用胸マークが「FUKUOKA」となった。1960年には袖番号が装着され、帽子マークはLの飾り文字になった。
  • 1962年1965年 - ホーム用のラインをWラインに変更。また、袖番号に変わり、球団史上初の胸番号を採用。また、ビジター用は、ラインが少し太くなった。
  • 1966年1970年 - ユニフォームにオレンジが登場(帽子マーク、ライン・レターの縁取り)。球団史上初の背ネームを採用。
    • 1968年途中にはビジター用のロゴが親会社の「NISHITETSU」となり、左袖には立ち姿のライオン西鉄グランドホテルのマークと同デザイン)を入れたワッペンを装着。
    • 1969年には背ネームが除外。番号がゴシック体風書体となる(公式戦使用終了後も、練習用として使われ、西鉄最終年のみ在籍していた榎本喜八がビジター用を着ている写真が残っている[72])。
    • 1970年には左袖に1本足を突き出すライオンのイラストワッペンが装着。ビジター用がブルーグレーに変更、また、ビジター用の胸のロゴが1951年 ~ 1958年途中まで使用されていた「NISITETSU」マークに変更される。
  • 1971年1972年 - パンツと袖口がWラインとなり、ワッペンのライオンが2本足に変更される。これが西鉄最後のユニフォームとなった(なお、太平洋クラブライオンズ初年度の1973年春季キャンプ、オープン戦までは引き続き西鉄のユニフォームを着用していた)。

太平洋時代

ファイル:Hiroyuki Nakajima 2010.jpg
太平洋時代の復刻ユニフォームを着る中島裕之(2010年)
  • 1973年1975年 - メインスポンサーが太平洋クラブとなり、ホーム用は帽子・上着(球団初のプルオーバー)・パンツ(球団初のベルトレス)に白を基調としたデザインとし、ビジター用には日本初の原色カラーのユニフォーム(上下ツートンカラーとしても日本初〔上は赤、下は白をそれぞれ基調としたデザイン〕)が登場。同時期に袖が赤いホーム用、ビジター用の上着がブルーというデザインも存在した。ホーム用は背番号の上に「TAIHEIYO CLUB」、ビジター用には「FUKUOKA」。帽子は、ホーム用が白地につばは青、ビジター用は青地に赤のつばと赤地に青のつばの2種類。帽子マーク・左袖に、太平洋クラブのシンボルマーク(社章)。
  • 1976年 - 前期のものは最初で最後のアメフト風ユニフォーム。ベースカラーはワインレッドで、近鉄同様にラグランスリーブスタイルを採用し左袖には「FUKUOKA」、右袖にはライオンのイラストワッペンが付く。帽子はワインレッドに青の鍔でマークは「L」と「T」の組み合わせ文字。袖・ベルト・パンツのラインは青地に白2本のストライプ。ユニフォーム前面にアメフトのユニフォームよろしく大きく番号が入った。しかし、「身売りへの準備」と勘ぐられるなどの悪評から後期は「Lions」のロゴが、ビジター用は「TAIHEIYO CLUB」のロゴがそれぞれ復活。いずれも背番号の上には選手名が入った。

クラウン時代

  • 1977年1978年 - メインスポンサーがクラウンガスライターとなり、帽子も赤地に前部が白となって「C」と「L」の組み合わせ文字に変更。ユニホームも白地に赤文字をベースとしたユニホームにモデルチェンジ。ビジター用はライトグレー地に赤文字となり「CROWN LIGHTER」の二段文字となる。ホーム用のみ、王冠と「C」を模したクラウンのマークが胸番号の代わりに入った(マークを使用しないビジター用にも胸番号はない)。なお右袖には引き続き太平洋クラブのマーク(若干の援助を受けていたため)、左袖は帽子をクラウン仕様に変更したライオンのイラストワッペンが付く。これが福岡のライオンズが着用した最後のユニフォームとなる。

西武時代

  • 1979年2003年 - 球団名が「西武ライオンズ」となり細谷巖によるデザインに一新。西武黄金期を築いたユニフォームで、途中マイナーチェンジはあったが、基本デザインは2003年まで使用された。
    • 帽子、アンダーシャツ、ストッキングがチームカラーのライトブルーとなり、袖、首、パンツに“太陽”と“草原”のイメージにより考案された赤、緑のラインが入る。
    • 帽子は緑の楕円の中に手塚治虫テザインのレオマークがつき、下に白文字でLionsのロゴが刺繍される。ヘルメットは、これらのマークが直接プリントされ、さらに右側(左打者用は左側)にSEIBUのロゴが入る。
    • 背番号、胸番号の書体がゴシック体になり、パンツは腰ラインの入っていないベルトレスタイプになる。
      • ただし背番号「1」の書体については、秋山幸二のみ本人の希望で「_」の付いた書体が使用された[73]
    • スパイクはつま先、踵部分が濃紺、それ以外は白でつま先側から青、緑、赤、のラインが各メーカーのデザインに沿った形で入る。紐は青。
      • ホーム用は、上下白で、胸ロゴ、胸番号、背番号はライトブルー。左袖にライトブルーの文字で西武百貨店のマークが入る。
      • ビジター用は、上下ライトブルーで、胸ロゴ、胸番号、背番号は白。左袖には白文字でLionsのロゴが入った(1995年まで使用されたが、イースタンでは1996年まで使用された)。
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        • 1980年より、ベルト式になり、腰を一周する形のベルト通しに、ホーム、ビジター共地色と同色のベルトになる。
          • 1981年に入団した石毛宏典は、全身ブルーのビジター用をパジャマみたいで格好悪いと思ったが、チームが勝ち続ける中愛着も沸き、他チームの選手からは「ビジター用の方が強そうに見える」という感想を聞いている[74]というエピソードが存在する。
        • 1990年より、ユニフォームのボタンが、乳白色半透明から地色と同色のボタン(製造メーカーデサントのロゴが入る)になる。
        • 2001年より、ホーム用がデサント社から、ナイキ社の製造になり、左胸にナイキのスウォッシュマークが入る(日本プロ野球で初めてユニフォームにブランドマークが入る)。
        • 2002年より、ホーム用がカッティング・デザインを駆使したものになり、パンツのベルトループがスタンダードなものになり、青色のベルトになる。
  • 1996年からのビジター用は、上着がライトブルーに白のラケットラインが入り、胸番号、背番号、胸ロゴに白の縁取りが入り、書体が高校野球型に、パンツが白になり、ライトブルーのラインが入る。また袖、首の赤、緑ラインが消える。同時にスパイクの色が白地にライトブルー(端部に緑と赤が付く)ラインになる。
  • 2002年からのビジター用は、ホーム用と同じくナイキ社の製造になり、大幅にモデルチェンジされ、ビジター用の上着の正面がグレー、脇・背中がライトブルーになり、パンツがグレーになる。胸のネームと番号は、発表時は白だったが、公式戦時にブルーへ変更された。また、札幌、長野での主催ゲーム用にサード・ユニフォームも登場した。ホーム用をアレンジしたもので、ネームと番号の縁取りが黒。番号のロゴは、ビジターと同じものを採用。ビジター用とサード用の帽子からは、緑の楕円がはずされた(ヘルメットは、ホーム用と同じ)。なお、3種類とも右袖にプライド・ロゴ(赤・緑の2色のホームベース型にLionsのロゴと日本一の回数の8個の星をあしらったもの)が入る。
  • 2004年2008年 - 伊東勤監督就任を機に25年ぶりにホームのユニフォームに大幅変更。赤、緑のラインが消え、Lionsのロゴが大文字のLIONSになる。また、帽子の正面からLionsのロゴが消え、横にLIONSのロゴが入る。ビジター用の帽子もホーム用兼用となり、サード・ユニフォームは、廃止された。プライド・ロゴは、ビジター用のみとなる。
    • 2005年よりプライド・ロゴの星の数が9個となる(前年度日本一になったため)。
    • 2008年は所沢移転30周年記念ロゴが右胸に入る。
  • 2009年~ - チームカラーがそれまでのライトブルーから「レジェンド・ブルー」と称する紺色に変更。また、「Lions」のロゴも一新されることが2009年1月1日、公式ホームページにて発表された。それに伴ってユニフォームのデザインも一新。基本デザインは西鉄ライオンズ時代のユニフォームデザインを踏襲しており、ホーム用は白地に紺の前掛けライン。左胸に「L」のイニシャルが付く。ビジター用はライトグレー地に紺の前掛けライン。胸に「Lions」の新ロゴと胸番号。ホーム用・ビジター用ともに、左袖には獅子がボールをわし掴みにするデザインの新球団ペットマークが、右袖にはLionsとほぼ同じ書体で「saitama seibu」の赤い文字が入る。また、帽子もレオマークから「L」の一文字に変更。
  • スパイクは黒地に白のラインとなる。
    • ただし、キャップを除きこのユニフォームの使用は開幕戦からで、初年の春季キャンプ・オープン戦時は、上が新デザインを踏まえた紺のオリジナル仕様練習着、パンツおよびヘルメットは昨年までのライトブルーの時代のものを使用。
    • 2012年より県営大宮球場での試合に「大宮リミテッドキャップ」を着用。キャップは、通常の帽子デザインをさいたま市大宮区の色・オレンジを使ってアレンジしたもの。空気坑・頭頂部のボタン・つばの端をオレンジ色に。ユニフォームは変更なしで、2013年の1試合のみ3rdユニフォームの併用。
    • 2013年より新たに「Saitama」ユニフォームを3rdユニフォームとして使用することとなった。レジェンド・ブルーをベースとし、脇からわき腹にかけて白。襟から胸へ流れるラケットラインと袖口のラインは、埼玉県のカラーを意識した赤色を使用。胸に白で「Saitama」の文字と胸番号、左袖にペットマーク、右袖に埼玉県章が入っている。ユニフォームに県章を用いるのは日本プロ野球では初のこととなる[75]。なお、翌2014年も継続して使用[76]

ユニフォーム(二軍)

  • 1976年 - 基本的に前年と同じものを使用。帽子は同年の一軍と同じくTLマークを入れたものを使用。
  • 2005年~2006年 - 二軍の球団名がインボイスに変更され、帽子のマーク・ホーム用の西武百貨店マークがインボイス社の社章に変更。ロゴも「INVOICE」となる(書体は従来と同じ)。
  • 2007年 - 二軍の球団名がグッドウィルに変更。胸のロゴが「GoodWill」となり、ホーム用は、一軍ビジター用のグレー部分と背中を白にしたもの(背番号のロゴは一軍ホーム用と同じ)が使用され、ビジター用は、一軍のものから首のラインをはずしたものがそれぞれ使用された。帽子マークはグッドウィルの社章に変更。

期間限定ユニフォーム

  • 2007年に夏季特別企画として、7月10日から8月30日の主催ホームゲームで、特別ユニフォームと1979年~1996年まで使用されていたビジターユニフォーム(いわゆるライオンズブルー)の復刻版を使用。特別ユニフォームはフロント・わきの下の部分が水色、背中と肩の部分が白。胸ロゴの「LIONS」と背番号・胸番号は赤縁に白。背中にライオンの牙をモチーフにした赤い模様が入ったもの。
  • 2008年に交流戦限定ユニフォームを着用。肩から袖にかけての部分と脇からわき腹にかけての部分が白、それ以外の部分がライオンズブルー。右胸に所沢移転30周年記念ロゴのワッペン、肩の上には黒縁に白の☆、背番号の下に2008年のスローガン「No Limit!」をあしらったもの。
  • 2008年より「ライオンズ・クラシック」が開始され、期間中は復刻版のユニフォームを着用している。詳細はライオンズ・クラシックを参照。
  • 2012年、球団の親会社である西武鉄道の設立100周年を記念し、全国の小中学生からユニホームのデザイン案を募集[77]。採用案がデザインされたユニホームを、8月11・12日の日本ハム戦と同月17日~19日の楽天戦で着用した[77]。その後、ファンから「もう一度、100周年記念ユニフォームで戦って欲しい」という要望が多かったため、9月25日~27日の楽天戦でも着用した[78]
    • 採用案のタイトルは「4000系とスマイルトレインユニフォーム」[77]。西武鉄道が保有する鉄道車両である4000系電車ならびに30000系電車「スマイルトレイン」の車体塗装をモチーフとし、スマイルトレインの帯色であるブルーとグリーンのグラデーションをベースに胸部分には「SEIBU」ロゴ(2003年までのビジター用のものと同一)をあしらい、首・袖周りには4000系電車の帯色である青・赤・緑3色のライオンズカラーが入る[77]。原案においては右袖に西武鉄道のコーポレートロゴがあしらわれていたが、同部分についてはリーグ規定により通常ユニフォームと同様「saitama seibu」ロゴが貼付される[77]
    • 8月11日についてはライト外野自由以外のすべての入場者に対してレプリカユニフォームのプレゼントが行われた[79]
  • 2013年、パリーグ6球団共同企画「レジェンド・シリーズ2013」において、80~90年代にかけてライオンズ黄金期にホーム用として使用したユニフォームの復刻版を着用。ただし、復刻ユニフォーム左胸には、ナイキのマークが付く。
  • 2014年、西武鉄道100年アニバーサリー企画の一環として、手塚プロダクションデザインの「ジャングル大帝ユニホーム」を着用。球団旗やマスコットなどをデザインした漫画家・手塚治虫の代表作「ジャングル大帝」をモチーフに、球団マスコットのレオが描かれている。ネイビーをベースに球団マスコットのレオが胴部と右肩にあしらわれており、右肩と背中に地平を駆けるレオ、左胸の下にはたけだけしくほえるレオがデザインされた[80]

ユニフォームのスポンサー

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応援スタイル

テンプレート:出典の明記 テンプレート:See also

  • ビクトリーフラッグと呼ばれる小旗が応援に使われる。使われるのはスターティングメンバー発表時、得点時、5回表攻撃前など。
  • 得点時には球団歌の「地平を駈ける獅子を見た」のBメロ〜サビが演奏され、ファンがそれに合わせてビクトリーフラッグを振る。演奏終了後他球団と同様に万歳三唱するが、その後「ヤッター」×3、「1・2・3・オー」と続く(1992年開始以来変更無し)。
  • 勝利時には炭坑節が演奏される。
  • 2013年までは「かっ飛ばせー○○」の後に「Go!Go! Let's Go ○○」と続けていた。ただし中村剛也の打席のときは、中村が本塁打を打った後は「おかわりおかわりもう一杯」になる。また金子侑司の応援歌には「かっ飛ばせー○○。Go!Go! Let's Go ○○」はスタメン発表以外では使われない。
  • 応援のリードにバスドラムが用いられ、西武ドーム内で反響するため威圧感を与えている。
  • 2004年までは関東での試合、関西での試合、九州での試合で選手の応援歌が異なっているため、2005年に統一されたとの発表があったが、福岡及び関西では異なる応援歌を打者一巡目や統一応援歌との交互応援など、地方では独自の応援がなされている。
  • 福岡及び関西での応援歌は基本的に、黄金期の選手の応援歌を流用、または、1990年代の地方専用応援歌を使用している。
  • 1990年と2005年にほとんどの選手の応援歌の変更がなされている(1990年の変更は関東地区のみで九州では従前の応援歌のまま)。しかし、チャンスでの打席になると、その選手の変更前の応援歌や以前同じ背番号をつけていた選手の応援歌などが演奏されることもある。西武ドーム細川亨がチャンスで打席に立ったとき、伊東勤元監督の選手時代の応援歌が演奏されたこともあった。2008年時点ではチャンステーマとして片岡易之及び中島裕之の打席で石毛宏典の応援歌、クレイグ・ブラゼルの打席でアレックス・カブレラの応援歌、ヒラム・ボカチカの打席でホセ・フェルナンデスの応援歌が使用されている。
  • 2005年に選手の応援歌の一斉変更がなされる前は新しい応援歌がほとんどといっていいほど作られず、過去の選手の流用ばかりであった。投手の応援歌だったものを野手用に使う例も見られた。実際に2005年の応援歌変更の対象とならなかったアレックス・カブレラの応援歌はマイク・パグリアルーロ以降、ダリン・ジャクソンドミンゴ・マルティネスなど歴代の外国人選手に使用されていた曲(歌詞も名前部分以外そのまま)、和田一浩の応援歌は仲田秀司の曲の流用(歌詞は異なる)である。
  • 主催試合ではオルガンの演奏が流れる。チャンステーマ1やチャンステーマ3は前奏があるため、そのオルガンに先行されて開始することがある。
  • 5回の攻撃前に球団歌の「地平を駈ける獅子を見た」が1コーラス演奏され、ファンがそれに合わせてビクトリーフラッグを振る。2009年までの交流戦では「白いボールのファンタジー」が代わりに演奏されていた。
  • 7回の攻撃前には応援歌の「吠えろライオンズ」が演奏される。従前の応援歌であった「若き獅子たち」も相手投手交代の際等に使用される。ライオンズクラシック2010の期間中は太平洋クラブライオンズ時代の応援歌であった「僕らの憧れライオンズ」が演奏される。ライオンズクラシック2008・2011の期間中は西鉄ライオンズ時代の応援歌であった「西鉄ライオンズの歌」が演奏される。
  • アウトテーマ2013年までは使用されていたが、2014年からは廃止となった。
    • 2013年までのアウトテーマはバントアウトなどアウトを取っても相手が進塁した場合は使用しなかった。
    • 以前はアウトが奪三振の場合はアウトテーマの後に「いいぞ、いいぞ、○○(投手名)」と続けていたが2010年7月27日の試合を最後に行われなくなった。このコールを始めた当初は三振以外のアウトの時もアウトの打球を処理した選手に対し(例-ショートゴロならショートを守っている選手にと言う具合に)このコールをやっていた。
  • 7回攻撃前(ラッキー7)と勝利時にジェット風船を飛ばす。かつてはラッキー7では青色、勝利時は白色と色を変えていたが、現在は青で統一されている。また、ライオンズクラシック2010の期間中はユニフォームの赤色に合わせて赤色の風船を飛ばす。
  • 平尾博嗣の応援歌は、本人は気に入っていないことが、ラジオ番組での赤田将吾選手の発言により発覚している。応援歌の一つとして定着してきていたが、2008年7月19日より新しい応援歌に変更された。
  • 汎用の代打テーマは一応存在するが、専用の応援歌が無い野手は新人選手など数人しかいないうえ、近年は専用の応援歌のない選手が1軍の試合で活躍するとシーズン中でもすぐに専用応援歌が作成される傾向にあるため、滅多に演奏されない。2005年の変更の際には代打テーマも新規作成されたが翌2006年入団の炭谷銀仁朗以外に使われることが無く、2006年交流戦頃にそのまま炭谷の応援歌となった。それ以降2009年までは暫定的に一斉変更前の代打テーマを使用していたが、2010年から新しい代打テーマが作成された。しかし、選手名が5文字以上の選手など、選手によっては新しい代打テーマを歌いづらい選手もいるため、それらの選手に対しては一斉変更前の代打テーマが使用されている。

永久欠番

  • 24:稲尾和久
    引退後も1972年までは稲尾自身が監督として付け、1973年の福岡野球株式会社への売却時に稲尾が背番号を81に変更した事から欠番となった。当時球団は永久欠番とせず、「将来有望な選手が入団してきたら24番をプレゼントしたい」として暫く欠番とした後、1976年に古賀正明が着用した。その後、様々な選手が着用したが、2012年の生誕75周年を機に永久欠番に指定(同年は永久欠番指定が報じられる前から欠番となっていた)。[81]

準永久欠番

  なし

過去の準永久欠番

テンプレート:出典の明記

  • 3:大下弘
    1960年3月1日の引退試合後、「大下選手の名に恥じない選手が出ればその選手に渡す。」という当時の球団社長、西亦次郎の意向で当分の間欠番となっていた(1960年3月1日付け西日本スポーツ・野口正明氏のコラムから)。1968年、大下の東映フライヤーズ監督就任と同時期に、中日から移籍の広野功が着用。その後土井正博清原和博らが着け、2012年シーズン終了まで中島裕之が着けていた。
  • 6:中西太
    退団後の1970年から相応しい選手が出るまで欠番とされていたが、1973年に「もう新球団(福岡野球)になったんだからいいじゃないか」と、当時の監督・稲尾和久の推薦で菊川昭二郎が着用、その後も様々な選手が着用している。
  • 27:伊東勤
    2004年 - 2006年の3年間欠番。その後は細川亨炭谷銀仁朗など捕手に与えられている。
  • 32:ミゲール・デルトロ
    メキシコ帰国直後の2001年10月6日交通事故死。2002年の1年間欠番。
  • 59:板沢峰生
    1980年12月3日急性心不全で死去。1981年から1989年までの9年間欠番。

歴代本拠地

西武球場の完全ドーム化は1999年。名称は第1期工事(スタンドに屋根を架設する工事)が完成した1998年に西武ドームに変更されている。

なお、西武ライオンズは本拠地の西武ライオンズ球場・西武ドームでの試合開催率が高く[82]、特に1993年までの15年間では西武球場で全ての主催試合を行ったのが1982-86年と1989-93年の計10年間あり、それ以外の5年間も地方球場開催は平和台のみだったが、1994年以降は徐々に地方開催を行うようになった。特に2000年から2008年までの間は長野オリンピックスタジアムでの開催が毎年続けられたほか、1996年からは群馬県立敷島公園野球場でも2、3年に1回開催している。また、2008年からは埼玉県営大宮公園野球場でも毎年主催試合を行っている(参照:埼玉西武ライオンズ主催試合の地方球場一覧)。

ファイル:Seibu Lions baseball teamTokorozawa office.jpg
球団事務所(所沢市・2007年撮影)

歴代監督

太字は優勝達成監督

※1 ここから西鉄ライオンズ
※2 ここから太平洋クラブライオンズ
※3 就任が発表されたが、病気のため来日する事なく契約が解除された。
※4 ここからクラウンライターライオンズ
※5 ここから西武ライオンズ
※6 ここから埼玉西武ライオンズ
※7 2014年は6月4日まで指揮、残り試合は田辺徳雄が代行。

主な歴代の球団歌

「地平を駈ける獅子を見た」と同時期に発表された(同曲シングルレコード盤のB面に収録)応援歌「Let's Go Lions」(作曲・編曲:長戸大幸)もあるが、現在演奏される機会は少なくなっている。テレビ埼玉ではTBSテレビTBSビジョンとの提携関係にあったとき(1990年代初めまで)に、TVSライオンズアワーの中継において、この楽曲を中継のエンディングテーマソングとして使ったことがある。

なお、ホームラン編集部制作の「12球団全選手カラー百科名鑑」(日本スポーツ出版社廣済堂出版→廣済堂あかつき)では、各球団を紹介する際に球団歌を掲載するのが基本であるが、西武に関しては応援歌である「吠えろライオンズ」の方を掲載している。

また文化放送が「文化放送ライオンズナイター」用の挿入歌としてばんばひろふみ梶原しげる(当時QRアナウンサー)が歌う「Vのシナリオ~吠えろ!ライオンズ」という楽曲が1985年ごろに発表されているが、現応援歌の「吠えろライオンズ」とは同名異曲である。

主なキャンプ地

過去

1982年以降のチームスローガン

広岡監督時代
  • 1982年:新風
  • 1983年:闘球
  • 1984年:鋭球
  • 1985年:爽球
森監督時代
  • 1986年:飛躍
  • 1987年:前進
  • 1988年:鍛える
  • 1989年:魅せる
  • 1990年:燃えて
  • 1991年:雄々しく
  • 1992年:初心
  • 1993年:新たに
  • 1994年:チャレンジ
東尾監督時代
  • 1995年:感動のドラマがある
  • 1996年:熱く、激しい感動。
  • 1997年:Hit!Foot!Get!
  • 1998年:夢へHit!Foot!Get!
  • 1999年:栄光へ、Hit!Foot!Get!
  • 2000年:Hit!Foot!Get! More Runs! 果敢に攻め、もっと得点を。
  • 2001年:Hit!Foot!Get!栄光への挑戦
伊原監督時代(第1期)
  • 2002年:全力 To The Best
  • 2003年:栄光へ全力!
伊東監督時代
  • 2004年:挑戦はじまる。
  • 2005年:挑戦ふたたび。
  • 2006年:挑戦あるのみ
  • 2007年:心を、ひとつに。力を、ひとつに。
渡辺監督時代
  • 2008年:No Limit!
  • 2009年:No Limit!
  • 2010年:No Limit!2010 逆襲の獅子
  • 2011年:No Limit!2011 勝利への執念
  • 2012年:出しきれ!ライオンズ - このスローガンは、「朝日ニュースター」の野球中継のタイトルにも使用されている。
  • 2013年:骨太!ライオンズ イズム 2013
伊原監督時代(第2期)
  • 2014年 : 全力 ! ライオンズ 攻めも、守りも、応援も。

マスコット

ライオンズのマスコットキャラクターは、以下の2体。どちらもデザインは、手塚治虫。詳しくは当該項目を参照。

なお、太平洋・クラウン時代は黄色い顔のライオンをペットマークに使用[83]。また、西鉄時代もライオンをデザインしたペットマークを使用。当時のジャンパーの胸部にワッペンが張り付けられていた。

お台場ドーム構想

テンプレート:出典の明記 当時屋外野球場だった西武ライオンズ球場は雨天中止が多く、後半の試合日程が厳しくなるケースもあった。そのため本拠地を所沢から都心である東京の台場に移転してドーム球場を建設しようという案が浮上した。しかし、当時既に東京都を保護地域とする球団が3球団[84]もあり、全ての球団の承諾を得る必要があり、さらに移転に対する地元所沢近辺のファンの猛反発、多額の建設費用の捻出、グループ企業の西武鉄道からの利用客減少への懸念の意見が出たため困難となり、西武ライオンズ球場に屋根をかけ、西武ドームが誕生した。

福岡時代の歴史の取り扱い

西武による買収以降、当時の堤義明オーナーが「西鉄とわれわれは別の球団」と宣言した[85]ことに現れるように、2007年までは福岡時代の歴史を極力消す傾向にあった。

球団の公式記録は全て所沢移転後の記録のみが扱われて発表され、1950年の球団創立以来の通算記録は全く回顧されなかった[86]。また、福岡時代に在籍したが、所沢移転の前に退団して西武ライオンズへの在籍経験がない選手などは球団のOBとして認められず、顕彰や始球式などは基本的に行われなかった[87]。このような扱いに対して福岡時代のファンの反発も強かった。

しかし、2005年に堤が西武鉄道株をめぐる証券取引法違反で失脚し、2007年に後藤高志オーナーが就任すると、球団の歴史に対する扱いが変わることとなる[85]。2008年は西武球団創設(所沢移転)30周年と西日本鉄道創業100周年が重なることから、6-8月の試合で西鉄時代のユニフォームを着用し、連動して西鉄→太平洋→クラウンまでの福岡時代の歴史を回顧する「ライオンズ・クラシック」企画が豊田泰光による監修の下で展開された。西鉄時代のユニフォームは基本的に実施期間内の西武ドームでの主催試合で着用したが、西鉄時代の本拠地だった福岡(現在の福岡ソフトバンクホークス本拠地である福岡Yahoo! JAPANドーム)でも2試合着用した。これは2009年以降も継続されている。

これを契機に公式ウェブサイト内年表において、西鉄クリッパース結成を起点とする福岡時代の記述が追加され、同年から掲載されるようになった、企業概要情報(公式サイトでは「球団概要」)のうち、創立年月日については「1978年10月25日」と記述されたが[88]、2009年1月の更新で「1950年1月28日 西鉄野球株式会社として登記」「1978年10月25日福岡野球株式会社より株式会社西武ライオンズに商号変更」と記述されるようになった。さらに、2012年には西鉄時代の選手である稲尾和久の「24番」が、同人の生誕75周年を期して西武球団初の永久欠番に指定された[89]

一方の西鉄側でも、身売り以降ライオンズの歴史はタブー視されてきたが[85]、西鉄100周年を機に再度表舞台へと現れることとなった[90]2011年には両社の系列である西鉄高速バス西武観光バスの共同運行で、西鉄・西武それぞれのライオンズのロゴマークをデザインした車両により[91]Lions Expressが運行を開始している[92]

不祥事

黒い霧事件

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1969年から1971年にかけて起きた八百長事件。主力だった池永正明などが関与して池永は永久追放処分を受ける(後に解除)。詳細は上記参照

2007年裏金問題

2007年3月9日、太田秀和球団社長兼オーナー代行(当時)が会見を行ない、倫理行動宣言で行わないことを決めていたアマチュア2選手(社会人選手1人と大学生1人)に対するスカウト行動で、現金1300万円近くを2人に対して渡していたことがわかった。2004年春ごろから2005年秋ごろにかけて、スカウトが2人の選手に対し一定額の現金を提供していたことがわかった。社内調査委員会によるその後の調査で、別の5人のアマチュア選手に“契約金の前渡し”名目で計6000万円余り(つまり裏金を受け取っていたのは全部で7人)、さらにはアマチュアチーム(高校・大学・社会人)の監督延べ170人にも選手入団の謝礼として現金が渡されていた事、しかも現金供与はオーナー企業が西武グループとなった1978年から既に行なわれていた事が判明した。

この裏金行為は太田社長が2006年8月に前社長から伝え聞いたものの、内部調査を経たため正式発表は2007年3月となった。

2007年3月24日、チームのシーズン開幕戦(楽天戦)に当たり、太田社長は試合前のセレモニーに先だって謝罪し、「ファンに親しまれるチーム作りを目指します」とコメントした。

日本プロフェッショナル野球組織は5月29日、球団に対し制裁金3000万円または同額分の用品を機構の指定する育成団体に寄付させる事、及び秋の高校生ドラフトでの指名は3巡目からとする事を処分として決定した。また事件発覚当時に楽天でスカウト部長を務めていた事件当時のスカウト部長が、楽天から減給、解任・編成部付となる処分を受けた。

スカウトによる不正の教訓から、ファンに親しまれるチーム作りを目指す姿勢と責任ある行動を誓って8月26日に『西武ライオンズ憲章』を制定した。

グッズショップ

本拠地である西武ドーム以外に、埼玉県および西武鉄道沿線にオフィシャルグッズショップ『ライオンズストア』を展開している。グッズ販売のほか、ファンクラブ入会やチケット購入、各種優待チケット引換が可能。ただし、フラッグスは西武ドームに隣接して所在するため、チケット販売・引換は行っていない。

このうち、所沢、本川越は『西武観光』の跡地であるが、西武観光でもライオンズ戦のチケットを扱っていた。

放送

テレビ東京(地上波)は1979年の所沢移転から1980年代中ごろまで中継を実施し、その後は中継を実施していなかったが2006年に1試合のみ放送した(同年9月18日の対戦相手はソフトバンクだったが、その対戦相手の地元局はTVQでは無くてRKBだった)。ただし、試合毎の個別契約のため、日本テレビを含めた地上波5局の系列局やテレビ東京系列のBSジャパンでは現在でも西武ドームの試合を中継することがある。

現在放送しているライオンズの冠番組

※2014年現在。

試合中継
※ライオンズのラジオによる実況中継放送は、関東広域圏埼玉県放送対象地域としている、文化放送・NACK5の2局を合計して、4月から9月までの大半の試合が放送されている。ラジオ放送のない土曜・祝日のデーゲームも、一部のカードを除いて文化放送が公式サイトでWeb配信を実施している。
応援番組

かつて放送されていた番組

福岡時代の番組

テレビ
ラジオ

脚注

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  1. かつては、「インボイス」→「グッドウィル」と言う二軍独自の球団名が使われた事がある。
  2. 戦後の大洋ホエールズとは無関係
  3. 戦後のライオンズとは後述の事情もあり、球団としての系譜の繋がりは無い
  4. [1]
  5. 設立日については『魔術師―三原脩と西鉄ライオンズ』では28日、「プロ野球12球団全選手百科名鑑」シリーズ(2000年代途中頃までの発行分)では29日となっている
  6. 西日本新聞の体面を考え「吸収合併」ではなく「球団合併」だったが、事実上の吸収合併であった
  7. チーム名は西日本新聞紙で募集し、1週間で53000通の応募があったとされる
  8. ここまでの出典は特記以外は文藝春秋社刊 立石泰則著『三原脩と西鉄ライオンズ』132-148ページとする
  9. この年の記述の出典は特記無い場合、講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」135ページと、南海ホークス刊『南海ホークス四十年史』145-149ページとする
  10. 1敗を挟んで、18連勝と9連勝
  11. この年の記述の出典は特記無い場合、南海ホークス刊『南海ホークス四十年史』150-154ページとする
  12. この年の記述の出典は特記無い場合講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」135ページと、南海ホークス刊『南海ホークス四十年史』155-159ページとする
  13. この年の記述の出典は特記無い場合、南海ホークス刊『南海ホークス四十年史』160-163ページとする
  14. 講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」135ページ
  15. この年の記述の出典は特記無い場合、南海ホークス刊『南海ホークス四十年史』163-166ページと、講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」135ページとする
  16. 16.0 16.1 16.2 16.3 16.4 この年の記述の出典は特記無い場合、ベースボール・マガジン社刊「ライオンズ60年史―獅子の記憶ー「西鉄」から「埼玉西武」まで」36-37ページとする
  17. 17.0 17.1 ベースボールマガジン2013年11月号60-63ページ
  18. 達成当時はビクトル・スタルヒンの40勝がシーズン最多勝とされ、稲尾が新記録とされていた
  19. 19.0 19.1 19.2 19.3 この年の記述の出典は特記無い場合、ベースボール・マガジン社刊「ライオンズ60年史―獅子の記憶ー「西鉄」から「埼玉西武」まで」44ページとする
  20. 20.0 20.1 20.2 20.3 20.4 この年の記述の出典は特記無い場合、ベースボール・マガジン社刊「ライオンズ60年史―獅子の記憶ー「西鉄」から「埼玉西武」まで」45ページとする
  21. 池永の他には与田順欣益田昭雄村上公康船田和英基満男
  22. 池永は2005年に復権
  23. 船田と村上はシーズン活動停止処分、基は厳重注意
  24. 24.0 24.1 24.2 24.3 24.4 24.5 この年の記述の出典は特記無い場合、ベースボール・マガジン社刊「ライオンズ60年史―獅子の記憶ー「西鉄」から「埼玉西武」まで」50ページとする
  25. 2013年、434本のアンドルー・ジョーンズが来るまで、日本プロ野球に来るまでのメジャーリーグ最多本塁打記録
  26. 【12月17日】1975年(昭50) えっ「五分五分」なのに発表!ライオンズ、幻のドローチャー監督スポーツニッポン2008年12月11日
  27. クラウンガスライターは1978年6月に関東クラウン工業、廣済堂印刷と合併し廣済堂クラウンに社名変更した
  28. テンプレート:Cite web
  29. 2位・阪急とは、17ゲームという大差をつけた。
  30. この時競合したのは、近鉄、南海、日本ハム、阪神、中日
  31. この当時の巨人の主力選手の一人であった原辰徳は、「苦手を通り越してコンプレックス。トラウマ的なものさえ感じる」と、巨人監督として迎えた2002年の日本シリーズ直前の合宿地で印象を述べている。テンプレート:G5000
  32. 2011年終了現在、日本シリーズの連覇はこの年の西武以来出ていない。同年ゴールデングラブ9部門中、西武は8部門独占
  33. 同年、一時期は2位であってもマジックが点灯していたことがある。これは西武の残り試合数が日本ハムの残り試合数よりも多かったことによるもので、一時期は三位転落でもマジックが点灯していたことがある。現時点では3位球団におけるマジック点灯は同年の西武しか前例がない
  34. 西武だけでなく、日本ハム以外のパ・リーグ各球団が主催する札幌ドームでの試合は2004年以降行われず、2009年の巨人主催を最後にセ・リーグ球団各球団が主催する札幌ドームでの試合は行われていない。
  35. 日本ハム以外のパ・リーグ球団の東京ドームでの主催試合に関しては、西武は2007年にオリックス、2012年にソフトバンク、2014年(予定)に楽天の主催試合の対戦相手として行った事がある。
  36. 2004年から2006年までのプレーオフではレギュラーシーズンの成績にかかわらず、日本シリーズ進出チームがリーグ優勝という扱いであった
  37. レギュラーシーズン1位の状態でのリーグ優勝は6年ぶり。
  38. 完全制覇としてでは約16年ぶり。
  39. ホーム側変更のお知らせ西武球団公式サイト2008年12月26日配信
  40. 球団はロッテなどのように、平日のデーゲームでの検討も行ったが、照明なしでのプレーは白球が見えづらく、西武ドームでは困難と判断した。
  41. 4月中は、4月12日からの開幕2連戦を西武ドームから日本ハム本拠地の札幌ドームに変更し、ホームゲームは滋賀県皇子山球場の2試合(うち1試合は雨天中止)のみ行われた。
  42. テンプレート:Cite web
  43. テンプレート:Cite news
  44. ライオンズ・クラシック 稲尾和久 生誕75周年 永久欠番メモリアルゲーム ~背番号「24」の記憶~西武球団公式サイト
  45. 「稲尾デー」西武み~んな背番「24」生誕75周年スポーツニッポン 2012年7月2日
  46. この年の記述の出典は特記無い場合、週刊ベースボール2012年12月10日号80-81ページとする
  47. 逆転Vならず…渡辺監督「こういう形で優勝が決まって残念」スポーツニッポン 2012年10月2日
  48. 2012年10月15日 埼玉西武 対 福岡ソフトバンク西武球団公式サイト
  49. テンプレート:Cite news
  50. テンプレート:Cite news
  51. テンプレート:Cite news
  52. テンプレート:Cite news
  53. テンプレート:Cite news
  54. 2013年度 交流戦 チーム勝敗表NPB公式サイト
  55. テンプレート:Cite news
  56. テンプレート:Cite news
  57. テンプレート:Cite news
  58. テンプレート:Cite news
  59. テンプレート:Cite news
  60. 西武4年連続CS進出!おかわり9回V弾 岸139球熱投実ったスポーツニッポン2013年10月5日配信
  61. 西武、8連勝締め!2位死守でCS本拠地開催決めたスポーツニッポン2013年10月8日配信
  62. パも下剋上!ロッテ、西武下してファイナルS進出スポーツニッポン2013年10月14日配信
  63. 渡辺久信監督が辞意を表明 西武球団公式サイト2013年10月15日配信
  64. 渡辺前監督シニアディレクターに就任 西武球団公式サイト2013年10月18日配信
  65. 伊原春樹監督 就任のお知らせ西武球団公式サイト2013年10月22日配信
  66. 西武 伊原監督が休養 残り試合は田辺コーチが代行スポーツニッポン2014年6月4日配信
  67. 西武 伊原氏退任 球団本部付アドバイザーに 田辺代行そのまま指揮スポーツニッポン2014年6月27日配信
  68. スポーツライター・綱島理友の「綱島プロ野球研究所」からニックネームCの項
  69. 西武ライオンズ株式のグループ内異動について株式会社西武ホールディングス開示情報 2008年11月21日
  70. 1980~90年代の一時期、子供のレオ(レオの子供のルネとも解釈可)の着ぐるみが登場したこともあった。
  71. 文藝春秋Number 191』1988年3月20日号 手塚治虫「“私のレオ”がマスコットで復活した喜び」
  72. 「ベースボールマガジン」2002年夏季号ほか。
  73. 秋山との交換でダイエーから加入した佐々木誠も、当初は「_」の付いた書体のユニフォームを着用したが、オープン戦途中で「_」のない物に変更された。逆に秋山はダイエー移籍当初「_」がなかったが、その後「_」のついた物に変更された。
  74. 雑誌「週刊ベースボール」(ベースボールマガジン社刊)2008年7月28日号22-23ページ 復刻ユニフォーム物語」
  75. ライオンズ 3rdユニフォームとして「Saitama」ユニフォームを2013シーズン着用! - 埼玉西武ライオンズ公式 2012年11月28日
  76. 球界初の県章を配した「Saitama」ユニフォーム!2014シーズンも着用決定!!
  77. 77.0 77.1 77.2 77.3 77.4 ライオンズユニフォームデザイン大募集! - 埼玉西武ライオンズ公式 2012年5月27日閲覧
  78. あの感動と興奮を再び!9/25~27 西武鉄道創立100周年記念ユニフォームを再着用! - 埼玉西武ライオンズ公式 2012年9月4日
  79. 球団初!記念ユニフォームの来場者配布も!!「西武鉄道創立100周年記念シリーズ」開催日程決定 - 埼玉西武ライオンズ公式 2013年2月11日閲覧
  80. ジャングル大帝シリーズ開催!手塚プロダクションがユニフォームをデザイン!!球団公式サイト内
  81. テンプレート:Cite news
  82. パ・リーグでは地方球場での主催試合開催で観客動員数を高める営業戦略を採るチームが多く、西武の方針は異例だった。参照:千葉ロッテマリーンズ主催試合の地方球場一覧
  83. 太平洋からクラウンに球団名が変更された後も、同じデザインのキャラクター(帽子のマークを変えて)を使用。
  84. 読売ジャイアンツ、ヤクルトスワローズ、日本ハムファイターズの3球団であった。現在は日本ハムが札幌に移転したため、東京都を保護地域とする球団は現在ではセ・リーグのみの2球団である。
  85. 85.0 85.1 85.2 九州の礎を築いた群像 西鉄編 (10) ライオンズ 復興支えた栄光の「野武士集団」 創設の裏に白洲次郎、GHQ… (6/8ページ) msn産経ニュース、2013年12月17日(2014年3月13日閲覧)。
  86. 例として、ファンブックなどで国土計画の旧クラウン球団買収を「ライオンズ球団の誕生」と記述していたため、「福岡時代からライオンズを名乗る球団が存在したのに、新たに創設されたかのような記述はおかしい」と指摘され、この記述については「西武ライオンズ球団の誕生」と改めた。また、1986年のパ・リーグ優勝の際に発売された西武鉄道の優勝記念乗車券では「西武ライオンズは1986年度パ・リーグ公式戦優勝。4度目の制覇を達成することができました。皆さまのご声援ありがとうございました。」を全文とする感謝の意を示し、西鉄が達成した5度のリーグ優勝には触れなかった。ただし、マスメディアでは「西武として◎度目の優勝、球団創立からは(「西鉄時代を含めると」という表現などもあり)△度目の優勝」という報道がなされた。
  87. 1962年限りで国鉄スワローズ(現:東京ヤクルトスワローズ)へ移籍し、監督・コーチとしての西武在籍経験もない豊田は上記に該当する元選手の一人であり、ラジオ中継で西武贔屓の解説を続けながらも、現在の西武球団から自分の存在価値を認められない元選手は行き場や精神的故郷がないという球団批判を行っていた。
  88. 球団情報 | 西武ライオンズ (Internet Archive 2008年2月3日時点でのアーカイブ)
  89. ライオンズ・クラシック 稲尾和久 生誕75周年 永久欠番メモリアルゲーム ~背番号「24」の記憶~ 埼玉西武ライオンズ、2012年5月1日(2014年7月31日閲覧)。
  90. 九州の礎を築いた群像 西鉄編 (10) ライオンズ 復興支えた栄光の「野武士集団」 創設の裏に白洲次郎、GHQ… (7/8ページ) msn産経ニュース、2013年12月17日(2014年3月13日閲覧)。
  91. テンプレート:Cite press release
  92. テンプレート:Cite press release

関連項目

外部リンク

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