谷垣禎一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2014年7月6日 (日) 21:49時点における射法訓 (トーク)による版 (独自研究を削除、その他整理)
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先: 案内検索

テンプレート:政治家 谷垣 禎一(たにがき さだかず、1945年昭和20年)3月7日 - )は、日本政治家自由民主党所属の衆議院議員(11期)、法務大臣第93代)、京都府遺族会会長、有隣会顧問。

財務大臣(第345代)、国土交通大臣第9代)、国家公安委員会委員長第69代)、金融再生委員会委員長(第34代)、科学技術庁長官第56代)、産業再生機構担当大臣自由民主党総裁(第24代)、自由民主党政調会長(第50代)等を歴任。

文部大臣第100代)を務めた元衆議院議員谷垣専一は父。元陸軍中将影佐禎昭は祖父。

来歴

生い立ち

京都府福知山市生まれ。谷垣専一の長男。麻布中学校・高等学校東京大学法学部卒業。大学卒業後、父・谷垣専一の秘書を断続的に務めながら司法試験を数回受験し、1979年に合格。司法修習第34期を修了し、弁護士登録。

衆議院議員

1983年、父・専一の死去に伴い、父の地盤を継承。1983年旧京都2区補欠選挙自由民主党公認で出馬し、初当選した。当選後、選挙戦中に旧京都2区に20日間泊まり込みで支援をした白川勝彦が所属し、なおかつ亡父も籍を置いていた宏池会に入会。この補欠選挙では、前尾繁三郎の死去に伴って同じ旧京都2区から野中広務も当選しており、選挙の実務を担当したのが当時党総務局長だった小沢一郎である。

1995年衆議院議院運営委員長に就任。1997年第2次橋本改造内閣において科学技術庁長官総理府原子力委員会委員長に任命され、初入閣した。1998年第18回参議院議員通常選挙で大敗した橋本龍太郎が退陣、その後成立した小渕内閣では大蔵政務次官に起用された。首相の小渕恵三が元首相の宮澤喜一に蔵相就任を要請した際、就任の条件の一つに挙げたのが谷垣の大蔵政務次官への就任であったため、閣僚経験者ながら政務次官に就任した。金融国会においては金融二法の成立に尽力し、小渕第2次改造内閣金融再生委員長越智通雄が失言により辞任した際、後任に起用された。第1次森内閣において、金融再生委員長に再任。2000年加藤の乱では、宏池会会長の加藤紘一に同調するも、内閣不信任決議案可決の試みは不発に終わった。その際の 谷垣の言動は非常に印象深く、たびたび回顧される。乱以後の宏池会分裂に際しては加藤派に参加した。

小泉政権

加藤の乱以後、加藤や山崎拓に連座した議員らは一様に森政権下では不遇であったが、2001年内閣総理大臣に就任した小泉純一郎の下で谷垣は重用された。第1次小泉第1次改造内閣国家公安委員会委員長に任命され、産業再生機構担当大臣[1]内閣府特命担当大臣(食品安全)[2]の補職辞令を受けたことを皮切りに、第1次小泉第2次改造内閣では塩川正十郎の後任として財務大臣に横滑り。重要閣僚である財務大臣を3年にわたり無難に務め上げて表舞台に登場する機会が増し、広く認知されるきっかけになった。2005年加藤派を引き継いでいた小里貞利が政界を引退し、また同派最高顧問の加藤紘一が離脱したのに伴って小里派を継承、谷垣派会長に就任した。テンプレート:Main

2006年自由民主党総裁選挙

2006年9月、自由民主党総裁選挙に立候補。テンプレート:Main総裁選では、政権構想に

  1. 財政再建2010年代半ばまでには消費税を10%に引き上げ)[3]
  2. 東アジア外交の立て直し(在任中は靖国神社参拝を控え、日中韓首脳同士が常時対話が可能な「アジアホットライン」の構築)[3]
  3. 地域社会の活性化法人税地方交付税等の税体系の見直しを通じた税収の地域格差の是正に取り組む)[3]

等を掲げた。投票の結果、谷垣は703票中102票(国会議員66票・地方36票)を獲得し、安倍晋三(当選)、麻生太郎に次ぐ最下位に終わったが、比較的タカ派色の強い安倍、麻生に対しハト派の谷垣が対立軸を明確に打ち出し、3桁の票を獲得する健闘を見せた。

安倍・福田・麻生政権

第1次安倍内閣において谷垣派は閣僚および党三役ポストを一つも獲得できず、党内非主流派に回った。与党が過半数割れの大敗を喫した第21回参議院議員通常選挙後は、安倍内閣政治姿勢や続投に公の場で疑問を呈する等、批判の度合いを強めていたが、参院選後の内閣改造・党役員人事においても谷垣派からの閣僚・党三役への起用は見送られた。同年9月、安倍首相の辞任を受けて行われた自由民主党総裁選挙に一時、出馬を検討したが、出馬表明を行った元内閣官房長官福田康夫を派を挙げて支持し、自身の出馬は見送った。幹事長(当時)の麻生太郎を破り総裁に選出された福田の下で政務調査会長に起用され、初めて党三役入りした。福田政権の発足を契機に、加藤の乱以来の懸案であった宏池会再結集の動きが一気に具体化し、2008年1月には古賀・谷垣両派の合併が決定(中宏池会構想)。テンプレート:Main同年5月に発足した古賀派では代表世話人に就いたが、新派閥の総裁候補は棚上げされたままで、また派内には菅義偉ら麻生を支持する議員も少なくなく、派を挙げて谷垣を一枚岩で支援する体制は整わなかった。2008年福田康夫改造内閣国土交通大臣に任命されるも、福田は間もなく辞任。それに伴う自由民主党総裁選挙でも出馬に意欲を見せたが、福田康夫内閣の一員であった立場を考慮し、断念。宏池会は自主投票を決定した。この総裁選では、宏池会から麻生派会長の麻生太郎、無派閥の与謝野馨を率先して支持する議員が現れ、2度続けて出馬を見送った谷垣の影響力低下を感じさせた。2009年第45回衆議院議員総選挙では、京都5区民主党新人の元自衛官小原舞の猛追を受けるも7,032票差で逃げ切り、10選。

自由民主党総裁

2009年

テンプレート:Sister 2009年9月28日、499票中300票を獲得し、第24代自由民主党総裁に選出された。自民党総裁就任時に内閣総理大臣に指名されなかったのは河野洋平橋本龍太郎に次いで3人目(橋本は村山富市首相の退陣を受け、内閣総理大臣に就任)。河野は総裁退任後に衆議院議長を務めており、三権の長を経験していない総裁経験者は谷垣のみである。

同年10月、政権奪還を意識する観点から「影の内閣」の設置に意欲を見せていたが、党内から「『影の大臣』と『大臣』の名がつけばポスト争いが始まる」との異論が出たため、構想は頓挫した[4]10月19日には、秋季例大祭が行われている靖国神社に参拝。自民党総裁の靖国神社参拝は、2006年8月15日終戦記念日)に内閣総理大臣(当時)の小泉純一郎が参拝して以来、3年2ヶ月ぶりであった[5]。その後産経新聞の取材に対し、2006年自由民主党総裁選挙において「首相に就任した場合は参拝を自粛する」と表明していた[5] ことについて、「当時の国際関係を考慮し、総理はあの時点では差し控えるべきだという意味です」[6] と述べ、「野党になったから参拝したのか?」との質問には「野党であるということを斟酌してというよりも、戦争で亡くなられた英霊をお祀りする場は必要だと思う」と答えた[6]。靖国神社に代わる国立追悼施設の建設については、総裁選時に「他の施設を造るのは賛成できない」と述べており[7]、この時も記者団に対し、「戦争に従軍した方々は『戦死したら靖国神社に祀られる』という思いを持って亡くなった方が大勢いるので、その重みはある」と述べ、慎重な構えを見せた[8]

11月26日民主党公明党などが成立を目指す永住外国人への地方選挙権付与について「反対だ」と明言した。また、「党全体を賛成の方向でまとめていくつもりは全くない」とも語り、自民党としても外国人参政権に賛成をしないという意向を示した[9]

天皇特例会見問題では、民主党政権を批判[10][11][12][13][14]。民主党幹事長(当時)の小沢一郎による“国事行為発言”についても批判[15] し、「天皇の政治利用」とする認識を示した[16]。また、天皇の訪韓にも慎重な姿勢を示した[17]

2010年

2010年1月1日自由民主党総裁として自民党本部から全国の党員党友組織自由国民会議会員に向けて新年のメッセージを送った[18]

1月4日伊勢神宮に参拝。記者たちに「特に政治とカネの問題を見ると、必ず内閣総辞職、あるいは解散によって国民に信を問うところまで求めていかなければならない」と述べ、偽装献金問題などを追求し首相の鳩山由紀夫が辞任することを強く求めていく考えを強調した。また、衆参同日選挙の可能性について「1つの選択肢として視野に置く必要がある」と述べた。民主党幹事長の小沢一郎については、小沢が先日の天皇特例会見内閣の助言と承認に基づく「国事行為」だとして正当化したことに触れ「小沢幹事長のごときにいたっては、あたかも内閣が判断をすれば天皇陛下に何でもお願いできるかのような表現すら取っている。まったく日本国憲法の構造をはき違えたものだ」と批判した[19]

1月7日の新年初の自民党総裁定例記者会見にて、産経新聞の記者から「鳩山首相がTwitterを始められましたが、総裁はやられるのか?」との質問に対し「つぶやくようなことはしない。ごまめの歯ぎしりでもあるまいし」と否定し、フリーランスの記者から「鳩山首相がブログを始めましたが、総裁としてブログを書くつもりはあるか?」との質問に対しては「具体的に考えていない」と答えた[20][21]

1月19日BSフジの番組「BSフジLIVE プライムニュース」にて、永住外国人への地方選挙権付与法案について「米軍普天間基地移設問題を地方の首長選(2010年1月24日名護市長選)に委ねようとする動きを見ていると、地方参政権を付与するのがいいのかどうか」と述べ、外国人参政権に反対する意向を改めて表明。賛否では党議拘束をかけるべきだとの考えを示した。また同市長選と同日の党大会には自身の選挙区に含まれる網野町平成の大合併京丹後市)出身の野村克也を来賓として招聘した[22][23]

2月11日建国記念の日)、神社本庁日本会議などでつくる「日本の建国を祝う会」主催の「建国記念の日奉祝中央式典」であいさつし、「現在、わが国は非常に厳しい経済情勢のもとにありますが」「むしろ、危機は飛躍するための好機であるととらえ、今こそ人づくり国づくりに力を尽くす時であると考えます」と述べた。また、「国の発展には、伝統文化の継承と心豊かな人材の育成が必要不可欠」として、道徳教育の必要性などを訴えた[24]

2月25日鳩山由紀夫内閣がまとめた天皇の公的行為に関する見解[25] について、国会内で記者団に「象徴天皇のデリケートさに全く何の配慮もない、政治的英知を欠いた見解だ。その都度その都度便宜的に判断すればいいという答えだが、憲法のイロハも心得ない噴飯物の解釈だ」と批判した[26]

4月16日韓国与党であるハンナラ党の鄭夢準代表から、日本における永住外国人への地方選挙権付与に協力するよう求められたが、「憲法上の問題もあり自民党は反対の立場だ」と述べた[27]

4月22日、自民党本部にて行われた定例記者会見で、鳩山由紀夫の元秘書東京地方裁判所にて有罪判決が出たことに関して「弁護士は総理を守る、依頼者を守るのが仕事で、総理の責任は説明責任をきちっと果たす」と述べ、弁護士の国会への参考人招致を求めていく方針を示し、「鳩山首相は、秘書の疑惑は議員の責任と、過去に誠にあっぱれな発言された経緯があります[28]。ご自身の責任も明らかにすべきであると、申し上げたいと思います」と追及する構えを見せた。

参議院議員舛添要一より離党届が提出された問題では、「比例代表から選出されており、議員辞職をするのが筋」と離党届を受理しない旨を示唆した。その結果、舛添は27日の党紀委員会会合で除名処分となった。テンプレート:Mainテンプレート:See alsoまた、フリーランスの記者から「この程、Twitter[20] を始められた心境の変化について」を尋ねられた際には「若い方々から多くの方の生の声を聞く、非常に良い手法であると。必ずしも、公式の、四角四面の街頭演説や集会では得られない声が返ってくるということもある」と周りから勧められた事を述べた[29][30]

4月28日宮崎県家畜伝染病である口蹄疫が拡がっていることを受けて、宮崎県で口蹄疫の視察をした。2日後、口蹄疫対策本部(本部長・谷垣禎一総裁)を設置し、政府に対し万全の対策を講じるよう申し入れ。野党の自民党が対策本部を設置する異例の事態となった[31]

7月の第22回参議院議員通常選挙を控え、「与党を過半数割れに追い込めなかった場合は総裁を引責辞任する」と表明し、背水の陣を敷いて選挙戦に臨んだ。公明党との協力戦略が奏功し、自民党は51議席を獲得して改選第1党となり、連立与党は過半数を割り込んだため、谷垣は総裁続投を表明した。

2011年

2011年8月30日菅内閣総辞職に伴う内閣総理大臣指名選挙で、衆議院において自民党議員の他に無所属鳩山邦夫からも票を得た。参議院では1回目は民主党代表野田佳彦に次ぐ2位の票を獲得し、野田との決選投票では、たちあがれ日本公明党、無所属の大江康弘長谷川大紋からも支持を受けた[32]

2012年

2012年1月8日から12日にかけ、総裁就任後最初の外遊として、ベトナムインドネシアを訪問した。中国の存在感が増す中、ASEANの重要国である両国との間で、安全保障や経済面での連携についての協議が行われた[33]。なお、法務大臣に就任した第2次安倍内閣では、法務省の所管は国内事項が中心であるものの、施設等機関である法務総合研究所の一部局である国際協力部は、アジア圏でのルール形成に日本が積極的に関与していくという見地から、ベトナムインドネシアを含めたアセアン諸国等に対し、法律の整備や法律家人材育成といった法整備支援を行っている。

同年9月の自由民主党総裁選挙に再選を目指して立候補を予定していた。しかし、石原伸晃幹事長が立候補を表明したため「執行部を含めて党内を掌握できなかった責任を取る」として、9月10日に再選出馬を断念[34]。これにより、河野洋平以来2人目の内閣総理大臣に就任しなかった自由民主党総裁、また任期中通して野党であった唯一の総裁となった(河野は任期中に自社さ連立政権発足に伴い与党に復帰した。次代の安倍晋三も就任直後は野党総裁であったものの2012年12月26日に内閣総理大臣に就任、また第21代総裁時代も首相を務めた)。小泉純一郎以来久しぶりに途中で辞任せずに任期を全うした数少ない総裁の一人である。

総裁退任後も宏池会へは戻らず、総裁選で再選出馬を支持していた議員らを中心に有隣会を旗揚げし、同会顧問に就任した。

法務大臣

2012年12月、第46回衆議院議員総選挙で11回目の当選。選挙後に発足した第2次安倍内閣法務大臣に任命された。法相就任後、2013年2月21日4月26日9月12日12月12日の4度、合計8人の死刑囚死刑を執行した[35]

2013年9月4日最高裁判所が婚外子を差別する民法の規定が、日本国憲法に対して違憲であるとの違憲判決を下した[36]ことを受けて、兵庫県明石市10月1日出生届の記載事項である 「嫡出子」「嫡出でない子」の記載を削除した届出用紙を独自に作成したことや、婚姻歴のないひとり親家庭に対する寡婦(夫)控除のみなし適用を実施することを明らかにしたことに対し、「法令で定められたところに背く扱いを行おうとすることは極めて遺憾」と述べた[37]

2013年10月8日宇都宮市で開いた自身のグループ研修会で講演し、消費税率を10%に引き上げることについて「10%に引き上げる時に最大の問題は原発を動かせるかどうかだ。できるかどうかで日本の景気動向は大きく変わる」と述べた[38]

2014年6月26日、同年に入り初めてとなる死刑の執行をした[39]

政策・主張

  • 表現規制推進団体の日本ユニセフ協会を支援するユニセフ議員連盟の会長を務めた[40]
  • 選択的夫婦別姓制度導入に慎重[41]
  • 秘密保全法制に反対。自民党議員12人と連名で「報道機関のみの規定をなぜ置くのか、報道機関以外はすべて処罰されるとするのか疑問である。かかる規定は、国民すべてに適用されるべき」という意見書を出したことがある[42]
  • 死刑制度については、「著しく凶悪な重大犯罪に対しては死刑を科することもやむを得ない」と述べ、制度存続に賛成している[43]

日本長期信用銀行の売却

金融再生委員長在任中、日本長期信用銀行破綻後に公的資金を投入しオランダ籍の投資組合ニューLTCBパートナーズに10億円で売却するのを主導。ニューLTCBパートナーズが日本長期信用銀行名称変更後の新生銀行となり、新生銀行上場株式を売却し約1兆円の売却益を得たが日本側から課税できないことについて、財務大臣在任中に日本共産党衆議院議員塩川鉄也から質問を受けた際、「条約関係のもとで日本では課税権がないということを承知しておりました」と述べ、旧日本長期信用銀行の売却時点ですでに将来収益に課税できないことを知りながら放置してきたことを認めた[44]。これについて日本共産党は外資利益を与え納税者に「不利益」を与えたと批判した[45][46]

不祥事

佐世保小6女児同級生殺害事件について

2004年6月4日内閣府特命担当大臣(防災)井上喜一佐世保小6女児同級生殺害事件について「元気な女性が多くなってきたということですかな」などと発言したため、問題の本質から外れているとして批判を浴びた。この発言を受けて、谷垣は6月5日岡山市で行った講演で、「弁護するわけではないが、私の若い頃は、放火は女性の犯罪。もちろん男もあるが、どちらかというと女の犯罪。カッターナイフで切るのは原則的に大人の男の犯罪」などと発言[47]し、軽率な発言として批判された[48]

公職選挙法違反疑惑

日本共産党の機関紙しんぶん赤旗に、2009年の第45回衆議院議員総選挙において、2人に1万1000円を提供したと報じられた[49]

人物

  • 身長176cm、体重80kg、血液型O型。座右の銘は「信を問う」テンプレート:要出典
  • 麻布中学校時代は剣道部、麻布高等学校時代は山岳部に所属。いずれにおいても部活の先輩であった橋本龍太郎に指導を受けた。その縁で、橋本龍太郎が会長を務めていた日本山岳ガイド協会の会長を橋本から引き継いだ。東京大学入学後もスキー山岳部に入部し、活動にのめり込んで留年したり 、司法試験で何度も不合格になる等、苦労人的なエピソードも持っている。他の趣味は落語鑑賞、サイクリング。サイクリングにはロードバイクマウンテンバイクを愛用し、何度もロードレースに参加し好タイムで完走している。ただ、2009年にはサイクリング中に転倒し、ケガをした[50]。政界でも指折りの自転車愛好者で、自転車活用推進議員連盟と日本サイクリング協会の会長を務め、協会公式サイトの「会長の新年ご挨拶」ページにはヘルメットにレーサージャージ姿の自身の写真を載せたり[51]、総裁就任後は選挙応援や地方遊説にも自転車を活用している[52]。自転車関連でのメディア露出も多く、例えばムック本『イエローバイシクル [1][2]』では、111.28kmの距離(いわゆる「ロングライド」の距離である)を同誌編集長と共に自転車で走りながら語り合う前代未聞のインタビューを受けたり、単行本『自転車会議』では共著者に名を連ねたりしている。
  • 東京大学法学部には、1年間の浪人生活を経て進学している。同期には弁護士で、衆議院議員内閣官房長官を務めた仙谷由人がおり(ただし仙谷は現役で合格している)、当時の縁から現在でも冗談を交わすこともある仲だという[53]。また、2011年6月に死別した佳子夫人とは、法学部在籍中に通っていた司法試験合格を目指す予備校で出会って以来の仲[53]
  • 学生時代から弁護士志望で政界入りの意欲は持っておらず、父・専一からも「こういう仕事は世襲じゃないんだから、お前は継ぐな」と言われていたが、1983年6月27日に父が急逝。当時株主総会の集中日で弁護士として多忙を極めていた所を後援会から「ホテルで缶詰め」にされ、「警察の取り調べのように」出馬を要請された。7月3日に出馬を承諾、8月7日に補欠選挙で当選する慌ただしさだった[54]。なお、日本の歴史上で「弁護士経験者たる内閣総理大臣」は初代日本社会党委員長片山哲と初代自由民主党総裁鳩山一郎のみ、「弁護士経験者たる自由民主党総裁」は鳩山一郎と谷垣のみであるテンプレート:要出典
  • 愛読書は四書五経など中国の古典や代の詩人・蘇軾の漢詩などで、しばしば中国の故事を引用する。また読書を巡るインタビューでは、竹越与三郎の『二千五百年史』、田口卯吉の『日本開化小史』、北畠親房神皇正統記』、新井白石読史余論』といった史論への嗜好を語っている[55]
  • キリスト教系の政財官界人の親睦会「インターナショナル・VIP・クラブ」の講師を務め、「国会議員が集まって聖書を読みながら祈る会」を発足させたメンバー議員の1人。
  • ワイン愛好家で名誉ソムリエの称号を持つテンプレート:要出典。ただし、かつての宏池会の同僚議員であった森田一によればワインは蘊蓄派というよりガブ呑み派の酒豪だというテンプレート:要出典
  • 巨人軍の熱烈なファンであり、東京ドームで野球観戦する際にはプロ野球選手のプレーに批評を加えるほど[56]
  • 1996年に『文藝春秋』が企画した「現役政治部記者が選ぶ21世紀のリーダー」では3位に選出され(1位は鳩山由紀夫)、そこでは「政策通でありながら議運国対で汗をかける政治家」として評価されている。また読売新聞2001年にキャリア官僚100人を対象に実施したアンケート(2001年1月に紙面掲載)によれば、「2010年に活躍が予想される政治家」で1位(2位石原伸晃、3位額賀福志郎)、「21世紀中に首相になって欲しい政治家」では石原と共に1位に選ばれている[57]
  • 2000年加藤の乱に際しては、加藤紘一山崎拓に同調。しかし森派橋本派の切り崩しにより造反の動きは鈍り、加藤、山崎の2人だけで不信任案への賛成票を投じに行こうとする加藤にすがりついて「加藤先生、大将なんだから! 一人で突撃なんてダメですよ! 加藤先生が突撃するときは俺たちだってついて行くんだから!大将は自重しなきゃダメですよ!」と涙ながらに慰留するシーンが話題になった。テンプレート:Main
  • 尊敬する歴史上の政治家聖徳太子[58]。影響を受けた政治家は宮澤喜一[59]

買春疑惑と裁判勝訴

週刊文春(2005年12月8日号)で1988年中華人民共和国を訪問中に女性を買春し、中国公安当局に尋問されたと報じられた[60][61]。これを受けて谷垣は名誉を棄損されたとして、謝罪広告の掲載と2200万円の損害賠償を求めて週刊文春の発行元である文藝春秋側を提訴[62]。1審(東京地裁)は名誉棄損の成立を認めて文藝春秋側に330万円の支払いを命じ[63]、2審(東京高裁)では1審判決を支持した上で賠償額を220万円に減額[64]。その後最高裁は文藝春秋側の上告を棄却し、2審判決が確定した[65]

年譜

家族・親族

谷垣家

京都府福知山市東京都
  • 祖父・松次郎
兵庫県黒井村の出身で、生家は小間物[66]。父が早世して実家が没落[66]。小学校を終えると、酒造見習いの丁稚となった[66]。数えの19歳で京都府福知山に移り住み、呉服素麺行商から身を起こして、焼酎、味醂、清酒の製造を手掛け、1926年(大正15年)4月に数えの52歳で亡くなった[66]。趣味や遊びは一切せず、商売に心血を注ぎ、学問を独学で続けた[66]味醂醸造に成功できたのも独学で醸造学を学んだからだった[66]
松次郎の五男が専一である[66]。福知山中学から第三高等学校を経て、東京帝国大学法学部法律学科へ進む[67]。1936年(昭和11年)、農林省に入省[67]満州国出向し、そこで影佐禎昭の娘、安紀と見合いし、1944年(昭和19年)に結婚[67]。翌、1945年(昭和20年)3月7日、長男誕生[67]。奇しくも、影佐禎昭と同じ誕生日だった[67]。専一は岳父の名から一字を取り「禎一」と名付けた[67]。1958年(昭和33年)に農林省を辞職[68]。、農林中央金庫の監事になっていたが、福知山出身の芦田均元首相が死去したので、後任に地元の人が専一を衆院選に担ぎ出した[68]。大平内閣で文部大臣になった[68]
  • 妻・佳子
2011年6月13日入院先の病院で死去。66歳[69]
  • 二女あり

親戚

所属団体・議員連盟

TV出演

タイトル 放送日
自民党よ、なぜ奪権しないのか【1】 2012年6月30日
自民党よ、なぜ奪権しないのか【2】 この国どう守るか 2012年7月7日

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

関連項目

テンプレート:Sister

外部リンク


  1. 転送 Template:S-start


テンプレート:S-off |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
滝実 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 法務大臣
第93代:2012年 - |style="width:30%"|次代:
現職 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
冬柴鐵三 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 国土交通大臣
第9代:2008年 |style="width:30%"|次代:
中山成彬 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
塩川正十郎 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 財務大臣
第3・4・5代:2003年 - 2006年 |style="width:30%"|次代:
尾身幸次 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
創設 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 食品安全担当大臣
初代:2003年 |style="width:30%"|次代:
小野清子 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
創設 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 産業再生機構担当大臣
初代:2002年 - 2003年 |style="width:30%"|次代:
金子一義 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
村井仁 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 国家公安委員会委員長
第69代:2002年 - 2003年 |style="width:30%"|次代:
小野清子 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
越智通雄 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 金融再生委員会委員長
第3・4代:2000年 |style="width:30%"|次代:
久世公堯 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
近岡理一郎 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 科学技術庁長官
第56代:1997年 - 1998年 |style="width:30%"|次代:
竹山裕 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
近岡理一郎 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 総理府原子力委員会委員長
第56代:1997年 - 1998年 |style="width:30%"|次代:
竹山裕 テンプレート:S-par |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
中村正三郎 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 衆議院議院運営委員長
1995年 - 1996年 |style="width:30%"|次代:
平沼赳夫 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
野中広務 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 衆議院逓信委員長
1991年 - 1993年 |style="width:30%"|次代:
亀井久興 テンプレート:S-ppo |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
麻生太郎 |style="width:40%; text-align:center"|自由民主党総裁
第24代:2009年 - 2012年 |style="width:30%"|次代:
安倍晋三 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
石原伸晃 |style="width:40%; text-align:center"|自由民主党政務調査会会長
第50代:2007年 - 2008年 |style="width:30%"|次代:
保利耕輔 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
小里貞利 |style="width:40%; text-align:center"|宏池会会長
2005年 - 2008年 |style="width:30%"|次代:
古賀誠

  1. 転送 Template:End


テンプレート:法務大臣 テンプレート:国土交通大臣 テンプレート:財務大臣 テンプレート:消費者及び食品安全担当大臣 テンプレート:産業再生機構担当大臣 テンプレート:国家公安委員会委員長 テンプレート:金融再生委員会委員長 テンプレート:文部科学大臣 テンプレート:総理府原子力委員会委員長 テンプレート:衆議院議院運営委員長 テンプレート:衆議院逓信委員長 テンプレート:自由民主党総裁 テンプレート:自由民主党政調会長 テンプレート:宏池会会長

テンプレート:Sister
  1. 2003年4月10日までは産業再生機構(仮称)担当大臣。補職辞令は2002年11月8日に発令。
  2. 補職辞令は2003年4月1日に発令。それ以前は国務大臣【食品安全委員会(仮称)担当】に任命されていた。
  3. 3.0 3.1 3.2 テンプレート:Cite news
  4. テンプレート:Cite newsテンプレート:リンク切れ
  5. 5.0 5.1 テンプレート:Cite newsテンプレート:リンク切れ
  6. 6.0 6.1 テンプレート:Cite newsテンプレート:リンク切れ
  7. テンプレート:Cite newsテンプレート:リンク切れ
  8. 自民 谷垣総裁が靖国神社参拝 NHKニュース 2009年10月19日テンプレート:リンク切れ
  9. テンプレート:Cite newsテンプレート:リンク切れ
  10. テンプレート:Cite newsテンプレート:リンク切れ
  11. テンプレート:Cite newsテンプレート:リンク切れ
  12. テンプレート:Cite news
  13. テンプレート:Cite newsテンプレート:リンク切れ
  14. テンプレート:Cite press release
  15. テンプレート:Cite news
  16. テンプレート:Cite newsテンプレート:リンク切れ
  17. テンプレート:Cite newsテンプレート:リンク切れ
  18. テンプレート:Cite press release
  19. テンプレート:Cite newsテンプレート:リンク切れ
  20. 20.0 20.1 テンプレート:Cite press release
  21. テンプレート:YouTubeLDP Channelより
  22. テンプレート:Cite newsテンプレート:リンク切れ
  23. テンプレート:Cite newsテンプレート:リンク切れ
  24. テンプレート:Cite newsテンプレート:リンク切れ
  25. テンプレート:Cite newsテンプレート:リンク切れ
  26. テンプレート:Cite newsテンプレート:リンク切れ
  27. テンプレート:Cite newsテンプレート:リンク切れ
  28. 加藤紘一の秘書が2003年(平成15年)に逮捕された際、鳩山は街頭演説にて「秘書の疑惑は議員の責任」と発言した経緯がある為。
  29. テンプレート:Cite press release
  30. テンプレート:YouTubeLDP Channelより
  31. テンプレート:YouTubeLDPchannelより
  32. テンプレート:Cite web
  33. 谷垣総裁がベトナム・インドネシアを歴訪 東アジア安全保障などで意見交換
  34. 谷垣氏が不出馬表明 産経新聞 2012年9月10日閲覧
  35. テンプレート:Cite news
  36. 「婚外子相続差別は違憲 最高裁大法廷」日本経済新聞 2013年9月4日
  37. 時事通信 10月4日記事
  38. 谷垣法相「消費税10%には原発再稼働が必要」日本経済新聞 2013年10月8日
  39. テンプレート:Cite news
  40. [3]
  41. 産経新聞 社説 2009年10月1日
  42. 中央公論1987年4月号「われら自民党議員『スパイ防止法案』に反対する」
  43. テンプレート:Cite news
  44. 衆議院予算委員会 会議録 2004年2月16日
  45. 公的資金8兆円 国民負担4兆円 しんぶん赤旗、2004年2月17日
  46. 外資丸もうけのカラクリ しんぶん赤旗、2004年2月20日
  47. テンプレート:Cite news
  48. テンプレート:Cite news
  49. しんぶん赤旗 2009年9月16日
  50. テンプレート:Cite newsテンプレート:リンク切れ
  51. 2012年を迎えて 谷垣禎一会長挨拶 日本サイクリング協会公式サイト
  52. テンプレート:Cite newsテンプレート:リンク切れ
  53. 53.0 53.1 「谷垣氏『亡妻愛した店で誓う来年解散』」(2/7ページ) MSN産経ニュース(産経新聞)のプレミアム特集コーナー「水内茂幸の夜の政論」第5回の記事より。
  54. 週刊文春』2003年9月11日号・阿川佐和子との対談より。
  55. 早野透『政治家の本棚』朝日新聞社290頁
  56. 森田一氏が語る「谷垣禎一論」 森田実の言わねばならぬ 2010年1月11日付
  57. 『読売新聞』 2001年1月6日
  58. テンプレート:Cite newsテンプレート:リンク切れ
  59. 『朝日新聞』 2010年8月28日15面
  60. 「【花田紀凱の週刊誌ウォッチング】『週刊文春』(12月8日号)の「谷垣禎一財務大臣 中国人女性『買春』疑惑」産経新聞 2005年12月3日
  61. 「最大野党トップまでもが中国に負い目!? 谷垣・自民党総裁が嵌った「ハニー・トラップ」 鹿島圭介」新潮45 2009/11月号
  62. テンプレート:Cite news
  63. 文藝春秋に330万円賠償命令 谷垣前財務相への名誉棄損で フジサンケイ ビジネスアイ 2007年7月10日
  64. テンプレート:Cite news
  65. テンプレート:Cite news
  66. 66.0 66.1 66.2 66.3 66.4 66.5 66.6 文藝春秋』(2011年、12月号)382頁
  67. 67.0 67.1 67.2 67.3 67.4 67.5 『文藝春秋』(2011年、12月号)383頁
  68. 68.0 68.1 68.2 『文藝春秋』(2011年、12月号)385頁
  69. 谷垣自民党総裁の妻、佳子さん死去 YOMIURI ONLINE 2011年6月13日