ラッフルズ・ホテル

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テンプレート:Hotel ラッフルズ・ホテル(Raffles Hotel)はシンガポールの最高級ホテルで、グッドウッド・パーク・ホテルとならぶ伝統的なコロニアルホテルでもある。1989年に設立されたラッフルズ・インターナショナルにより全面改装が行われ、1991年に再開された。ホテルの名称はトーマス・ラッフルズにちなんで名付けられた。

2005年、ラッフルズ・インターナショナルはアメリカの投資会社コロニー・キャピタルに売却、現在はサウジアラビアアメリカ資本のホテルチェーン・フェアモント・ラッフルズ・ホテルズ・インターナショナル(本社はカナダトロント)の所有・経営するホテルとなった。2010年4月、フェアモント・ラッフルズは2011年までにラッフルズ・ホテルをカタールの政府系投資会社カタリ・ディアルに売却すると発表した。

イオ・ミン・ペイ(Ieoh Ming Pei)によってデザインされたラッフルズ・シティと相まって再構築、管理されている。

なお、マーライオンの近くにある最高級ホテルのザ・フラトン・シンガポールは、外観はコロニアルな雰囲気があるが、1928年の落成以来オフィスとして使われた建物である。フラトンは2001年1月に開業したため、ホテルとしての歴史はラッフルズやグッドウッド・パークより短い。

歴史

ラッフルズ・ホテルはイギリス植民地時代の1887年12月にイラン出身のアルメニア人のサーキーズ兄弟の次男ティグラン・サーキーズによって、客室数わずか10室のバンガローをホテルにして開業した。なお開業当時は海沿いにあったのでビーチハウスと呼ばれていた。1899年には現在の原型となるコロニアル様式の建物が完成し、ヨーロッパ諸国から「スエズ以東でもっともすばらしい施設」と高い評価を得た。経営者のティグランは贅沢好きな浪費家であったが、その反面、ヨーロッパの最高級ホテルを視察・研究するなど向上心が高く、商売熱心な性格も手伝い宿泊客からサービス面も高い評価を得た。ティグランが病気で引退した後は、ミャンマーの首都ヤンゴンでストランドホテルを経営していた三男のアヴィエトが経営を引き継いだが、ミャンマーとシンガポールから距離が遠かったのと、ティグランとは異なり仕事熱心ではなかったので、このホテルを訪れることは殆どなかった。アヴィエト引退後は四男アーシャクが経営を引き継いだが、彼はペナン島のE&Oホテルの経営をしていたので、ペナン島から離れることが不可能だったため、定期的にシンガポールを訪問しホテル経営や運営の指導をしていた。なお長男マーティンは金銭的には出資をしたようだが、ラッフルズが開業した後、数年後に引退し東南アジアから去ったので、ホテルビジネスには殆ど携わっていない(余談だがシンガポールには、サーキーズ兄弟の墓はシンガポールに無い)。

国が経営に関わっていた帝国ホテルやマニラ・ホテルは、欧米人と地元のアジア人有力者の交流の場所のために迎賓館として建設されたため、地元のアジア人富裕層や上流階級の客を大切にしたのとは対照的に、このホテルはシンガポール在住の欧米人や欧米人旅行者の社交の場として設立されたという経緯もあり、多くのアジアの民間人経営のコロニアルホテル、たとえばペニンシュラホテルなどと同様に、王族や政府関係者以外のアジア人は差別され冷遇されることが多々あった。

例を挙げるとサーキーズ兄弟が経営していた頃は、地元華僑のシンガポール人富豪がダンスパーティの最中に意地悪な白人客に蹴りを入れられたので抗議したところ、ホテル側は「ここは国際交流の場ではないし、あなたたちの為のために設立したホテルではありません」と、全く取り合わなかったという話が伝わっている。

このホテルが発祥の地と言われているシンガポール・スリングは、1915年にこのホテルのバーテンダーで海南島出身のニャン・トン・ブーンの手によって誕生した。しかし当時は甘すぎてあまり人気が無かった。そして彼が数年しか勤務しなかったせいもあり、1930年代にはレシピも完全に忘れ去られ、バー(Long Bar)のメニューから完全に消えていたこともあった。このメニューが本格的に復活しホテルの名物カクテルになったのは、1950年代にニャン・トン・ブーンの甥である名バーテンダーのロバート・ニャンが入社し、1970年代に現代人の味覚に合うようにレシピを変更したためである(彼は1950年代から1980年代までラッフルズホテルに勤務し、最終的にはバー部門の責任者として采配を振った)。

シンガポールが日本に占領された第二次世界大戦時の1942年2月15日にラッフルズ・ホテルは日本軍に接収され、陸軍将校の宿泊施設となった。ホテル名は昭南旅館に変更させられ、メイドの制服も和服になった。おしゃれなボールルームで専属バンドが演奏する曲もジャズやクラシックから日本の軍歌や民謡に変わった。西洋のオペラハウス風の舞台で上演される舞台演目もオペラやミュージカルから、日本の演舞場で上演されるような大衆演劇や日本舞踊に変更された。

日本軍は宿泊した名士の記録や愛用品などを破棄し、その中にはサマセット・モームラドヤード・キップリングが残していったサインなども含まれていた。当時の総支配人は戦争が勃発後にオーストラリアに避難し責任者不在だった。総支配人が逃げた後は、サーキーズ兄弟最後の生き残りであった陽気でズボラな性格の四男アーショクが、放漫経営と大量の飲酒の末にホテル経営に失敗して破産・急死した後も、このホテルに勤務していた彼らの親戚筋にあたるイラン国籍の人物が総支配人の代わりにホテルを守った。ただそのサーキーズ兄弟の親戚の男性は経理専門の人間であり、上記の歴史的な資料に対しては、高価な備品と違いその価値を認めていなかったので、銀器を中庭を埋めて隠すのと、アルコールの廃棄処分を優先し、それ以外の物を隠すまでは手が回らなかった。(アルコールの処分を最優先にした理由は、日本軍が香港のペニンシュラホテルを接収したとき、ホテルにあった酒を飲んで酔っ払って暴れる軍人が続出したという情報を事前に得ていたからである)ただ当時は日本軍だけではなく、アメリカ軍やドイツ軍なども占領した国の有名ホテルや施設を接収した際に、ホテル内で狼藉を働き大暴れをしたり、資料廃棄や備品略奪・破壊行為を行っており、横浜のニュー・グランドホテルも多大な被害に遭っており、この手の行為は日本軍だけの所業ではない。それを証拠にフランスやオーストリアや日本でも、総支配人が優秀なホテルは美術品・備品・資料・高価なワインなどを隠すことに成功している。なお終戦直後は、イギリス軍の宿営所及び臨時戦犯収容所として一時利用された。

1946年、ホテルとして再オープンを果たす。1950年代にはマレーシア人の大物銀行家(現在のグッドウッド・パーク・ホテルの女性オーナーの父親)がホテルの経営権を取得したことにより、アジア人の富裕層の客を歓迎する経営方針に転換した結果、欧米人が地元のシンガポール人と飲食したり、仲良くボールルームでダンスに興じるようになった。開業して100年となる1987年には建物がシンガポールの歴史的建造物に指定された。1989年には一時休館し、全面改装を行い、豪華な調度品や8000点を超える銀食器、陶磁器はそのままに、最先端の技術を導入し、優雅さを増して1991年9月16日に再々オープンした。

特徴

客室数は103室で、シンガポールの最高級ホテルの中で一番少ない。全室がスイートである。

客室はコートヤード・スイートとパーム・コート・スイートで、どちらも十分な広さがあり、高級感に浸れる。全室ともシャワーとバスタブが独立している。

パーム・コート・スイートは宿泊客以外の者が立ち入ることができないパーム・コート(中庭)に面しているが、コートヤード・スイートはパーム・コートに面していない。コートヤード・スイートは58平方メートル、パーム・コート・スイートは60~79平方メートルである。

1室1泊あたりの料金は、コートヤード・スイートで約9万円、パーム・コート・スイートで約10万円(いずれも時期により変動あり)で、シンガポールのホテルの中で客室の料金が一番高く、他のシンガポールの最高級ホテルと比べて、最低でも約2倍高く設定されている。

宿泊した主な名士

上記12名はスイートルームの名前として残されている。

設備

  • ラッフルズ・グリル(Raffles Grill) フランス料理
  • バー&ビリヤードルーム(Bar & Billiard Room) ブッフェ
  • ティフィン・ルーム(Tiffin Room) インド料理ハイティー
  • ロング・バー・ステーキハウス(Long Bar Steakhouse) ステーキシーフード
  • ラッフルズ・コートヤード イタリア料理
  • エンパイア・カフェ(Empire Café) シンガポール料理
  • アー・テンズ・ベーカリー(Ah Teng's Bakery) 軽食
  • ロング・バー(Long Bar) バー
  • ライターズ・バー(Writers Bar) バー
  • ガゼボ・バー(Gazebo Bar) バー
  • マティーニ・バー(Matini Bar) バー
  • ラッフルズ・ホテル・アーケード(Raffles Hotel Arcade) ショッピングアーケード
  • ラッフルズ・アムリタ・スパ(Raffles Amrita Spa) 宿泊客限定スパ
  • プール 屋上に1か所

など

その他

ファイル:2006 Annual Meetings Boards of Governors.jpg
2006年9月16日に行われた7か国(G7)財務大臣・中央銀行総裁会議での記念撮影。前列左から5人目が谷垣禎一、同8人目が福井俊彦。ラッフルズ・ホテルのロビーで撮影

2006年9月16日に行われた7か国(G7)財務大臣・中央銀行総裁会議で、ラッフルズ・ホテルが会議開催会場として利用された。

関連項目

外部リンク

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