神皇正統記

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テンプレート:参照方法神皇正統記』(じんのうしょうとうき)は、南北朝時代公卿北畠親房が、幼帝後村上天皇のために、吉野朝廷(いわゆる南朝)の正統性を述べた歴史書である。

構成

はじめに序論を置き、神代・地神について記している。つづいて歴代天皇の事績を後村上天皇の代までのべている。伝本によりこれを上中下または天地人の3巻にわけている。その場合、序論~宣化天皇・欽明天皇~堀川院・鳥羽院~後村上天皇と区分している。

神代から後村上天皇の即位(後醍醐天皇の崩御を「獲麟」に擬したという)までが、天皇の代毎に記される。

つまり皇位継承を中心とした歴史である。そして、その史的著述の間に、哲学・倫理・宗教思想と並んで著者の政治観が織り込まれている[1]

内容

君主の条件としてまず三種の神器の保有を皇位の必要不可欠の条件とする[2]。だがその一方で、『仏祖統紀』や宋学(特に「春秋」・「孟子」・「周易」)の影響を受け、血統の他に有徳を強調している。従って、承久の乱を引き起こした後鳥羽上皇は非難され、逆に官軍を討伐した北条義時とその子北条泰時のその後の善政による社会の安定を評価して、「天照大神の意思に忠実だったのは泰時である」という一見矛盾した論理展開も見られるが、これも徳治を重視する親房から見れば、「正理」なのである。大町桂月は、これを「この一節、仁政を力説す。頼朝・泰時は虚にして、仁政は実なり。親房の頼朝・泰時を襃むるは、即ち仁政を襃むる也。千古の公論なり」と云っている。また治承・寿永の乱の混乱期に神器を欠いた状態で後白河法皇院宣により行われた後鳥羽天皇の即位自体を否定していないという矛盾も指摘されている。

全体として、保守的な公家の立場を主張し、天皇と公家(=摂関家村上源氏)が日本国を統治して武士を統率するのが理想の国家像であるとし、特に公家や僧侶を「人(ひと)」、武士を「者(もの)」と明確に区別しているところに彼の身分観の反映がなされていると言われる。その一方で、君臣が徳のある政治を守ってゆく事で、「正理」の元に歴史は誤った方向から正しい方向へと修正されるという能動的な発想を兼ね備えていた。

北畠親房常陸国で籠城戦を繰り広げていた時期に執筆がなされており、手元にある僅かな資料だけを参照に書いているため、(当時知られていた)歴史的事実に関しての間違いも散見される。

沿革

執筆時期については、後醍醐天皇が崩御して、新帝・後村上天皇が即位した延元4年/暦応2年(1339年)の秋ごろであると言われている。後村上天皇に献上された書ではあるが、奥書には「ある童蒙」に宛てるとされており、天皇を童蒙扱いするのは有り得ないという指摘がなされている。これについては、本来は結城親朝に宛てたものであるが、後に改稿した上で後村上天皇に献上したものと言われている。

南北朝統一後、北朝正統論を唱える室町幕府の影響下に改竄や、続編と称しながら親房の論を否定する『続神皇正統記』(小槻晴富)が書かれた事もあった。だが、徳川光圀が「大日本史」で親房の主張を高く評価し、また親房からすれば、本来否定されるべき存在である筈の江戸幕府の中にも泰時の例などを引用して「武家による徳治政治」の正当性を導く意見が現れるようになった。

水戸学と結びついた「神皇正統記」は、後の皇国史観にも影響を与えた。だが、明治になってから逆に国粋主義の立場から儒教や仏教、異端視された伊勢神道の影響を受けすぎているという理由で、重訂という名の改竄(親房思想の否定)を行う動きも起こったが、これは定着には至らなかった。『神皇正統記』研究が再び興隆するのは、現実政治から切り離された、戦後暫くたってからのことである。

承久の乱

承久の乱について、神皇正統記には次のように記されている。 テンプレート:Quotation

また、後醍醐天皇の政策にも「正理」にそぐわないところがあると批判的な記事も載せている。

北畠親房の「万世一系」論

[3]

王朝が非常に古いという「万世一系」の主張は、日本の自国民を感心させるためだけではなかった。国家としては日本より古いが、歴代王朝は日本より短命とされた中国に感銘を与えるためでもあった。中国人は日本のこの主張を気にとめ、一目置いていたと言って良い。

日本人も、王朝の寿命の長短に関する中国との比較論に熱中した。『神皇正統記』では以下のように論じている[4]

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脚注

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参考文献

  • 大町桂月 『神皇正統記評釈』明治書院 大正14年2月
  • 山田孝雄 『神皇正統記述義』民友社 昭和7年10月
  • 平泉澄編 『国宝白山本・神皇正統記』国幣中社白山比め(比咩)神社 昭和9年11月
  • 平田俊春 『神皇正統記の基礎的研究』雄山閣出版 昭和54年2月
  • 我妻建治 『神皇正統記論考』吉川弘文館 昭和56年10月
  • 岩佐正校注 『神皇正統記』岩波文庫 初版昭和50年

関連項目

  • 丸山真男「神皇正統記に現れたる政治観」(丸山真男著『戦中と戦後の間 1936-1957』みみず書房 1976年 78-79ページ)
  • 鏡は一物を蓄えず、私の心無くして、万象を照らすに是非善悪の姿現れずということなし。その姿に従いて感応するを徳とす、これ正直の本源なり。玉は柔和善順を徳とす、慈悲の本源なり。剣は剛利決断を徳とす、知恵の本源なり。(この『神皇正統記』の部分は、丸山真男「神皇正統記に現れたる政治観」/丸山真男著『戦中と戦後の間 1936-1957』みみず書房 1976年 80ページ)から引用した。)
  • この章は、ベン・アミー・シロニー(著) Ben‐Ami Shillony(原著)『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』大谷堅志郎 (翻訳)、24-26頁。 (第8章1『日本王朝の太古的古さ』)を参照。
  • Ryusaku Tsunoda, Wm. Theodore de Bary, Donald Keene, eds., Sources of Japanese Tradition. New York: Columbia University Press, 1958, p.279.『神皇正統記』現代思潮社、1983年、27~29頁。